その者は信じられないという顔で、わたしの大好きな方の姿で、なおも続けます。
「……なぜ…、お願いだ、早苗さん!
俺は俺だよ…っ。貴女に嘘は吐かない…決して…!」
わたしの決意がぐらぐらと揺さぶられる。
胸が押し潰されそうに痛み…視界がみるみるぼやけていく。そんな中で、わたしは懐から、蒔絵の手鏡を取り出します。
決して離さぬよう、柄を両手で確と握り込み、仁雷さまの姿の“者”に、鏡を向けました。
【………っ!!】
鏡に映る己の姿と対面したとたん、この世のものとは思えない、不気味な呻き声を上げたのです。
もがくように両手で宙を掻き、それから必死に、自身の顔を隠そうと腕で庇います。
その行動の意味はすぐに明らかとなりました。
「っ!?」
相手の体が、煙のように宙に溶けていくのです。姿形を保てなくなったその者は、煙の中で正体を露わにします。
仁雷さまのものではない…豊かな美しい白銀色の毛並み。大狗祭りの誰よりも大きな大きな体を持つその“山犬”の、深い琥珀色の瞳と目が合います。
「………っ!」
その幾重にも深まる琥珀の瞳は、仁雷さまのものとは全く違う輝きを放ちます。
けれどどこか…嬉しそうな、安心したような輝きもまた秘めており、その一点だけは、仁雷さまの瞳とよく似ていたのです。
かと思えば、山犬は猛烈な突風を巻き起こし、目にも止まらない速さでわたしの横を走り去りました。
「…きゃっ…!」
すぐに振り返ったけれど、白銀の山犬の姿は、千本鳥居の彼方へ消えてしまった後でした。
千本鳥居の中には、山犬の面を被るわたしの姿があるのみ…。
「あれは……。」
あれが、最後の試練だったのかもしれません。
仁雷さまの姿で、仁雷さまの声で、わたしの決意が揺るがぬかどうかを試すために。
「…………。」
もしかすると母様もまた、義嵐さまの姿に惑わされて、命を落としたのやもしれません…。
そうだとしたら、巡礼とはなんと険しく、そして残酷な道なのでしょう…。
「……………っ…。」
わたしはたまらず、その場にしゃがみ込んでしまいます。
進まなければ。仁雷さまを捜さなければ。…なのに、体が思うように動いてくれない。
池泉の山の中では、あけび様と…知らない獣がそばに居てくださいました。
けれど今は、小さく丸くなることしか出来ない、わたし一人だけ。
「………仁雷さま……。」
お顔が見たい。お声が聞きたい。
護る…と、約束してくださったのに。
一番お顔を見たい方がそばに居ないことが、こんなに辛く苦しいなんて。
『この面が、ずっとそばで貴女を護るから。』
ーーー面…。
「………仁雷さまは真摯で…真っ直ぐな方…。」
わたしは手にした蒔絵の手鏡の中に、自身の“山犬の面”を映しました。
仁雷さまが付けてくださった…仁雷さまを思わせる、山犬の面。
それが、どうしたことでしょう。
いつしかそこに“面は無く”、代わりに、
「……………久しぶり、早苗さん。」
わたしの体を後ろから抱き締める、仁雷さまの姿があったのです。
わたしの髪に、ご自身の髪を遠慮がちに擦り付ける素振り。鏡に映る芒色の髪も、深い琥珀色の瞳も、わたしの知る姿そのものでした。
「………仁雷、さま……なの…?」
思わず、声が掠れてしまう。
だって、こんな近くにいるなんて。こんな近くに“居た”なんて、ちっとも…。
「そう。俺は“面”に変化して、ずっと貴女のそばにいた…。
見つけてくれてありがとう。」
「…………あ………。」
拝殿の前で目を閉じていた時、髪を巻き上げる突風が吹いたことを思い出します。
もしかして、あの時…。
「………ほんとうに、仁雷さま、なのですか…?」
「……ああ。そうだよ。
蒔絵の手鏡は真実を映す。
あの物の怪は、早苗さんの望む姿で現れ決意を揺さぶる、“山犬の生霊”だった。
そして、“俺の正体”も、こうして明らかにした…。」
仁雷さまの手に力が込められます。
「巡礼の試練は、すべて達成された。
貴女の弛まぬ努力と真っ直ぐな優しさは、この目で確かに見届けたよ。
本当におめでとう…。」
雉子の竹藪。
狒々の池泉。
そして、大狗祭り。
わたしのこれまでの歩みは、三つの試練を達成し…狗神様の元へ行くため。
けれど、その達成感を噛み締められないくらい、今のわたしは動揺していました。
仁雷さまが、ずっとそばに居た。
それはつまり、わたしが義嵐さまと話したことも…さっきの、わたしの願いを体現した生霊の姿も、すべてすべて仁雷さまに…。
「………わたしの想いも、ぜんぶ、見てらしたのですね……。」
「…………ああ。」
わたしはたまらなくなり、手鏡を足下に落として、両手で顔を覆ってしまいました。
恥ずかしい。悲しい。みっともない。苦しい。消えてしまいたい…。顔が紅潮して、胸が締め付けられるように痛くて、涙が止め処なく溢れ出て来るのです。
「………あなたには、知られたく……なかったのに……っ。」
どうせ叶わぬ想いなら、わたしの胸の内に永遠に留めておきたかった。
「……………………。」
仁雷さまは何も言いません。
ただわたしが声を上げて泣き続けるのを、後ろから優しく体を抱き締めたまま、そばで待ち続けていました。