私、鈴原音織は片耳難聴者だ。
聴力が乏しく、音の方向感覚が掴めないため、人とコミュニケーションを取ることさえ難しい。
教室などの騒がしい場所は特に聞き取りにくく、何度も聞き返してしまったり、聞こえたフリをしてしまう。
最初は優しく接してくれた人もだんだんと私に呆れ、離れていってしまう事が幼少期からの悩みだ。
何度も吐き捨てられてきた「もういいよ」の言葉。私に向けられたあの蔑むような目を忘れることはできないだろう。
ああ、もう息苦しいな。
私が片耳難聴者じゃなかったら………なんて何度願ったことか。
くだらない妄想に浸って、浅い夢を見ていた。
キーンコーンカーンコーン………
4限の終わりを知らせるチャイムが鳴る。
心地良い春風に誘われ、うたた寝をしていたようだ。
クラスメイト達は友達と席をくっつけてお弁当を食べていた。
高校に入学して二週間。私は孤独を貫いてきた。
人と関わらなければ、傷つくことも傷つけられることもないと思ったからだ。
何の刺激もない透明な日々。
それは面白いくらいにつまらないものだった。
名前も覚えていないクラスメイト達はいつ見ても楽しそうに笑っていて、キラキラして見えた。
ここに私の居場所はない。
いたたまれなくなって、私は小さなお弁当をぎゅっと抱きしめ、教室を後にした。
行くあてなんてないけど、溢れ出しそうになる感情を紛らわすように、ひたすら歩き続けた。
認めたくない。
絶対認めたくない。
ずっと気づかないフリをしていたかった。
"淋しい"なんて。
私の心の声を聴いてくれる人なんてどこにもいないのに。
堪えていた涙が一粒、零れ落ちたのにも気づきたくなかった。
私の居場所を探し始めて、どれくらいの時間が経っただろうか。
屋上に、音楽室に、空き教室、随分と広い校内を見て回ったが、どこも固く鍵がかかっていて、入ることができなかった。
疲れ果て、私はその場に座り込む。
溜め息をつく元気もない私の変わりにお腹が悲鳴を上げ始める。
最初から探す意味なんてなかったのかもしれない。私の居場所なんてどこにも………
ヒュー……ヒュー……
暖かい春風が私の長い髪をふわっとなびかせる。
特に理由もなく風が吹く方向に目を向けると、そこには美術室があった。
美術室のドアはほんの少しだけ開いていて、そこから白い光が差し込んでいた。
私にとってそれは希望の光に見えた。
気のせいなんかじゃない。
聴力は乏しいけど、視力には自信がある。
私は導かれるように美術室の前に立ち、ゆっくりとドアを開けた。
カラカラカラ………
静寂に包まれた美術室にドアを開ける音が響く。
ドアを開けた先には、大きなスケッチブックに何かを描いている少年の姿があった。
彼はドアを開ける音に気づき、必然的に私と目が合う。
くっきりとした二重幅に色素の薄い茶色の瞳が綺麗で思わず見とれてしまった。
が、すぐに目を逸らされてしまった。
「あ…失礼しました…」
気まずい空気から逃げるようにドアを閉めた。
もう諦めて教室に戻ろうと歩き出したが、すぐに立ち止まる。
あれ…私…どこを通ってここまで来たんだっけ…?
