「お待たせしました……!」
村の井戸の前に男の子の父親は座っていた。彼の前に膝をつき、すぐに下衣をまくり上げて傷口を確認すると、ざっくりと縦に大きく切れている。
「……っ」
血を見た瞬間、青年が目を背けた。
「……? 血が苦手なの? それなら下がっていて」
中には失神してしまう人もいるので、珍しいことではない。私たちを囲うように立っていた村人たちも、痛々しい傷から顔を背けている。
「いや……問題ない」
「でも、気分が悪くなったらすぐに言ってね」
青年は頷く。問題ないって顔ではなかったが、今は男の子の父親の治療が先だ。
「お酒と洗浄用にぬるいお湯を用意してくれますか? 冷たい水だと痛みが増すので、人肌程度のものをお願いします。それから清潔な布と、この釣り針と糸を熱い湯で熱してきてください」
両手で傷口を圧迫止血しながら指示を出すと、負傷した父親の妻や村の女たちが「わかったよ!」と言って、私の釣り針と糸を手に走っていく。
「ぐうっ……白蘭様、俺は……どうなっちまうんですか……?」
「出血はそれほど傷が深くなければ自然に止まります。でも、傷が皮下組織……つまり深いと、簡単には止血できません。こうなると止血剤を用いての圧迫止血、もしくは縫合による止血が必要になります」
そこへ「お待ちどお!」と、村の女たちが酒壺をいくつかと、ぬるま湯が入った桶をたくさん持ってくる。私は一緒についてきた青年と男の子を振り返った。
「この人の身体をしっかり押さえて──って、ねえ! あなた、本当に大丈夫?」
言われた通りに身体を押さえる男の子の隣で、青年は「うっ」と頭を押さえてよろめく。その場に座り込み、「ぜえー、はあーっ」と荒い呼吸を繰り返していた。
「発作みたいな……っ、ものだ……」
なにかを追い払うように頭を振った青年は、苦しそうにながらも負傷した父親の身体を押さえる。彼が気がかりだったが、私はまず負傷した父親を診ることに集中した。
「お湯をかけますね。沁(し)み ますよ──」
村の男は「ううっ」と痛みにうめいたが、桶でしっかり傷口を洗浄していく。
傷口の汚染状況によっては、全身の筋肉にけいれんが生じる破傷風(はしょうふう)などの感染症を引き起こす。破傷風の菌は土壌や動物の糞便、錆(さび)の中にいるので、汚れが残ったままの鎌から感染する可能性が大いにある。そのため、洗浄をして傷口についた砂や汚れを落とすことがなにより大事なのだ。
「砂に石……うん、異物はもう傷口内に残ってないわね。でもこれ……」
洗浄してようやく傷口がはっきり見えたのだが、皮膚の最も深い層まで至っている。そこは太い血管も通っているので、血がなかなか止まらないのはそのせいだろう。
「もしかして、単純に鎌で切ったんじゃなくて、足に刺さったのを引き抜いたのでは?」
「ああ、刺さったままじゃ身動きがとれねえんで、抜いちまったんですが、まずかったですかね?」
なんてことを……。
彼らが狩猟道具や農具で怪我をするのは日常茶飯事なので、そういったときの応急処置は一通り教えたはずだった。でも、豪快な狩猟民族の彼らはそういった細かいことを気にしない。
「まずは止血薬で圧迫止血してみましょう。それで血が止まらなければ縫合します」
傷口の圧迫を青年に頼み、私は止血や抗菌、化膿を防ぐ作用のある蓬(よもぎ)や金銀花(きんぎんか)、童氏老鸛草(どうしろうかんそう)を薬研ですり潰す。
「お酒を手にかけてくれる?」
青年にそう頼み、手指消毒をしたあと、その汁を傷口に擦り込んで上から布で圧迫した。皆がその様子を固唾を飲みながら眺めている。
「……っ、止まりませんね。縫合に切り替えます」
私は治療箱から黒い煎餅の形をした薬を取り出す。
「それはなんだ?」
謎の黒い物体を目の当たりにした青年は、不気味そうにしながら尋ねてきた。
「『蟾酥(せんそ)』というの。ヒキガエルの目の後ろをしごくと出てくる分泌物で、それを集めて乾燥させたものよ。塗ったところの感覚を鈍らせて、痛みを感じにくくするの」
