恋の忘れ方を、ずっと探している。

「だからそんなのさぁ、新しい恋をするに限るって」
「そんな気分になれないんだもん」
「そう言いながら何年経った?」
 関口郁実は友人の厳しい言葉にため息を吐いた。
「五年です……」
「普通だったらとっとと忘れて次の恋にいってるよ」
 しつこいと遠回しに言われて、がつんと頭を殴られたような気分になる。
 それもそうだ。小学五年生のときに初めて本気の恋をして、中学生になってその人と付き合った。二年半の交際は、郁実から別れを告げ、終わりの時を迎えた。
 別の高校、そして大学に進学した今でも、彼……湯沢公平のことが忘れられずにいる。
「郁ちゃんはさ、なんで自分から別れたくせに、今もその……公平くん? のこと引きずってるの?」
「公平くんの気持ち、試したかっただけなんだもん」
 付き合っていたとき、公平と郁実は一緒に帰ることはあったけれど、デートなんてほとんどしたことがなかった。
 公平が他の女の子と楽しそうに話しているのを見るだけで嫉妬して、本当に自分は彼と付き合っているのかな、と不安になって。
 そんな日々の連続に疲れた郁実は、公平の気持ちが確かめたくて「もう別れようか」と言ってみたのだ。ただ一言、「俺は別れたくない」と言ってくれればそれでよかったのに。
 公平の口から出た言葉は、「いいよ、じゃあ別れようか」とすんなり紡がれた言葉に、郁実は立ち尽くすことしか出来なかった。
 それから二ヶ月後、公平には新しい彼女が出来た。郁実の親友だった、那苗だ。そのことがショックで、公平とはおろか、那苗とも話すことが出来なくなってしまった。元彼と友人を同時に失った瞬間だった。
「郁ちゃんって頭はいいのにバカだよね」
「言わないでぇ。自分でも分かっていることだからぁ」
 大学に入ってから出来た友人である絵美は、容赦なく郁実にものを言う。それがありがたくもあり、時折ぐさりと胸に刺さる言葉があったりもして、辛くもある。それでも仲がいい故の優しさだと分かっているので、郁実は絵美のそんな正直なところが好きだった。
「しかも別れた後にも振られているんでしょ?」
 望みはないに等しいんじゃないの、と続けられた言葉に、郁実は凹んだ。
 そうなのだ。ただ付き合って、別れて、という元恋人の関係ではない。その後郁実は勇気を出して三回ほど公平に告白しているが、その全てにおいて振られているのだった。
 一度目の告白のときは、彼女がいるから、という理由だった。
 二度目は、関口は俺と付き合って何がしたいの? と問いかけられた。それはもちろん、一緒に出かけたり、手を繋いで歩いたり、キスをしたり。最後の一つは恥ずかしくて言えなかったが、手を繋ぐ、というワードは伝えてみた。それに対する公平の答えは、それって友達じゃあダメなの? だった。
 友達。小学五年生の頃から公平に恋をしている郁実からすれば、そんなもの、なれるわけないじゃん、というのが実の答えだった。どちらか一方が恋心を抱いてしまえば、友情は成り立たないと郁実は思っているからだ。
 それでも、友達じゃあダメなの、と言ってきた公平に何も言えなくなったのは、振られていると分かったからだ。うん、そうだね、と物分かりのいいふりをして、家に帰ってから盛大に泣いた。友達じゃダメだから告白をしたのに、それすらも伝える勇気がない。だって公平は、郁実のことを好きでも何でもないのだから。
 三度目の告白は、面と向かって言うことは出来なかった。メッセージアプリで、やっぱり公平くんのことが好きなの、と送信した郁実は、返って来たメッセージに絶望した。
 俺と関口は前に付き合ってうまくいかなかったじゃん、今度もうまくいかないよ。
 それは、もう告白して来ないでほしいという遠回しなメッセージにも思えた。公平は優しいから、望みが残らないようにはっきりと振ってくれたのだ。そうは分かっていても、辛いものは辛い。これから先、二度と公平に想いを伝えることが出来なくなってしまったのだから。
