烏賀陽一族。それは、鬼を封じる能力を持つ一族であり鬼遣いとも言われている。
鬼は気、気は鬼。
鬼は知らないうちに現れ、知らないうちに人々を蝕んでいく。鬼に蝕まれた状態のことを、鬼憑きという。その鬼憑きの人々を救うのが鬼遣いの任務。つまり、烏賀陽一族の存在意義でさえもあった。
烏賀陽一族の鬼遣いは十二人いる。それは烏賀陽頭領の烏賀陽朔の十二人の子供たち。女は睦月を一番上として、如月、弥生、皐月、葉月、そして氷月の六人。男は長卯月、且月、蘭月、詠月、大月、霜月の六人。今は六男六女の朔の十二人の子供たち。だが、母親は異なる子供たち。全ては烏賀陽一族の血を残すため。
その烏賀陽一族の末っ子的存在の氷月であるが、この烏賀陽一族に引き取られたのは四年前。小学校を卒業した年だった。そのまま地元の公立中学校へ進学するものと思っていた。父親がいない母子家庭であったが、その母親も小三の時に亡くなり、母方の祖父母の元に引き取られた。だけど、生活には困らない程度のお金を母親は残してくれていたようで、それをやりくりしながら祖父母と共に慎ましく暮らしていた。
ところが、小学校の卒業式を終え、祖父母と記念写真を撮っていた時に現れたのが烏賀陽朔という男。彼の姿を見た時の祖父母の怯えた顔を氷月は今でも覚えている。
「お前が朝陽の娘か」
朝陽は氷月の母の名前だ。それにコクンと頷くと、朔は不気味な笑みを浮かべていた。おの日のうちに祖父母と別れ、この烏賀陽の屋敷へと連れてこられた。それまで名乗っていた名を捨てて。
「お前は烏賀陽一族の娘だ。鬼遣いとして任務を全うしろ」
それが氷月の父親と思われる朔から言われた言葉。氷月には鬼遣いという言葉に馴染が無かった。それから、十一人の姉と兄たちを紹介された。全て、母親が異なるという姉と兄たち。同じであるのは父親だけらしい。
六男の霜月が氷月と同い年だった。烏賀陽一族の通う学校は、郊外にある私立の中高一貫校だった。烏賀陽の屋敷からは使用人が運転する車で送迎される。同学年の霜月はもちろん一緒に登下校するわけで、その登下校の間にこの烏賀陽一族について教えてくれた。氷月にとってこの霜月という義兄は、心許せる存在になっていった。
霜月が言うには、鬼遣いの一族にはこの烏賀陽一族の他に日永田一族もいるらしい。ただ、鬼憑きに対する考え方の違いから、少し対立しているところもあるとか。
「氷月は、鬼遣いとして目覚めたばかりだから、中学生のうちは屋敷で訓練をする必要があると思う。実践は高校生になってからかな」
霜月が言っていた通り、中学生のうちは屋敷の道場で鬼遣いとしての能力を高める訓練を行った。それに付き合ってくれたのは長男の卯月。氷月とは一回りも年が離れている兄だった。大学の博士課程に進学しており、わりと時間が自由に使えると本人は言っていた。六人の兄たちは優しかった。いや、むしろその視線から感じ取ったのは同情。
それに引き換え、五人の姉たちは氷月に厳しかった。何かしらミスを見つけるとすぐに役立たずと罵ってくる。何が役立たずであるのか、氷月自身はわからない。だけど、高校生になった今、本当に役立たずであることを実感した。
三年間の訓練を終えた氷月は、高校生になった年に姉たちと鬼遣いとしての任務へ赴いた。鬼憑きの人間から鬼を祓い、それを封じるという任務。烏賀陽一族の鬼遣いたちは鬼を封じることを第一に優先する。だから、鬼憑きとなった人間たちの生存の保証はしない。
朔が言うには、鬼を封じないと新しい鬼憑きを生むことになるから、だそうだ。だからこそ、残酷に鬼を封じなければならない、と。
