緋衣様と、青衣の疑いの目が、同時にわたしへと注がれます。負けては駄目。
わたしは欄干から半身を乗り出し、水底の巨大な蟹を見下ろします。
「あの蟹の甲羅…とても面妖で、初めて見た時、わたしは目が離せなくなってしまいました。
けれど、わたしはあの輝きに見覚えがあります。…緋衣様と青衣、お二人の首に下げられた円鏡と同じ物に見えるのです。」
「…儂の……?」
青衣が胸元の円鏡に目をやります。
やはり今も身につけている。よほど大切な物なのでしょう。
それこそ、池泉の宝と同じくらい。
なぜ敵対し合うお二人が同じ鏡を所有しているのか…。これはわたしの憶測でしかありません。
「生まれた頃より身につけている、大切な物なのですよね。
…もしやその鏡は、あなた方がお二人に“分たれた”証なのではないでしょうか?」
馬鹿げた話と笑い飛ばされるかしら。ですが、そんな気がしてならないのです。
鏡とは神聖な道具。襟を正し、己の真実を映し出す物。
蟹の甲羅から削り取られた金の破片。それが、元は同じ物であるとすれば、
「お二人の鏡をお見せ合いください。
そこには、何が映っているのですか?」
緋衣様はご自身の鏡を、黙って見つめます。
そして、好奇心に突き動かされ、その鏡をゆっくりと“青衣の方へ”翳すのです。
その時です。鏡の中の己と目が合った青衣の顔が、サァッと青褪めました。
「……どういうことじゃ…。」
思わず一歩身を引く青衣。
しかし緋衣様はそれを許さず、音もなく青衣に詰め寄ると、その太い手首を、自身の細い指で掴み上げます。
青衣の手中にあるもう一枚の鏡。その中に、緋衣様も自身の姿を映し、
「…ホホ、そういうことじゃったか。
青衣、そなたと儂は生まれた頃より腐れ縁であったということじゃ。
まさか狒々王の半身同士であったとは。」
鏡の中の二人の“狒々王様”が、ニンマリと笑みを作ったのです。
【…ひ、狒々王様……っ!!】
鏡の中に映る、主人達の本当の姿を見て、柿様とあけび様が同時に叫びました。
しかし、その声を遮るように、雄叫びを上げたのは青衣です。
緋衣様の手を振り解き解き、肩をブルルッと振るわせたかと思うと、その体をさらに肥大させていく。青い体毛を全身に蓄えた、恐ろしい狒々の姿へと変化します。
【…儂と貴様が狒々王の半身じゃと?
冗談では無い。池泉の主は一人だけ。この青衣だけで良い!!】
青衣は両手を大きく天へ振りかぶると、人の姿の緋衣様目掛け、その拳を振り下ろしました。
いけない、このままでは緋衣様と…仁雷さまも巻き添えに…。
「じんっ……!」
「早苗さん!!」
名を叫ぼうとしたわたしの体を、とっさに人の姿の義嵐さまが抱え上げ、その場から大きく跳びました。
直後、青衣の拳が、今さっきまでわたしが立っていた床板もろとも、緋衣様の体を真上から叩き潰しました。橋の一部が破壊される轟音が辺りに響き渡ります。
「……じ、仁雷さま…!緋衣様…!」
間一髪攻撃を逃れたわたし達は、緋衣様と仁雷さまの姿を目で探します。
けれど後には、青衣の拳に穿たれた無残な床板があるだけ。そこに人の姿は見えません…。
「…は、離して…っ!」
「落ち着いて早苗さん。今は近付いちゃいけない。」
認めたくない。わたしは緋衣様と…それ以上に仁雷さまの無事を求めて、義嵐さまの腕の中で踠きます。
「仁雷はおれの知る山犬の中で一番強いから、大丈夫。早苗さんが信じてやらないと、あいつの面子が立たないよ。」
「……うっ、……………う…。」
義嵐さまの励ましを受け、わたしは必死に落ち着きを取り戻そうと努めます。
けれどそんなわたし達のすぐそばまで、“あれ”は迫っていたのです。
【…良いか小娘、これが答えじゃ。
緋衣は死に、儂一人がこの池泉を治める。
“犬の老いぼれ”の試練など知ったことか。猿共も、宝も、貴様等の命も全部全部、儂の物じゃ!】
青衣が巨体を引き摺り、義嵐さまとわたしの元へ迫り来る…。
目は血走り、剥き出しの牙からは唾液がぼたぼたと垂れて、その姿は怒りを湛えた獣そのものでした。
恐ろしい青い狒々の姿を、わたしは顔面蒼白で見上げることしか出来ません。
わたしを抱く義嵐さまの手に、力が込められるのを感じました。
【……小娘、最期に言い残す事があれば聞いてやろう。儂は寛大な狒々の王じゃからな…。】
青衣がまた、腕を天へと振りかぶります。
ああ、どうして、本当にわたしは…自身の命を差し置いても、叫ばずにはいられないのでしょう。
「“狗神さま”とお呼びなさい!!