高校生にもなって迷子か…。
自分でも自分に呆れてきている。
まだ校内を把握してないのに、ウロウロしてたせいだ。
また探し回れば、いつかは教室に辿り着くだろう。でも、そんなことをしていたら昼休みが終わってしまう。
お腹がさっきよりも大きな悲鳴を上げた。
私は深呼吸をし、もう一度美術室の前に立った。
今、頼れる人は彼しかいない。
ゆっくりとドアを開け、勇気を振り絞って彼に声をかけた。
「あ、あの、すみません。一年生の教室ってどこにあるか分かりますか?まだお弁当食べれてなくて………」
私がそう言うと、彼と一瞬だけ目があった気がしたが、返事が返ってくることはなかった。
俯いたまま、どこか一点を見つめている。
「あの………えっと………」
これ以上どう接して良いのか分からず、しどろもどろになっていると、彼は返事をする代わりに、隣の机をトントンと叩き、椅子を引いた。
え………もしかして………
「ここで食べてもいいんですか………?」
恐る恐る私が聞くと、彼は小さく頷いた。
「あ、ありがとう…!」
最初は冷たい人だと思ったけど、人見知りなだけで結構優しい人なのかもしれない。
私は彼の隣の席に座り、お弁当を食べ始めた。
彼は隣で黙々と何かを描いている。
一体、何を描いているんだろう。
チラッと彼の方に視線を向けると、そこには風景画や静物画などの様々な絵が描かれてあった。
「絵っ!うまっ!」
つい声が出てしまった。
でも描かれているものは全て写真のようにリアルで綺麗だった。
私の声に驚いた彼は反射的に反応し、私のお弁当を見ている。
「いや、お弁当じゃなくて、絵が上手だなって!」
私は恥ずかしくなってつい早口になる。
さっきまで無表情だった彼は、言葉の意味を理解したのか、はにかむような表情を見せた。
不器用に結ばれたネクタイとピカピカの上靴から、同じ一年生だと予想する。
「多分…一年生だよね?私、一年二組の鈴原音織って言います。君は?」
彼は人差し指を立てた。
「一年一組?」
彼は頷く。
「名前何て言うの?」
私がそう聞くと、彼は固まってしまった。そんなにまずいことは聞いてないと思うけど…。
「喉、痛めてるの?」
私の言葉に反応しない。
ずっと俯いたまま、黙っている。
彼は心苦しそうな表情を浮かべていた。
何か様子がおかしい。
自分の中にある強い"何か"と闘っているように見えた。
既視感のある表情だった。
それはまるで自分を映し出す鏡のようで、感じ取れるものがあった。
きっと彼も目には見えない何かを抱えている。
そう思った私は、彼を見守り続けた。
しばらくすると、彼は胸ポケットからメモ帳を取り出し、何やら書き始めた。
書き終わったのか、彼はメモ帳を私に差し出した。そこには震えた文字が並べられていた。
『僕は 場面緘黙症で話すことができません』
「場面………げんもく症?」
彼は首を横に振り、今度はひらがなで
『ばめんかんもくしょう』と書いた。
場面緘黙症。私にはそれがどう言ったものなのか分からなかった。
「話せないってどうして?」
彼は首を傾げた。
彼にも明確な理由は分からないのかもしれない。
「ごめんね。私、何も知らなくて…」
彼は首を横に振り、
『遙己 はるき』と書いた。
「君の名前………?」
彼は頷き、私にペンを差し出した。
私は遙己くんの意図を察して、
『音織 いおり』と書いた。
「音を織るって書いて、いおりって読むの。結構、気に入ってるんだ。」
私が生まれつき片耳難聴を抱えていると知った両親が、たくさんの音を織り成して生きていけるようにとつけてくれたものだ。
私がそう説明すると、遙己くんはゆっくりと二回頷き、また何か書き始めた。
今度は何を書いているんだろう。
私が覗き込むとそこには
『音織 すてきな名前だね』
と書かれてあった。
「ありがと………」
私は咄嗟に顔を両手で隠した。
にやけてたのバレてないかな。
文字だから言葉の意味が真っすぐに伝わってきてなんだか恥ずかしい。
心の奥をくすぐられているようなそんな感覚だった。
遙己くんは決して喋ることはなかったけど、頷いたり、首を横に振ったりして意思を示してくれた。
それは片耳難聴者の私にとって心地の良いものだった。
新しいコミュニケーションの形を見つけた気がして、嬉しかった。
初めて、人に歩み寄って良かったと思えた。
静寂に包まれた美術室で二人の会話が弾んだ。
翌日の昼休み、私は今日も美術室に行くことにした。
昨日確認したところ、美術室は渡り廊下を渡った先にある別館の4階にあることが分かった。
間違いなく、一年生の教室から一番遠い場所だ。
もう一つ、昨日確認したことがある。
それは場面緘黙症について。
場面緘黙症とは、家では普通に話せるのに、学校などの特定の場面で話せなくなってしまう症状の事を言うらしい。殆どが幼少期に発症し、治ることが難しいとされている。心の病気だ。
私のような人見知りとは違う。
声を出したくても出せないのだ。
遙己くんに会うまで場面緘黙症というものを知らなかった。
実際のところ、大人でも知らない人が多いのが事実だ。
そのため、場面緘黙症は性格によるものだと判断され、見過ごされることが多いらしい。
遙己くんは『たすけて』のたった4文字を伝えることができないから、ずっと一人で抱え込んでいたのかな………。
そう思ったら、居ても立っても居られなかった。
そんな事を考えているうちに、あっという間に美術室に辿り着いた。
今日も美術室のドアは少しだけ開いていた。
昨日より、少し開いているように見えた。
ねぇ、遙己くん。
本当はずっと誰かに見つけてほしかったんじゃないの?
