◇◇◇

「……仁雷、すまなかったな。
…早苗さんに言いたいこと、山ほどあるだろ?ゆっくり話しておやりよ。」

やがて義嵐は、未だ溢れ続ける思いをグッと堪え、話の先を俺へと継いでくれた。

「……ああ。ありがとう、義嵐…。」

伏水様の墓碑の前で、早苗さんと俺は向かい合う。その美しい黒い瞳に吸い込まれそうになる。
未だかつてない緊張に襲われながら、俺は言葉を搾り出す。

「………その、早苗さんを騙していて、も、申し訳ない…。」

さっきまでの気丈な俺はどこへ行ったのだろう。
狗神の座を要求した時よりも、山犬達の前で宣言した時よりも、俺は早苗さんを目の前にすると緊張でどうにかなってしまいそうなんだ。

俺の焦りを察してか、早苗さんは黙って微笑んでくれる。そのお陰で、ほんの僅かに緊張が和らいだ。

「…初めて会った時、“俺の奥方になるかもしれない人”と思うとひどく心が乱れてしまって…不恰好なところもたくさん見せてしまったと思う…。

死と隣り合わせの巡礼の中で、自分の意志を貫いて前を進む貴女に、俺は惹かれていったんだ…。」

なおも黙って耳を傾けてくれる早苗さん。
…図らずも(ずる)い方法で彼女の本心を知ってしまったから、せめて男らしく、俺も本心を伝えなければと思った。

「もし許してくれるなら、
…俺は貴女を、死ぬまで護り続けたい。」

俺は懐からある品を取り出す。
岩場から採った琥珀の勾玉が付いた、手製の玉簪(たまかんざし)だ。

その勾玉に、早苗さんは見覚えがあるはず。

「…仁雷さま、これ、岩場のお堂で……。」

「…そうだよ。貴女が拾ってくれた物。
すべての試練を達成した証として、この(ぎょく)(かんざし)を受け取ってもらいたいんだ。」

「………かん、ざし……。」

早苗さんは何かに気付いたように、目を大きく見開く。

懐剣、手鏡、簪…それらは人の世でいう、“嫁入り道具”だ。
犬居の娘達が巡礼をやり遂げた暁には、奥方として受け入れたい。その思いを込めてこれまで三種の宝を贈り続けたが、その風習ももうこれが最後。

俺が恐る恐る、彼女の綺麗な纏め髪に簪を差すのを、早苗さんは涙を浮かべながら、受け入れてくれた。


「…早苗さん。
この山には大勢の山犬や、物の怪達、それに貴女達人間もいる。血の優遇なく、皆で支え合い、考えを混ぜ合い、山を治めていこうと思うんだ。
勿論、賛同してくれる者ばかりじゃない。辛く険しい道になると思う。

…そんな道を、生涯隣で支えてくれる存在が早苗さんであったら、これほど幸福なことはない。」

彼女を決して死なせない。
例え“狗神の血筋が途絶える”結末になろうとも、俺は生涯早苗さん一人が居ればいい。

早苗さんがいいんだ。


「はい…。どこまでも一緒に参ります。
仁雷さまと、義嵐さまと、わたし。本当の家族になって。」

俺の体を押し潰す勢いだった緊張が、ふと和らいだ。
早苗さんが右手で俺の手を、そして左手で、背後に控える義嵐の手を握ったのだ。

「…おれ達三人が、家族?」

「はいっ。…だって、約束してくださいましたでしょう?
わたしを護り抜いてくださるって。」

早苗さんの屈託のない笑顔。
それが今までどれほど俺の、俺達の救いになってきたか分からない。

「……ほんっとうに、破天荒娘だなぁ…。」

義嵐の軽口も、涙声では格好が付かなかった。
そして俺も。

「……ハハ、義嵐が父で、俺達がその子どもか。…それも悪くないな。」

俺達三人はそれぞれの顔を見つめ合う。
紅潮する顔と、潤む瞳。こんな気持ちは、“何百年”も生きてきて経験の無いことだった。

生まれて初めての幸福感に包まれながら、俺は視界の隅で見守ってくれる、伏水様の墓碑に願うのだ。


“…もう、大丈夫ですよ。
だからどうか心安らかに。…母上。”