 この恋は忘れるしかない。そう言い聞かせること数年。郁実は二十歳になっていた。もう十年も公平のことを好きでいた、ということになる。人生の半分は公平のことを好きでいたのに、どうして簡単に忘れることができるだろうか。
「郁ちゃん、他にいい男いないの」
「ええー。分かんないよ、私公平くん以外の人、好きになったことないもん」
「それこそよく一緒にご飯に行ってる……」
「直くん? 直くんはただの友達だよ」
 直くんというのは、河野直樹。郁実の中学生のときの同級生で、公平の親友でもある。
 直樹はいつもにこにこしていて、郁実のつまらない話も真剣に聞いてくれる優しい人だ。高校、大学は公平と同じ学校に行ったので、郁実と進路は別だったが、今でも時折ご飯に誘ってくれる数少ない男友達なのである。
「とりあえず郁ちゃんはせっかく顔がかわいいんだから、それを活かしなよ」
「えっちゃんに褒められると照れる」
 正直者の絵美は、嘘をつけない性格なので、褒め言葉も全て本当に思ってくれていることなのだ。
 そんな絵美にかわいいと言われて悪い気はしない。へら、と緩んだ口元を見て、絵美がスマートフォンを郁実に向ける。そして、パシャ、と響くシャッター音。
「えっ、絶対今の顔間抜けだったでしょ」
「大丈夫、間抜けでもかわいいから」
 間抜けってところは否定してくれていいんだけども。
 眉を下げて苦笑する郁実に、絵美は今写真を送ったから、と言ってみせた。
 メッセージアプリを立ち上げてみると、確かに絵美から先の写真が送られてきていた。少し加工されているが、被写体の郁実は自然な笑みを浮かべている。
「すごい! やっぱりえっちゃんは写真撮るのうまいね」
「そりゃあ写真部に所属している訳だし」
 そんなことより、と絵美が声を上げる。
「郁ちゃん、今すぐアイコン変えなさい」
「えっアイコン? 何の?」
「メッセージアプリの! 今送った写真に変えて!」
 それはつまり、プロフィール画像を自分の写真に変える、ということだ。今までプロフィールの写真は、カフェで撮ったオシャレなデザートの写真だっただけに、ハードルが高い。
「な、ナルシストって思われないかな……?」
「大丈夫。それにアイコンを変えたら、郁ちゃんのことを密かに気になっている男子から、絶対に連絡が来るよ」
「そんな人いるかな」
「絶対いるよ。新しい恋、始めるんでしょう」
 それなら一歩踏み出さないと。
 その絵美の言葉に背中を押され、郁実は思い切ってメッセージアプリのアイコンの画像を変更した。同時に、関口郁実さんがプロフィールを更新しました、とタイムラインに自動で投稿される。
 しばらくすると、その投稿に友人が新しい写真かわいいね、とコメントを送ってくれる。それだけで勇気を出してよかった、と思うのだから単純なものだ。
 湯沢公平と河野直樹からメッセージが届いたのは、その夜のことだった。

「ど、どうしよう……!」
 公平とメッセージのやりとりをするときは、いつも郁実からで、それは付き合っていたときも変わらない。郁実の方が公平のことを大好きで、公平にはどこか余裕があるように見えていた。
 だからこそ、公平からメッセージが届いたことに慌てふためいた郁実は、落ち着けと自分に言い聞かせる。
「と、とにかく直くんのメッセージから見よう! それで落ち着いてから公平くんの方を見る。うん、それがいい」
 一人の部屋で、そんなことを呟きながら、直樹からのメッセージを開く。
 プロフィール画像変えたんだね。久しぶりにご飯行かない?
 きっとタイムラインの投稿を見て郁実のことを思い出したのだろう。直樹は郁実の数少ない男友達なので、喜んで返信をした。
 行く! 直くんいつが空いてる?