だが、氷月にはそれができなかった。何しろ、彼女には肝心の鬼が見えなかったのだから。
そして今日、その彼女を庇って怪我をしたのが、姉の一人である皐月だった。なぜ今日にかぎって、皐月が自分を庇ったのかはわからない。氷月にとって、鬼が見えないことは今に始まったことではなく、兄や姉たちにとっては周知の事実だったはずなのに。
「この馬鹿者が」
バシンと、頬を叩かれ氷月は後ろに吹っ飛んだ。目の前には目をギラギラとたぎらせている父親の姿がある。
「鬼の姿が見えなくて、皐月に怪我を負わせただと? お前は一体、何をやっている」
叩かれた頬がじんわりと熱を帯びて痺れるような感覚になってきたが、そこに触れるようなことはしない。ただ、黙って座り直して、頭を下げるだけ。
「申し訳、ございません」
畳に額がつくのではないかというほど、氷月は深く頭を下げた。
「お前は何のために三年間、卯月から訓練を受けたのだ。あの朝陽の娘だから期待しておったのに」
氷月は頭を上げるようなことをしなかった。ただ黙って、じっと額を床に押し付けている。それをさらに押し付けてしまったのは、後頭部をぐりぐりと父親から押さえつけられてしまったからだ。
「この役立たずが」
「申し訳、ございません」
氷月が言える言葉はそれだけだ。
「申し訳ないと思っているのなら、心からそう思っているのなら。さっさと鬼を封じ込めてこい」
そう。先ほどの鬼封じは、皐月が鬼に咬まれて怪我を負ってしまったため、それを封じることなく撤退してきたのだ。だから今も、鬼憑きは街の中をさ迷っているはず。
「はい……」
氷月が力なく返事をすると、朔はもう一度後頭部をぐりぐりと押しつけてから、その手を離した。
「いい結果を待っているぞ。もし、鬼封じに失敗するようであれば、お前は氷月失格だ」
氷月失格。
それの言葉にはどのような意味があるのだろう。
父親が乱暴にこの道場から出ていく音が聞こえた。バタンと乱暴に扉を閉められれば、この道場に残るのは静寂。しばらくしてから、氷月は頭をゆっくりと上げた。額をついていた畳には、少し血が滲んでいる。ここを綺麗に掃除しておかなければならないな、とそんなことを考えていた。
皐月が発熱したと聞いたのは、氷月が道場から戻ってきてすぐのことだった。皐月の様子を見に行こうとしたところを、睦月に引き止められた。
「あんたのせいよ」
バシンとまた頬を叩かれた。睦月が手を振り上げたときに、そうなることを予想していた氷月は下半身にぐっと力を入れていた。だから、吹っ飛ぶことはなかった。父親と違って睦月は女性だ。さほど、力は無い。
「申し訳、ございません」
氷月から漏れる声はそれだけ。
「皐月はね。鬼に咬まれたのよ。だから言ったの。常にその傷跡を確認しなさい、と。あの子、死ぬわよ。鬼の呪いでね。あの子が死んだら、あんたのせいよ」
死という言葉が、氷月の脳内を駆け巡る。と同時に、母親が亡くなった時のあの壮絶な姿を。
「睦月姉さま。どうすれば、皐月姉さまは助かりますか?」
「そんなこと、決まっているでしょう? 皐月に怪我を負わせた鬼を封じるのよ。むしろ、鬼憑きごと殺しても問題ないわ」
腕を組み、氷月を睨みつけている睦月の目は、お前にそれができるのか、と言っている。
「鬼遣いとして、その任務を全うしてまいります」
氷月はその言葉を、静かに放った。それを聞いた睦月は、ふん、とだけ鼻息荒く返事をすると、氷月に背を向けて皐月の部屋へと入っていく。その背中は「そんなこと当然よ」と言っていた。
氷月は皐月の部屋のその扉を開けることはできなかった。いつもきついことを言い放つ皐月が、自分を庇ってくれたのだ。その行為自体も信じられないことであるが、その前にやるべきことがある。