この…、罰当たり者!」
わたしの叫び声と同時に、不思議なことが起こりました。
青衣の背後…崩壊した床板の底から、別の狒々が飛び出してきたのです。燃えるような緋色の目と、同色の毛を蓄えた、雄々しい巨大な狒々。その胸元には金の円鏡。
【…緋衣様…!!】
柿様が泣きそうな声を上げました。
緋衣様は傷ひとつ無い体で、そのまま青衣目掛けて突進しました。獣と獣のぶつかり合う音と振動は凄まじく、橋全体が大きく揺れるほど。
【緋衣、貴様!!なぜ生きておる!?】
青衣は叫びながら、鋭い歯を剥き出し、緋衣様の首元に噛み付きます。
しかし奇妙なことに、牙は見えない壁に阻まれるように停止し、緋衣様の体を裂くことは出来ないのです。
今度は緋衣様が牙を剥き、青衣の二の腕を捉えました。
痛みに絶叫する青衣。闇雲に腕を振り回し、牙から逃れようとしています。
青衣に顔を殴られようとも、緋衣様には傷ひとつ付かず、決して歯牙を離そうとはしませんでした。
【…この、化け物め!!】
青衣の振り上げた腕の筋肉が、一層太く盛り上がります。渾身の力を込めた拳を、緋衣様目掛けて振り下ろそうとしますが…、
【……ッ!!】
喉笛に“別の歯牙を受け”、青衣は悲鳴を上げることすら叶わなくなりました。
その歯牙の持ち主は、体を不気味な紋様に拘束された姿。
芒色の髪を振り乱し、まるで首だけで生きているかのように、青衣の喉笛ただ一点に、強く強く食らいついている。
仁雷さまでした。
血走った目が見据えるのは目の前の獲物のみ。強すぎる咬合のあまり、牙の根から血が流れても、決してその力を緩めようとはしない…。
その痛々しい姿に、わたしはひどく胸が締め付けられる思いで。
「仁雷さま…やめて……っ!!」
たまらず懇願してしまう。
そうしてとうとう、仁雷さまは青衣の喉を食い千切りました。
声の無い悲鳴を上げる青衣。その隙を狙い、緋衣様は青衣の頭を両手で掴み、勢いよく橋の床板へと叩き付けました。
「っ!」
その瞬間は、義嵐さまの手によって視界を遮られてしまったために、わたしの目には映りませんでした。
◇◇◇
橋の崩壊が危ぶまれるほどの音と衝撃が起こった直後に、辺りが一気に静まり返った。
俺は口の端から、自分の血と、そして今しがた喉を食い千切った青衣の血とを滴らせる。
全身に走る呪いの痛みすら忘れそうなほど、体から力が抜ける。
手足を封じられても、俺は山犬だ。山犬は首だけでも動くものだ。
次第に、本当に体から痛みが引き始めた。腕を見遣れば、呪いの紋様が徐々に薄らいでいく。恐らく、呪いを仕掛けた青衣が命を落としたからだろう。
「…………。」
奴に食らいついていた時は夢中だったが、意識の端で声が聞こえた気がする。
…耳に心地好い、愛しい、早苗さんの声が。
「………そんなはずは…。」
早苗さんがここにいるはずがない。
そうだ、呪いが解けたなら俺は早く山に戻って、彼女の体を捜さなければ…。
「…仁雷さま!!」
背後から聞こえたその声は、一瞬幻聴かと思われた。しかし、いや、そんなはず。
振り返った俺は呆然とする。
反橋の崩壊に巻き込まれない位置に、二人が生きて、立っていたからだ。
