さて、その婚儀の日の夜のことである。
沙映は、緊張でかちんこちんになりながら明隆の来訪を待っていた。既に就寝の準備は滞りなく済まされている。
沙映の結婚にあたり、中務郷の宮家からは使用人はひとりも連れてきていない。絢子が渋ったこともあるが、みな陰陽師という得体の知れない主がいる家に行くのを嫌がったからだ。ただ、安倍家ではそれもまた織り込み済みであるのか、仕えるべき女房も女の童もすべて集めてくれていた。
その女房たちをとりまとめるのは、藍という名の女房で、年の頃は二十前後と見受けられる娘だ。若いようだがこちらには勤めて長いらしく、沙映の支度もすべてこの女房が先頭に立って整えてくれた。
大勢いたその女房たちも、今はもうおのおのいるべき場所へと散っていって、今は沙映一人がこうして残っているという状況だ。
(本当に、このように準備をしていただいて……これらすべて、私のために用意してくださったなんて)
室内を見回して、沙映はそんなことを考える。
なにしろ、自邸では几帳さえろくにおいていないような有様だったのだから、こうして充分な調度に囲まれていると夢を見ているかのようだった。
立派な御簾も、薄絹を垂らした御帳台も――。そこでまた、沙映はごくりと喉を鳴らした。
(と、とにかく……あそこでお待ち申し上げればいいのよね)
もう、それを考えるのは何度目だっただろうか。ふと、空気が揺れて「おや」と男の声が耳朶を打つ。
「まだお休みではなかったのですね」
「え、あ、はい……」
振り返ると、御簾を持ち上げた明隆がそこにいた。どきどきしていた心臓が、どきんとひときわ大きく脈打つ。
(お、男君がいらっしゃったら……どうするのでしたっけ……)
継母や異母姉が何か言っていた気もするが、すべて頭から飛んでしまった。あわあわとしている沙映に、明隆が困ったように微笑みかけてくる。
「さ、今日はお疲れでしょう。私が一緒ではいささか気詰まりでしょうが、これも決まりですから……」
「は、はい」
震える声で返事をして、共に御帳台の中へと入る。明かりが吹き消されて、室内が真っ暗になった。
(い、いよいよなの……?)
ぎゅっと身体を縮こまらせた沙映の肩に、ゆっくりと衣がかぶせられた。
――被せられた?
「さあ、おやすみなさい。詳しいことは、また明日にでも」
密やかにそう声をかけられて、沙映はぱちぱちと瞬きをして――そうして。
「え?」
背後から、すうすうと寝息が聞こえる頃になって――初めて沙映は、小さなつぶやきを漏らしたのだった。
このようにして始まった新婚生活であったが、このこと以外は全くもってつつがなく、穏やかな日々が流れていた。
「ほら、しっかり食べなさい」
「は、はい……」
一夜が明けて、まず開口一番に明隆が沙映に言ったのは「あなたは少々痩せすぎではないですか」という、色気のかけらもない言葉だった。
それからというものの、明隆は折々に沙映においしいものを持ち帰るようになった。特に沙映が喜んだものは何度も持ってくる。
「まあ、干し棗ですね……!」
「沙映姫はこれがお好きなようなので」
こくり、とうなずくと、明隆は口元に緩い笑みを浮かべて脇息にもたれかかった。最初の頃に比べ、ずいぶんくつろいだ様子だ。直衣を引っかけただけのくだけた装いであることもそれに拍車をかけている。
はにかんだように笑ってくれるその顔に、胸がきゅうっと苦しく思われるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
骨と皮ばかりだった沙映の体つきが、ややふっくらと年相応の膨らみを取り戻し始めた頃だったか、あるいはそれよりも前だったか。
やや顔を赤らめた沙映が受け取ると、明隆の笑みがますます深くなる。まるで自分の心の内が見透かされているようで、なんだか気恥ずかしい。
それをごまかすように、干し棗を一つ口の中へと放り込む。
(もしかして、共寝をなさらないのは私が痩せすぎていて、子を産めなさそうだと思っていたからなのかしら……?)