「鬼を、封じる……」
すでに日が西の山に沈みかけ、空に綺麗なグラデーションを作っていた。東の空は暗い。鬼は、闇に紛れて活発化する。だからこそ、鬼遣いが鬼封じを行うには適している時間帯とは言えない。
だけど、やるしかない、と氷月はそう思っていた。
幸いなことに今日は土曜日。だから、明日は学校も休み。いや、土曜日だからこそ睦月たちと鬼遣いとしての任務を行っていたのだ。
水色のウインドブレーカーを羽織って、ガードレールに寄り掛かっている氷月は、鬼憑きがいると思われる建物を見上げていた。その建物は、道路を挟んだ向かい側に建っている。鬼憑きはまだ暴れていない。人間として、人間と同じように人間と過ごしている。恐らく、その人間を襲うタイミングを見計らっているのだろう。夜も深まって、人々の活動が減ってくる時間帯を。
お腹がぐぅと鳴った。夕飯を食べてくればよかったな、と思う。あの烏賀陽の屋敷にきて良かったなと思えることは、食事をきちんと与えてもらえることだ。祖父母の家でも慎ましいながら三食は食べていた。だけど、食材は烏賀陽の方が断然いいものを使っている。つまり、美味しいということ。
「はぁ」
氷月はため息をついた。鬼封じを行うには、鬼憑きが一人になるタイミングを待つ必要がある。あの鬼憑きは今、目の前の建物のスポーツジムで汗を流しているらしい。非常に人間らしい行動だ。
氷月の能力は中途半端で、鬼憑きの人間を感じることはできる。だが、鬼が人間から離れてしまった場合、その鬼を視ることができない。だから、封じられない。にも関わらず一人でここにやってきてしまったのは、皐月に迫る死をなんとかしたいと思ったからか、それとも皐月と共に自分も犠牲になろうと思ったのかはわからない。
「はぁ。お腹、空いた」
目の前の県道は車が行き交っているし、歩いているような人はいない。だから、誰も聞いているような人はいないだろうと思って、わざと声を出してそう言ったのだ。
だから。
「おい」
と声をかけられた時には、悲鳴をあげそうになってしまった。その悲鳴は飲み込んだのだが、驚きは隠せなかったようで、ピクリと大きく肩を震わせてしまった。
「お前、鬼遣いか?」
太陽はすっかりと沈んで空は闇に飲まれている。この場所を照らすのは先ほどから行き交う車のヘッドライドと街灯、そして建物から漏れてくる灯り。だから、そう声をかけてきた人物の顔を確認することは容易い。
一般的にはイケメンに分類されるような男性だ。年は恐らく一番上の兄の卯月と同じくらいかそれより年下か。
だが、初対面の氷月に向かっていきなり「鬼遣い」であるかどうかを問うてきたということは、同業者だろうか。その問いにどう答えていいかどうかがわからず、氷月は口を半開きで彼を見上げていた。
「お前、耳が聞こえないのか?」
「聞こえています」
「だったら、俺の質問に答えろ。お前は鬼遣いか?」
答えろと命令されてしまったら、染みついた従属精神によって答えるしかない。こくんと首を縦に振った。
「のわりには、中途半端な能力だな。どこの一族だ?」
「烏賀陽……」
「はっ、烏賀陽にお前のようなカスみたいな鬼遣いがいるのか? 名前は?」
「氷月……」
烏賀陽の氷月、と男は口の中で呟いている。
「お前。朝陽の娘か?」
まさかここで母親の名を聞くとは思ってもいなかった。氷月は驚き、またその男を見上げてしまった。
「ああ。なんだ。そっくりじゃないか」
男は笑っていた。何か懐かしいものでも見るかのように。
「俺は日永田一歳だ」
「日永田一族の鬼遣い……」
