煙草を潰し、ベランダの窓を閉める。7.5畳の部屋の片隅に追いやられたギターケースを背負い、俺は外に出た。焦がれたとてどうしようもない、どうにもできない感情を消化する方法が他に見当たらなかった。



深夜1時。向かった先は、近所の廃れた公園だった。ギターの音はそう大きく響かない。ベンチに座って足を組み、控えめにギターを鳴らした。歪んだ音が夜に溶けていく。頭に浮かんだリズムはオリジナルでも何でもない、最近バイト先のラジオでよく流れている失恋ソングだ。歌詞すらうろ覚えの曲なのに、メロディーばかりが記憶に居る。悔しいけれど、音楽で稼ぐってこういうことなんだよなと成功例のリズムを奏でながら思う。



「ねえ月音。私たち別れた方がいい気がする」


俺がなごみに振られた理由を本人から聞くことはもうできないが、大方予想はついていた。別れを切り出されたのは俺に将来性がなかったからだ。絶対にそうだと言い切れる。

会社を辞めてから、「月音にはまだ武器がある」とギターを握らせた。しかしながらそれもまた上手く再起できずじまいだった。呆れられたのだと思う。俺は男だ。好きな人を養うだけの収入を得なくてはならない。何もかもが中途半端。だから振られた。分かりきったことを振り返るのは辛い。自分のダメなところばかりが浮き出てしまうから。



どうやり直せばまだ輝ける? どう生きるのが正解だ? わからない、わかりたくない。考えるのはやめにしよう。なごみ以上に誰かを好きになる日が来るとは思えない。


死ぬまでにあと何回、君を焦がれて、他人の曲でギターを鳴らしてしまうのか。涙ひとつ流せない俺が、君を焦がれていいはずもないのに。



「こりゃまたあんた、女々しい曲弾くんだねー」



声がした。手を止め、声に釣られるように顔を上げる。

視界に映り込んだスーツの女。右手に缶ビール、左手には缶ビールが何本も入ったコンビニの袋を持っていた。


誰だ、この酔っ払いは。

目を瞬かせる俺を余所に、女は「この曲あたしキライだわー」と言って笑い飛ばした。ベンチの横にしゃがみ込み缶ビールを飲み干すと、女は流れるように2本目の缶を開けた。プシュ、と空気が抜ける音が響く。


「ん? 続き弾かないの?」



可笑しな女に出会った。「もしかしてあたしの今の発言気にしてる?」そう問われ、俺は言葉が出なかった。俺が作った曲ではないが、奏でたメロディーは女々しいと言われ、二言目には嫌悪を示された。

この女は一体なんだ? 訳も分からず「すみません」と謝る。まずは謝れ、言い訳はそれからだ。ブラック企業に勤めていた頃、上司は俺にそう言った。嫌な癖はなかなか抜けないものだ。



「すみませんって何がぁ」
「はい、あの、すみません」
「なぁにあんた。謝ることしかできねーのかよぉ、なっさけない男」


缶の蓋をぐりぐりと捩じりながら女は言う。下手にこれ以上絡まれても困るので、俺はいそいそとギターをケースにしまった。

情けなくてもなんでもいい。実際俺には自分が情けない男である自覚があった。かつての恋人が死に、焦がれ、辞めたはずの音楽に縋るような人間だ。情けなくない、わけがない。



「……すみません」



なごみはこんな俺のどこを好きでいてくれたのだろうか。いちばん輝いていた高校時代と比べると、俺の価値というものは年々廃れていったように思う。俺の武器は音楽じゃなかった。違ったんだ、なごみの理想とは。後悔が止まらない。希ったってもうなごみに会うことはできないのに、俺はいつだって君に安心感を求めてしまう。


変わらない、変われない。
もうずっと、まともに元気だった日が無いのだ。


「あんた、あたしの好きな人に似てんねぇ」



唐突に言われたそれに、ギターを片付ける手を止め俺は顔を上げる。聞き返せば、「顔は全然違うけどね!」と反応に困る補足をされる。



「あたしの好きな人もね、音楽やってるんだー」
「はあ」
「あたしは音楽とか楽器とか全然詳しくなくてさ、有名な曲くらいしか知らないんだけど。上手いとか下手とかもほんとなーんにもわかんないんだけど。でもなんか、応援したくなっちゃうんだよねぇ」



