お腹いっぱいにご飯を食べ、美しい衣を着せてもらい、大勢の女房に傅かれ、大切にしてもらえている。以前とは比べものにならないほど満ち足りた生活だ。これ以上、一体何を望むというのか。
沙映は、何も考えないよう小さく頭を振った。けれど、一度胸に浮かんでしまうとそれはどんどん広がっていく。
(私にはもったいないくらいの待遇じゃない、これ以上など……)
だけど、と昼の光がさんさんと降り注ぐ庭の様子を眺めながら、沙映は憂鬱そうにため息をついた。
この婚姻は、血を絶やさないためのものだと聞いている。ならば、なぜ明隆は沙映と夫婦の契りを交わさないのだろうか。
最初の日は、ただ疲れただろうと気遣われているのだと思った。
その後は、痩せ細った沙映では子を孕めぬと時期を待たれているのだと思った。
――けど。
ここに来た頃よりも大分ふっくらとしてきた自分の手を見つめて、沙映は暗い表情を浮かべる。
(もう充分だと思うのだけれど……)
自分が妻となった経緯を知っているだけに、沙映はそれがとても不安だった。こうして幸せな時間を過ごせば過ごすほど、それは大きくなっていく。
いつかまた、この幸せはあっけなく失われてしまうかも知れない。
母との貧しくとも幸せな日々も、あっけないほど簡単に無くなってしまったのだから。
そうして、不安になればなるほど、頭を疑念がよぎる。
(もしかしたら……明隆さまは、ほかに通うところがおありなのかも……?)
振り払っても振り払っても、その疑念は沙映の胸にたやすく戻ってきた。
父宮だって、正妻たる絢子がいても母の元に通ってきていたのだ。別に、何の不思議もないこと。
だというのに、そう想像するだけで、沙映の胸はきしむように痛んだ。
(いつの日か、その方にお子ができて、その方をこの邸にお迎えして――私にはもう目も向けてくださらなくなるのかしら)
自分を引き取るだけ引き取って、後は顧みることもなかった父宮の姿がふと頭に浮かぶ。明隆はそのような人ではない、といくら否定してみても、不安は紙ににじむ墨のようにじわじわと心を蝕んだ。
考えても仕方がないことなのだけれど不安が募ってなかなか眠れない夜もある。特に、明隆が来てくれない夜は一晩中まんじりともせずに夜を明かしてしまう。
良くないことだとはわかっているけど――。
「沙映姫」
「……明隆さま!」
突然名前を呼ばれて、沙映ははっと顔を上げた。考え事にふけっていたせいで、明隆の帰りに気付けなかったようだ。それほど広い邸でもないので、先触れがなくともいつもならば気がつくのに。
振り返れば、今日もなにやらごそごそと袋を取り出しながら、明隆が御簾をあげて入ってくるところだった。こうして顔を見るだけでもうれしくなってしまうのだけれど、ぱっと顔を輝かせた沙映に明隆はくすりと笑ってその袋を掲げて見せる。
「沙映姫は鼻が良いようだ」
「そうではありません!」
だが、確かに唐菓子とおぼしき特有の甘い匂いが漂ってきている。くん、と鼻を鳴らすと「それ」と明隆は声を上げて笑った。
「唐菓子ですよ。ちょうど、近衛中将どのにお会いして、わけていただきました」
「ま、珍しい」
確か、近衛中将とは明隆の同僚であるはずだ。藤原直倫、左大臣の嫡男で麗景殿の女御の甥に当たる。なるほど、おそらくはその女御から戴いてきたのだろう。
つれづれに明隆がいろんなことを話してくれるので、沙映もだいぶ詳しくなった。
「お好きでしょう、甘いもの」
そう言って笑いながら、明隆が袋を手渡してくる。受け取りながら、沙映は心の中で呟いた。
(私は、明隆さまが来てくださったことがうれしいのに)
けれど、それを口に出すことは出来ない。迷惑に思われたら、と思うと怖くて仕方がないから。
こうして穏やかに過ごす時間は、何よりも幸せ。優しく凜々しい明隆に、どんどん自分が惹かれていることを、沙映は自覚していた。
だからこそ、恐ろしい。