「お前。もっとはっきり喋れや。何、言ってるか、さっぱりわからん。それよりも、腹、減ってるんじゃないのか? さっきから、そこ、鳴ってる」
一歳にそこと指摘されたのは氷月のお腹である。自分でも気付いていたけれど、他人に指摘されると恥ずかしさが込み上げてきて、顔が熱を帯びてしまう。
「烏賀陽は、飯も食えない程、貧しいのか?」
「いえ。私が、ただご飯を食べるのを忘れただけです」
「そこに、ファミレスあるぞ」
親指でくいっとそこを指さす一歳だが、そこにファミレスがあることなど氷月だって知っている。
「私、一応、高校生ですので」
「だったら、高校生がこんな時間に一人で出歩くな」
「一応、鬼遣いなので。そこはなんとでも」
「お前。一応ばっかだな。だったら、一応、飯食いに行こう」
は、と氷月は口を開けた。この男は何を言っているのか。これから鬼を封じなければならないというのに。
「ですが、鬼が……」
「あの鬼憑きは、あと一時間は動かないぞ?」
「そう、なんですか?」
「ああ。鬼憑きの行動を把握しておくのも、鬼遣いとしての仕事の一つだな」
「そう、なんですね」
氷月が視線を足元に向けると、一歳がクシャリと彼女の頭を撫でた。
「だから、飯、食いに行くぞ。おごってやる」
気が付いたら氷月はファミレスのテーブルを前にして座っていた。メニューを見せられ、好きなのを頼めと言われたが、好きなのと言われてもピンとこなかった。なかなかそれを決められない氷月に業を煮やしたのか、一歳が勝手に注文をした。
そんなわけで今、氷月の前にはほかほかと湯気を立てているドリアがあるのだが。
「女が好きそうなイメージのものを頼んだ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「お前。日永田丑月を知っているか?」
一歳はコーヒーカップを傾けながら尋ねた。
「いいえ」
フォークを口元にまで運んでいる氷月は、顔もあげずに答えた。
「お前な、同じクラスだろ?」
「そう、なんですか」
はっ、と一歳は息を吐いた。そして、一口コーヒーを飲む。この氷月は丑月が言っていた通りの女だな、というのが彼の印象だった。
「で、なんでお前が一人で鬼封じに来てるんだ? 他の烏賀陽の鬼遣いたちはどうした? 昼間も暴れていただろ?」
昼間の件も気付かれていたのか、と氷月は思った。
「あの鬼はな、俺たちが十日も前から狙ってたんだ。それを急にお前たちがしゃしゃり出てきやがって」
氷月にとって、愚痴を聞かされるのは慣れている。むしろ文句を聞かされることも慣れている。
一歳の声が右耳から左耳へと通過していった。黙々とフォークを動かしている氷月にこれ以上何か言っても無駄だと感じたのだろう。一歳は黙ってその様子を見ていた。
氷月が最後の一口を食べ終え、水で喉を潤すと、一歳は愛おしそうに彼女を見つめてきた。
「お前、名前は?」
先ほども尋ねられた。
「烏賀陽氷月」
「鬼遣いとしての名前ではない。お前の本当の名だ。朝陽がつけた名前があるだろう?」
「鬼遣いは、真名を無闇に他人に教えてはならない、と。真名を呼ばれると、拒めなくなるから、って」
真名は親が付けてくれた本当の名前のこと。それはけして他人に教えてはならないと、鬼遣いになったときに言われた。だから今、氷月は氷月なのである。
「俺の名は……」
一歳が真名を口にした。氷月は驚いて目を大きく開けることしかできない。
「困ったときには、俺の名を呼べ。お前がどこにいても助けてやる」
「どうして?」
それが単純な想い。さっき、会ったばかりの烏賀陽の鬼遣いに、日永田の鬼遣いが真名を伝える意味がわからない。
