白露神社の立派な拝殿を前に、わたしは溜め息を()いてしまいます。
本来(ほんらい)の色を見せる柱に、山犬を模した大胆な彫刻。とても古い建物のようですが、時を経ても全く色褪せない荘厳さがありました。

「白露神社は、“狗神が住まいの入り口”。早苗さん、手を合わせて、挨拶と報告をしてくれるかな?」

仁雷さまと義嵐さまが進み出ます。
賽銭箱も本坪鈴も無い入り口に立ち、柏手を打って祈りを捧げる…。わたしもそれに倣い、手を合わせて目を瞑りました。

ーーー狗神様がいらっしゃる…。とうとう、ここまで来たのね…。

そうして心の中で、狗神様へたくさんのことをお話ししました。
これまでの試練で感じたこと。巡礼先で出会った優しい皆様のこと。仁雷さま、義嵐さまへの感謝と、特別な気持ち。そしてもうすぐお会い出来るかもしれない狗神様への…期待と不安。

ご報告と同時に自分の心と向き合うと、揺らぎそうな気持ちがまだ残っていることに気付きます。

ーーーいけない。わたしは生まれた時から、このために…。犬居の娘なのだから…。

だから(きた)る時まで、お二人との…仁雷さまを想う時間を大切に……。


「…早苗さん、目を閉じたまま聞いて。」

左から、仁雷さまの落ち着いた声が聞こえました。
わたしもまた落ち着いた気持ちで「はい」と答えます。
けれど、その後に続く言葉は、わたしの決意を揺るがせてしまうほどの内容でした。

仁雷さまの低い唸り声が響きます。


【ーーー早苗さん、最後の試練だ。
この大勢の山犬の中から、“俺を見つけて”。】


「……え?」

その直後、突風がわたしの髪を巻き上げました。
驚き、しかし目は固く閉じたまま、何か良くないことが起こったのかと身構えます。

「……じ、仁雷さま?
一体、どういう意味なのですか……?」

暗闇の中で問い掛けます。…けれど、仁雷さまからの返事はありません。
恐る恐る目を開け、左を見ると、

「…………えっ…あれ…?」

ついさっきまでそこに立っていたはずの仁雷さまの姿は、雲散霧消していたのです。
辺りを見回しても、大勢の山犬達の姿はあれど、見慣れた芒色の髪を見つけることが出来ません。

拝殿の前にはわたしと義嵐さまのみ。
わたしは弾かれるように、義嵐さまへと顔を向けます。

「……ぎ、義嵐さま…!
仁雷さまが……これが…、大狗祭りの、試練なのですか…?」

義嵐さまは合わせていた手を下ろし、そして穏やかな目をこちらへ向けて、仰いました。

「…遊びに行こっか、早苗さん。
祭りはまだ始まったばかりだから。」

「………えっ…?」

わたしが聞き返すよりも先に、義嵐さまに手を引かれ、背後で聴こえる賑やかな祭囃子の中へと導かれて行きます。


体の大きな義嵐さまは、人混みを物ともしないで、目当ての屋台を目指します。

「……あっ、あの、義嵐さま…!?」

「あ!なあ、それひとつくれる?」

義嵐さまは、飴細工の屋台のご主人に声を掛けると、目立つ位置に飾られていた飴をひとつ受け取ります。
そのまま流れるように、飴をわたしへと手渡しました。

「あっ………。」

「ほらどーぞ、早苗さん。これ食べながら周ろうじゃないか。」

ツヤツヤとした鼈甲飴(べっこうあめ)は、四つ足の犬…いいえ、どうやら山犬の形になっています。狗祭りらしい細工に思わず見入ってしまいますが、

「あ、ありがとうございます…。
でも、義嵐さま、わたし……。」

仁雷さまを捜さないと。
飴をお返ししようとしますが、義嵐さまは次の屋台へ向け、足早にわたしを連れ出します。

「……義嵐さま………。」

一体何を思ってらっしゃるのかしら…。
疑問は大きくなります。けれど、わたしを引く義嵐さまの手は力強く…何か大切な思いを隠していらっしゃるような気がして。
わたしには、彼の歩みを止めることが出来ませんでした。