成人式は地元の小さな公民館で行われた。
 朝から着付け、そしてヘアメイクを施してもらう。しかし、振袖姿で別人のように変わった鏡の中の自分を見ても、郁実の気分は晴れない。
「どうしたの、ため息なんてついて」
 会場で一番に声をかけてくれたのは、友人の直樹だった。
「直くん! この間はごめんね、直前にキャンセルしちゃって」
「全然いいよ。それより体調は大丈夫?」
「うん! もう熱も下がったし、元気だよ」
 にこにこと笑いながら、直樹がよかったと呟く。優しい直樹の言葉に、ほっこりとした気分になる。
 郁実もつられて笑顔になると、直樹はもう一度よかった、と繰り返す。
「何か元気なさそうだったけど、大丈夫そうだね」
「うん! 直くんのおかげだよ」
「それはよかった」
 いつもの優しい笑みで、本当に嬉しそうにそう言うものだから、郁実も嬉しくなってしまう。
「関口、振袖かわいいね」
「えっ本当? 直くんもスーツ姿新鮮でかっこいいよ」
「ありがとう」
 郁実の着ている赤の振袖は、祖母と母が選んでくれたものだった。大好きなピンク色の振袖にするか、それとも似合う赤色の振袖にするか、最後まで悩んでいた郁実に、似合う色の方が長く着られていいわよ、と祖母が言ってくれたのだ。
 今では郁実も少し古風な和柄のこの振袖を気に入っている。
 直樹が他の友達のところに行ってしまい、郁実は一人になった。仲の良かった友達はもう来ているだろうか、と会場を見回して、一点に目が奪われる。
 後ろ姿、初めて見るスーツ。それでもすぐに、公平だと分かった。
 視線を感じたのか、公平が振り返る。目が合った数秒間は、時間が止まったように錯覚をした。先に目を逸らしたのは郁実の方だ。心臓がバクバクとうるさく騒いでいる。
 逃げるようにして、会場内に入ってきた友達のところへ駆け寄った。
 成人式が始まるまで、郁実は友人と楽しく話していた。会うのは中学校の卒業以来だったので、話したいことがたくさんある。二人で仲良く語っていると、ふいに彼女があっ、と声を上げた。
 振り返ると、友人の視線の先には公平が立っていた。同じ中学校に通っていた人はみんな、公平と郁実が付き合っていたことを知っているのだ。
「高そうな振袖」
 公平が笑う。この間のことなんて、なかったかのように。
 実際に郁実が着ている振袖は、高価なものだった。成人式なんて一生に一度なんだから、おめかししなくちゃね、という母の言葉に、父が頷いて、奮発してくれたのだ。
 郁実が何も言わずにいると、公平は気にした様子もなく、言葉を続ける。
「似合ってるじゃん」
 かわいい、と言われたわけではないのに、頬が熱くなるのはどうしてだろう。
 同時に腹が立った。公平に、そして自分に。
 郁実のことを振ったくせに、平気で話しかけてくる公平に腹が立つ。
 それよりも、振られたくせに公平の何気ない一言にまだときめいてしまう自分に腹が立って仕方ない。
 公平くんもスーツ似合ってるよ、と返そうとしたけれど、その言葉は公平に届くことはなかった。郁実の反応を待たずして、公平は友達のところに戻って行ってしまったのだ。
 振袖が似合うって、ただそれだけを言いに、わざわざ来てくれたの?
