あの頃、彼女は僕のヒーローだった。
 
 小学生の頃、僕はみんなより身体が小さくて、いじめの対象になっていた。そんな僕を唯一助けてくれたのが、幼馴染の夕凪紗理奈だ。
 僕より少し身長が高いだけの彼女は、果敢にも身体の大きいいじめっ子に立ち向かっていった。いじめっ子にも男のプライドがあったらしく、紗理奈が殴られることはなかったが、それでも意地悪な言葉はいくつも投げかけられた。
「やーい、男女! 菊池のことなんか守ってるとお前も痛い目見るぞ!」
「やってみなさいよ、飛鳥くんのことをいじめるやつは許さないんだから!」
 べー! と舌を出して、紗理奈はいじめっ子を追い払う。小さな背中に隠れながら、僕はその肩が少し震えていることに気がついていた。
 彼女も本当はこわかったのだ。それでも僕を守るため、いじめっ子に立ち向かってくれた。おかげで僕はその日、怪我をすることがなかった。それは一週間のうちに一度あるか、ないか、という僕にとっては珍しい一日になったのだ。
「飛鳥くん、怪我しなかった?」
「うん。さ、紗理奈ちゃんはすごいね」
「何が?」
「だって僕らよりあんなに背の高い……高橋くん達に立ち向かえるなんて」
 僕には到底出来ないや、と言って、涙をこぼす。
 泣き虫な僕に慣れっこだった紗理奈は、ポケットからハンカチを取り出して、僕に差し出す。受け取ろうと手を伸ばすと、紗理奈はぎゅっと僕の手を両手で包み込んで笑った。
「だって、あんなやつらこわくないよ! 飛鳥くんが大怪我しちゃう方が、ずっとこわいもん!」
 だから大丈夫だよ、と僕の手を握る両手に、少し力が入る。
「飛鳥くんのことは、絶対私が守ってあげる! だから、飛鳥くんは無理して高橋くん達に歯向かったりすることないんだよ!」
 こわかったら逃げちゃえ! と笑う紗理奈の肩は、まだ少し震えていた。

 夕凪紗理奈は菊池飛鳥のヒーローだった。
 そんな彼女が入院したのは、高校一年の夏のことだった。
 白血病。血液の癌と呼ばれるその病気に侵されているというのは、紗理奈の母が教えてくれた。
 彼女は入院する直前まで元気に学校に通っていたため、俺は紗理奈が病気だということを入院するまで知らなかった。
 中学生の頃から、学校に通いながら通院し闘病していた、というのも後から聞いた話である。
「飛鳥くん! 来てくれたんだ!」
 白い病室。狭いベッドの上で点滴に繋がれた紗理奈は、嬉しそうに起き上がる。
「寝ていた方が楽なんじゃないの」
「全然大丈夫! だって私元気だもん!」
 紗理奈はブイ、とピースサインをこちらに向けてみせる。その腕には多くの点滴の跡が痣となって残っており、ひどく痛々しい。心なしか、入院以前よりも痩せたようにも見えた。
「元気なやつは入院しないんだよなぁ」
「飛鳥くんってば正論! 学校のみんなは元気?」
 けらけらと笑いながら紗理奈が問いかける。クラスの人気者である紗理奈は、学校を休んでいるのが悔しいらしい。こうしてよく俺に近況を聞いてくる。
 子供の頃はいじめられっ子だった俺も、身長がぐんと伸びてからはめっきりいじめられなくなった。こうして紗理奈にクラスの話を持ちかけられても、苦ではなくなっていた。
「みんな元気なんじゃない?」
「なに、その疑問系」
「だってもう夏休みだし」
 会ってねえもん、誰とも。と言うと、紗理奈は大きな目をまん丸にして、あーっ忘れてた! と叫んだ。個室でなかったら怒られていたところだ。
「よかったじゃん、夏休みで」
「よくないよ! 夏休みはりっちゃん達と海に行こうって話してたのに!」
「だって授業がこれ以上進んだら置いていかれるぞ?」
「うっ……そこは飛鳥くんに教えてもらう方向で……」
 いじめられっ子を卒業した今も、友人の少ない俺は、暇な時間に勉強しているので成績はいい方だ。
 勉強の苦手な紗理奈に教えるのも難しくはないだろう。
「あんまり俺にばっかり頼らずちゃんと勉強しろよ」