 カレンダーを眺めながらそう返すと、直樹からすぐにメッセージが届いた。来週ならいつでも、と。
 来週は十二月四週目だ。クリスマスのある週になるので、さすがにその日は避けて、二十六日はどうかな、と送ると、オーケーの返事が届く。
 手帳の十二月二十六日の欄に、直くんと食事、と書き込むと、郁実は未読のままになっている公平からのメッセージを開いた。
 おそるおそる見てみると、そこには意外なメッセージが届いていた。
 プロフ画像、かわいいじゃん。
「えっ……えええ!?」
 思わず一人の部屋で声を上げる。かわいいなんて、付き合っている頃も言われたことがない。髪を切ったときや、いつもと違う髪型をしているとき、決まって公平は気付いてくれた。だけど、かけられる言葉は決まって「似合ってるじゃん」というものだった。それも嬉しかったけれど、初めて言われたかわいいという言葉に、郁実はスマートフォンを持つ手が震えた。
「……えっちゃん……ありがとう……」
 拝むべきは神様ではなく親友の絵美だ。絵美の写真を撮る腕の良さと、加工のセンスの賜物だろう。
 郁実は震える指先で、ありがとう、と公平に送り返す。友達が写真撮るの上手いんだよね、とも付け加えて。
 返信を待つ時間は、ひどく長く感じられた。
 やがて届いたメッセージには、郁実を赤面させる言葉が書かれていた。
 俺、関口の顔、好みなんだよね。
「………………へっ」
 初めて聞きましたけども。顔が好みって、結構な褒め言葉じゃないの。
 そんなときに思い出す、絵美の言葉。
 郁ちゃんのことを密かに気になっている男子から、絶対に連絡が来るよ……。
「ないないない!」
 だって、三回も振られているのだ。いくら顔が好みだと言ってくれたからって、可能性はないに等しい。それでも期待してしまうのが恋する乙女というもので、どうしよう何て返信したらいいの、と迷っていると、続けてメッセージが届いた。
 二十四日、デートしない?
 郁実は完全にフリーズした。今月の二十四日といえば、クリスマスイヴ。彼氏彼女がデートをする日。その日に、デートのお誘いを受けたのだ。
 つまり、公平には今彼女がいないということだ。
 泣きそうになりながら、する。と短い返信をする。
 我ながらかわいげのないメッセージだ。それでも公平からは、よかった、とにっこりマークの絵文字付きで返ってきた。
「……こんなの、期待しちゃうよ」
 公平くんのバカ。そう言いたい気持ちを抑えて、郁実はベッドに倒れ込んだ。

 十二月二十四日。郁実はデートに緊張し過ぎて、目覚ましよりも一時間早く起きてしまった。
 せっかく時間に余裕が出来たので、朝風呂に入り目を覚ます。それから風邪をひかないよう念入りに髪を乾かして、軽めの朝食をとった。緊張してあまり食べられなかったけれど、何も食べないよりはマシだろう。
 そこからが郁実の戦いの始まりだった。
 まずは洋服。ミニスカートで女の子らしくきめたいけれど、あまり気合が入っていると思われるのは恥ずかしい。
 それならば大人っぽくロングスカートにしてみようか。でも歩いている時に裾を踏んで転んでしまったら格好悪い。そんなことを考え出したらキリがなくて、結局膝丈よりも少し短めの赤いフレアスカートを選んだ。
 トップスは二択で迷った。冬らしく暖かそうな色味のカーディガンにするか。もこもこの白いニットセーターでかわいらしさを足すか。郁実は悩みに悩んだ結果、白のセーターを手に取った。かわいこぶっていると思われてしまうかもしれないが、少しでもかわいく思ってもらえるならばそれでいい。
 スカートに合わせて赤色のバック。それからキャメル色のコートにショートブーツ。お財布とスマートフォン、ポーチにハンカチ、持ち物はばっちり。