そんな風に意識してしまうと、さらに気恥ずかしさが増す。もじもじとうつむいた沙映の様子に何を思ったのか、明隆はただ無言でそんな彼女を見つめている。
沙映が変わったのは、何も体つきばかりではなかった。
古ぼけた着物ばかり持っていたのが気になって、明隆は様々に生地を取り寄せて新しいものを作らせたのだ。
そのときのことを思い出して、明隆は小さくため息をついた。
なにしろ、目を輝かせて布地をあれやこれやと見たと思えば「これは明隆さまに……」などと言い始めてしまうのだ。これを、すべて自分のものに使ってよいのだというと目を丸くされたのを思い出す。
「こっ……このような生地を、私によいのですか?」
――もはや、宮家のわがまま姫という前評判がいかに的外れなものであったか明隆は十分に理解していた。
それから、密かに人を使って調べてみれば、彼女は中務郷の宮が北の方に隠れて通っていた先で生ませた娘であることも突き止めた。
(全く……ひどい話だ)
中務郷の宮は、ずいぶんな恐妻家であるというのが世間のもっぱらの噂だ。その北の方は、おそらく沙映の存在を疎ましく思っていたのだろう。
婚儀だというのに、古ぼけた装束を纏わされた、痩せ細った少女。それだけで、充分にそれが見て取れるというものだ。
今様の新しい衣を身に纏い、美しく装った沙映は、明隆の目には非常にまぶしく映る。ここに来たばかりの頃よりも格段に増えた笑顔が好ましい。
こんな風に穏やかな日々が続いている。結婚も悪いものではなかった。
甘味で、絹で喜んでくれる稚い妻は、きっと夫婦の契りのなんたるかも知らないのかも知れない。
(ならば、このままでいいではないか)
何にも知らせず、ただこうして穏やかに過ごせるのなら、それで。本物の夫婦とならずとも、それで。
脇息にもたれかかり、沙映の喜ぶ顔を見つめながら、明隆はそんなことを思って微笑んだ。
だが――そんな風に思っていたのは、明隆だけだったのである。
沙映は、緊張でかちんこちんになりながら明隆の来訪を待っていた。既に就寝の準備は滞りなく済まされている。
沙映の結婚にあたり、中務郷の宮家からは使用人はひとりも連れてきていない。絢子が渋ったこともあるが、みな陰陽師という得体の知れない主がいる家に行くのを嫌がったからだ。ただ、安倍家ではそれもまた織り込み済みであるのか、仕えるべき女房も女の童もすべて集めてくれていた。
その女房たちをとりまとめるのは、藍という名の女房で、年の頃は二十前後と見受けられる娘だ。若いようだがこちらには勤めて長いらしく、沙映の支度もすべてこの女房が先頭に立って整えてくれた。
大勢いたその女房たちも、今はもうおのおのいるべき場所へと散っていって、今は沙映一人がこうして残っているという状況だ。
(本当に、このように準備をしていただいて……これらすべて、私のために用意してくださったなんて)
室内を見回して、沙映はそんなことを考える。
なにしろ、自邸では几帳さえろくにおいていないような有様だったのだから、こうして充分な調度に囲まれていると夢を見ているかのようだった。
立派な御簾も、薄絹を垂らした御帳台も――。そこでまた、沙映はごくりと喉を鳴らした。
(と、とにかく……あそこでお待ち申し上げればいいのよね)
もう、それを考えるのは何度目だっただろうか。ふと、空気が揺れて「おや」と男の声が耳朶を打つ。
「まだお休みではなかったのですね」
「え、あ、はい……」
振り返ると、御簾を持ち上げた明隆がそこにいた。どきどきしていた心臓が、どきんとひときわ大きく脈打つ。
(お、男君がいらっしゃったら……どうするのでしたっけ……)
継母や異母姉が何か言っていた気もするが、すべて頭から飛んでしまった。あわあわとしている沙映に、明隆が困ったように微笑みかけてくる。
「さ、今日はお疲れでしょう。私が一緒ではいささか気詰まりでしょうが、これも決まりですから……」
「は、はい」
震える声で返事をして、共に御帳台の中へと入る。明かりが吹き消されて、室内が真っ暗になった。
(い、いよいよなの……?)
