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おれが、お母上との思い出を語り終えた頃には、早苗さんは目に一杯の涙を溜めて、おれの顔を見上げていた。
その姿も素直さも、一途さも、匂いも。間違いなく、あの人の娘なのだと思い知る。
山犬の仮面でも隠しきれない。残酷なくらい、この子は秋穂さんの面影を残しているのだ…。
「……ここまでの早苗さんの努力を思っても、おれはもう後悔したくない。
最愛の秋穂さんばかりか…彼女に託されたきみまでも失うのが、恐ろしくてたまらないよ。」
ーーーだから…。
「お願い早苗さん。おれと逃げて。」
早苗さんに手を差し出す。
彼女は戸惑いを隠せず、おれの顔と手とを交互に何度も見る。
混乱させてる。当然だ。彼女にとっては人生がひっくり返るほどの出来事に違いない。
辺りに聴こえる囃子の音が、今だけはしんと静まり返るように感じた。
早苗さんはどう思っただろう。
秋穂さんの決意を。そして、彼女の死の上に、今の早苗さんが存在する事実を。
やがて早苗さんは、ゆっくり一言ずつ、胸の内を整理するように言葉を紡ぐ。
「………義嵐さま、は……、」
「…うん。」
「……今も、母様のことを…想って、くださってるのですね……。」
「………。」
早苗さんの目から、一粒の涙が零れ落ちる。
それを拭う資格が今のおれにあるのか、分からない。
「……ああ。心から。
おれにとっては後にも先にも、秋穂さん以上の人はいないよ。」
早苗さんの表情は今は、寂しげで…穏やかだった。
全てを受け入れる優しい顔には、秋穂さんを護れなかった“おれ”への憎しみも、お母上の死の元凶である“狗神”への憎しみすら宿っていない。何も。
早苗さんは涙を二粒、三粒と零しながら、胸の内を明かしていく。
「……母様は、わたしくらいの年の頃から犬居家に奉公に出されて、見て呉れの美しさを買われて妾となったそうです。父様との間に愛があったかも分かりません…。きっとわたしの想像に及ばないほどの、大変な苦労があったと思います……。
でも、仁雷さまと、義嵐さまと出会えた…。
それはきっと、母様の救いになったに、違いありません……。」
その優しい表情の意味を知った時、
「だって、わたし自身がこんなにも、心救われているのですから。
人の暮らしの中では得られなかった安らぎを、お二人が惜しみなく与えてくださったのだから…。
本当に…ありがとうございます……。」
おれは胸がひどく締め付けられた。
息苦しいほどの焦燥に駆られた。
いけない、早苗さん。
「……それは、おれ達が狗神のお使いだからだ。…犬居の娘を護ることが役目だからだ。
…“きみのため”である保証は、無かったんだよ…?」
「……例え、そうだったとしても、いいんです。
死に行く旅の中で、束の間でも、“誰かに恋焦がれる想い”をさせていただいたのですから。
…義嵐さまを愛した母様に、後悔は無かったと信じています。
そして、…仁雷さまを愛せたわたしも、後悔はありません…。」
「……………。」
おれは何十年も流れ作業のように、犬居の娘達の最期を見送ってきたが、そこに存在する彼女達自身の“心”は、少しも考えなかった。
ーーー今になって。よりにもよって、一番死なせたくない人の本心を知ることになるなんて…。
今度は、おれが項垂れる番だった。
どうあっても早苗さんは、意志を曲げないだろう。
そっくりだ。そういうところが…。
「…義嵐さま…。
わたし、やはり、試練を続けたいです。
わたしの、わたし一人の力で、試練を達成したい。
そうしてその先で…狗神様にお目通りが叶うなら、わたしどうしてもお会いして、“お願いしたいこと”があるのです。」
「………お願いしたいこと……?」
そんな要望を持った者はこれまで一人もいなかった。
早苗さんは今この場では、その言葉の意味を教えてはくれなかったけど、
「皆様の優しさの上に成り立つわたしの命を…決して無為には終わらせません。」
泣き出してしまいそうな笑顔で言ったのだ。
「……そっか。」
おれは項垂れていた頭をもたげる。
早苗さんの慈悲に満ちた顔を見ると、おれの心までも救われる気がした。
ーーー仁雷の姿がこの場に無いのが、残念でならないな…。
それから祭りの灯りの方を見遣り、おれは刻の訪れを感じ取る。
「…早苗さん、もう間も無く、大狗祭りの正念場が始まる。」
「……え…?」
その直後だ。
祭りを謳歌していた山犬達が突如一斉に、天上の月に向かって遠吠えを上げた。
何十、何百という山犬の合唱は、空気をびりびりと振動させる。同じ山犬たるおれの心臓までもが同調し、高鳴りを覚えた。
次に、山犬達は次々に変化を解き、本来の獣の姿をもって、一斉に拝殿の奥…本殿の方向を目指して駆け出した。
黒、茶、赤、様々な毛色の蠢く大群は、まるで一匹の巨大な物の怪のようでもある。山犬達の足音は地響きとなり、立ち並ぶ屋台を大いに揺らし、中には振動に耐えきれず崩れ落ちる屋台もあった。
境内の隅に立つこの物見櫓でさえ、足場がぎしぎしと軋む。落ちないよう、早苗さんの小さな体を支えながら、おれ達は山犬達の行く先を見送った。
「……義嵐さま…皆様は、どうなさったの…?」
「大狗祭りは十年に一度、狗神への目通りが許される日でもある。白露神社の本殿…狗神御殿に、おれ達の主神が御座すのさ。
山犬達はずっとこの日を待ち侘びていた…。」
物見櫓の上からは、拝殿奥の山の中へ伸びる、朱色の千本鳥居が目視できる。
山犬達は続々と鳥居を潜り、山の上に位置する狗神御殿を目指す。
そして、おれもまた…。
「…早苗さん、きみの意志は伝わった。
おれは一足先に、狗神御殿できみを待つよ。」
おれは人間の変化を解き、燃え尽きた炭のような、黒々とした大きな山犬へと変わる。
…秋穂さんが愛してくれた姿へ。
【……必ず、きみが生きて、最後の試練を達成してくれると信じているから。】
「……義嵐さま……っ。」
そうしておれは身を翻し、櫓の天辺から狗神御殿の方角へ、高く高く跳躍した。
一度拝殿の屋根に着地をし、踏み台にしてさらに高く跳ぶ。
後方に過ぎ去る櫓から、微かに早苗さんの声が聴こえる。
「………はいっ、わたし、きっと…!」
大丈夫。
きみなら、大丈夫と信じてる。