 そう言って紗理奈の髪をくしゃりと撫でる。
 紗理奈は少し頰を染めた後、嬉しそうに顔を綻ばせた。
「飛鳥くん、大きくなったねぇ」
「親戚のおばちゃんか、お前は」
「だってほら。手もこんなに大きい」
 俺の手のひらに自分のそれを押し当てて、大きさを比べる。紗理奈はまじまじと俺の手を眺めた後、男の子だねぇ、と呟いた。
「そりゃあそうだろ」
「昔はすっごくかわいかったのに! 今は男の子って感じになっちゃって」
「……駄目なの?」
「駄目じゃないよ」
 かわいい飛鳥くんも、今のかっこいい飛鳥くんも、どっちも好き。
 紗理奈が微笑みながら言った言葉に、心臓がぎゅっと痛くなる。それに気付かないふりをして、俺は精一杯優しい笑みを浮かべてみせた。
「俺も。昔のかっこいい紗理奈も、今のかわいくなった紗理奈も、どっちも好き」
 もう一度髪を撫でると、紗理奈がそっと目を閉じる。俺はゆっくり顔を近づけて、額にキスをした。
 紗理奈は目を開けると、不満そうな声を上げる。
「今のは普通、口にチューするところじゃない?」
「ここが病院だって忘れてるだろ」
「飛鳥くんは意外とそういうの気にするよね」
 ぷく、と頰を膨らませた紗理奈を見つめながら、俺は紗理奈の母との会話を思い出していた。

「キスはしないでほしいの」
「えっ」
 唐突に告げられた言葉に、俺は固まった。紗理奈の母に、紗理奈と付き合っていることは告げていなかったからだ。それに何より、キスはしないでほしい、というのはどういう意味だろうか。別れてほしい、と言われるのならまだ分かるが、どうして突然キスの話が出るのだろう。
「紗理奈と飛鳥くんが付き合っているのは知ってるわ。いつも紗理奈を笑顔にしてくれてありがとう」
「……すみません、俺から報告しなくちゃいけなかったのに」
「いいのよ、そんなの。あの子が幸せなら何だって」
 そう呟いてしばらく沈黙した後、おばさんはゆっくりと話し始めた。
「白血病のお薬を使っているでしょう。病気とお薬の関係で、免疫力がすごく落ちているらしいの」
「……はい」
「それで、普通なら問題ないような菌も、今の紗理奈には危険なの。だからね、キスは控えてほしいのよ」
 飛鳥くんが悪いわけじゃないのにごめんね。とおばさんが謝る。
 紗理奈の母も何も悪くない。紗理奈だってもちろん。誰も悪くないのに、どうして謝るのだろう。
 おばさんの気持ちを考えると苦しくなって、分かりました、と頷いた。
「それからね、飛鳥くんにだけは言っておくね」
「はい」
「紗理奈には話していないんだけど、あの子……」

「あーすーかくんっ! 聞いてる?」
 ハッと我に返ると、目の前に紗理奈の顔があった。慌てて仰け反ると、ぷくっとまた頰を膨らませる紗理奈の姿。
「避けるのは失礼だと思う!」
「ごめんごめん」
「心がこもってない!」
 紗理奈はぽふん、と布団を叩く。細い腕と共に点滴の管が揺れて、痛くないのかと心配になってしまう。
「それ、痛くないの」
「点滴? 慣れちゃった」
 最初はすごく痛かったよ、と眉を下げる紗理奈。でもきっと、泣いたりはしなかったんだろう。
 幼い頃から一緒にいるのに、俺は紗理奈が泣いたところを一度も見たことがない。いじめっ子に嫌なことを言われたときも、俺を庇って川に落っこちたときも、転んで骨を折ったときだって、紗理奈は泣かなかった。
 だから余計に、ヒーローに見えたんだろうな、と今なら思う。
 自分より身体の大きいいじめっ子に立ち向かう勇気も、絶対に泣かない強さも、俺が子供の頃ひどく欲していたものだった。
「早く退院したいなぁ」
 そしたらりっちゃん達と海に行って、ナンパされて、そこを飛鳥くんが助けてくれるの。
 夢のようなことを語りながら、紗理奈が笑う。
「俺も一緒に行くこと前提じゃん」
「だって、彼女の水着姿だよ? 飛鳥くん、放っておけるの?」
「……無理だけど」
