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御殿の湖の畔を囲う紅葉は綺麗な緋色を湛え、秋風が肌を優しく撫でる。
わたしは、一人で狗神御殿の裏…東屋にて、伏水様の墓碑にお祈りを捧げていました。
苔生す大岩。彫り込まれた文字はほとんどが欠けてしまったまま。
けれどわたしは、そこに刻まれていたかもしれない内容に、一つだけ心当たりがありました。
母様が寝る前に話して聞かせてくださった、狗神様のお話。わたしの好きな一節。
【ーーー早苗。斯様な場所で何をしている。】
「っ!」
背後から名を呼ばれ、わたしは思わずその場で、小さく飛び上がってしまいました。
その優しいお声は、
「…い、狗神様っ…。」
白銀の毛並み。大きな体。御殿の主である狗神様が、お供も付けずお一人で、東屋へといらしていたのです。
「も、申し訳ありません。すぐ参りますので、少しだけ…っ。」
【構わぬ。“今日という日”を皆が待ち侘びていた。心が落ち着かぬのも理解出来る…。】
狗神様は体を引き摺り、墓碑の前へと進み出ました。
その弱々しい姿に、わたしは力不足と分かっていながら、支えを買って出ました。
【すまぬな……。】
「いいえ…。」
触れればよく分かる。柔らかな毛並みと骨張ったお体。豊かな水と、森の香り…。
それはかつて狒々の池泉の森の中で、一人きりのわたしに寄り添ってくださった見知らぬ獣と、よく似た雰囲気がありました。
…でも、いいえ、そんなまさか。
【…早苗。そなたは、我を憎まぬのか?】
「え…?」
突然の問いに、わたしはすぐに答えられませんでした。
狗神様の声色は苦しげで、どこか自嘲的でもありました。なぜそんなことを問われるのでしょう…。
【我は永きに亘り、犬居家を呪いで縛り付けた。そして、そなたの母を殺した…。
なぜ、それほどまでに易々と、我を受け入れられる…?】
「………あ……。」
大きな深い琥珀の目が、わたしの姿を捉えます。
不思議と恐怖は無く、むしろこの方の求める答えをどうしたら正しく伝えられるか…しばし思案した末に、
「神様は恵みだけを授けてくださるものではないと、母様が教えてくれたのです。
雷雨と晴天の移ろいのように、荒魂も和魂も等しく、わたしは受け入れます…。」
ーーーそれに。あなたはわたしを“早苗”と呼んでくださった。
「…わたしのことを、ずっと見守っていてくださったのですよね。わたしが、狗神様にお祈りをしていたから。」
【………。】
幼い頃からの信心は一方通行ではなかった。
それが知れただけでも、わたしには充分過ぎるくらい。
狗神様は目を瞑り、わたしの答えを受け入れてくださいました。
【…我はじきに死ぬ。
とうとう、伏水と相見えることは叶わなかった…。初めから分かっていたことだ。
現世の何処にも、彼女は在りはしないというに……。】
「狗神様……。」
そう呟くと、狗神様は悲しげに項垂れます。
その横顔を見つめていた時、わたしの頭に、昔母様が教えてくれた“歌”が思い起こされたのです。
「………伏水の…、」
その歌い出しを聴いた時、狗神様の体がびくりと震えました。
「… 伏水の 湧きて流るる 山川を
岩苔の下 伏して待たなむ…。」
【………伏水の歌か。】
言い伝えでは、狗神様の最初の奥方様が、ご自身の最期に狗神様へ贈った歌。
ーーー山の湧水が、やがて豊かな川となって流れるように、私もいつか貴方の元へ帰ります。その日をいつまでも、苔生す立派な岩となって待っていて下さい。ーーー
「…命が尽きても、体が絶えても、魂となってきっとまた逢える…。
“死は終わりではない”と、…わたしにはそんな思いが読み取れます。
…お二人は、心から思い合ってらしたのですね。」
【…………。】
狗神様は、墓碑を見つめています。
ふと、悲しげだった横顔の中に、どこか安らぎにも似た色が浮かんだのが分かりました。
心の中で言葉を交わされたのでしょうか。狗神様は、やがて愛おしそうに目を細めます。
【…分かった…。
ーーーそなたの帰りを、伏して待つとしよう…。】
狗神様はわたしの腕にほんの少しばかり重みを預け、そうして小さな声で、切なげな遠吠えをひとつ上げられました。
…やがて、狗神様はわたしの顔を見ると、低く優しいゆったりとしたお声で仰いました。
【……参ろう。皆が待っている頃だ。】
「はい。」