 振られたばかりだというのに、性懲りも無く期待したくなる自分に泣きたくなって、郁実は俯いた。
 自分にはもったいないくらい綺麗な振袖が、ひらりと風に靡いた。

 成人式を終え、夕方になると同窓会が開かれた。仲のいい友達は成人式を終えるなり東京に戻ってしまったり、仕事だったりして、郁実はひとりぼっちだった。
 ぽつん、と居酒屋の大部屋で適当な席に座っていると、上から優しい声が降ってくる。
「隣、あいてる?」
 直樹だった。うん、どうぞ、と微笑むと、直樹もやわらかな笑みを浮かべて隣に腰掛けた。
「メイク、いつものに戻したんだ」
「うん。ナチュラルメイクじゃないと落ち着かなくて」
「そうだね、さっきのもかわいかったけど、こっちの方が関口っぽい」
 当たり前のように褒めてくれる直樹に、笑みが溢れる。
 振袖から着替えた郁実は、小花柄のワンピースにベージュのカーディガンという無難な服装を選んでいた。左手首には、この間公平がプレゼントしてくれたブレスレットをつけている。
 直樹の言った通り、化粧も一度落としていつものメイクに戻した。振袖用にばっちりと化粧をしていたのが、なんとなく落ち着かなかったからだ。
 直樹とたわいのない話をしていると、ふいに視線を感じてそちらを見やる。
 公平が何か言いたげな顔で郁実を見つめていた。
そうして郁実の視線を確認すると同時に逸された目に、かちんとくる。
 郁実は直樹にちょっとごめんね、と一言断りを入れて立ち上がると、真っ直ぐに公平の元へ向かった。
「湯沢、話があるんだけど」
 ヒューヒューと男子達から茶化す声が上がるけれど、郁実は気にしない。
 公平は郁実の言葉に返事はしなかったけれど、黙って立ち上がった。
 店の外に出ると、火照った身体に冷たい風が染みる。ふるり、と肩を縮こめた郁実に、公平は自分の着ているコートを指差して、着る? と訊ねた。
「着ない」
「何怒ってんの」
「怒ってないよ」
「怒ってるよ。関口が俺のことを苗字で呼ぶときは、怒ってるときじゃん」
 無意識だった。確かに、いつもは公平くんと呼んでいるのに、さっきは苗字で呼んだかもしれない。
 どうしてそんなに細かいところまで気がつくのに、郁実の気持ちには気づいてくれないのだろう。それとも、気づかないふりをしているのだろうか。
「この間のあれ、どういう意味?」
「…………あれって?」
 わからないふりをするのは、ひどくずるい。つきん、と胸の奥が痛んで、泣いてしまいたくなった。
「帰り際に言った、郁だけはダメって。あの言葉の意味を、ずっと考えてたの」
 でも、分からなかった。考え過ぎて熱を出すほど、真剣にその意味を探ってみたのに、郁実の中に答えは見つからない。公平しかその答えは持っていないのだ。
「…………そのまんまの意味だよ」
 公平は困ったように眉を下げて笑った。
「俺は最低だからさ、結構誰とでも付き合えるんだよね。俺のこと好きだって言ってくれる子なら誰でも」
 心臓が、バクバクとうるさい。これ以上は聞いてはいけないと、警鐘を鳴らしている。
「そんな俺でも唯一付き合えないのが、関口郁実」
 ずきん、と胸の奥で傷つく音がする。
「関口郁実はさ、俺が人生で初めて好きになった人なんだよ」
 それに、初めての恋人、と照れくさそうに公平が付け加える。
「くるくる表情の変わるかわいい子で、特に笑った顔が好きだった。どんなに元気がないときでも、関口の笑顔を見ると俺まで元気になれた」
 目の前が涙でにじんでいく。初めて聞く公平の本音は、郁実にとって嬉しい言葉のはずなのに、どうしてか苦しくてたまらない。
「でも関口は、俺と付き合い始めてから、ずっと苦しそうだった。いつも不安そうで、何かに怯えて、泣いてた」
 そうだ。郁実はずっと不安だった。
 公平が他の人を好きになってしまうんじゃないか。郁実より魅力的な人はいっぱいいるのに、どうして自分が選んでもらえたのだろう。いつ捨てられてしまうのか。
 自信のなさから生まれた不安だったけれど、いつのまにか膨れ上がったそれは、郁実一人では抱えきれないほどになっていた。
 だから郁実は別れを告げたのだ。公平の気持ちがまだ自分に向いていることを確かめたくて。別れたくないと引き止めてほしくて。
 何も言えずにいる郁実に、公平は言葉を続ける。
「関口にはさ、ずっと笑っていてほしいんだよ」