 メイクは悩んだけれど、いつも通りのナチュラルメイクをすることにした。公平がかわいいと言ってくれたあの写真のメイクは、ナチュラルそのものだったからだ。あの日のアイシャドウとリップ、チークの色を再現しながら化粧すること三十分。写真の自分と見比べて、見劣りしないレベルの顔は作れたはずだ。
 最後にヘアメイク。これが最難関だった。
 もともと手先が不器用な上に、髪質は硬めでストレート。ロングの黒髪なのも相まって、重たそうに見えてしまう。
 でも今日の格好だったら巻き髪は必須。ふわふわ系女子になるべくコテと格闘すること数十分。たんまり時間をかけてウェーブ髪を作ることに成功した。それからハーフアップに赤いリボンの髪留めをつけて、ようやく完成だ。
「……ぶりっ子すぎるかな」
 全身鏡の中の女の子は、確かに女の子らしいかわいい格好をしているが、少しばかりモテを意識し過ぎているようにも見える。
 でも、郁実がかわいい服を好きなことも、かわいいと思ってもらいたいという気持ちも本物なのだ。
 しばらく悩んで、郁実はこのまま行こうと決心した。それから待ち合わせの駅に急ぐのだった。

 待ち合わせの時間になっても、公平は来なかった。
 ごめん、寝坊した、というメッセージが届いたのは待ち合わせの時間の前だったが、すでに家を出た後だったので、郁実はそのまま待ち合わせ場所へ向かった。
 駅前のカフェでホットココアを飲みながら、郁実は小さなため息をつく。デートが楽しみすぎて早起きしてしまった郁実と、デートの日に寝坊する公平。
 あまりに対照的すぎて、少しだけ悲しくなる。好きな人のことだから、待つのは全然苦にならない。むしろ待っている時間もドキドキして楽しみなくらいだ。
 それでも公平と郁実の差は、そのまま二人の気持ちの方向性を表しているような気がしてしまったのだ。
 公平はきっと、郁実のことを好きにはならない。
 嫌いではないかもしれないが、もう二度と好きになってくれることもないのだろう。
 分かっていても公平のことを諦められない郁実は、友人の絵美が言っていた通り、きっとバカなのだ。
「遅れてごめん!」
 瞬間、世界が明るくなった気がした。
 少し低くなった声と、高くなった身長。髪も染めて大人っぽくなったけれど、郁実は一瞬で彼が公平だと分かった。
「アイスコーヒーください」
 走ってやって来たのか、公平の額には汗が滲んでいた。冬場にアイスドリンクを頼むほどなので、よっぽど暑かったのだろう。
「そんなに急がなくても大丈夫だったのに」
「関口のこと待たせてるのに、そういう訳にもいかないでしょ。それに早く会いたかったし」
「なっ、何でそういうこと普通に言うかなぁ!」
 期待しちゃうでしょ、と言いかけた言葉は慌てて飲み込む。代わりに真っ赤になった顔で睨みつけると、関口は相変わらずだなぁ、と公平は笑った。
「遅刻、ごめんな」
「いいよ、別に。そんなに待ってないし」
 嘘だ、一時間待った。でも気にしていないのは本当のことだ。
「昨日飲み会があったんだけどさ、今日は関口とのデートだから二日酔いで寝坊とか最悪じゃん? だから昨日は飲まなかったんだよ、一口も」
「うん」
「でも結局楽しみすぎて眠れなくて、寝坊したっていうね」
 だっせー、俺、と自虐して笑う公平に、ドキンと胸が高鳴る。
 デートが楽しみで早起きしてしまった郁実と、眠れなかった公平。対照的なんかじゃなかった。同じだったのだ、二人とも。
「……今日のこと、楽しみだったの?」
「うん。だって関口、すげーかわいくなってるし」
 その言葉に、また胸がきゅんと鳴く。