「よっ。お疲れ、仁雷。」
ヘラッと笑う義嵐と、
「……仁雷さま…!ご無事で…!!」
目に溢れんばかりの涙を溜めた、早苗さん。
その姿を認識したとたん、俺はたまらず二人に駆け寄る。腕を大きく広げて、二人の体を抱いた。
二人の無事と、自分の生を確かめるように、強く強く抱き締める。
「……本当に、本当に、義嵐…と…早苗さん、なのか…?生きてる……?」
意識せずとも震えてしまう声。
「おう、何とか元気だ。お前は大変な目に遭ったみたいだな。」
「…仁雷さま……っ、ごめんなさい、ごめんなさい…わたし、遅くて…。」
耳に馴染む、大切な二人の声を認識して、俺は震え混じりの、長い長い安堵の溜め息を吐くのだった。
「……あ、あれ……早苗さん…。」
ふと、無性に早苗さんの様子が気になった。
着物は泥だらけで髪も乱れ、おまけに…クラクラと酔ってしまいそうな、早苗さん本来の甘い芳香が胸一杯に満ちる。汗とか、涙とか…体液という体液の匂いは、鼻の利く俺には刺激が強すぎた。
ーーーいけない…!!
慌てて鼻と口を手で覆い、早苗さんから距離を取る。
顔は真っ赤に染まっていることだろう。そんな俺の見っともない姿を知られるわけにいかなくて、完全に彼女に背を向けてしまった。
「……ごっ、ごめんなさいわたし…においますよね…、やっぱり……。
義嵐さまのおっしゃる通り、体を清めるべきでした…。」
ご、ごめん、違う!違うんだ早苗さん!
すぐさま弁解したいのに、顔の紅潮が治まる気配はまるで無い。
「いいや、清めなくて正解だよ早苗さん。仁雷もそう言ってる。」
「え…?言って……?そ、そうなのでしょうか…?」
事も無げに俺の本心を見抜いてしまう義嵐。この時ばかりは、奴の助け船にいくら感謝してもしきれなかった。
***
目の前に、仁雷さまがいる。
生きて、声を聞かせて、姿を見せてくださっている。
それだけで、ただそれだけで、わたしはとても救われる思いでした。体の痛みも汗も、このための代償だったとしたら軽いもの。
「ーーー早苗さん、あれをご覧。」
義嵐さまの呼び掛けに、わたしは涙が溢れ落ちてしまいそうなのをグッと堪えます。
視線の先には、崩壊した橋の上に佇む、人の姿の緋衣様。緋色の打掛の後ろ姿は少し寂しげで、足元に横たわる青衣の体を静かに見下ろしています。
「…無法者は孤独じゃな。今までどれほど、私欲により周りを傷付けてきたか…。儂はそなたの行いを聞く事で、この十年で嫌というほど思い知ったよ。」
緋衣様は青衣の胸の円鏡を手に取り、ご自身の円鏡に近づけます。
「もっと早う、気付けていれば良かった。
…ああ、しかし、もしこの戒めが無ければ、儂らは永遠に欲の深い狒々のままじゃったな。」
二枚の円鏡が重なり合い、緋衣様の手が青衣の手と重なり合う。それらが溶け合い、混ざり合い、永遠に感じられるほど長い静寂の中で、彼らは“一人”になりました。
その姿は青色の髪でも、緋色の髪でもありません。
黒に近い、濃紫の長い髪。体格は男性的に大きくもあり、けれど女性的に細くもある。その方は、わたし達の方を振り返ります。
そのお顔立ちに、わたしは息を飲みます。