もし、そうなら私が何度でも見つけてあげるよ。
終わらないかくれんぼなんてないんだから。
遙己くんは私に『もういいよ』なんて言わないだろうけど。
ドアを開けた先に、遙己くんはいた。
昨日と変わらず絵を描いている。
「こ、こんにちは」
私の声に気づいた遙己くんは小さく会釈をした。
「今日はどうしても聞きたい事があって……えっと……その………隣いい?」
遙己くんは返事をする代わりに、隣の椅子を引いてくれた。
私はその椅子にちょこんと座る。
「遙己くんさ、どうして昨日私をここに入れてくれたの?初対面だし、嫌だったでしょ?」
遙己くんはペンを握り、迷うことなく書き始めた。
『涙目だったから』
「えっ!?」
『なんか悲しいことあったのかなって 思った』
泣いてたのバレてたんだ。恥ずかしい…。
『音織こそ 僕が黙りこんでたとき 何で待っててくれたの?』
今度は遙己くんから質問された。
『大抵の人は呆れてどっか行くのに』
「それは……遙己くんが私に似てると思ったから」
遙己くんは首を傾げた。
遙己くんになら言ってもいいかな。
だって、初めて歩み寄って良かったと思えた人なんだから。
「私ね、片耳難聴者で生まれつき左耳が聞こえないの。」
遙己くんの瞳孔が大きく開く。
「難聴は見た目じゃ分かんないから、その分周りから理解されなくて…傷つくのが怖くて、孤独を選んだのに…淋しくて…辛くて…逃げてきたの」
震えた声でそう伝えると、遙己くんはゆっくりとペンを握り、手を動かし始めた。
『僕もだよ』
『僕も周りから理解されない』
『普通じゃないって何回も言われてきた』
『声を出したくても出せないんだ みんなは分かってくれない』
『一人でいることはもう慣れたけど ありがとう と ごめんなさいが伝えられないことが辛い』
『心では強く想っていても 言葉にしないと伝わらないんだ』
その文字は私の声と同じように震えていた。
やっぱり、私と遙己くんはどこか似ているのかもしれない。
私達は見た目は普通の高校生だ。
誰からも疑われることはない。
でも、みんなとは少し違った色を抱えている。
そのせいで、周りに馴染むことが出来ずに浮いてしまうのだ。
受け入れてほしい。
理解してほしい。
そう思っているのに、自分が傷つくことが怖くて孤独を選んでしまうのだ。
「ねぇ、遙己くん。普通って何だろうね」
遙己くんはゆっくりと首を傾げた。
私にも正解は分からなかった。
でも、私達はずっと"普通"になりたいと願っているんだ。
「もし、嫌じゃなければなんだけど…明日もここに来てもいい?」
遙己くんは頷き、あどけない表情を見せた。
遙己くんはもう一度ペンを握り、文字を書き始めた。そこには丁寧な文字で
『音織 僕を見つけてくれてありがとう』
と書かれてあった。
その言葉は私の心に温かく響いた。
それからの日々はあっという間に過ぎていった。
昼休みは毎日、美術室で過ごすようになった。
昼休みの四十分間、お弁当を食べながら遙己くんと他愛もない話をする。
穏やかで温かいこの時間が好きだった。
透明な日々が色鮮やかに彩られていくみたいだった。
「遙己くんは兄弟っているの?」
『妹が一人いる』
「そうなんだ。私、一人っ子だから羨ましいなぁ」
遙己くんは怪訝そうな表情で首を横に振る。
「え、どうして?」
遙己くんは『妹』の文字の下に『うるさい』と書き足した。
「そうなの!?全然想像できないんだけど………」
『ラクガキされる』
遙己くんはスケッチブックを三ページほどめくり、私に見せた。
そこにはクマやウサギなどが描かれてあった。
妹さん、まだ幼いのかな。
鉛筆で描かれているみたいだけど、消してないのは遙己くんの優しさだったりして。