 つーか楽しみじゃなかったらそもそもデートなんて誘いませんよ? と上目遣いに投げかけられた言葉に、は、はい、と思わず郁実も敬語になってしまう。
「関口は積極的だけど、結構照れ屋だよな」
「えっ、そ、そうかな」
「告白とか普通にしてきたりするのに、今みたいなので恥ずかしがったりするし」
 告白、という言葉に赤面する。何せ三度も好きだと伝えている相手だ。
 でも、断じて違う。普通に告白したことなんて一度もない。
「……告白するときは、いっつも死んじゃうんじゃないかってくらい緊張してたよ?」
「そうなの? いつも冷静に見えたけど」
「それは精一杯猫を被ってただけ」
 本当はすごく必死だったよ、と郁実が苦笑すると、公平は眩しそうに目を細めた。
 それから、俺と同じだな、と呟く。
「郁と付き合ってたとき、いつもカッコつけてたもんなぁ、俺」
 郁。
 それは付き合っていたときの呼び方だ。
 唐突に呼ばれた愛称に、心臓が早鐘を打つ。
 突然昔に戻ったように錯覚する。
 公平くん、郁、と呼び合っていたあの頃。公平は当時、ずっとカッコつけていたのだと言う。郁実がいつもかわいく見られたくて必死だったのと同じだ。
 そんなこと、あの頃は気が付きもしなかったけど。
「……公平くんもそういうこと考えてたんだね」
 いつも余裕がありそうだったのに、と郁実が言うと、公平はそんなことないけどな、と苦笑いしてみせた。
 それから飲みかけのアイスコーヒーを飲み干すと、そろそろ行くかと立ち上がる。
「どこに行くの?」
「ん? 映画」
 公平はいたずらっ子のように笑ってみせた。

 映画館は、クリスマスイヴということもあってか、混雑していた。
 恋愛ものからミステリー、ホラー、アクション、アニマル、とジャンルがたくさん取り揃えられていて、どれを観るか迷ってしまう。郁実の好みでいえばミステリーなのだが、デートで観るのは少し違う気がする。
 そういえば公平との初めてのデートも映画だったな、と思い出す。女の子が白血病にかかってしまう、切なくて泣ける恋愛ものだった。号泣してしまった郁実の隣で、公平はまっすぐ画面を見つめていて、感動ものなのに泣かないんだな、と思ったことが印象に残っている。
 今日も見るとしたら恋愛ものだろうか。でも付き合っているわけではないから、甘すぎるものはあんまり向いていない。だとしたら、アクション?
 そんなことを考えていると、公平がミステリー映画のポスターを指差して、これは? と訊ねてきた。
「正直すっごく観たい。でも公平くん、ミステリーとか興味あるの?」
「んー、普段はあんまり観ないけど」
 でも関口、よくミステリーの小説読んでたじゃん、と公平が笑う。
 確かに郁実は読書家で、特にミステリーとファンタジーが好きで、中学生の頃好んでよく読んでいた。それは今も変わらないのだが、まさかそんな些細なことまで覚えていてくれているとは思わなくて驚いてしまう。それと同時に、また少しの期待が頭をもたげる。
「……よく覚えてるね」
「そりゃそうだろ。好きだった相手のことだぞ」
 誕生日も、血液型も、好きなものも、大体覚えてるよ。という公平の言葉が、嬉しくもあり寂しくもある。
 好きだった。当たり前のように語られたそれが、過去形だったからだ。
 また勝手に期待をして、裏切られた気持ちになっている。いくらデートに誘ってくれたからといって、そしてそれがクリスマスイヴだったからといって、特別なわけじゃない。
 郁実にとって涙が出そうなくらい特別な一日でも、公平にとっては何気ない一日かもしれないのだ。
「公平くんがいいなら、このミステリー映画にしよう」
「ん。じゃあチケット買ってくる」