「さあ、どうしてだろうな。自分でもわからん。だが、お前が朝陽の娘だから、興味が沸いた、というところが正直な気持ちだな」
「鬼遣いとして、落ちこぼれなのに?」
「落ちこぼれ、お前がか?」
「私一人では、鬼の姿を視ることができません」
「にも関わらず、一人で鬼封じか。殺してくれと言っているようなもんだな」
そこで一歳は、残っていた冷めたコーヒーを一気に飲み干した。
「行くぞ。時間だ」
「どこへ?」
「鬼退治、じゃなかった、鬼封じだな。お前も一緒に来い。共に鬼を封じよう」
テーブルの上の伝票を手にして一歳が立ち上がったため、氷月も慌てて立ち上がった。
一歳が言った通り、鬼憑きはまだあのスポーツジムの中にいた。鬼憑きであっても人間らしい。建物の裏の方でその鬼憑きを待っていると、鬼憑きは一人の女性と共にジムの中から出てきた。
二人、楽しそうに話をしている。あの女性は、自分の会話の相手が鬼憑きであることを知らない。
「おい、氷月。お前、結界は使えるか?」
「結界?」
「ああ」
「わからない」
卯月に教えてもらっていないから、わからない。
「お前の能力は面白い。これに烏賀陽は気付いていないのか? まあ、いい。結界の張り方を教えてやる。結界さえ使えれば、昼間のような失態はしないぞ?」
この男は昼間のことをどこまで知っているのだろう。氷月は驚いて一歳を見上げた。すると、額に一歳の右手の人差し指が刺さった。
「あっ」
頭の中に様々な映像がががっと流れ込んできた。今まで感じたことのない気持ちと共に。
「やっぱり、お前はこっち側の人間か」
一歳のその呟きの意味がわからない。
「あいつらが人気のないところまで移動したら、お前が結界を張れ。やり方は、言わなくてもわかるな。今、見せたから」
一歳の言葉に素直に頷く。
「お前が鬼を視ることができなくても、鬼は俺が封じてやる」
「あの。姉が一人、昼間にあの鬼に咬まれて、その、呪われてしまったのですが。あなたが鬼を封じたら、姉の呪いは解けますか?」
「姉? 相変わらずだな、あのおっさん」
そう一歳が口にした意味がわからない。
「わかった。その呪いについても考慮はしてやる、しっ」
少し前を歩いている鬼憑きと女性は、駅までの近道をするためか、公園の中を突き抜けていくようだ。夜の公園なんて、いかにも鬼が好みそうな場所。
「おい、氷月。今だ、結界を張れ。あの鬼憑きを中心に半径二十メートル」
一歳の言葉に従い、今見せられた映像の通り、結界を張る。それが氷月にとって初めての行為であっても、すんなりとできてしまったから不思議だった。
「やっぱり、俺が見立てただけのことはあるな」
あの鬼憑きたちは、周囲に結界が張られ、あちらとこちらの世界が分離されてしまったことに気付いていない。
「いいか、氷月。俺が合図を出したら、お前はあの女を連れて結界の外側まで逃げろ」
「一歳さんは?」
「その隙に、俺があの鬼を封じる」
「鬼に憑かれた人間は?」
「もちろん、助ける」
もちろんと言い切ってしまうところが、なぜか氷月の心にぐさりと刺さった。
「氷月、今だ。あの女性の手を引いて、向こう側に走れ」
よくわからないけれど、この人の言うことを聞いていれば大丈夫と、そんな気にさせられた。そして走り出した氷月は、まごまごとしている女性の手を引き、二言声をかけて一緒に走り出す。
それを見届けた一歳は、ふっと鼻で笑ってから鬼に対峙した。
結界の外側まで逃げた氷月は、女性の手を離した。次にやるべきことは、女性の記憶を操作すること。やり方も先ほどの映像で覚えた。驚いて氷月を見下ろす女性に、にっこりと微笑んだ氷月は彼女に向かって能力を注ぎ込み、その記憶を操作した。女性は、その場に崩れ落ちるかのようにして倒れた。
