連なる稜線を越え、天高く昇っていたお日様が、また山の向こうへと沈んでいく頃。
わたし達が辿り着いたのは、夕暮れの太陽に照らされて一層黄金の輝きを増す、見渡す限りの芒の平野でした。
「………まぁ…!!」
その幻想的な美しい風景に、わたしは感嘆の声を漏らします。
狗神様のお山の中に、こんな場所があったなんて知りませんでした。
義嵐さま、仁雷さまも、雄大な芒の野を、どこか懐かしげに眺めます。
「見えるかい?あれが白露神社だよ。」
義嵐さまの指差す彼方には、大きな切妻屋根を備えた、神社らしき建物が見えました。
芒の野の中に一本だけ、芒が刈られ均された道が伸び、わたし達の立っている場所とその白露神社とを繋いでいるのが分かります。
耳をすませば、微かに聴こえる囃子の音。間違いありません。あれこそが、
「大狗祭り…が、行われているのですね…。」
試練へ挑む緊張感はあります。
けれどなぜでしょう。軽快な太鼓や笛の音色に、つい心を躍らせてしまうのは。
音の方へ体が引き寄せられる感覚。そんなわたしを、仁雷さまが引き留めました。
「早苗さん、祭りに向かう前にこれを被って。」
「え?」
仁雷さまが懐から、ある物を取り出します。
木を薄く削り出したのでしょうか。丁度顔の上半分を覆うような形状で、目の辺りには視界を確保するための穴が開けられています。控えめにつんと尖った鼻と、三角形の耳。それは、山犬を模したお面でした。
どこか、仁雷さまのお犬の姿に似ています。
「可愛い…!わたしが被っていいのですか?」
「ああ。昨晩、貴女に合うよう作った物だから。」
「えっ…え!昨晩!?
仁雷さまが作られたのですかっ?すごい…!」
予想外のことに、わたしは驚きを隠しきれませんでした。
確かにその面は汚れひとつ無い新品。削り出しは見事で、てっきり名のある職人の手仕事かと思ったものですから。
「へへ、早苗さん。仁雷はお使い歴ウン十年の玄人だよ。手先が器用でね、このくらいはお手の物さ。」
仁雷さまの後ろから、ひょっこり顔を出した義嵐さまが、我が事のように教えてくださいました。
そっか…、そうよね。お二人は今は人の姿をしているけれど、実体は何十年も生きている山犬のあやかし。
山犬の面からは、これまで気の遠くなるほどの時間を鍛錬に費やしてきたことが窺えました。
ーーー人の寿命など、あっという間に尽きてしまうほどの長い時間を…。
仁雷さまの持つ面が、そっとわたしの顔に宛てがわれます。この芒の原と同じ、黄金色の組紐が頭の後ろで結ばれる感覚があり…、山犬の面は驚くほど顔の形に馴染みました。
仁雷さまと義嵐さまは面を見つめ、嬉しそうに褒めてくださいます。
「うん。よく似合ってる。」
「可愛いよ。おれらの仲間みたいだ。」
「あ、ありがとうございます……。」
照れながらもわたしも気になって、帯から手鏡を取り出し、顔を映します。鏡の中の、木製の山犬と目が合いました。
面を被るなんて生まれて初めて。自分のはずなのに、自分ではないような不思議な感覚。でも、決して嫌な気持ちはありませんでした。
「でも仁雷さま、なぜ面を…?」
面といえば、儀式的な意味合いが強い道具です。狗神様の巡礼自体をひとつの大きな儀式と見るならば、何となく、これまでの試練とは一線を画すような緊張を覚えます…。
「山犬の仲間達は、俺と義嵐が巡礼のお供をしていることを知らない。ましてや犬居の娘を連れているなんて思いもよらない。」
「なぜですか?仲間なのに…。」
「大狗祭りでの試練を恙無く遂行するためなんだ。
だから早苗さんには、“遠方から狗祭りに遊びに来た山犬の客人”として振る舞ってもらいたい。」
山犬として振る舞う…。しかし面を被っただけで、身も心も山犬になれたわけではありません。わたしはお二人のように変化も出来ませんし…。
わたしの不安な気持ちを察して、仁雷さまが柔らかく仰います。
「大丈夫。皆祭りに夢中で、早苗さんを物珍しがって詰め寄る…なんてことにはならないから。
この面が、ずっとそばで貴女を護るから。」
「そ、そうですか…ちょっと、安心いたしました。」
芒の均された道を先導する仁雷さま。
「…さあおいで、早苗さん。」
そのお姿、その優しいお声に、わたしは既視感を覚えます。
最初の巡礼への旅立ち。岩場のお堂から、わたしを連れ出してくださった時も、こんな風に…。
あの時は先の見えない不安で一杯だったけれど、今は違います。
わたしは決意を胸に、仁雷さまと、義嵐さまの後に続くのでした。