「えっ私も一緒に行くよ」
「大丈夫。座って待っていて」
 ヒールで歩き回ると疲れるでしょ、と公平は郁実を気遣う言葉をかけてくれる。郁実の履いているショートブーツは五センチ程度のヒールのものだが、それでも歩き続けていれば疲れてしまう。
 公平の見せた優しさに、また性懲りも無くドキドキしてしまう郁実がいる。それが恋からくるものではなく、公平の性根の優しさだと知っているのに。
 映画のチケットを買いに行った公平を見送って、郁実はソファーに座って待っていた。
 こんな風に普通に公平と喋れる日が来るとは思っていなかった。
 公平といるときはいつも、緊張してうまく話すことが出来なかったから。二度目の告白のときに言われた、「友達じゃダメなの」という言葉の意味がようやく分かった気がする。二人でいて、楽しいと思える時間が過ごせる。それだけでも、郁実は嬉しいと思えるのだ。
 それでも、と膝の上で手をぎゅっと握る。
 公平の特別になりたい。ずっと好きだった彼の一番になりたい、そう願うのは烏滸がましいだろうか。
「お待たせ。大丈夫? 変なやつに声とかかけられなかった?」
「私に声かけてくる人なんていないよ」
「いるだろ。関口ってかわいいし」
 平然とした顔でそう言った公平は、郁実にジュースを差し出した。
「あ、ありがとう……。公平くんってたらしだよね」
「俺は思ったことしか言わない主義だけど?」
 ひええ、と郁実が熱くなった顔を手で押さえると、公平は楽しそうに笑った。
「俺、関口のそういうとこ、好き」
 そういうところってどういうところですか。
 訊きたいけれど、恥ずかしくて訊くことが出来なかった。
 どんなところであれ、好きと思ってもらえる一面があるのは嬉しい。それだけで、今日こうして公平に会えてよかったと思う。
「映画、もうすぐ始まるけどお手洗いとか平気?」
「あ、行っておこうかな」
「ん、じゃあジュース持ってるよ」
 お手洗いで鏡を見ると、真っ赤なほっぺたをした自分がそこには写っていた。
 恥ずかしい。こんな顔を見られていたなんて。
 化粧を軽く直し、公平の元に戻る頃には、ようやく頰の赤みが引いていた。

 映画は郁実の好きなミステリー作家のベストセラー小説を実写化したもので、とても良く出来た作品だった。思わずほろりと涙してしまうような感動シーンもあって、慌ててハンカチで目頭を押さえるけれど、隣の公平はやっぱり泣いていなかった。こんなところも昔と変わらない。
 映画を観終えた後は、二人で遅めの昼食にした。公平は郁実の食べたいものを優先してくれて、生パスタ専門店に入った。
 本当はトマトソースのパスタが食べたかったけれど、白いニットを汚したくなかったので、カルボナーラを選んだ。公平が食べながらたくさん話をしてくれたけれど、郁実はほとんど相槌を打つことしか出来なかった。
 食事を終えた後は、少しだけショッピングモールをぷらぷらと歩いた。アクセサリーショップで公平が足を止める。
「見ていく?」
「あ、うん。見たい」
 ショップには、指輪を中心にピアスやネックレス、ブレスレットなどが陳列されていた。その中で郁実の目に飛び込んできたのは、シルバーリングに小さなピンクサファイアが三つ埋め込まれた、かわいらしいリングだった。
「わ、かわいい……!」
 郁実は派手なアクセサリーを好まないので、シンプルなそのリングがとても気に入った。手に取ってはめてみると、リングは郁実の手にぴったり合った。
「お、似合うじゃん」
「本当? これかわいいから嬉しいな」
「買ってやろうか?」
 えっ、と郁実は固まる。
 指輪って、彼女とか特別な人に贈るものじゃないの?