「ふぅ」
自分でできることはやった。あとはあの一歳が鬼を封じて戻ってくるのを待つだけ。倒れている女性の脇に膝を抱えて、お尻はつけずに座り込んだ。
そうしているのもほんの数分だったと思う。一歳が鬼憑きだった人間を肩に担いで向こう側からやって来た。
どさり、とその人間を女性の脇に置くと、氷月に向かって「ほらよ」とあるものを手渡した。
「これは?」
「鬼の角だ。これを煎じて、呪われたお前の姉という奴に飲ませろ」
そして一歳は視線を倒れている人間二人に向ける。
「こいつらは、あと数分で目を覚ます。その前に俺たちはこの場所を離れる」
ほら、と一歳が手を差し出してきた。恐らくそれの意味するところは、この手を取れなのだが。
いつまでもその手を取らずに、氷月がきょとんと見つめていると。
「お前、本当にどんくさいな」
無理やり一歳が氷月の手を掴んで立たせた。
「帰るぞ。こんな時間だ。送ってやる」
「それは、困る、かも、しれません」
日永田の人間と一緒にいたことを烏賀陽の人間に知られてしまったら、何をされるかわからない。
「屋敷の近くまで、だ。それなら問題ないだろう?」
まるで氷月の心を読んだかのような一歳の言葉。返事をすることなく、氷月はその言葉に従う。
不思議なもので、一歳と共にいる時間が永遠に続けばいいとさえ思えていた。なぜかはわからない。口は悪いのに、氷月を気にかけてくれる。それが嬉しかったのかもしれない。
それに、氷月に新しい能力も与えてくれた。
――結界。
それは高度な鬼遣いのみが使える術であることに、氷月は気付いていない。一歳が能力を与えただけで使えるような術であることに氷月は気付いていない。
それを知っているのは一歳だけ。
一歳としては、この自称落ちこぼれの烏賀陽の鬼遣いが気になって仕方なった。くそ弱い能力しかないくせに、一人で鬼封じにやって来たという少女。そして、間違いなく朝陽の娘である少女。つまり、この氷月という少女は一歳にとって――。
「あの、一歳さん。ここまででいいです。これ以上は、その、気付かれますから」
屋敷の外に密に張り巡らせている気の網。それが屋敷に出入りする人間を監視している。これは如月の能力だったような気がする。
「そうか。だが、ここまで来れば安心だな」
ふっと一歳が笑った。だから、氷月も釣られて笑った。
「氷月。お前、そうやって笑っていたほうがいいぞ」
クシャリと一歳は氷月の頭を撫でた。
「氷月。困ったときには俺の真名を呼べ。いつでもどこでも、お前を助けてやる」
「どうして?」
なぜ初対面の人間にそこまでするのか。それが氷月の素直な気持ち。
「言っただろう。お前に興味があるからだ。いいな、一人で抱え込むな。必ず俺を呼べ」
背中越しに手を振った一歳は、来た道を戻り始めている。
氷月は心の中で礼を言った。それは一歳に届かぬ言葉。
氷月が鬼の角を手にして戻ってきたときに、睦月は驚いて一歩退いた。だがそれを乱暴に奪い去ると、調合室へと消えていく。
氷月は小さく息を吐いてから、自室へ戻った。
一歳と繋いだ掌が熱い。そして、心がぽわぽわとしている。なぜかはわからなかった。お風呂に入らなきゃという思いもあったけれど、一日が濃すぎてものすごく気疲れしてしまった。だから、そのままベッドで横になると、夢の世界へと誘われてしまった。
そのまま夢の世界で暮らせればいいのにな、と思って目が覚める毎日。
目が覚めて目の前に父親の顔があったのなら、余計にそう思ってしまう。
「氷月。何を呑気に寝ている。さっさと起きろ」
布団を引きはがされてしまった。