「こりゃただの愛かね?」そう言って女は笑った。好きな人に対して抱いている愛おしさと同時に、どこか切なさを纏う笑顔だった。

胸が苦しい。なごみも誰かに俺のことを話すときこんな表情をしていたのではないか、なんて、そんなことばかり考えてしまうせいだ。


愛かな、愛だよ。そうであってほしい。
そんな虚しい期待を込めて。


「あんた、名前は?」
「あ…世良です。世良月音」
「へえぇ。すっごいキレーな名前だ」
「どうも…」
「世良くん。少しだけ、あたしの話付き合ってよ」



酔っ払い女は椹野郁未(ふしのいくみ)と名乗った。

この公園の最寄りから二駅のところにあるオフィスで働いているらしい。好きな人は彼女と同い年で、高校時代からの付き合いだと言った。

同棲するメリットとデメリットとか、キッチンは広い方が良いとか、ベッドはダブルにすると喧嘩した時にしんどいからシングルをふたつ買った方が良いとか、好きな人のダメなところとか、直してほしいところとか、つい見入ってしまう瞬間とか。


アルコールが回っているせいか、彼女は俺がひとつも聞いていないことをとても懐かしそうに話すのだった。本当に恋人のことが好きなのだと分かるには十分すぎるくらいだ。



「あーあ。全部、ホントに好きだったのになぁ……」



ビールを飲み干す流れで空を仰いだ彼女の言葉が引っかかる。好き"だった"。過去形が使われたのは、きっと言葉の綾ではない。俺の思考をくみ取ったかのようなタイミングで彼女2本目のビールを開けた。


「別れたんだ。ついさっき」
「…え」
「今時愛だけで生きていきたいってさ、ただのワガママなのかもなぁ」



愛だけで生きていたい。ワガママだと分かっていても、俺はもうずっとそんなことばかり願っている。



「つってもまあ、ありがちな話なんだけどさ。結婚できないし子供も生まれないから、あたしが可哀想なんだと。それって、あたしからしたら全然大きな問題じゃなかったんだよなぁ。あたしの人生に必要な人だったから一緒にいたのに、今更あたしにこれ以上迷惑かけらんないとか言ってさぁ……こんなにたくさん一緒に生きてきてまだそんなこと言われるんだーって。悲しくなった」



椹野郁未の恋人は同性の、高校の同級生だそうだ。「あれ、引かないんだ?」と言われ、その感覚はなかったなと思った。愛には種類があるし、それが異性だろうと同性だろうと重要な問題ではない気がするのだ。

当たり前と呼ばれるべきことを「優しいね」と笑う彼女が過去にどのくらい偏見の目を向けられていたのか、考えると苦しくなる。




「こっちは支えるし支えられる気で生きてたんだ。気持ち悪いって言う奴全員殺してやるくらいの気持ちで居てくれた方が、あたしは嬉しかった」

「…そう、っすねぇ」

「でもさぁ、人には人の数だけ考え方があるってのもちゃんとわかってるから。皆が皆強気で生きてられるわけじゃないんだよね。あたしにとってどうってことないことも、相手にとっては重大なことだったのかもしんないし。分かり合えないって辛い。でも、分かり合えないから何度でも話をするべきだったんだよね」




彼女の話は他人事には思えなかった。かける言葉が見つからず、俺は空を仰ぐ。星が綺麗で、それが少し、ムカついた。



椹野さんは立ち上がると、ビニール袋から缶ビールを一本取り出し、「一本あげるわ」と俺にそれを押し付けた。半ば強制的に握らされたビールを片手にお礼を言うと、「未成年だったらテキトーに処分してね」と補足された。




「世良くんも、なに抱えてるのかわかんないけどさ。手遅れになる前にちゃんと話をした方がいいよ」




彼女は最後にそう言うと、覚束ない足取りで公園を出て行った。



『ねえ月音。私たち、別れた方がいい気がする』




──なごみはあの時、どんな気持ちを抱えていたんだろう。




公園でひとり、俺は夜に問いかける。


なごみと俺は確かに好き同士だった。自信を持って言えるのは、なごみの仕草や声色、表情が、俺への愛を紡いでいたから。

分かっていた。伝わっていたんだ、ちゃんと。



なごみが別れを切り出したのが、俺のことを思ってのことだとしたら? 手遅れになる前に、どうして俺たちは話をしなかったのか。




『月音の音楽、私は大好きだなぁ。どうしてみんなわかんないんだろ』
『まあ、別に趣味だしさ』
『ええ、でもさでもさ。私ホントに、惚れちゃったんだよ』
『惚れた?』

『1年の時、友達に連れられて軽音部の定期会覗きに行ったことがあるの。ほら、かっこいい先輩がいたでしょ? その人を見たいっていうから、付き添いでね。でも私、あの場にいた誰よりも月音が輝いて見えた』
『…えー?』
『一目惚れだったんだよ。月音にも、月音がギターを弾いてる姿にも』




もうなごみには会えない。

今更だ。




『月音に音楽をやってほしいのはファンとしての願望だよ。強要はしたくないし、邪魔もしたくない。彼女としては、貴方が健康に生きてくれることがいちばん大事だから』


──ああ、思いだしてしまった。