 そんな簡単に買ってやろうか、だなんて言われるとは思わなくて、郁実は指輪をじっと見たまま考えてしまう。
「……いらない」
「なんで? クリスマスだし、プレゼントするよ」
 せっかく関口に似合うんだし、と公平が笑う。その言葉に胸がきゅんと鳴くが、ふるふると首を横に振る。
「だって私、公平くんの彼女じゃないし……」
 指輪はもらっちゃいけない気がする。郁実がそう言うと、公平は少し考えた後、隣に置かれていたブレスレットを手に取る。ゴールドのブレスレットの中心は、花の形をしたピンクサファイアが彩っている。
「こっちは?」
 これも関口に似合うと思うけど、と公平がやわらかく笑う。また胸が大きく高鳴って、郁実は思わず眉を下げた。
「かわいい、です」
「じゃあこれください」
「本当にいいの?」
「うん。プレゼントな」
 つけていきます、と公平が言ったので、箱と紙袋を別にもらい、左手首にブレスレットをつけてもらった。公平の指先が手首に触れて、ドキドキする。
 緊張して手が震えてしまいそうな郁実とは対照的に、公平は平然とした顔で郁実にブレスレットをつけてくれる。
「はい、出来た」
 うん、かわいいな。とブレスレットに言ったのか、郁実に言ったのか分からない言葉に赤面する。
 振り回されている。それは分かっているのに、郁実にはどうすることも出来ない。
「あ、ありがとう……」
「ん。よかった」
 何かあげたかったからさ、と笑う公平。
 そんな優しい彼が好きだ。胸の奥が叫んでいる。
 爆発してしまいそうな気持ちを何とか抑え込んで、公平のコートの端を掴む。
「あ、あのね」
「ん? どうした?」
「すごく嬉しい。公平くん、優しいね」
 期待しちゃうよ、と言いかけた言葉は飲み込む。踏み込み過ぎてはいけないと、頭の中で警鐘が鳴ったからだ。代わりに続けた優しいね、という言葉に、公平は嬉しそうに微笑んだ。
「そりゃあ優しくするよ。関口とのデートだし」
「……どうして」
「ん?」
「どうしてデートに誘ってくれたの」
 訊いてはいけない。分かっていても、訊かずにはいられなかった。
 公平が足を止めて、郁実の目をじっと見つめる。
「何でだと思う?」
 ほら、また期待させるような答え。
 郁実のことを好きだから、だったらいいのに。
 クリスマスイヴにデートに誘ってくれたことも、プレゼントを買ってくれたことも、かわいいと言ってくれたことも、全部郁実を好きだからだったらいいのに。
 きっと違う。分かっていても、期待してしまう自分がいることに郁実は気がついていた。
 ガラス張りの天井から、夕陽が差し込む。もう少ししたらお別れの時間だ。ぎゅっとスカートの裾を握りしめて俯くと、公平が小さな声で呟いた。
「気づいてるかもしれないけどさ、俺はずるいんだよ」
「…………」
「関口が俺のことをまだ好きなんだって知っていて、デートに誘ったんだよ」
「でも、私は嬉しかったよ」
 公平が郁実の頭をぽんと撫でる。そして、関口はそう言ってくれると思ってた、と続けた。
「そうだよ、……私、公平くんのことが好き」
 顔を上げて、公平の目をじっと見つめる。真っ直ぐに郁実を見返す公平は、少しだけ眉を下げて、どこか困ったような顔をしていた。
「知ってるよ」
「公平くんは? 私のこと、好き?」
 声が震えた。これまでの公平の反応で、郁実はその先の答えが分かってしまっていた。
 聞きたいけれど、聞きたくない。
 でも、聞かなければいけない。
「好きだよ。でも、付き合えない」
「どうして?」
「……郁だけはダメなんだ」
 少し低くなった声で、公平が呟く。
 どうしてこんなときに、付き合っていたときの愛称で呼ぶの。
 じわりと浮かび上がってきた涙を見て、公平は郁実の髪をくしゃりと撫でた。
「帰ろうか」
「……うん」
 帰りたくないと言ったら、公平はもう少し隣にいてくれるのだろうか。
 そんなことを考えながら、郁実はいい子のふりをして頷くことしか出来なかった。
 その日の夜から三日間、郁実は熱を出して寝込んだ。二十六日に約束をしていた直樹には悪いが、熱を出したことを正直に伝え、約束を延期してもらった。
 直樹は優しくて、郁実の体調のことだけを心配していた。
 年末年始に入るから、次に関口と会えるのは成人式かな、と送られてきたメッセージに、ドキッとする。
 親元を離れて上京している郁実も、成人式は地元のものに出席する予定だ。そこには中学生のときに同級生だった直樹はもちろん、公平もやって来るだろう。
「どんな顔して会えばいいの」
 ぽつりと呟いた言葉は、ひとりぼっちの部屋に虚しく響く。暗い部屋の中で、ブレスレットのピンクサファイアだけが、きらきらと輝いていた。