「ふふ、そういう心配性なところも好き」
 紗理奈は知らない。自分の病気が、白血病であることを。
 そしてまた、紗理奈は知らされていない。自分の余命が、あと半年を切っていることを。
 俺だけが知っている。紗理奈の語る未来は、永遠に来ないであろうということを。
「水着ってビキニ?」
「あっエッチ! 想像したでしょ!」
「そりゃあするよ。でも紗理奈ってあんまり胸がないんじゃ……」
「きゃああ! 意地悪っ!」
 見たことないくせに! と紗理奈が言うので、じゃあ見せてよ、とさらに意地悪なことを言う。
 唇を尖らせた彼女は、俺に向かって見たいの? と首を傾げてみせる。まるで、うんと頷けば見せてくれるような、そんな反応だった。
「見たいけど、見たくない」
 これは本音だった。
「ええ、なんで?」
「だって絶対、見るだけじゃ止められないし」
 見せてもらったら、触りたくなる。触れてしまったら、離したくなくなる。きっと歯止めが効かなくなってしまうに違いない。
 今の紗理奈とは、身体を重ねるなんてもってのほか、キスすら出来ない状態だというのに。
「…………いいよ?」
「えっ?」
「飛鳥くんなら、何されてもいいよ」
 頬を真っ赤に染めてそう呟く紗理奈を、ぎゅっと抱きしめる。折れてしまいそうなほど細い身体は、闘病の勲章なのだろう。それが苦しくて、切ない。
「…………紗理奈」
「ん、?」
 耳元で名前を呼びかける。
「退院したら、セックスしようか」
「…………うん」
 俺はその日、絶対に叶わない約束をした。
 目に浮かんだ涙を隠すために、紗理奈を強く抱きしめる。遅くとも半年後にはなくなってしまうというこの温もりを、どうしても離すことが出来なかった。
 どうして病気になったのが紗理奈だったのだろう。
 どうして彼女が死ななくてはならないのだろう。
 数えられないくらいのどうして、を抱きながら、滲んだ涙を必死で堪えた。

 こほん、こほん、と咳をする声が響く。
 紗理奈の病状は悪化していた。若いからがんの進行も早いのよ、とおばさんが泣きながら話しているのを見て、俺も泣きそうになった。
「飛鳥くん、何かおかしいの」
「ん? どうした?」
「体調、良くならなくて。お薬いっぱい飲んでるし、点滴もしてるのに……」
 ごほっ、と重たい咳が溢れる。これ以上菌を持ち込まないようにと、俺はマスクをしていた。滅菌用のアルコールは指のささくれに染みたけれど、そんなことはどうでもよかった。
「風邪をこじらせただけじゃないのかな。お母さん、何も話してくれなくて……何か聞いてない?」
 紗理奈には絶対言わないでね、と伝えられた病名と余命の話が頭をよぎる。
「俺も風邪って聞いてたけど、そんなに体調悪いなら肺炎か何かなんじゃないの。ほら、咳もすごい出てるし」
 咳が止まらないのは、きっと免疫力が落ちているせいだ。身体も怠くて堪らないのだろう。珍しく、俺が訪ねてきたのに身体を起こす素振りすら見せなかった。
 紗理奈は青白い顔をしていて、今にも死んでしまうのではないかと不安になる。
「……飛鳥くん」
「ん?」
「キスがしたい」
 がつん、と頭を殴られたような衝撃。
 唐突に告げられた願いは、到底叶えてあげられないものだった。
 くらりと揺れる頭に、しっかりしろと呼びかける。苦しいのは俺じゃない、紗理奈なんだから。
 涙は絶対に見せてはいけない。紗理奈に、病気のことを悟らせてはいけないのだ。
「……風邪っぴきとは出来ません」
 あえて揶揄うような口調でそういうと、紗理奈は少しだけぼんやりした後、移っちゃうもんね、と小さく笑みをこぼした。
 その姿がひどく切なくて、抱きしめたい衝動に駆られる。代わりに点滴で繋がれた手をぎゅっと握る。
「まぁ、紗理奈みたいに風邪をこじらせるほど体力なくはないけど」
「ええ? ひどくない?」
「よかったじゃん、バカじゃないってことで」
 バカは風邪をひかないって言うじゃん?