「着替えもせずに寝たのか」
ふん、と朔は鼻息荒く言う。
「お前に確認したいことがある。着替えたら、道場に来い」
ああ、これは朝ごはん抜きかもしれない、と、小腹が空いた氷月は思った。だけど父親の命令は絶対である。しかも道場に来い、着替えてから来い、と言われたということは。
烏賀陽の鬼遣いとしての正装をしろ、ということだ。
面倒くさいなと思いながら、着ている服に手をかけた。
烏賀陽の正装。それは白装束。
「烏賀陽氷月、参りました」
「氷月、そこに座れ」
同じように父親も装束姿だった。何が起こるのか、というのが氷月の率直な想い。
朔の言葉に従い、氷月は彼と向かい合って正座をする。
「昨日、お前は鬼の角を持ってきたな」
「はい……」
「皐月の熱は下がった。つまり、鬼の呪いは解けたということだ」
「はい……」
皐月が無事だった、それを知ることができただけでも良かった。
「鬼の姿を視ることができないお前が、なぜ鬼の角を手に入れることができたのだ? 鬼を封じたのか?」
確認するということは、疑っているということ。氷月が鬼封じをした、ということを。そもそも氷月は鬼を封じたとは一言も報告していない。ただ、睦月にその鬼の角を手渡しただけ。
「いいえ……。お父様もご存知の通り、私には鬼の姿を視ることができません。ですから、封じてはおりません」
「なら、なぜ鬼の角を持っていたのだ? 他の兄弟を連れていったのか? そのような報告は受けていないが?」
「姉さまたちも、兄さまたちも、関係はありません。全ては私一人で行ったことです」
「なら、今までのお前の話と矛盾がするだろう。鬼を視ることのできないお前がどうやって鬼を封じることなく鬼の角を手に入れたのだ? 鬼がはいそれと角だけ手渡したわけではないだろう?」
父親は間違いなく疑っている。そこに第三者の介入があったことを。
「日永田の、鬼遣いと……」
「この恥さらしがっ」
氷月が全てを言い終わらぬうちに、朔の平手打ちが飛んできた。そしてそのまま氷月は横に倒れた。
「日永田の鬼遣いの力を借りたのか。氷月。お前には絶望した。いや、元々お前に期待などしていなかったのだが。この烏賀陽の恥さらしがっ」
唾を飛ばす勢いで、いや、実際にまき散らしながら朔は言い放つ。
「氷月。お前は氷月失格だ」
氷月失格。その言葉の意味するところを知らない。
「自害しろ」
「え?」
思わず氷月から漏れた言葉はそれ。目の前には道場に飾られていた刀が転がっている。いつの間に。
「介添えは俺がしてやる。父親として、最後の義務を果たしてやる」
ふっと笑う朔の目が赤く光ったようにも見えた。
「自害?」
つまり、この父親は娘に向かって死ね、と言っているのだ。
「お前が氷月としているかぎり、新しい氷月を迎えることはできない。昔から烏賀陽の鬼遣いは十二人と決まっている。一人が死ねば一人が増える。そういうものだ」
つまり、氷月ではない誰かを氷月とするために、氷月に死ねと言っているというわけだ。
バン、と道場の扉が勢いよく開いた。そのようなことをされてしまったら、父親の怒りは頂点へと達してしまうというのに。
「お父様」
現れたのは声から察するに皐月だ。鬼に呪われ、その命を奪われるかもしれないとされていた皐月だ。この道場に来ることができるくらいまで、体力は回復したのだろう。
「氷月は、鬼の角を持って帰ってきました。そのおかげで私は助かりました。どうか、命を奪うのだけはやめていただけませんか?」
「皐月。お前はこの父に意見するというのか?」
「いえ。懇願です」
「命を助けてもらっただけで、絆されやがって」