「ふふっ」
私はほっこりして笑みがこぼれた。
遙己くんは私が微笑んでいる理由があまり分かっていないようで、首を傾げていた。
遙己くんは優しくて良いお兄ちゃんなんだろうな。毎日、新しい発見があって楽しい。
次の日も次の日も、私は遙己くんと過ごした。
「私も絵を描いてみたんだけど、どう?」
私はノートに描いた絵を見せた。遙己くんは優しい眼差しで、
『かわいいクマだね』
と書いた。
「犬のつもりで描いたんだけど…」
私の言葉を聞くなり、信じられないほど驚いた表情をして、もう一度私の絵を見た。
「ふっ」
「ちょっと!笑わないでよ!」
……って、え?今、遙己くんが笑った…?
堪えきれなくなったのか、つい吹き出したような感じだったけど、何気に初めて笑ったところを見た気がする。
最近はいろんな遙己くんの表情が見れるようになって嬉しい。
少しは心を開いてくれてるって思ってもいいのかな。
最初は隣に座って話せるだけで嬉しかったのに、今はもっと遙己くんを知りたいって思う欲張りな自分がいる。
誰にも言えない我儘を言おうとしたけど、やっぱりやめた。
こんな事を言ったら遙己くんを困らせてしまうと分かっていたから。
遙己くんの声が聴きたい………なんて。
今日は遙己くんが色を塗る作業に入っていた。どうやら水彩を使った風景画を描いているようだ。
パレットにはたくさんの色がのせられていて、微妙に形の違う筆を何本も使っていた。
僅かな水の量を調節し、色を重ね、絶妙な空気間を表現していた。
しなやかな手つきで泳ぐように描いているけど、指先には魂を力強く込めているような、そんな感じがした。
「この色、綺麗………」
私は淡い紅色を指差した。
『ゆるし色って言うんだよ』
「ゆるし色?そんな色初めて聞いたよ。」
『聴色って書くんだ 音織にぴったりだね』
「聴色………」
確かに、"聞く"よりかは"聴く"人でありたい。
「この景色…どこかで見た気がする」
『僕の通学路なんだ 屋上からでも見えるよ』
「そうなんだ…って、えぇ!?屋上行ったことあるの!?でも、屋上って鍵かかってるはずだよね?」
遙己くんはニヤリと悪い表情をして唇に人差し指を当てた。
「そりゃ、バレなきゃセーフかもしれないけど…」
『見に行く?』
急な誘いにに私の心が跳ねた。
「行きたい!」
キーンコーンカーンコーン………
タイミング悪く昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴る。
私がガックシと肩を落とすと、遙己くんはなだめるように
『今日 放課後 屋上で待ってるよ』
と書いてくれた。
ドクドクと胸が高鳴る。
自分の中で初めての感情が芽生えているのを感じていた。
透明な心が初々しい聴色に染められたみたいだった。
放課後、私は約束通り屋上に向かった。
前に来たときは固く閉じられていた扉は少しだけ開いていた。
扉を開けると、遙己くんの背中が見えた。
「遙己くん!」
私が名前を呼ぶと、遙己くんは振り返って、『おいで』と手を招いている。
私は遙己くんの元まで駆け寄った。
遙己くんは遠くの景色を指差している。
そこには絵に描いたような景色が広がっていた。
「わぁ…綺麗!」
朝は清々しく澄みきっていた空が今は夕日を纏っている。
空模様が違うだけでまるで別の場所のように映えていた。
私は隣に立つ遙己くんを見上げる。
今までずっと座ってたから気づかなかったけど、遙己くんって結構背が高いんだな。
遙己くんは今、何を考えているんだろう。
私の視線に気づき、遙己くんは私に優しい眼差しを向けた。
その瞬間、心臓がドクンと大きく波打つ。
ねぇ、遙己くんは気づいてる?
