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浴槽に浮いたアヒルを手に取りお湯を含ませると、軽かったそれに重みが加わった。ちゃぷん、ちゃぷんと水に触れる音が響いている。

入浴剤で淡い青に染めた湯船から、きめ細かい肌がのぞく。濡れた髪は後ろでくくっていて、後れ毛がやけに魅力的に見えた。化粧の乗っていない顔はあどけない。

火照った頬に何の気なしに手を伸ばすと、「う?」と抜けた声がこぼれた。


「ん、くすぐったい」
「かわいい」
「ふは、やめてよ急にそうやって」
「…かわいい、なご」
「やぁだ。なにそれ、ドキドキしちゃうじゃん」



掬うように重なった唇。はむ、と下唇を食べられた。水が揺れる。引き寄せるように後頭部に手を回し、角度を変えて何度も唇を共有した。時々洩れる吐息がかわいい。舌を絡め、互いにより強い温度を求めた。


大学生になり一人暮らしを始めた俺の家に、なごみは週に3回のペースで訪れた。初めの頃はシャワーを浴びるだけだったが、「お風呂ためた方が水道代浮くんじゃない?」と何気なくなごみに言われたそれに納得し、以降ふたりで風呂に入るようになった。実際、シャワーの出しすぎ問題が解消され水道代はいくらか安くなった。


身体を洗いっこするバカップルではなかったが、代わりにアヒルの水鉄砲で攻撃し合って遊ぶキッズではあった。それ以外にも、曇った鏡に落書きをしたりタオルで水を包み込みクラゲを作ったり、それを思いっきり潰してブーッと音を鳴らして遊んだり。

20代のカップルが盛り上がるにはあまりに子供じみた、けれどとても幸せな時間だと思っていた。


飽きるほどにキスを交わし、これ以上は我慢できそうにないというところで身体を離すのがいつの間にか癖になっていた。唇と舌先に残った温度が恋しい。


「先上がってて、なご」
「ありゃ、勃っちゃったか」
「やめろばか」
「うはは、かわいい、月音」


そりゃあ俺も男なわけで、裸体の彼女とキスをして発情しないなんて不可能に近い。何度も見せあった仲とはいえ硬くなったそれを晒して湯船から出るには個人的に抵抗がある。ニタニタするなごみを手で払い俺は浴槽に肘を乗せた。

始めは熱かったお湯も温くなっている。長風呂が日課になっていること、それはつまりなごみと越える時間が増えたということだ。


「月音、上がったらビール飲もう」
「冷やしてたっけ?」
「なかったら買いに行けばいいよ」
「湯冷めするじゃん、さーむ」



人に恋をすること。誰かと同じ時間を過ごすこと。あんなにも愛しく大切だった時間が『懐かしい』。もう戻らない。焦がれたとて、今更仕方の無いことである。






風呂をためたのは2年ぶりだった。百円ショップで気付いたら買っていたアヒルの水鉄砲をうかべ、静かな浴槽でひとり佇んだ。空気のみを含ませたアヒルの腹を推すと、安っぽい音でぴいいと鳴いた。世界をひっくり返すようなメロディーは流れるはずもなく、当然のことなのに、それがどうにも悲しい気持ちにさせる。


結局、5分も浸からないうちに風呂を出た。上がってすぐベランダに出て夜風に当たることにした。どうも感傷的になっている。夜の澄んだ空気が頬を切った。

こんな時ばかり恋しくなるのが煙草だ。火をつけ、ふー…と煙を吐き出した。身体を巡るこの毒が、俺の過去も後悔も全部ドロドロに溶かしてくれたらいいのに。



昼間、なごみの仏壇に線香をあげ、君が好きだったお菓子を添えてきた。

遺影に選ばれた写真は俺がまだなごみと生活していた頃のフォルムそのままで、「このころのお姉ちゃんがいちばん綺麗だったので」との理由で選定したとのどかが言っていた。素直に喜べない理由は分かりきっている。俺となごみは既に別れていて、かつなごみはもうこの世界には居ないからだ。俺と居たから綺麗だったのかもしれないという自惚れを肯定も否定もできない。

くしゃみが出た。ズルズルと鼻を啜り、伸ばしたパーカーの裾で拭う。



『風邪引きやすいんだからそろそろ中入りな、月音』
『風邪ひいたらバイト休める』
『それ私も看病で仕事休めるやつだ』
『共犯共犯』
『わはっ!ダメダメ、健康第一!』


ああ、やめろ、思い出すな。無駄なのだ、全部。




「……なご、」


なご。俺がいくら君の名前を呼んだって、もう君の声で俺の名前が再生されることはない。


なごみと付き合い始めたのは高校2年生の初夏のこと。

暑さのせいか緊張のせいかも定かではないほど全身に汗をかきながら、俺は君に好意を伝えた。「好きです」たった四文字で俺が抱える感情の全てが伝わるとは到底思わなかったが、その言葉以外に形容できなかった。


告白決行の数か月前──高校2年生の4月。
新学期、俺はなごみと隣の席になった。


「よろしく、世良くん」
「よろしく、長谷さん」



容姿を始め、成績や運動神経、人柄、人望のどれをとってもなごみには非の打ち所がなかった。長い黒髪には艶があり、雪のように白い肌が眩しい。笑うと右側にえくぼができる。「ら」行の発音がやや舌足らずで、それが俺の純情をくすぐるのだった。

なごみが才色兼備の美女だから好きになったのではないが、なごみが才色兼備の美女だったから目を奪われたともいえる。物は言いよう、偶然は必然だ。


「まさか世良くんに好いてもらえるなんて想わなかった」
「えっと……ごめん、急に迷惑だったよね」
「ううん、逆だよ。私も世良くんと同じ気持ちだったから嬉しい」


ふふふ、と小さく肩を揺らして笑う姿が上品だった。衝動的に抱きしめそうになる気持ちをグッと堪え自分を制する。同じ気持ちというのはつまり、たった四文字でしか感情を表現できない俺と同じもどかしさを感じてるということになる。


「世良月音くん。私たち、付き合おうか」
「え……なんでフルネーム」
「素敵な響きだからかな」


最初に好きだと伝えたのは俺の方なのに最終的に恋人関係になることを持ち出したのはなごみだった。気持ちばかりを伝えて本来求めるべきことを言い忘れてしまうという俺の痛恨のミスも、世良くんらしくて悪くないと言って君は笑っていた。

なごみが大事な話をするときにフルネームで呼ぶ癖があることに気づいたのは、付き合い始めてしばらく経ってからのことであった。