 そう言って誤魔化せば、紗理奈はくすくすと笑ってみせた。
 そうしてぎゅっと握り返される手に、少しだけ安心する。
 よかった、ちょっと元気が出たみたいだ。紗理奈の不安を少しでも和らげられたなら、俺が彼氏である意味もあるというものだ。
「飛鳥くん」
「どうしたの、紗理奈」
「大好き。……好き?」
「好きだよ、ずっと前から、これからもずっと」
 自分の言葉が、自分の首をじわじわと絞めていくような感覚に襲われる。
 これからもずっと、紗理奈のことが好きだ。これはきっと変わらない真実で、同時に紗理奈がいなくなることも防ぎようのない未来である。
 それが堪らなく苦しくて、また泣きたくなる。昔に比べて背は伸びたけれど、泣き虫なところは変わっていないのだ。
「なに泣きそうな顔してるの、泣き虫飛鳥くん」
 泣きそうになっているのがバレてしまった。紗理奈が俺の髪を撫でて、よしよし、と慰めてくれる。
「俺と紗理奈が結婚する未来を想像して、一足早く感動に浸ってた」
「なにそれ、早すぎるよぉ」
 飛鳥くんまだ結婚出来ないじゃん、と紗理奈が笑う。紗理奈はこの間誕生日を迎えて十六歳になったので、もう結婚出来る歳なのだ。
「……俺が十八になったら」
 そのときには、紗理奈はもう隣にいない。その事実をはっきりと理解しながら、俺は言葉を紡ぐ。
「紗理奈、俺と結婚してくれる?」
「…………これってプロポーズ?」
「うん。夜景の見えるレストランとかじゃないと駄目かな」
「駄目じゃないよ、嬉しい」
 紗理奈が目に涙を浮かべ、ぽつりと呟く。初めて見る紗理奈の涙に、俺は息を飲んだ。あまりにも綺麗だったからだ。
「…………あと二年」
「うん」
「飛鳥くんが大人になるまで、私待ってるね」
「うん、待ってて」
 どうか、待っていて。
 そう心から願いながら、ぎゅっと繋いだ手に力を込めた。

「金を貸してくれませんか」
 俺は父に頭を下げながら、そう言った。
 当然のことながら、父は激怒して、何を言い出すんだ! と俺を怒鳴りつける。
「毎月小遣いはあげているだろう!」
「お小遣いは無駄遣いせずに貯めてる、バイトもしてる、それでも足りないんだ」
「高校生が一体何にそんなお金を使うと言うんだ! 小遣いとバイト代があれば十分だろう」
「足りないんだって! 指輪を買いたいんだ!」
 叫ぶように告げた俺の言葉に、父は言葉を失った。
「…………紗理奈ちゃんか」
「うん。今すぐプレゼントしたいんだ。絶対に働いてお金は返します、だからお願いします」
 父さん、お金を貸してください。
 そう言って頭を下げる息子の姿を、父はどんな気持ちで見ていたのだろう。
 しばらく黙っていたかと思うと、大きなため息が聞こえてきた。
「頭を上げろ、飛鳥」
 その声に従い頭を上げると、そこには渋い顔をした父が立っていた。
「紗理奈ちゃんとは、別れろと言ったはずだぞ」
 初恋なのは分かる。幼馴染で、大切な子だというのも理解している。でも、このまま付き合っていたら苦しむのは飛鳥なんだぞ。
 父は低い声でそう告げる。俺は泣きたい気持ちを精一杯堪えて、はっきりと言い返した。
「別れないよ」
「……何だと?」
「父さんが反対するのも分かる。でも、別れない」
 俺が十八歳になったら、紗理奈と結婚するんだ。夢物語を語ったように聞こえたのだろう。バチン、と大きな音がして、次いで頬に熱が走った。殴られたのだ、と理解するのには数秒かかった。
「紗理奈ちゃんは、もう半年も生きられないんだぞ!?」
「生きられるかもしれないだろ!」
「そういうのは現実逃避って言うんだ!」
 目の前の現実を見ろ、と父が言う。
 日に日に細くなっていく紗理奈の身体。
 青白くなった顔。腕に残った点滴の跡。
 プロポーズしたときに初めて見た、紗理奈の涙。
 一気に押し寄せた光景に、涙が止まらなくなった。それでもどうしても父の前で泣くのは悔しくて、必死に涙を拭い、言葉を続ける。
「……生きようとしているんだよ」
 紗理奈は、自分の余命を知らない。
 それでも、自分の体調がどんどん悪くなっていることには気がついている。何かおかしいと、不安に思っているのだ。
「生きるには、希望が必要なんだよ」
「希望?」