ぎゅっと身体を縮こまらせた沙映の肩に、ゆっくりと衣がかぶせられた。
――被せられた?
「さあ、おやすみなさい。詳しいことは、また明日にでも」
密やかにそう声をかけられて、沙映はぱちぱちと瞬きをして――そうして。
「え?」
背後から、すうすうと寝息が聞こえる頃になって――初めて沙映は、小さなつぶやきを漏らしたのだった。
このようにして始まった新婚生活であったが、このこと以外は全くもってつつがなく、穏やかな日々が流れていた。
「ほら、しっかり食べなさい」
「は、はい……」
一夜が明けて、まず開口一番に明隆が沙映に言ったのは「あなたは少々痩せすぎではないですか」という、色気のかけらもない言葉だった。
それからというものの、明隆は折々に沙映においしいものを持ち帰るようになった。特に沙映が喜んだものは何度も持ってくる。
「まあ、干し棗ですね……!」
「沙映姫はこれがお好きなようなので」
こくり、とうなずくと、明隆は口元に緩い笑みを浮かべて脇息にもたれかかった。最初の頃に比べ、ずいぶんくつろいだ様子だ。直衣を引っかけただけのくだけた装いであることもそれに拍車をかけている。
はにかんだように笑ってくれるその顔に、胸がきゅうっと苦しく思われるようになったのは、いつ頃からだっただろうか。
骨と皮ばかりだった沙映の体つきが、ややふっくらと年相応の膨らみを取り戻し始めた頃だったか、あるいはそれよりも前だったか。
やや顔を赤らめた沙映が受け取ると、明隆の笑みがますます深くなる。まるで自分の心の内が見透かされているようで、なんだか気恥ずかしい。
それをごまかすように、干し棗を一つ口の中へと放り込む。
(もしかして、共寝をなさらないのは私が痩せすぎていて、子を産めなさそうだと思っていたからなのかしら……?)
そんな風に意識してしまうと、さらに気恥ずかしさが増す。もじもじとうつむいた沙映の様子に何を思ったのか、明隆はただ無言でそんな彼女を見つめている。
沙映が変わったのは、何も体つきばかりではなかった。
古ぼけた着物ばかり持っていたのが気になって、明隆は様々に生地を取り寄せて新しいものを作らせたのだ。
そのときのことを思い出して、明隆は小さくため息をついた。
なにしろ、目を輝かせて布地をあれやこれやと見たと思えば「これは明隆さまに……」などと言い始めてしまうのだ。これを、すべて自分のものに使ってよいのだというと目を丸くされたのを思い出す。
「こっ……このような生地を、私によいのですか?」
――もはや、宮家のわがまま姫という前評判がいかに的外れなものであったか明隆は十分に理解していた。
それから、密かに人を使って調べてみれば、彼女は中務郷の宮が北の方に隠れて通っていた先で生ませた娘であることも突き止めた。
(全く……ひどい話だ)
中務郷の宮は、ずいぶんな恐妻家であるというのが世間のもっぱらの噂だ。その北の方は、おそらく沙映の存在を疎ましく思っていたのだろう。
婚儀だというのに、古ぼけた装束を纏わされた、痩せ細った少女。それだけで、充分にそれが見て取れるというものだ。
今様の新しい衣を身に纏い、美しく装った沙映は、明隆の目には非常にまぶしく映る。ここに来たばかりの頃よりも格段に増えた笑顔が好ましい。
こんな風に穏やかな日々が続いている。結婚も悪いものではなかった。
甘味で、絹で喜んでくれる稚い妻は、きっと夫婦の契りのなんたるかも知らないのかも知れない。
(ならば、このままでいいではないか)
何にも知らせず、ただこうして穏やかに過ごせるのなら、それで。本物の夫婦とならずとも、それで。
脇息にもたれかかり、沙映の喜ぶ顔を見つめながら、明隆はそんなことを思って微笑んだ。
だが――そんな風に思っていたのは、明隆だけだったのである。