気が付いたら氷月(ひょうげつ)はファミレスのテーブルを前にして座っていた。メニューを見せられ、好きなのを頼めと言われたが、好きなのと言われてもピンとこなかった。なかなかそれを決められない氷月に業を煮やしたのか、一歳(ひととせ)が勝手に注文をした。
 そんなわけで今、氷月の前にはほかほかと湯気を立てているドリアがあるのだが。

「女が好きそうなイメージのものを頼んだ」

「あ、はい。ありがとうございます」

「お前。日永田丑月(ちゅうげつ)を知っているか?」
 一歳はコーヒーカップを傾けながら尋ねた。

「いいえ」
 フォークを口元にまで運んでいる氷月は、顔もあげずに答えた。

「お前な、同じクラスだろ?」

「そう、なんですか」

 はっ、と一歳は息を吐いた。そして、一口コーヒーを飲む。この氷月は丑月が言っていた通りの女だな、というのが彼の印象だった。

「で、なんでお前が一人で鬼封じに来てるんだ? 他の烏賀陽の鬼遣いたちはどうした? 昼間も暴れていただろ?」
 昼間の件も気付かれていたのか、と氷月は思った。
「あの鬼はな、俺たちが十日も前から狙ってたんだ。それを急にお前たちがしゃしゃり出てきやがって」

 氷月にとって、愚痴を聞かされるのは慣れている。むしろ文句を聞かされることも慣れている。
 一歳の声が右耳から左耳へと通過していった。黙々とフォークを動かしている氷月にこれ以上何か言っても無駄だと感じたのだろう。一歳は黙ってその様子を見ていた。

 氷月が最後の一口を食べ終え、水で喉を潤すと、一歳は愛おしそうに彼女を見つめてきた。

「お前、名前は?」
 先ほども尋ねられた。

「烏賀陽氷月」

「鬼遣いとしての名前ではない。お前の本当の名だ。朝陽がつけた名前があるだろう?」

「鬼遣いは、真名(まな)を無闇に他人に教えてはならない、と。真名を呼ばれると、拒めなくなるから、って」
 真名は親が付けてくれた本当の名前のこと。それはけして他人に教えてはならないと、鬼遣いになったときに言われた。だから今、氷月は氷月なのである。

「俺の名は……」
 一歳が真名を口にした。氷月は驚いて目を大きく開けることしかできない。
「困ったときには、俺の名を呼べ。お前がどこにいても助けてやる」

「どうして?」
 それが単純な想い。さっき、会ったばかりの烏賀陽の鬼遣いに、日永田の鬼遣いが真名を伝える意味がわからない。

「さあ、どうしてだろうな。自分でもわからん。だが、お前が朝陽の娘だから、興味が沸いた、というところが正直な気持ちだな」

「鬼遣いとして、落ちこぼれなのに?」

「落ちこぼれ、お前がか?」

「私一人では、鬼の姿を視ることができません」

「にも関わらず、一人で鬼封じか。殺してくれと言っているようなもんだな」
 そこで一歳は、残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
「行くぞ。時間だ」

「どこへ?」

「鬼退治、じゃなかった、鬼封じだな。お前も一緒に来い。共に鬼を封じよう」
 テーブルの上の伝票を手にして一歳が立ち上がったため、氷月も慌てて立ち上がった。