青衣の雄々しさと、緋衣様の無邪気さを併せ持つ中性的な美貌は、初めてお会いした気がしないのです。
その方のお顔を見て、仁雷さまが名を呼びます。
「…十年間もそんな所に隠れて、何があったって言うんだ。狒々王。」
やはりと言うべきでしょうか。
濃紫の髪のその方こそ、本物の池泉の主。真の狒々王様でした。
「……早苗殿、御名答じゃ。」
狒々王様の声は至極穏やかで、声質はどこか緋衣様に似ていました。
「欲の深い儂は、…狗神様の賜り物であるにも関わらず、池泉の宝をほんの僅かでも、手元に置きたいと願ってしまった。池泉の宝を傷付けてしまった報いとして、削り取った破片の中へ、我が魂は陰陽に分断されたのじゃ。
…しかし、ようやく思い知った。
力に頼り、猿達を辛い目に遭わせて来た自分がどれほど浅ましいか。
そして、儂がどれほど、猿達の献身に救われてきたか。」
あの恐ろしい暴君の青衣も、あの純真な緋衣様も、どちらも狒々王様自身の心を映し出した姿だったのでしょう。
そう語る狒々王様の手には、濃紫の地に、金色の装飾が施された、美しい手鏡がひとつ握られています。
「早苗殿、おめでとう。」
狒々王様はわたしのそばへと歩み寄り、手鏡を静かに差し出します。
わたしは意図が分からず、狒々王様の優しげな笑みを見返しました。
「試練達成の証… 真実を映す“蒔絵の手鏡”。これを、そなたに受け取ってもらいたい。」
「えっ……。」
狒々王様が、その美しい手鏡を、わたしの手に握らせます。鏡の背に施された美しい金の蒔絵は、間違いなく池泉の蟹の甲羅と同じ輝きを放っていました。
「そなたが螺鈿の懐剣で切り分けた桃…あれには、懐剣の守護の力が宿っておった。
お陰で緋衣は青衣を下すことが出来た。そなたが心から、儂に歩み寄ってくれた証拠じゃ…。
ありがとう、早苗殿。」
「…あっ、…だから……。」
緋衣様は、いくら青衣の攻撃を受けても傷付くことがなかった…。
わたしの軽率な行動が、こんな形で実を結ぶとは予想もしていませんでした。
受け取った手鏡にわたしは自分の顔を映します。
泥だらけで、垢に塗れて…ああ、なんて恥ずかしい格好でしょう。けれど、わたしの顔は達成感と勇気に満ち溢れているように見えました。
恥ずかしい格好だけれど…わたしは今の自分自身を、とても誇らしく思えるのです。
「仁雷殿。」
狒々王様は、そばの仁雷さまに目を向けると、彼の血に濡れた唇を、自身の指でそっと拭います。突然のことに驚く仁雷さま。
「…!?」
「そなたにも辛い思いをさせた。しかし、勇敢じゃった。どのような逆境でも決して諦めない、誇り高い山犬の有り様…。若かりし頃の狗神様を見ているようじゃった…。
そなたの強い意志の根幹にあるのは、狗神様の巡礼遂行のためか、それとも、早苗殿のためか…。」
狒々王様の問いに、仁雷さまは淀みなく答えます。その答えを聞いた時、
「約束したんだ。
“何があっても、最後まで早苗さんを護る”と。」
わたしは、体の芯がとてもとても熱くなるのを自覚したのです。
その場の空気を変えたのは、義嵐さまの明るい声でした。
「じゃあ、これで池泉の試練は終わりか!