「紗理奈が教えてくれたんだ。子供の頃、いじめられていた俺を助けてくれて。自分も震えていたのに……俺のこと、守ってあげるって。その言葉がどんなに嬉しかったか、……俺の希望になったか、父さんは知らないんだ」
 いじめられていたことを、父に語ったことはない。
 ショックを受けたような表情で、父が黙り込む。
「紗理奈はあの頃、俺のヒーローだった」
「…………」
「今度は俺が、紗理奈のヒーローになりたいんだよ」
 生きる希望を、俺の手で、紗理奈にあげたいんだ。
 そう伝える俺の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃで、とてもヒーローのものとは思えなかった。
 それでも何か父に伝わるものがあったらしい。父も目に涙を浮かべ、父さんは反対したからな、と呟いた。

 トルマリンの石が埋め込まれたピンクゴールドのリング。
 婚約指輪には少し地味かもしれないが、小柄で可愛らしい紗理奈にはきっとよく似合うと思う。
 指輪を買うときは、父が一緒に着いてきてくれた。少しだけ気恥ずかしかったけれど、十六歳の高校生が一人でジュエリーショップに入るのはハードルが高すぎたので、正直助かった。
「母さんの指輪もここで買ったんだ」
 老舗のジュエリーショップは、どうやら父もお世話になったことがあるらしい。亡き母の思い出はそう多くはないが、左手の薬指にいつも綺麗なゴールドの指輪をはめていたことは覚えている。
「先立たれるのは、本当に苦しいぞ」
 父さんにはお前がいたから何とかやってこられたけどな。と父が言う。
 愛する人が先に亡くなってしまう。その辛さを身をもって知っていたからこそ、紗理奈との交際を反対していたのだろう。
 父の愛情を感じて、ぐっと込み上げてくるものがある。
「……覚悟を決めたんだ」
 紗理奈の母に、病名と、そして余命を告げられたとき。あの日、あのときに、一生側にいると心に決めたのだ。
 それまでだって生半可な気持ちで付き合っていたわけではない。それでも結婚なんてまだ考えていなかったし、ましてやいつか来る別れの日のことなんて、考えてもみなかった。
 未来には限りがあるのだと教えられたとき、俺が一番に願ったのは、紗理奈には最期まで笑っていてほしい、ということだった。
 それがどんなに難しいことか、俺には分からない。
 病気との闘いがどれほど辛いのか、紗理奈はあまり表に出そうとしないから、今でも図りかねている。
 それでも、紗理奈に笑っていてほしい。
 そして出来ることならば、最後まで隣に、俺がいたい。
 そう願うことは、罪だろうか。
「…………大人になったんだな」
 父さんはそう言って、指輪を選ぶのに付き合ってくれた。あれだけ反対していたにも関わらず、紗理奈ちゃんにぎらぎらしたものはあまり似合わないだろう、とアドバイスまでしてくれたほどだ。
 その指輪を持って、俺は病院にやって来ていた。
 夏休みが終わろうとしている、そんな九月間近の木曜日のことだった。
 紗理奈の病状が急変した。集中治療室に部屋は移動され、面会が出来なくなった。
 渡すことの出来なかった指輪の箱を握りしめ、集中治療室の前で立ち尽くすことしか出来なかった。

 紗理奈の母は、ぼろぼろと泣きながら座り込んでいた。
 仕事で海外に行っていたはずの父親も、駆けつけてきていた。縋るように互いに抱きしめ合う二人を見ながら、俺はどうすることも出来ずに父が来るのを待っていた。
「飛鳥くん、せっかく会いに来てくれたのに……ごめんなさい」
「おばさんが謝ることじゃないです」
「これ、紗理奈から預かっていたの」
 渡されたのは、一通の封筒。
 未来の飛鳥くんへ。と書かれたそれは、開けていいのか分からず、受け取ったまま動くことが出来ない。
「どうか読んであげてくれるかい。紗理奈が生きているうちに、キミに読んでほしいんだ」
 生きているうちに。その言葉がずしん、と胸の奥に重石を落とす。
 震える手で封筒を開くと、三枚の便箋が入っていた。花柄の可愛らしいそれは、紗理奈の好きなオレンジ色だった。
『未来の飛鳥くんへ。
私は今、元気になっていますか?
飛鳥くんの隣で笑っているかなぁ。
ちゃんと風邪が治って、キスできたかな?
