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十年毎に狗神の命令で、仁雷とおれは始まりの場所…山犬の岩場にて、新たな犬居の娘が献げられる瞬間を見届けてきた。

それは大昔から幾度も行われた通例の儀式で、仁雷もおれも、自身に課せられた役目を淡々とこなすだけだった。
犬居の娘を守護し、三つの巡礼地を訪ねる。

犬居の娘は言わば、狗神様の所有物だ。
だからこれまで、おれ達は特別な感情を抱かなかった。唯一思うところがあるとするなら「気の毒に」程度。

元々、外山(そとやま)からこの地に流れて住み着いたおれからすれば、たかだか「この地に長く住んでいる」という理由だけで、若い身空で命を落とさなければならない運命は、ひどく不憫(ふびん)に思う。

…だから、仁雷の毎度の肩の入れようには、正直呆れてた。
だってそんなに親身になったら、娘はお前を好いてしまうだろ?

なぜ狗神がおれ達に、見目麗しい人間の姿に化けるよう命じるのか。それは、娘がおれ達に(うつつ)を抜かすことなく、狗神への信心を保っていられるか…それを試しているんだ。
酷い話だろ。

…仁雷は生真面目で鈍い男だから、そんな真意に気付くことはないだろうが。


十年前の、今日みたいな秋晴れの日に、山犬の岩場に送り出された犬居の娘…それが秋穂さんだった。

黒い髪に、大きな瞳。美しく、真っ直ぐな心の持ち主。そんな印象だった。
淡い若草色の着物も、彼女の素直な心を体現しているようで、よく似合っていた。

【きみが犬居の娘か。】

初めて彼女の匂いを感じ取った時、本物の山犬を見て内心ひどく怯えていたけれど…彼女はそれを表には出さなかった。
狗神に目通るため。なんとしてでも巡礼をやり遂げる。そんな強い意志を感じた。

「はい。犬居…秋穂と申します。」

…今思えばこの時点で、秋穂さんが妾であることに気付けていれば、きっと未来は違ったんだろう。
犬居の娘特有の匂い…それは、狗神にしか嗅ぎ分けられないものだから。

「義嵐様。」

彼女に何度名を呼ばれたか。
どんな時でも彼女は強くあろうとした。おれ達を信頼してくれて、何があっても決して、巡礼から逃げ出そうとはしなかった。

なぜそれほどまでに強い信心を持つのか…。
一体なぜ、そこまで強くいられるのか…。

彼女は不思議な人だった。
素直なのに、とても謎めいて見えた。

「義嵐様。」

彼女がおれの名を呼ぶ度、

「ねえ、義嵐様。」

おれは、知らず知らずの内に彼女を目で追い、彼女の匂いを覚え、その体にその髪に触れたいと願い、

「義嵐様…。」

そうしていつしか、

【秋穂さん…おれは、きみを好いているよ。】

お使いの身でありながら、山犬の身でありながら、人である彼女をすっかり愛してしまっていた。

困らせてしまうことは分かってた。
でも、一度自分の気持ちに気付いてしまったらもう隠すことは出来ない。

狗祭りへ向かう前夜、山の中でひっそりと、おれは秋穂さんに想いを伝えた。
…伝えただけだ。それをどう受け止めるかは、卑怯にも彼女自身に任せた。

【巡礼の邪魔をしようとは思わない。
きみがここに来るまで、どれほど頑張ったかを知ってるから。
でも、せめて知っていてほしい。
大勢の山犬のうちの一頭が、狂おしいほどにきみに恋焦がれていることを…。

…おれがただの山犬であったなら。…いいや、おれが人間だったなら、胸を張ってきみの隣に並び立てたのにな。】

秋穂さんがおれの毛並みを撫でてくれる感触を、しっかりと体に覚え込ませる。
秋穂さんはただ笑ってた。笑ったまま、何も返事はしなかった…。

…ああ。秋穂さん…ごめんよ…困らせて…。
君の本心なんて何も気付かず、おれはひとり呑気に過ごしていただけなんてな…。