いやぁ骨が折れたな!これまでの巡礼で一番手こずらされたな!」
「…義嵐が一番無事だがな。」
「……お、お怪我が無いのは何よりです。」
わたしも仁雷さまも体から一気に力が抜けて、その場にへたり込んでしまいます。
夢中で忘れていたけれど、体の疲労感と、たくさんの小さな傷の痛みを徐々に自覚してきて、わたしはその場から一歩も立ち上がれなくなってしまったのです。
そんなわたしの頭を、義嵐さまがポンポンと軽く叩いて、優しい口調で言ってくださいます。
「早苗さん、本当によく頑張ったね。おれは鼻が高いよ。」
「義嵐さま………。」
まるでお父様のような口ぶりに、わたしは無性に気恥ずかしくなってしまいました。
本当の父上…玄幽様に褒められたことは無いけれど、親に褒められるのって、きっとこんな風に胸が温かくなるのだわ…。
そんな義嵐さまとわたしの様子を、仁雷さまがなぜか複雑そうな目で見ていることに気付きました。義嵐さまが楽しそうに声を掛けます。
「どうした仁雷?ヤキモチか?」
「……イヤ、そういうわけでは…。」
フイと顔を背けてしまった仁雷さま。
わたしはそちらへ体を向け、仁雷さまの頬を手で包み込みます。
「ッ!?」
「…やっぱり、とても痛そう……。」
仁雷さまの牙の根は、咬合の負担によって血が滲んで、赤黒くなってしまっていました。
わたしがもっと機転の利いた振る舞いが出来ていたなら、仁雷さまをこんな目に遭わせることも無かったかもしれないのに…。
「ごめんなさい、仁雷さま…。わたしが頼りないあまりに、ご無理ばっかりさせて…。」
謝って済むようなことではないのに。自分の不甲斐無さに打ちのめされてしまう。
血に濡れた頬に添えたわたしの手を、今度は仁雷さまが、力強く握り返しました。
「どうして早苗さんの所為になるんだ…!?」
「えっ…!」
仁雷さまの口調はいつもの優しげなものではなく、少しだけ語気が強まったものでした。わたしは思わず姿勢を正します。
「貴女はもう充分すぎるほどの荷を背負っているんだ。そんなに自分を蔑ろにしてはいけない…!」
「……は、はい…。申し訳…、」
お叱りを受けている…と思いきや、仁雷さまは子どもに言い聞かせるように、声を落ち着けて語りかけてくださいます。
「…どうか謝らないで、早苗さん。
貴女は自分に誇りを持って良いんだ。俺は、貴女の行い全てを喜んで受け入れるから。
俺は、早苗さんのために傷付きたい。」
仁雷さまの言葉は、熱が込められていました。
琥珀色の瞳は逸らすことなくわたし一人を見つめている…。心の奥深くまでを見透かされてしまいそうな、不思議で甘い感覚に、わたしはとても平静ではいられなかったのです。
「……は、はい。そう、ですね…っ。
うん…っ。あ、ありが………っ。」
口が上手く回らない。顔も、握られた手も熱くて、仕方がない。恥ずかしくて離してほしいのに、ずっとこうしていたいという二極の感情が湧き上がる。
どうしたのかしら。わたし、妙だわ。
「早苗さん、仁雷。二人とも積もる話は後にしてさ、まずは体を休めようじゃないか。」
義嵐さまの大きな手が、仁雷さまとわたしの頭を撫でます。
それでハッと我に返ったわたしは、仁雷さまの視線から逃れるように、足元に目を落としました。
なおも心臓のどきどきは、うるさいくらいに鳴り続けていました。
「では皆の者。緋衣の…いや、儂の塒へ参られよ。食事も、湯も、寝床もある。最後の試練に備え、今度こそ猿達のもてなしを堪能すると良い。」
狒々王様が、瓢箪池を望める緋衣様の塒を指で示し、そう申し出てくださいました。
「湯」の単語を聞いた瞬間、わたしは耳聡く反応を示してしまいます。
体の汚れとにおいは、ひどく気になるものですから、今のわたしにとって湯は喉から手が出るほどに欲しかった物なのです。
狒々王様は傍らに控えていた柿様を見下ろします。
「柿。支度を頼めるな?」
【はい…っ、狒々王様のお言い付けなれば、何なりと…!】
柿様の嬉しそうなお顔。