透明だった私の日々を色付けてくれたこと。
学校生活において自然と息苦しさを感じなくなっていったこと。
私の中で遙己くんの存在が大きくなっていったこと。
『心では強く想っていても 言葉にしないと伝わらないんだ』
かつての遙己くんの言葉が脳裏によぎる。
この想いを伝えるには少し心臓がうるさいけれど。
遙己くんならきっと受け止めてくれるよね。
「遙己くん………あのね………」
キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
「うぅ…」
突然、耳をつんざくような痛みに襲われた。
何これ…耳鳴り…?
痛い。痛い。痛い。
堪えきれなくなって、私はその場に座り込んだ。
どのくらいの時間が経ったのか分からないが、痛みは嘘みたいに消え去った。ただ、ほんの少しだけ右耳の聞えが悪い。
遙己くんが私の肩をトントンと軽く叩く。
私は、遙己くんが寄り添うように身体を支えてくれていることに気がついた。
遙己くんのとても不安げな表情をしている。
「大丈夫だよ。ちょっと耳鳴りがね…」
私がそう伝えても表情を変えなかったのは、きっと私も同じ表情をしていたからなのだろう。
こんなに激しい耳鳴りなんて今まで経験したことがなかった。
どうして今になって…。
数々の不安が私を襲う。
私は首を横に振り、考えるのをやめた。
「遙己くんはさ……あの景色が見える近くに住んでるの?」
遙己くんは私の急な質問に動揺しているようだったけど、小さく頷いた。
「途中まで一緒に帰ろうよ。この夕日が沈む前にさ。」
私の心まで暗くなる前に。
遙己くんは何か言いたげだったけど、全て飲み込むようにコクリと頷いた。
その後、私は何事もなかったように明るく振る舞った。
せっかく放課後も遙己くんと過ごせるのに、暗い気持ちでいるなんて勿体ないよね。
いつも通る道に履き慣れた靴、見慣れた景色なはずなのに、遙己くんが隣に居るだけで初めて通る道を歩いているようで心が落ち着かなかった。
少しでも遙己くんと一緒にいたくて遠回りしたのは私だけの秘密。
その日の夜、私は激しい耳鳴りと同時にめまいに襲われ、急遽病院に搬送された。
どうやら、不安は的中していたみたいだ。
診断の結果、"突発性難聴"と判断された。
突発性難聴とは、前触れもなく突然に片耳の聞えが悪くなる病気で私のように十代で発症するのは極めて稀らしい。
突発性難聴が完治する可能性は三人に一人の割合だと医者に淡々とした口調で説明された。
私は頭が真っ白になった。
唯一聞こえた右耳まで聞こえなくなるかもしれないってこと…?
まだ、遙己くんの声を聴けてないのに…。
そんなの…嫌だ。嫌だ。嫌だ。
私はぎゅっと拳を握った。
早い段階で適切な治療を受けることが大切だと言われ、私は一週間入院することになった。
無力な私は祈ることしかできなかった。
それからの一週間は透明な日々だった。
まるで少し前の私に戻ったみたいだった。
透明な感情が私の心を覆っていく。
でも、色褪せない感情が一つだけあった。
それは、遙己くんが教えてくれた聴色の感情。
"遙己くんに会いたい"って、心が叫んでいたんだ。
今日は一週間ぶりの学校だ。
一応、退院はしたが、とても治ったとは言えない。まだ、右耳が少し音がこもったように聞こえる。
また何かあったらすぐに病院に来るようにと医者に強く言われた。
昼休みまで我慢できなかった私は朝、一年一組の教室に入った。
どうしても遙己くんに会いたかった。
遙己くんは窓側の一番後ろの机に突っ伏していた。
私は遙己くんの元まで駆け寄った。一週間ぶりに話しかけるのは何故か背中に緊張感が走った。
「遙己くん」
私が名前を呼ぶと、遙己くんは素早く反応し、勢いよく顔を上げた。とても驚いた表情をしている。
「久しぶりだね。ちょっと話したいことがあるんだけどいい?」
遙己くんは頷いてくれたけど、動揺を隠せていなかった。美術室まで行く時間はないため、私と遙己くんはベランダに移動した。
「急に学校来なくなっちゃってごめんね。私、突発性難聴になっちゃって、一週間入院してたの」