 だから俺なんかじゃなくて、もっといい奴と付き合いなよ、と公平は言った。
 たまらなくなって、郁実は震える声でじゃあどうして、と呟いた。
「そんなに言うなら何でデートしようだなんて言ったの? 期待させるようなことしたの?」
「最初は利用しようと思ったんだよ。彼女に振られてやけになって。俺のことを好きって言ってくれる人に慰めてもらおうと思って」
 でも出来なかった、と公平が俯いた。
「関口は相変わらず俺のことをキラキラした目で見るんだよ。俺なんてそんな価値もないのに。それでちっちゃなことで嬉しそうに笑うんだ、俺の大好きだったあの笑顔で」
「公平くん……」
「利用しようと思ったよ。でも、出来るわけねぇじゃん。また泣かせるって分かってるのに……そこら辺のどうでもいい女なんかじゃない。関口は……郁は、俺が人生で唯一……本気で好きになった人なんだから」
 そこまで言い切ると、公平は再び顔を上げて、自嘲するように笑った。
「なんて、最低だろ?」
「うん、最低。……でも嫌いになれないの、知ってるでしょ」
「ダメ。嫌いになって。俺よりもっといい男と付き合って、幸せになるんだよ」
 確定事項のように告げられた言葉に、首を横に振る。郁実にとって、公平よりいい男なんて他にいないのだから。
「それこそ直樹とかいいと思うけど? あいつなら絶対に関口のこと傷つけたりしないし、幸せにしてくれるよ」
「なんでここで直くんの名前が出るの」
 いつからそんなに鈍くなったの、お前。
 公平がじっと郁実を見つめて、そう言う。
 気がついていなかったわけじゃない。ずっと、気づかないふりをしていただけだ。
 直樹から向けられる愛情は心地よくて、でも告白されたわけじゃないから、とその優しさに甘えていた。
「公平くんがいい。公平くんじゃなきゃダメなの」
 ぽつり、と涙が溢れ出す。
「ダメじゃないよ。関口は俺以外の男を知らなすぎるだけ」
 大丈夫、今度はちゃんと幸せな恋が出来るから。
 そう言って郁実の頭を撫でる公平は、誰よりも優しく、そして残酷だ。
 この恋は、きっと叶うことがないのだろう。
 郁実はそれを正しく理解して、ぼろぼろと泣きじゃくった。
 どれほどの間泣いていたのだろう。身体はすっかり冷え切って、顔だけが火照っている。
 泣き止んだか? という優しい声に、郁実は静かに頷く。
「これで、関口と俺の恋はおしまいな」
「うん」
「じゃあもう戻りな。風邪ひくぞ」
「うん」
 俺に何を言われても振り返るなよ! と公平が郁実の背中を押した。歩き出した郁実に、後ろから大好きな声が飛んでくる。
「郁!」
 郁実は振り返らない。この恋は終わりにすると、そう決めたのだから。
「世界で一番、大好きだったよ」
 優しい声で、残酷な言葉が囁かれる。郁実は足を止めて、振り返った。
 そして公平が好きだと言ってくれた笑みを浮かべ、私は湯沢のことなんて嫌いだもん! と言ってやった。
 二人の視線が重なって、微笑み合う。それから郁実は踵を返して、同窓会の会場へと戻った。もう振り返ることはなかった。

 会場の人はまばらになっていた。郁実が座っていた席に戻ると、隣で直樹がちびちびとビールを呑んでいる。
「直くん、みんなは?」
「帰った奴と、二次会に行った奴が半々くらいかな。残っているのは迎え待ちがほとんどだよ」
「直くんもお迎え待ち?」
「俺は関口待ち」
 にこ、といつもの優しい笑みを浮かべ、直樹が言う。
「目、腫れてる。何かあった?」
「…………決別してきたの、弱い自分と」
「……そっか」
 深く訊かないのは、直樹の優しさなのだろう。郁実は頰を緩め、帰ろっか、と直樹に呼び掛けた。
「送るよ」
 ううん、大丈夫。と言いかけて、言葉を飲み込む。せっかく待っていてくれた人を、突き放すような言い方は失礼だと思ったからだ。
「じゃあお言葉に甘えて」
「うん、どんどん甘えてください」
 直樹の優しい言葉に、傷ついた心がじわじわとほぐれていくような、そんな気がした。
 いつか、あの恋を忘れる日が来るのだろうか。
 切なくて苦い、そしてとびきり甘いあの恋を。
「直くん、恋の忘れ方って知ってる?」
「え、知らない。……でもやっぱり、新しい恋をすることじゃないかな」
 前を向け、とみんなが言う。
 郁実はまだ痛む胸の奥を隠しながらにっこりと微笑んで、直樹と共に歩き出すのだった。