それとは対照的に、そばに控えるあけび様は、どこか居づらそうに肩を小さくしています。そんな様子を見た狒々王様は…
「あけびも、柿の手伝いを頼む。」
【!】
狒々王様の優しい命を受け、あけび様の目は、生の炎が宿ったように輝きました。
【はい!…はい、狒々王様…!】
きっと、あけび様は十年の時を経て、ようやっと報われたのだわ。そんな気がするのです。
***
その日、わたし達は狒々王様の塒にて、お猿達によって、手厚いおもてなしを受けました。
湯浴みと、傷の手当てと、そして食べきれないほどのご馳走をいただき、最後の試練への英気を養いました。
そんなわたしの手中には、ふたつの宝物があります。
決意を守るという、螺鈿の懐剣。
そして、“真実を映す”という、蒔絵の手鏡。
真実とは…どういう意味なのかしら。
その夜、宴の熱を冷ますため、わたしは一人寝巻き姿で、静かな縁側に出ていました。
目の前に広がる池泉は、水面に銀の満月を映し出しています。
義嵐さまは、大好きなお酒を心ゆくまで堪能している頃。
仁雷さまは、わたしに付き添うと申し出てくださったけれど、お疲れでしょうからとお断りしました。それに少し、一人で考え事をしたかったから…。今頃は用意された寝床で、ゆっくり休まれている頃かしら。
わたしは縁側に一人座り、手にした鏡を覗きます。映るのは見慣れた自分の顔。
けれど少し、今までよりほんの少し、自信を得た顔になったかもしれない。義嵐さまのお褒めと、仁雷さまの掛けてくださったたくさんの言葉のおかげ…。
『俺は、早苗さんのために傷付きたい。』
「…………。」
わたしの体はどこか悪いのかしら。
だってもうずっと、仁雷さまのことを考えるだけで…心臓がどきどきして仕方ない。
この異常の正体が分からないものかと鏡をまた覗きますが、そこに映るのは相変わらず、顔を朱に染める自分自身だけなのでした。
「…いけないわ、もし病などだったら…。
だってわたしは狗神様の……。」
その時、わたしはふと気付きます。
もしわたしが狗神様の生贄に捧げられたら。命を落としたら。
もう二度と、
ーーー仁雷さまに、会えなくなる…。
分かりきっていたことのはず。それなのに、この局面でようやく実感したのです。
わたしが池泉の試練に挑む時、心を占めていたのは狗神様への信仰ではなく、
「これ、って………。」
気付いてしまった。
わたしは、仁雷さまと離れたくない。
その時のわたしの動揺は、とても言葉では言い表せませんでした。
狗神様の生贄の身なのに、狗神様の…それもお使い様にこんな執着心を抱くなんて、とんでもないことです。
気のせいであると思いたい。でも、仁雷さまの姿を、いただいた言葉の数々を、あの綺麗な眼差しを思い出すほど、わたしの胸は締め付けられていく。
命が、惜しくなっていくのです。
「……どう、しよう……。」
次が最後の試練。
それを乗り越えれば、わたしは狗神様の元へ行く。
…けれど、本当にこんな気持ちで臨むべきなのかしら。
わたしは視界を手で覆い隠し、両天秤にかけられた信心と思慕とを必死に見つめ直します。…それでも、どちらもわたしには同じくらい大切な想い。決着がつくはずはありませんでした。
◇◇◇
「………義嵐。
俺はやはり、不甲斐無かっただろうか…。」
努めて冷静な声を出そうとしたのに、我ながらなんて覇気の欠片も無い弱々しさだ。
体を清め、口内に薬も塗ってもらった。体はもう大丈夫。…だから、もう片時も早苗さんから目を離すまいとした。それなのに…
『…いっ、いいえ!いいえ!
仁雷さまはよくお休みになってください…!どうか、わたしに構わずに…!
ひ、一人に、なりたいのです…。』
あの早苗さんの慌て様。今頃は裏手の縁側で、物思いに耽っている頃か。
何を思ってか、など想像に難くない。あれだけ過酷な目に遭ったんだ。
「……早苗さんを護るはずが逆に助けられるなんて…。お使い失格だと思われても仕方ない…。」
「…え、そんなこと延々と悩んでんの?