私は蟾酥を傷口に塗布しながら説明する。
古来より局所麻酔作用のある生薬の一種として珍重されてきたと、あの子から教わった。あの子が私にくれた薬学の知識が、私に生かすための力をくれている。
「でも、完全に痛みを取り除けるわけではないから、お父さんには頑張ってもらわないとですが……」
男の子の父親を見れば、「お、俺も男だ! 耐えて見せる!」と青い顔をしているものの勇ましく答えた。
私は笑みを返しつつ頷き、湯で手を洗う。村の女たちが煮沸消毒してくれた釣り針と植物の亜麻から作られた糸を持ち、手と一緒にさらに酒でも消毒をした。
「いきます。しっかり押さえていてくださいね」
青年と男の子に身体を押さえさえ、私は傷を縫う。縫合は看護師の分野ではないので前世では経験はなかったが、ここではできないなんて言っていられない。
ここへ来るまでの三年間、前世で医者がしていたように、見よう見まねで何度も傷を縫ってきた。まともな麻酔薬がない中での処置は怖いけれど、私は傷口を塞ぐことだけに集中する。それが私の看護と、あの子の薬学でたくさんの人を助ける。その約束に繫がっているから。
それから数刻ほどして、やっと縫合が終わった。血も止まり、私はふうっと額の汗を拭いながら治療箱の蓋を閉める。
「念のため、抗菌作用のある紫雲膏を塗っておきますね。熱が出たり、傷口が赤くなったりしたらすぐに教えてください。ばい菌──じゃなくて、よくない気が入り込んでしまっているので」
この世界の人たちは、病が菌やウイルスなどによって起こることを知らない。原因不明の病はだいたいが呪い扱いだし、身体の不調は悪い気が入り込んだからだと思っている。だからこそ、医仙などという神様的な存在を本気で信じられるのだろう。
「わかったぜ……ありがとうございます、白蘭様……」
「それから再々言ってますが、刃物が刺さったときは絶対に抜いちゃいけません。余計に傷を広げて出血が酷くなることもあるんですよ?」
咎めるように男の子の父親を見れば、𠮟られた子供のように肩を窄める。様子を見守っていた村人たちからは「まーた、始まったねえ」「白蘭様のお説教は猪餐村の名物になりつつあるなあ」と笑いが起こった。
「一、二週間くらいで抜糸しますから、それまでは無茶しないでくださいね」
「わかりましたって。だから白蘭様、そんな怖い顔しないでくださいよお~」
泣き言をこぼしている男の子の父親に、私は「もう」と苦笑いする。そのとき、ふと青年と村人の会話が耳に入ってきた。
「ここでは顔が腫れる疫病が蔓延していると聞いた。だが、皆元気なようだな」
「そりゃあ、ひと月前くらいの話だねえ。白蘭様はその病にかからないとかで、うつるのを恐れずに私らの治療をしてくれたんだよ」
「病にかからない?」
眉を顰める青年に、私は「少し語弊があるわ」と口を挟みつつ肩を竦めた。
「この村に流行っていたのは、おたふく風邪よ。一度かかると免疫がついて、二度とかからないの」
私は十歳のときにかかり、自ら治療した。おたふく風邪のウイルスに効く薬は現代日本にもないので、身体が消耗しないように薬や冷罨法で熱を下げたり、痛みを取り除いたり、症状に合わせて苦痛を和らげ、人の回復力を高めるのが基本的な治療法だ。ただ、この世界は基本的に衛生状態が悪いので、どんな病も重症化しやすい。
「仙人の知恵か」
真顔だけれど、たぶん感心している青年に、私は苦い笑みを返す。
決して私が仙人だからではなく、現代日本では医者でなくとも知っているような知識だ。でも、その知識がここでは神の御業(みわざ)かのようにとられてしまう。それほど、医療が発展していないのだ。
おまけにこの世界には仙人伝説が多く残っている。おかげで私は白龍山に辿り着くまでに治療した人たちから、行く先々で病を治せる不老不死の医仙だと騒がれた。少女の見た目で医術を施せたからだ。もはや訂正しても、私が普通の人間であることのほうが信じてもらえない気がするので、聞き流している自分がいる。