ふん、と父親は皐月の頬をピシャリと叩いた。だが、それはいつも氷月が受けているものよりも弱い。
「懇願するくらいなら、そこで氷月の最期を見届けろ」
「お父様」
「氷月、刀を取れ」
ああ、自分はもう人として扱われていないのだな、という思いが氷月の中に駆け巡った。鬼遣いとして認めてもらえなかっただけでなく、人として生きることさえも奪われてしまった。できることなら、鬼遣いとしてではなく人として死にたかったな。
氷月は黙ってその刀を手にした。道場にこの刀が飾られていたのは、こうやって鬼遣いを始末するためか、ということを改めて感じた。
よくわからないけれど、最期に一歳に会いたいな、と思った。きちんと礼を伝えていなかったから。だからだろうか、口からぽろりと彼の名が零れてしまったのは。
「助けて……」
一筋の光。それが、一歳の真名。
「呼ぶの、遅ーよ」
いつの間にか黒装束に身を包んだ一歳の姿があった。いや、一歳だけではない。他に十二人の日永田の鬼遣いたち。
「なぜ、日永田の鬼遣いがこの烏賀陽の道場にいる?」
刀を手にした朔がじろりと一歳を睨みつける。
「鬼退治のためだな」
は、と一歳が笑った。
「いや、鬼封じか」
どうやら相変わらずのようだ。
「皐月。こちらの鬼遣いたちを呼べ」
朔の目はギラリと怒りに満ちている。だが、皐月はその言葉に従うようなことはせず、じっとその場に立ち尽くしているだけ。
「皐月。私の声が聞こえなかったのか」
「聞こえております」
「なら、さっさと呼んでこい」
「父上。我々なら、先ほどからこちらにおりますよ」
これは卯月の声だ。その声のした方に氷月が視線を向けると、こちらも白装束を身に纏った十人の烏賀陽の鬼遣いたち。
烏賀陽と日永田。こうやって鬼遣いが勢ぞろいすると壮観だな、と氷月は呑気にそんなことを考えていた。
卯月がすっと刀を抜いた。その刀は人を斬るための刀とは少し異なる、鬼を封じるための刀。
「卯月、貴様。父に刀を向けるのか」
「どうやら、烏賀陽の頭領は耄碌爺のようだ」
ははっと、一歳が笑う。
「人を斬る刀と鬼を封じる刀の見分けさえつかなくなったのか」
「なんだと?」
「氷月、結界を張れ。範囲はこの道場内」
「え」
「下手すると、この屋敷が吹っ飛ぶぞ。明日から家無しになってもいいのか。お前ら全員、家無しだ」
氷月だけであれば家無しになっても困ることはないのだが、この屋敷に住まう他の者たちまでも家無しになるのは困るな、と氷月はのんびりと思った。だから、一歳の命令に従い、道場内に結界を張る。
その行為に驚いたのは、烏賀陽の鬼遣いたちだけではない。日永田もまた然り。
「頭領」
日永田の一人が呟く。
「見つけたのですか?」
「ああ」
「氷月。あなたはこちらに来なさい」
皐月に呼ばれ、結界を張り終えた氷月は呼ばれた方へとタタタと駆けていく。
「皐月姉さま。ご無事、だったのですね」
「ええ、あなたのおかげ。ありがとう」
「いえ」
いろいろ皐月に言いたいことはあるのに、言葉が出てこなかった。その間に、鬼遣いたちは朔を取り囲んでいく。
「皐月姉さま。お父様はどうされたのですか?」
「お父様は鬼に憑かれたわ。鬼憑きとなったの」
「え?」
「以前からその兆候はあったのだけれど。お父様に憑いた鬼は狂鬼よ」
鬼遣いの烏賀陽の頭領が鬼に憑かれた。これは恥ずべき事案である。
一歳の合図で、白と黒の鬼遣いがそれぞれに動き出す。何かと戦っているように見えるのだが、鬼の姿を視ることができない氷月には彼らがただ暴れているようにしか見えない。
そうやってしばらく眺めていたが、立っていた父親がふらりと倒れたことだけは見届けた。と同時に、氷月も気を失った。