今日早苗さんに“自信持て”って言った矢先じゃないか。」
義嵐は至極呆れた様子だ。足元に無数の酒瓶が転がっているが、当の本人は全く顔色を変えていない。ここまでくると蟒蛇というより、ただの笊だな…。
義嵐の指摘はご尤もだった。
早苗さんを勇気付けたくて、もっと自分が尊い人だと知ってもらいたくて、俺は正直な思いを伝えた。だが…しかし…
「…こんな情け無い山犬に言われたところで、彼女からすれば“お前に言われたくない”と思っても仕方がない……。」
「………そんなウジウジしたお前を見るのも、ここ数十年で初めてだよ。」
義嵐は新たな酒瓶を手に取る。その呆れながらも楽しげな表情からして、俺の様子を見て酒の肴にしているんだろう。
そう分かっていても、俺が胸の内を吐露できるのは、目の前のこの男しかいないという事実が悔やまれる。
「なあ仁雷。もしかしなくとも、」
また何か無礼千万なことを言う気か。
それも良いか。俺は一度自分の不甲斐無さを身に染み込ませた方がいい…。
「早苗さんにさ、恋してるだろ?」
自分でも無意識だった。
みるみる床が遠のいていく。人の姿を保っていられず、俺は気付けば元の山犬の姿に戻っていた。芒色の体毛も尾も何倍にも膨れ上がって、全身で激しい動揺を示している。
【………なん、何言っ……!】
「いや、分かりやすすぎるって。何十年お前と組まされてると思ってんだ。あんな初々しい乙女みたいな反応、初めて見たぞ。」
【……………。】
俺はそんなに分かりやすい反応をしてたのか…。
義嵐の指摘に、俺は頭の中で返答を精査する。言い訳の台詞が瞬時に何通りも浮かぶ。頭の中が無数の言葉で埋め尽くされた挙げ句、
【……………ああ。心から好いてる。】
俺はとうとう観念した。
俺の告白に驚く様子などは無く、義嵐は変わらず酒を煽り続ける。
「お前はその歳で初恋だもんな。動揺もするってもんだ。分かるなぁ…早苗さんは美人だし、良い子だからな。」
願わくば、早苗さんには歳のことは伝えてくれるな。
動揺の波を乗り越え、俺は再び人の姿へ変化する。自覚はしていたがいざ口に出すと、大きな後悔が襲い来る。
まだまだ巡礼は続くのだ。明日から彼女をどんな目で見ればいいのだろう…。
しかし、義嵐の危惧は別にあった。
「…でもな、仁雷。あの子は最後には、狗神様の元へ行くんだ。あんまり肩入れすると、別れの時が辛くなるぞ。」
「……………。」
俺は自身の首に施された、未だ消えない呪いの紋様に触れる。
「…この巡礼中、俺が彼女に想いを伝えることはない。今はただ、彼女の身の安全を第一に考えるだけだ…。
ーーーそれよりも、義嵐。俺もお前に確認したい。」
それは、俺が幾度となく感じた不安だった。
義嵐が早苗さんに向ける眼差し。それは、これまでの巡礼では見られなかった、初めてのもの。恐らく、義嵐は…、
「お前…早苗さんに、“秋穂さん”を重ねているんじゃないか?」
義嵐の盃の手が止まった。
無表情な横顔から、意思は読み取れない。
しかし、その後発せられた声は、いつもの穏やかな調子だった。
「馬鹿だなぁ。早苗さんは早苗さんじゃないか。」
一気に酒を喉に流し込む。
それ以上の言及を拒絶するかのように、義嵐は立ち上がり、用意された寝床の方へと歩き去ってしまう。
後ろ姿を追いかけることが出来ない。
代わりに、俺はこれだけは伝えておきたかった。
「……俺だって、お前に後悔してほしくはない。だから…早苗さんを護るぞ、必ず。」
「…………。」
寝床の襖を開き、後ろ手に閉めるまで、義嵐がこちらを振り返ることはなかった。
***
夜が明け、太陽がぼんやりと山の端に姿を現し始めます。
仁雷さま、義嵐さま、そしてわたしの三人は、旅支度を整えると、塒の入口にて皆様の見送りを受けました。
「あけび様。着物を綺麗にしていただいて、ありがとうございます。」
わたしが纏っていた着物の泥汚れはすっかり洗い流され、元の若草色が綺麗に現れています。
