「この馬鹿者が」
 バシンと、頬を叩かれ氷月は後ろに吹っ飛んだ。目の前には目をギラギラとたぎらせている父親の姿がある。

「鬼の姿が見えなくて、皐月に怪我を負わせただと? お前は一体、何をやっている」

 叩かれた頬がじんわりと熱を帯びて痺れるような感覚になってきたが、そこに触れるようなことはしない。ただ、黙って座り直して、頭を下げるだけ。

「申し訳、ございません」
 畳に額がつくのではないかというほど、氷月は深く頭を下げた。

「お前は何のために三年間、卯月から訓練を受けたのだ。あの朝陽の娘だから期待しておったのに」

 氷月は頭を上げるようなことをしなかった。ただ黙って、じっと額を床に押し付けている。それをさらに押し付けてしまったのは、後頭部をぐりぐりと父親から押さえつけられてしまったからだ。

「この役立たずが」

「申し訳、ございません」
 氷月が言える言葉はそれだけだ。

「申し訳ないと思っているのなら、心からそう思っているのなら。さっさと鬼を封じ込めてこい」

 そう。先ほどの鬼封じは、皐月が鬼に咬まれて怪我を負ってしまったため、それを封じることなく撤退してきたのだ。だから今も、鬼憑きは街の中をさ迷っているはず。

「はい……」
 氷月が力なく返事をすると、朔はもう一度後頭部をぐりぐりと押しつけてから、その手を離した。

「いい結果を待っているぞ。もし、鬼封じに失敗するようであれば、お前は氷月失格だ」

 氷月失格。
 それの言葉にはどのような意味があるのだろう。
 父親が乱暴にこの道場から出ていく音が聞こえた。バタンと乱暴に扉を閉められれば、この道場に残るのは静寂。しばらくしてから、氷月は頭をゆっくりと上げた。額をついていた畳には、少し血が滲んでいる。ここを綺麗に掃除しておかなければならないな、とそんなことを考えていた。

 皐月が発熱したと聞いたのは、氷月が道場から戻ってきてすぐのことだった。皐月の様子を見に行こうとしたところを、睦月に引き止められた。

「あんたのせいよ」
 バシンとまた頬を叩かれた。睦月が手を振り上げたときに、そうなることを予想していた氷月は下半身にぐっと力を入れていた。だから、吹っ飛ぶことはなかった。父親と違って睦月は女性だ。さほど、力は無い。

「申し訳、ございません」
 氷月から漏れる声はそれだけ。

「皐月はね。鬼に咬まれたのよ。だから言ったの。常にその傷跡を確認しなさい、と。あの子、死ぬわよ。鬼の呪いでね。あの子が死んだら、あんたのせいよ」

 死という言葉が、氷月の脳内を駆け巡る。と同時に、母親が亡くなった時のあの壮絶な姿を。

「睦月姉さま。どうすれば、皐月姉さまは助かりますか?」

「そんなこと、決まっているでしょう? 皐月に怪我を負わせた鬼を封じるのよ。むしろ、鬼憑きごと殺しても問題ないわ」
 腕を組み、氷月を睨みつけている睦月の目は、お前にそれができるのか、と言っている。

「鬼遣いとして、その任務を全うしてまいります」
 氷月はその言葉を、静かに放った。それを聞いた睦月は、ふん、とだけ鼻息荒く返事をすると、氷月に背を向けて皐月の部屋へと入っていく。その背中は「そんなこと当然よ」と言っていた。
 氷月は皐月の部屋のその扉を開けることはできなかった。いつもきついことを言い放つ皐月が、自分を庇ってくれたのだ。その行為自体も信じられないことであるが、その前にやるべきことがある。

「鬼を、封じる……」

 すでに日が西の山に沈みかけ、空に綺麗なグラデーションを作っていた。東の空は暗い。鬼は、闇に紛れて活発化する。だからこそ、鬼遣いが鬼封じを行うには適している時間帯とは言えない。
 だけど、やるしかない、と氷月はそう思っていた。