移しちゃったら大変だから我慢してたけど、結構チューしたくてたまらなかったんだよ。なんて言うと、エッチな子みたいだね。
退院したら、エッチなこともするんだよね。約束。私、初めてだから、ちゃんと優しくしてね。って言わなくても飛鳥くんなら優しくしてくれるって信じてるけど。約束、ちゃんと叶うといいなぁ。
十八歳になったら、本当に結婚してね。そのときには他の女の子が好きだなんて言っても、もう遅いからね!
結婚式は、やっぱりウェディングドレスが着たいなぁ。和装も憧れるけど、ふんわりしたドレスを着て、隣にタキシード姿の飛鳥くんがいて、一緒に泣きながら写真を撮るの。幸せでしょう?
それでね、ちっちゃな一軒家に二人で住んで、二年くらいしたら子供を産んで。飛鳥くん似の男の子がいいかなぁ。でも、女の子だったらいつか一緒にお買い物とか行けたりして楽しいかも。
うーん、どんな職業に就くのかまだ想像出来ないけど、二人で定年まで働いて、ゆったりした老後を過ごそうね。
それでね、私、飛鳥くんより絶対長生きするよ。
飛鳥くんをもう泣かせないって決めたから。
だからって飛鳥くんも早死にしちゃだめだよ!
私が悲しむところ、見たくないでしょう?
二人とも長生きして、死ぬときまで指輪をつけて、手を繋いで。そんな夫婦になろうね。
未来の飛鳥くん、未来の飛鳥くんのことも、ずっと大好きだよ』
 ぼろぼろと涙が止まらなかった。
 俺のことを泣かせない、って書いているくせに、泣かせる内容を書くなよ、と思う。思うのに、涙が止まらない。
 指輪じゃなかった。指輪がなくても最初から、俺は紗理奈の生きる希望になっていたのだ。
 いつかの俺にとって紗理奈がヒーローだったように、今の紗理奈にとって俺は、いつの間にかヒーローになっていた。
 泣き崩れる俺を、いつ駆けつけたのか、父が肩を抱いて背中を叩いてくれる。まるで幼子をあやすようなその仕草に、また涙が止まらなくなる。
 どれほどの時間泣いていたのだろうか。集中治療室の灯が消えて、空気がしん、となる。痛いほどの沈黙の後、治療室のドアが開き、医師が出て来た。
「……一命は取り留めましたが、危険な状態です」
 もって、半月というところでしょう。
 冷たくも聞こえる医者のその声が、逆に頭を冷やしてくれた。
 半月。半月。半月。
 たったそれだけの時間で、何が出来るだろう。何をしてやれるだろう。ぐらりと揺れる視界に、父が慌てて手を差し伸べてくれる。
「面会、出来ますか」
 父の質問に、医師は首を横に振る。今はご家族の方だけで、というその言葉を聞いて、紗理奈の母が口を開いた。
「飛鳥くんは紗理奈の婚約者なんです。入れてやってください」
「おばさん……」
「紗理奈、嬉しそうに話していたの。プロポーズされたって。だからね、お願い。紗理奈に会ってあげて」
 大粒の涙が流れるのを見つめて、俺は静かに頷いた。

「紗理奈。……紗理奈、聞こえる?」
 集中治療室から個室に移って、二日経つ。紗理奈は人工呼吸器と点滴に繋がれたまま、目を覚まさない。
 呼びかけてみても、返事はない。紗理奈の両親は気を遣って席を外してくれたが、会話の出来る状態ではない。
「紗理奈。聞こえていると思って話すよ」
 答えのない彼女の手を握り、呼びかける。
「紗理奈はさ、昔よく俺をいじめっ子から守ってくれたよね。あの頃の紗理奈は本当にかっこよくて、ヒーローみたいだった」
 本当はこわかったのも知っている。それでも立ち向かう勇気を教えてくれたのは、紗理奈だった。
「毎日いじめられて、学校なんて行きたくないって泣いていた俺に、希望をくれたのは紗理奈だったんだよ」
 紗理奈がいてくれたから、学校に通い続けることが出来た。紗理奈が守ってくれたから、今の俺がいる。
「まだ泣き虫は卒業出来ていないんだけどさ、それでも背は伸びたし? 今度は俺が紗理奈のヒーローになるんだって、勇気を振り絞って告白したらオーケーしてくれたよね」