お猿様達がどれほど丁寧に手を尽くしてくださったかが見て取れ、感謝してもしきれませんでした。
【勿体無いお言葉…。早苗様にはもっと長く、ここに留まっていただきとうございました。】
「あけび様に、皆様に会えて、嬉しうございました。どうかお体に気を付けて…。」
あけび様から差し出された前足を両手で握ります。わたしはその感触と温かさを忘れないよう、胸に刻み込むのでした。
「では、狒々王。またいずれ。」
仁雷さまの言葉に、狒々王様が穏やかな口調で答えます。
「左様ならば。仁雷殿。義嵐殿。…そして、早苗殿。
また何れ、この池泉にてお待ち申し上げる…。」
優美な身のこなしで、深々とお辞儀をされました。指先から着物の裾に至るまでのしなやかな所作に、惚れ惚れしてしまいます。
礼儀として、わたしもまたお辞儀を返しました。けれど内心では、“わたしはもうこの場に立つことは無いけれど”…と考えてしまいます。
それを口にするのはきっと野暮なこと。池泉の皆様の笑顔を目に焼き付け、わたし達は次の巡礼地へと向かうのです。
西の平野…大狗祭りへ。
「祭り…。」
秋に行われる祭りといえば、豊穣のお祝いでしょうか。
犬居家でも「例大祭」として、一年の実りに感謝を捧げる祭りを執り行います。
そういえば…もうすぐ例大祭の日だわ。
わたしは毎年、犬居の娘としてではなく、女中の一人として祭りのお手伝いをしてきた身です。馴染み深い祭りにもう参加出来ない。そのことに、ほんの少しだけ寂しさを覚えてしまいます。
「ーーー早苗さん、大狗祭りはこれまでのような危険な試練ではないから、あまり気負わないで。」
「…仁雷さま……。」
仁雷さまがわたしを安心させようと、声を掛けてくださいます。
不安の理由はそれではないのですけれど、こうして気遣ってくださるのは、優しい仁雷さまらしい…。
わたしに向けられる穏やかな瞳。
…ですがなぜでしょう。その瞳に見つめられると、わたし、わたし…、
「っ!」
体が勝手に、外方を向いてしまうのです。
「えっ……さ、早苗さん……?」
背後から、仁雷さまの悲痛なお声が聞こえます。
けれど、わたしはそちらに向き直ることが出来ません。心の中で何度も何度も「申し訳ありません」と謝っても、言葉が口から出て来ないのは非常に厄介でした。
ーーーわたし、やっぱりどうかしているわ…。どんな顔で仁雷さまとお話ししたらいいのか、分からない…。
外方を向いた先に立つ義嵐さまも、目を丸くされています。
わたしの様子がおかしいことを、不思議に思われているのは明白でした。
「……ぎ、義嵐さま…っ!
大狗祭りの場所まで、ここからどれほどかかるのでしょう…?」
努めて平静を装いますが、声は震えて不自然極まりない。
わたしを見下ろす義嵐さまの顔が、ふいに、何かを察したような納得の表情に変わりました。
「早苗さんの足で丸二日ほど。小山をいくつか越えれば平野はすぐだ。
今回は“仁雷が先導”して、おれがきみの身を護ろうかな。」
「ぎ、義嵐!?なんで………っ!」
そのご提案はわたしにとってありがたいものでした。
仁雷さまに先導していただければ、お顔を見てまた逸らしてしまわずに済みますもの…。
「お、お願いします!義嵐さま!」
「早苗さんっ!?」
仁雷さまは気を悪くしてしまうかしら…。
いいえ、本来ならばお喋りなどせずに淡々と歩くことが望ましいのだわ。あけび様との散策で、わたしは少し山の歩き方に慣れたのです。お荷物にはなりません。決して。
「じ、仁雷さま…。ご案内、どうぞよろしくお願いいたします…!」
気持ちを込めて、仁雷さまに対して深々と頭を下げます。その際も、なるべくお顔を見ないように…。
仁雷さまは何か言いたげに声を詰まらせますが…
「…あ、ウン…行こうか……。」
何も言及せず、わたしを先導してくださいました。
ーーー申し訳ありません、申し訳ありません…。仁雷さま…。
謝らないでと言っていただいたばかりなのに、わたしの胸の内は申し訳なさで一杯なのでした…。