村の井戸の前に男の子の父親は座っていた。彼の前に膝をつき、すぐに下衣をまくり上げて傷口を確認すると、ざっくりと縦に大きく切れている。
「……っ」
血を見た瞬間、青年が目を背けた。
「……? 血が苦手なの? それなら下がっていて」
中には失神してしまう人もいるので、珍しいことではない。私たちを囲うように立っていた村人たちも、痛々しい傷から顔を背けている。
「いや……問題ない」
「でも、気分が悪くなったらすぐに言ってね」
青年は頷く。問題ないって顔ではなかったが、今は男の子の父親の治療が先だ。
「お酒と洗浄用にぬるいお湯を用意してくれますか? 冷たい水だと痛みが増すので、人肌程度のものをお願いします。それから清潔な布と、この釣り針と糸を熱い湯で熱してきてください」
両手で傷口を圧迫止血しながら指示を出すと、負傷した父親の妻や村の女たちが「わかったよ!」と言って、私の釣り針と糸を手に走っていく。
「ぐうっ……白蘭様、俺は……どうなっちまうんですか……?」
「出血はそれほど傷が深くなければ自然に止まります。でも、傷が皮下組織……つまり深いと、簡単には止血できません。こうなると止血剤を用いての圧迫止血、もしくは縫合による止血が必要になります」
そこへ「お待ちどお!」と、村の女たちが酒壺をいくつかと、ぬるま湯が入った桶をたくさん持ってくる。私は一緒についてきた青年と男の子を振り返った。
「この人の身体をしっかり押さえて──って、ねえ! あなた、本当に大丈夫?」
言われた通りに身体を押さえる男の子の隣で、青年は「うっ」と頭を押さえてよろめく。その場に座り込み、「ぜえー、はあーっ」と荒い呼吸を繰り返していた。
「発作みたいな……っ、ものだ……」
なにかを追い払うように頭を振った青年は、苦しそうにながらも負傷した父親の身体を押さえる。彼が気がかりだったが、私はまず負傷した父親を診ることに集中した。
「お湯をかけますね。沁(し)み ますよ──」
村の男は「ううっ」と痛みにうめいたが、桶でしっかり傷口を洗浄していく。
傷口の汚染状況によっては、全身の筋肉にけいれんが生じる破傷風(はしょうふう)などの感染症を引き起こす。破傷風の菌は土壌や動物の糞便、錆(さび)の中にいるので、汚れが残ったままの鎌から感染する可能性が大いにある。そのため、洗浄をして傷口についた砂や汚れを落とすことがなにより大事なのだ。
「砂に石……うん、異物はもう傷口内に残ってないわね。でもこれ……」
洗浄してようやく傷口がはっきり見えたのだが、皮膚の最も深い層まで至っている。そこは太い血管も通っているので、血がなかなか止まらないのはそのせいだろう。
「もしかして、単純に鎌で切ったんじゃなくて、足に刺さったのを引き抜いたのでは?」
「ああ、刺さったままじゃ身動きがとれねえんで、抜いちまったんですが、まずかったですかね?」
なんてことを……。
彼らが狩猟道具や農具で怪我をするのは日常茶飯事なので、そういったときの応急処置は一通り教えたはずだった。でも、豪快な狩猟民族の彼らはそういった細かいことを気にしない。
「まずは止血薬で圧迫止血してみましょう。それで血が止まらなければ縫合します」
傷口の圧迫を青年に頼み、私は止血や抗菌、化膿を防ぐ作用のある蓬(よもぎ)や金銀花(きんぎんか)、童氏老鸛草(どうしろうかんそう)を薬研ですり潰す。
「お酒を手にかけてくれる?」
青年にそう頼み、手指消毒をしたあと、その汁を傷口に擦り込んで上から布で圧迫した。皆がその様子を固唾を飲みながら眺めている。
「……っ、止まりませんね。縫合に切り替えます」
私は治療箱から黒い煎餅の形をした薬を取り出す。
「それはなんだ?」
謎の黒い物体を目の当たりにした青年は、不気味そうにしながら尋ねてきた。
「『蟾酥(せんそ)』というの。ヒキガエルの目の後ろをしごくと出てくる分泌物で、それを集めて乾燥させたものよ。塗ったところの感覚を鈍らせて、痛みを感じにくくするの」