渡してくれた袋から漂う甘い香りに気をとられた風を装って、沙映はゆがんだ顔を伏せた。
沙映は、何も考えないよう小さく頭を振った。けれど、一度胸に浮かんでしまうとそれはどんどん広がっていく。
(私にはもったいないくらいの待遇じゃない、これ以上など……)
だけど、と昼の光がさんさんと降り注ぐ庭の様子を眺めながら、沙映は憂鬱そうにため息をついた。
この婚姻は、血を絶やさないためのものだと聞いている。ならば、なぜ明隆は沙映と夫婦の契りを交わさないのだろうか。
最初の日は、ただ疲れただろうと気遣われているのだと思った。
その後は、痩せ細った沙映では子を孕めぬと時期を待たれているのだと思った。
――けど。
ここに来た頃よりも大分ふっくらとしてきた自分の手を見つめて、沙映は暗い表情を浮かべる。
(もう充分だと思うのだけれど……)
自分が妻となった経緯を知っているだけに、沙映はそれがとても不安だった。こうして幸せな時間を過ごせば過ごすほど、それは大きくなっていく。
いつかまた、この幸せはあっけなく失われてしまうかも知れない。
母との貧しくとも幸せな日々も、あっけないほど簡単に無くなってしまったのだから。
そうして、不安になればなるほど、頭を疑念がよぎる。
(もしかしたら……明隆さまは、ほかに通うところがおありなのかも……?)
振り払っても振り払っても、その疑念は沙映の胸にたやすく戻ってきた。
父宮だって、正妻たる絢子がいても母の元に通ってきていたのだ。別に、何の不思議もないこと。
だというのに、そう想像するだけで、沙映の胸はきしむように痛んだ。
(いつの日か、その方にお子ができて、その方をこの邸にお迎えして――私にはもう目も向けてくださらなくなるのかしら)
自分を引き取るだけ引き取って、後は顧みることもなかった父宮の姿がふと頭に浮かぶ。明隆はそのような人ではない、といくら否定してみても、不安は紙ににじむ墨のようにじわじわと心を蝕んだ。
考えても仕方がないことなのだけれど不安が募ってなかなか眠れない夜もある。特に、明隆が来てくれない夜は一晩中まんじりともせずに夜を明かしてしまう。
良くないことだとはわかっているけど――。
「沙映姫」
「……明隆さま!」
突然名前を呼ばれて、沙映ははっと顔を上げた。考え事にふけっていたせいで、明隆の帰りに気付けなかったようだ。それほど広い邸でもないので、先触れがなくともいつもならば気がつくのに。
振り返れば、今日もなにやらごそごそと袋を取り出しながら、明隆が御簾をあげて入ってくるところだった。こうして顔を見るだけでもうれしくなってしまうのだけれど、ぱっと顔を輝かせた沙映に明隆はくすりと笑ってその袋を掲げて見せる。
「沙映姫は鼻が良いようだ」
「そうではありません!」
だが、確かに唐菓子とおぼしき特有の甘い匂いが漂ってきている。くん、と鼻を鳴らすと「それ」と明隆は声を上げて笑った。
「唐菓子ですよ。ちょうど、近衛中将どのにお会いして、わけていただきました」
「ま、珍しい」
確か、近衛中将とは明隆の同僚であるはずだ。藤原直倫、左大臣の嫡男で麗景殿の女御の甥に当たる。なるほど、おそらくはその女御から戴いてきたのだろう。
つれづれに明隆がいろんなことを話してくれるので、沙映もだいぶ詳しくなった。
「お好きでしょう、甘いもの」
そう言って笑いながら、明隆が袋を手渡してくる。受け取りながら、沙映は心の中で呟いた。
(私は、明隆さまが来てくださったことがうれしいのに)
けれど、それを口に出すことは出来ない。迷惑に思われたら、と思うと怖くて仕方がないから。
こうして穏やかに過ごす時間は、何よりも幸せ。優しく凜々しい明隆に、どんどん自分が惹かれていることを、沙映は自覚していた。
だからこそ、恐ろしい。
渡してくれた袋から漂う甘い香りに気をとられた風を装って、沙映はゆがんだ顔を伏せた。