遙己くんは目を見開き、静かに驚いている。久しぶりに遙己くんと話せた喜びと自分が抱える不安と焦りが交錯し、平静を保てなくなる。
「あのね…。こんな事言っても、遙己くんを困らせるだけなのは分かってるんだけど…」
「私、遙己くんの声が聴きたい」
音のない世界に閉じ込められてしまう前に。
私の言葉を聞くなり、遙己くんは険しい表情で固まってしまった。
今までに見たことないほど苦しそうな表情だった。そんな表情させたかったわけじゃない。
遙己くんは少しだけ口を開けたが、声を出すことはなかった。
もしかしたら、私が聞こえてないだけなのかもしれない。
そう思った瞬間、涙が溢れ出しそうになった。
「ごめんなさい………」
私はその場から逃げるように駆け出し、誰にも見つからない場所で独り、泣いた。
その日の昼休みは美術室に行かなかった。遙己くんは今日も美術室にいるかもしれないけど。
遙己くんと合わせる顔がない。
自分からお願いしたくせに、途中で逃げ出すなんて。
さすがに遙己くんでも私に呆れてしまっただろう。
教室で一人で過ごす昼休みは夏休みのように長くて、ご飯は味がしなかった。
放課後、帰る気になれず、教室で日が暮れるのを待っていた。
今帰ったら、あの日二人で歩いた道の事を思い出してきっと泣いてしまうだろう。
だか、六月の夕日はなかなか沈んでくれない。
仕方なく鞄に荷物を詰めていると、ガコンと何かが引っ掛かる音がした。
引き出しの中を覗き込むとそこには遙己くんがいつも使っていたメモ帳が入っていた。
どうしてここに………!?
私はメモ帳を手に取り、ゆっくりと最初のページをめくった。
『僕は場面緘黙症で話すことができません』
そうだ。
これが遙己くんの第一声だった。
私は次のページをめくる。
『声を出したくても出せない みんなは分かってくれない』
『音織 僕を見つけてくれてありがとう』
どのページにも遙己くんの文字がびっしりと並べられていた。
どうして気づいてあげられなかったんだろう。遙己くんはずっと声を描いてくれていたのに。
私は……。
自分が言ってしまったことをひどく後悔した。
教室の窓の隙間から夏の香りを含んだ風が吹き、悪戯にページをめくる。
開かれたのは最後のページだ。
『今日 放課後 屋上で待ってるよ』
これが最後の遙己くんの声になるなんて、この時は思ってもみなかった。
涙で視界が歪む。
ヒュー………ヒュー………
風は私の涙を乾かすように奪っていった。
よく見ると、最後のページの裏には何かを書いたような後があることに気づいた。
私はゆっくりとページをめくった。
そこに描かれた声を見た瞬間、私は鞄も持たずに走り出した。そこには
『もう一度 音織に会いたい』
と描かれてあった。
私も遙己くんに会いたい。
会って、もう一度ちゃんと謝りたい。
私が向かう先は、屋上だ。
放課後の美術室は美術部が使っているはずだから、遙己くんはいないだろう。
以前、部活は入っていないと言っていたし、絵はただの趣味で独学で得た画力と聞いて、とても驚いたのを覚えている。
もしかしたら、もう帰っているかもしれないけど…。
遙己くんはきっと………。
私は淡い期待を抱いた。
全力で走っているつもりなのだけれど、病み上がりの身体は重く、気持ちに身体が追いつかない。
階段を駆け上がる体力が私には残ってないけど、一歩一歩、踏みしめて行った。
ここで諦めたら、一生後悔する気がする。
残り十数段というところで、屋上の扉が見えた。
屋上の扉は少しだけ開いていて茜色の光が差し込んでいた。
きっとそこに遙己くんはいる。
淡い期待は確信に変わった。
キーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン
「うぅ………」
まただ。いつも肝心な時に限って………。
激しい耳鳴りとめまいが私を襲う。
どうして今なの………あともう少しなのに………。
「遙己くん………」
「音織」
水平線に雫がポツンと零れ落ちたみたいに、その音は私の中で微かに響いた。
私を呼んでる………?