私は蟾酥を傷口に塗布しながら説明する。
古来より局所麻酔作用のある生薬の一種として珍重されてきたと、あの子から教わった。あの子が私にくれた薬学の知識が、私に生かすための力をくれている。
「でも、完全に痛みを取り除けるわけではないから、お父さんには頑張ってもらわないとですが……」
男の子の父親を見れば、「お、俺も男だ! 耐えて見せる!」と青い顔をしているものの勇ましく答えた。
私は笑みを返しつつ頷き、湯で手を洗う。村の女たちが煮沸消毒してくれた釣り針と植物の亜麻から作られた糸を持ち、手と一緒にさらに酒でも消毒をした。
「いきます。しっかり押さえていてくださいね」
青年と男の子に身体を押さえさえ、私は傷を縫う。縫合は看護師の分野ではないので前世では経験はなかったが、ここではできないなんて言っていられない。
ここへ来るまでの三年間、前世で医者がしていたように、見よう見まねで何度も傷を縫ってきた。まともな麻酔薬がない中での処置は怖いけれど、私は傷口を塞ぐことだけに集中する。それが私の看護と、あの子の薬学でたくさんの人を助ける。その約束に繫がっているから。
それから数刻ほどして、やっと縫合が終わった。血も止まり、私はふうっと額の汗を拭いながら治療箱の蓋を閉める。
「念のため、抗菌作用のある紫雲膏を塗っておきますね。熱が出たり、傷口が赤くなったりしたらすぐに教えてください。ばい菌──じゃなくて、よくない気が入り込んでしまっているので」
この世界の人たちは、病が菌やウイルスなどによって起こることを知らない。原因不明の病はだいたいが呪い扱いだし、身体の不調は悪い気が入り込んだからだと思っている。だからこそ、医仙などという神様的な存在を本気で信じられるのだろう。
「わかったぜ……ありがとうございます、白蘭様……」
「それから再々言ってますが、刃物が刺さったときは絶対に抜いちゃいけません。余計に傷を広げて出血が酷くなることもあるんですよ?」
咎めるように男の子の父親を見れば、𠮟られた子供のように肩を窄める。様子を見守っていた村人たちからは「まーた、始まったねえ」「白蘭様のお説教は猪餐村の名物になりつつあるなあ」と笑いが起こった。
「一、二週間くらいで抜糸しますから、それまでは無茶しないでくださいね」
「わかりましたって。だから白蘭様、そんな怖い顔しないでくださいよお~」
泣き言をこぼしている男の子の父親に、私は「もう」と苦笑いする。そのとき、ふと青年と村人の会話が耳に入ってきた。
「ここでは顔が腫れる疫病が蔓延していると聞いた。だが、皆元気なようだな」
「そりゃあ、ひと月前くらいの話だねえ。白蘭様はその病にかからないとかで、うつるのを恐れずに私らの治療をしてくれたんだよ」
「病にかからない?」
眉を顰める青年に、私は「少し語弊があるわ」と口を挟みつつ肩を竦めた。
「この村に流行っていたのは、おたふく風邪よ。一度かかると免疫がついて、二度とかからないの」
私は十歳のときにかかり、自ら治療した。おたふく風邪のウイルスに効く薬は現代日本にもないので、身体が消耗しないように薬や冷罨法で熱を下げたり、痛みを取り除いたり、症状に合わせて苦痛を和らげ、人の回復力を高めるのが基本的な治療法だ。ただ、この世界は基本的に衛生状態が悪いので、どんな病も重症化しやすい。
「仙人の知恵か」
真顔だけれど、たぶん感心している青年に、私は苦い笑みを返す。
決して私が仙人だからではなく、現代日本では医者でなくとも知っているような知識だ。でも、その知識がここでは神の御業(みわざ)かのようにとられてしまう。それほど、医療が発展していないのだ。
おまけにこの世界には仙人伝説が多く残っている。おかげで私は白龍山に辿り着くまでに治療した人たちから、行く先々で病を治せる不老不死の医仙だと騒がれた。少女の見た目で医術を施せたからだ。もはや訂正しても、私が普通の人間であることのほうが信じてもらえない気がするので、聞き流している自分がいる。