 あのときは嬉し泣きしたなぁ。と、しみじみ呟く。
「紗理奈と付き合い始めてから、毎日が幸せだった。そりゃあケンカもしたけど、ケンカをした数の倍以上、笑って、キスをしたよね」
 キスが出来なくなってからは辛かったわ、色んな意味で。と笑いながら言うと、手紙の内容を思い出してしまう。
「紗理奈もキスしたいって思ってくれてて、嬉しかったな」
 愛されているなぁ、って感じ。
 握った手をもう片方の手で撫でる。ぴくり、と反応があったけれど、これは反射の一部らしい。
「結婚式、楽しみだな。友達は何人呼ぼうか。ウェディングドレスも絶対似合うけど、オレンジ色のカラードレスも着てほしいな。和装も、写真だけでも撮りたいな」
 指輪の交換とか、誓いのキスとか、緊張するんだろうなぁ、と呟く。
 もう一度指先が動き、俺は紗理奈の顔を覗き込む。まつ毛が揺れる。ぴくりとまぶたが動いて、うっすら目を開けた紗理奈は、眩しそうにもう一度目を閉じた。
「紗理奈?」
 ゆっくりでいいよ。
 心臓がバクバクと動くのを感じながら、なるべく静かな声で呼びかける。
 紗理奈がもう一度目を開く。ぼんやりとした様子で周りを見回し、俺を見つけると、呼吸器の中でうっすらと笑みを浮かべた。
「あ、すかくん、だ」
「うん。おかえり、紗理奈」
「……ただいま」
 長いところ眠っていたんだよ、と教えてあげると、こわい夢を見ていたの、とかすれた声で呟く。
「どんな夢?」
「私が、世界からいなくなっちゃう夢」
「…………こわいね。耐えられない」
「うん。飛鳥くん泣いちゃうよね。だから、絶対に帰ってこなきゃって強く思ってたの」
 そうしたら帰ってこられた、と微笑む紗理奈に、泣いてしまいそうになる。
「大丈夫、夢だよ」
「うん……」
「目覚ましに、いいもの見せてあげようか」
 紗理奈の左手を持ち上げて、顔の前にかざす。その薬指には、ピンクゴールドの指輪が光っていた。
「ゆびわ……?」
「うん。婚約指輪」
「……っ、いいの、? だって私、たぶん、死んじゃうんだよ……」
 やはり気がついていたのか、と思う。
 自分の体調の急激な変化に、違和感を覚えないはずがない。
 泣き腫らした自分の母の顔を見て、何かを思わないわけがない。
 だから紗理奈はあんな手紙を書いたのだ。未来の俺へ、私は幸せだったよ、だから忘れても大丈夫だよ、という願いを込めて。
 紗理奈の頰にぽつりと流れた涙を、指先で拭ってやる。
 それから俺は涙を堪えて笑ってみせた。
「大丈夫。紗理奈は世界一幸せな花嫁になる。それで家族作って、老後もまったり二人で過ごして、俺が先に死ぬ。紗理奈は俺を置いていかない。だろ?」
「…………っごめんね、ごめんなさいっ」
「結婚しよう、紗理奈」
 謝る紗理奈の頭を撫でて、もう一度プロポーズの言葉を口にする。少しキザに、指輪に口づけを落として。
「……でもっ」
「大丈夫。紗理奈は一人じゃないよ」
 ぼろぼろとこぼれる涙は、もう拭いきれなかった。俺もついに堪えきれず、涙が溢れ出す。
 大丈夫だよ、と繰り返す俺の声と、紗理奈の嗚咽だけが、個室に響いていた。

 紗理奈が亡くなったのは、二ヶ月後のことだった。
 半月しかもたない、と言われていた中での二ヶ月の闘病生活。どれほど苦しかったか分からない。
 でも紗理奈は、最後まで笑顔だった。最後まで笑顔で、薬指に指輪をはめたまま、二人で手を繋ぎ、最期を看取った。
「紗理奈は幸せでした。飛鳥くんのおかげです、どうもありがとう」
 泣きながらそう口にする紗理奈の両親に、俺は首を横に振る。
「幸せにしてもらったのは俺の方です。紗理奈は俺のヒーローで、たった一人の花嫁ですから」
 いつか、乗り越えられる日が来るのだろうか。この苦しさも、切なさも。
 それでもきっと、紗理奈がくれた幸せだけは、この胸にいつまでと残るだろう。
 未来の飛鳥くんへ。
 そう書かれた封筒を優しく抱きしめて、俺は静かに涙をこぼすのだった。