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目の前に、仁雷さまがいる。
生きて、声を聞かせて、姿を見せてくださっている。
それだけで、ただそれだけで、わたしはとても救われる思いでした。体の痛みも汗も、このための代償だったとしたら軽いもの。
「ーーー早苗さん、あれをご覧。」
義嵐さまの呼び掛けに、わたしは涙が溢れ落ちてしまいそうなのをグッと堪えます。
視線の先には、崩壊した橋の上に佇む、人の姿の緋衣様。緋色の打掛の後ろ姿は少し寂しげで、足元に横たわる青衣の体を静かに見下ろしています。
「…無法者は孤独じゃな。今までどれほど、私欲により周りを傷付けてきたか…。儂はそなたの行いを聞く事で、この十年で嫌というほど思い知ったよ。」
緋衣様は青衣の胸の円鏡を手に取り、ご自身の円鏡に近づけます。
「もっと早う、気付けていれば良かった。
…ああ、しかし、もしこの戒めが無ければ、儂らは永遠に欲の深い狒々のままじゃったな。」
二枚の円鏡が重なり合い、緋衣様の手が青衣の手と重なり合う。それらが溶け合い、混ざり合い、永遠に感じられるほど長い静寂の中で、彼らは“一人”になりました。
その姿は青色の髪でも、緋色の髪でもありません。
黒に近い、濃紫の長い髪。体格は男性的に大きくもあり、けれど女性的に細くもある。その方は、わたし達の方を振り返ります。
そのお顔立ちに、わたしは息を飲みます。
青衣の雄々しさと、緋衣様の無邪気さを併せ持つ中性的な美貌は、初めてお会いした気がしないのです。
その方のお顔を見て、仁雷さまが名を呼びます。
「…十年間もそんな所に隠れて、何があったって言うんだ。狒々王。」
やはりと言うべきでしょうか。
濃紫の髪のその方こそ、本物の池泉の主。真の狒々王様でした。
「……早苗殿、御名答じゃ。」
狒々王様の声は至極穏やかで、声質はどこか緋衣様に似ていました。
「欲の深い儂は、…狗神様の賜り物であるにも関わらず、池泉の宝をほんの僅かでも、手元に置きたいと願ってしまった。池泉の宝を傷付けてしまった報いとして、削り取った破片の中へ、我が魂は陰陽に分断されたのじゃ。
…しかし、ようやく思い知った。
力に頼り、猿達を辛い目に遭わせて来た自分がどれほど浅ましいか。
そして、儂がどれほど、猿達の献身に救われてきたか。」
あの恐ろしい暴君の青衣も、あの純真な緋衣様も、どちらも狒々王様自身の心を映し出した姿だったのでしょう。
そう語る狒々王様の手には、濃紫の地に、金色の装飾が施された、美しい手鏡がひとつ握られています。
「早苗殿、おめでとう。」
狒々王様はわたしのそばへと歩み寄り、手鏡を静かに差し出します。
わたしは意図が分からず、狒々王様の優しげな笑みを見返しました。
「試練達成の証… 真実を映す“蒔絵の手鏡”。これを、そなたに受け取ってもらいたい。」
「えっ……。」
狒々王様が、その美しい手鏡を、わたしの手に握らせます。鏡の背に施された美しい金の蒔絵は、間違いなく池泉の蟹の甲羅と同じ輝きを放っていました。
「そなたが螺鈿の懐剣で切り分けた桃…あれには、懐剣の守護の力が宿っておった。
お陰で緋衣は青衣を下すことが出来た。そなたが心から、儂に歩み寄ってくれた証拠じゃ…。
ありがとう、早苗殿。」
「…あっ、…だから……。」
緋衣様は、いくら青衣の攻撃を受けても傷付くことがなかった…。
わたしの軽率な行動が、こんな形で実を結ぶとは予想もしていませんでした。
受け取った手鏡にわたしは自分の顔を映します。
泥だらけで、垢に塗れて…ああ、なんて恥ずかしい格好でしょう。けれど、わたしの顔は達成感と勇気に満ち溢れているように見えました。
恥ずかしい格好だけれど…わたしは今の自分自身を、とても誇らしく思えるのです。
「仁雷殿。」
狒々王様は、そばの仁雷さまに目を向けると、彼の血に濡れた唇を、自身の指でそっと拭います。突然のことに驚く仁雷さま。
「…!?」
「そなたにも辛い思いをさせた。しかし、勇敢じゃった。どのような逆境でも決して諦めない、誇り高い山犬の有り様…。若かりし頃の狗神様を見ているようじゃった…。
そなたの強い意志の根幹にあるのは、狗神様の巡礼遂行のためか、それとも、早苗殿のためか…。」
狒々王様の問いに、仁雷さまは淀みなく答えます。その答えを聞いた時、
「約束したんだ。
“何があっても、最後まで早苗さんを護る”と。」
わたしは、体の芯がとてもとても熱くなるのを自覚したのです。