「音織」
気のせいじゃない。
少し低くて、優しい声が聴こえる。
聴こえるのに………。
どこから聴こえているのかが分からない。
私は拳をぎゅっと握り締めた。
聴き馴染みのない声だけどこの声はきっと、きっと……
「遙己くん!」
根性で一歩踏み出したその瞬間、バランスを崩し、視界がグラッと傾いた。
目の前に広がるのは真っ暗な天井。
私は全てを悟り、目を閉じた。
ドンッと鈍い音が響く。
待ち受けていたのは冷たい床と言葉にならない痛み……だと思っていた。
私は優しい温もりに包まれた。
ゆっくりと目を開けるとそこには遙己くんがいた。華奢な手からは想像できないほど強い力で私を抱えていた。
「今の声って………」
遙己くんは息を切らしている。
もしかしてずっと私を探してくれていたのかな。
遙己くんは私を真っすぐに見つめた。
「音織、見つけた。」
これは間違いなく遙己くんの声だ。
「遙己くん………ごめんね。声、聴きたいとか…我儘言ってごめんなさい。」
私は泣きながら謝った。遙己くんは私をゆっくりと階段に座らせた。
「僕も………ごめん」
「え………?」
「音織の…前なら………声…出せると…思った………でも…声を…出さないとって………思えば………思うほど………出なくて………喉が…締めつけられた…みたいに痛くて…結局……出なくて………音織を………傷つけた」
風に掻き消されそうなほどか細い声だけど、声を振り絞って出している様子がひしひしと伝わる。
「でも………もう………音織を………傷つけたくない………こんな………自分を………………………変えたい!」
真っすぐな遙己くんの真っすぐな言葉。遙己くんの想いを声で感じた。私は涙が溢れて止まらなかった。
「遙己くん、一緒に変わろう。みんなに認めてもらえるように。」
「うん」
遙己くんは大きく頷いた。
弱かった自分とお別れしよう。
自分が変わらなければ、何も変わらないから。
「あ」
遙己くんは何かを思い出したように階段を上り始めた。
「どうしたの?」
私は遙己くんの背中を追いかける。
屋上の扉を開けた先には、遙己くんの鞄が置いてあった。
「さっきまで…ここに居たんだけど…落ち着かなくて…音織を探しに言ってた…」
「そうだったんだ。ずっとすれ違ってたのかな。」
「多分…」
遙己くんは鞄からスケッチブックを取り出した。
「絵、完成したの?」
「いや………まだ、未完成だけど…」
あの日、二人で見た景色は美しく彩られていた。
でも、真ん中には通学路を歩く透明な少年少女が描かれていた。
前までは描かれてなかったはずだ。
新しく描き足したのだろうか。
「これって……」
「これは………僕と音織だよ。周りと比べたら………異色で浮いてるけど………これから………馴染めるように色付けていくつもり………だから………また………明日から………昼休み………一緒に居てくれる………?」
「もちろん!」
私は泣き晴らした顔でとびっきりの笑顔を見せた。遙己くんも笑った。
「音織、好き」
「えっ!?」
「だから…その…音織が………好き」
「うぇあっ、きっ、聞こえてます!」
急な告白に驚きを隠せない上に、二回も言わせてしまった。
「もし、音織の耳が聞こえなくなったとしても僕が………僕が声を描くから!」
遙己くんはまっすぐに私を見つめる。
先に目を逸らしたのは私だった。
「なんか………プロポーズみたいだね」
もし、この世界から音が消えたとしても遙己くんが隣に居てくれるなら、もう何も怖くないや。
「遙己くん」
声を描く君へ。伝えたいことがあります。
「大好き」
私がそう伝えると遙己くんは今までに見たことのない表情をした。
遙己くんは持っていたスケッチブックで必死に顔を隠していた。
私は悪戯っぽく遙己くんの顔を覗き込んだ。
遙己くんの顔色がいつもと違ったのは、遥か遠くから私達を照らす夕日のせいにしてあげる。