◇◇◇
橋の崩壊が危ぶまれるほどの音と衝撃が起こった直後に、辺りが一気に静まり返った。
俺は口の端から、自分の血と、そして今しがた喉を食い千切った青衣の血とを滴らせる。
全身に走る呪いの痛みすら忘れそうなほど、体から力が抜ける。
手足を封じられても、俺は山犬だ。山犬は首だけでも動くものだ。
次第に、本当に体から痛みが引き始めた。腕を見遣れば、呪いの紋様が徐々に薄らいでいく。恐らく、呪いを仕掛けた青衣が命を落としたからだろう。
「…………。」
奴に食らいついていた時は夢中だったが、意識の端で声が聞こえた気がする。
…耳に心地好い、愛しい、早苗さんの声が。
「………そんなはずは…。」
早苗さんがここにいるはずがない。
そうだ、呪いが解けたなら俺は早く山に戻って、彼女の体を捜さなければ…。
「…仁雷さま!!」
背後から聞こえたその声は、一瞬幻聴かと思われた。しかし、いや、そんなはず。
振り返った俺は呆然とする。
反橋の崩壊に巻き込まれない位置に、二人が生きて、立っていたからだ。
「よっ。お疲れ、仁雷。」
ヘラッと笑う義嵐と、
「……仁雷さま…!ご無事で…!!」
目に溢れんばかりの涙を溜めた、早苗さん。
その姿を認識したとたん、俺はたまらず二人に駆け寄る。腕を大きく広げて、二人の体を抱いた。
二人の無事と、自分の生を確かめるように、強く強く抱き締める。
「……本当に、本当に、義嵐…と…早苗さん、なのか…?生きてる……?」
意識せずとも震えてしまう声。
「おう、何とか元気だ。お前は大変な目に遭ったみたいだな。」
「…仁雷さま……っ、ごめんなさい、ごめんなさい…わたし、遅くて…。」
耳に馴染む、大切な二人の声を認識して、俺は震え混じりの、長い長い安堵の溜め息を吐くのだった。
「……あ、あれ……早苗さん…。」
ふと、無性に早苗さんの様子が気になった。
着物は泥だらけで髪も乱れ、おまけに…クラクラと酔ってしまいそうな、早苗さん本来の甘い芳香が胸一杯に満ちる。汗とか、涙とか…体液という体液の匂いは、鼻の利く俺には刺激が強すぎた。
ーーーいけない…!!
慌てて鼻と口を手で覆い、早苗さんから距離を取る。
顔は真っ赤に染まっていることだろう。そんな俺の見っともない姿を知られるわけにいかなくて、完全に彼女に背を向けてしまった。
「……ごっ、ごめんなさいわたし…においますよね…、やっぱり……。
義嵐さまのおっしゃる通り、体を清めるべきでした…。」
ご、ごめん、違う!違うんだ早苗さん!
すぐさま弁解したいのに、顔の紅潮が治まる気配はまるで無い。
「いいや、清めなくて正解だよ早苗さん。仁雷もそう言ってる。」
「え…?言って……?そ、そうなのでしょうか…?」
事も無げに俺の本心を見抜いてしまう義嵐。この時ばかりは、奴の助け船にいくら感謝してもしきれなかった。