結界の外側まで逃げた氷月は、女性の手を離した。次にやるべきことは、女性の記憶を操作すること。やり方も先ほどの映像で覚えた。驚いて氷月を見下ろす女性に、にっこりと微笑んだ氷月は彼女に向かって能力を注ぎ込み、その記憶を操作した。女性は、その場に崩れ落ちるかのようにして倒れた。

「ふぅ」

 自分でできることはやった。あとはあの一歳が鬼を封じて戻ってくるのを待つだけ。倒れている女性の脇に膝を抱えて、お尻はつけずに座り込んだ。
 そうしているのもほんの数分だったと思う。一歳が鬼憑きだった人間を肩に担いで向こう側からやって来た。
 どさり、とその人間を女性の脇に置くと、氷月に向かって「ほらよ」とあるものを手渡した。

「これは?」

「鬼の角だ。これを煎じて、呪われたお前の姉という奴に飲ませろ」
 そして一歳は視線を倒れている人間二人に向ける。
「こいつらは、あと数分で目を覚ます。その前に俺たちはこの場所を離れる」

 ほら、と一歳が手を差し出してきた。恐らくそれの意味するところは、この手を取れなのだが。
 いつまでもその手を取らずに、氷月がきょとんと見つめていると。

「お前、本当にどんくさいな」
 無理やり一歳が氷月の手を掴んで立たせた。
「帰るぞ。こんな時間だ。送ってやる」

「それは、困る、かも、しれません」
 日永田の人間と一緒にいたことを烏賀陽の人間に知られてしまったら、何をされるかわからない。

「屋敷の近くまで、だ。それなら問題ないだろう?」
 まるで氷月の心を読んだかのような一歳の言葉。返事をすることなく、氷月はその言葉に従う。

 不思議なもので、一歳と共にいる時間が永遠に続けばいいとさえ思えていた。なぜかはわからない。口は悪いのに、氷月を気にかけてくれる。それが嬉しかったのかもしれない。
 それに、氷月に新しい能力も与えてくれた。

 ――結界。

 それは高度な鬼遣いのみが使える術であることに、氷月は気付いていない。一歳が能力を与えただけで使えるような術であることに氷月は気付いていない。
 それを知っているのは一歳だけ。
 一歳としては、この自称落ちこぼれの烏賀陽の鬼遣いが気になって仕方なった。くそ弱い能力しかないくせに、一人で鬼封じにやって来たという少女。そして、間違いなく朝陽の娘である少女。つまり、この氷月という少女は一歳にとって――。

「あの、一歳さん。ここまででいいです。これ以上は、その、気付かれますから」

 屋敷の外に密に張り巡らせている気の網。それが屋敷に出入りする人間を監視している。これは如月の能力だったような気がする。

「そうか。だが、ここまで来れば安心だな」
 ふっと一歳が笑った。だから、氷月も釣られて笑った。

「氷月。お前、そうやって笑っていたほうがいいぞ」
 クシャリと一歳は氷月の頭を撫でた。

「氷月。困ったときには俺の真名を呼べ。いつでもどこでも、お前を助けてやる」

「どうして?」
 なぜ初対面の人間にそこまでするのか。それが氷月の素直な気持ち。

「言っただろう。お前に興味があるからだ。いいな、一人で抱え込むな。必ず俺を呼べ」

 背中越しに手を振った一歳は、来た道を戻り始めている。
 氷月は心の中で礼を言った。それは一歳に届かぬ言葉。