緋衣様と、青衣の疑いの目が、同時にわたしへと注がれます。負けては駄目。
わたしは欄干から半身を乗り出し、水底の巨大な蟹を見下ろします。

「あの蟹の甲羅…とても面妖で、初めて見た時、わたしは目が離せなくなってしまいました。
けれど、わたしはあの輝きに見覚えがあります。…緋衣様と青衣、お二人の首に下げられた円鏡と同じ物に見えるのです。」

「…儂の……?」

青衣が胸元の円鏡に目をやります。
やはり今も身につけている。よほど大切な物なのでしょう。
それこそ、池泉の宝と同じくらい。

なぜ敵対し合うお二人が同じ鏡を所有しているのか…。これはわたしの憶測でしかありません。

「生まれた頃より身につけている、大切な物なのですよね。
…もしやその鏡は、あなた方がお二人に“(わか)たれた”証なのではないでしょうか?」

馬鹿げた話と笑い飛ばされるかしら。ですが、そんな気がしてならないのです。
鏡とは神聖な道具。襟を正し、己の真実を映し出す物。
蟹の甲羅から削り取られた金の破片。それが、元は同じ物であるとすれば、

「お二人の鏡をお見せ合いください。
そこには、何が映っているのですか?」


緋衣様はご自身の鏡を、黙って見つめます。
そして、好奇心に突き動かされ、その鏡をゆっくりと“青衣の方へ”翳すのです。

その時です。鏡の中の己と目が合った青衣の顔が、サァッと青褪めました。

「……どういうことじゃ…。」

思わず一歩身を引く青衣。
しかし緋衣様はそれを許さず、音もなく青衣に詰め寄ると、その太い手首を、自身の細い指で掴み上げます。

青衣の手中にあるもう一枚の鏡。その中に、緋衣様も自身の姿を映し、

「…ホホ、そういうことじゃったか。
青衣、そなたと儂は生まれた頃より腐れ縁であったということじゃ。
まさか狒々王の半身同士であったとは。」

鏡の中の二人の“狒々王様”が、ニンマリと笑みを作ったのです。


【…ひ、狒々王様……っ!!】

鏡の中に映る、主人達の本当の姿を見て、柿様とあけび様が同時に叫びました。

しかし、その声を遮るように、雄叫びを上げたのは青衣です。
緋衣様の手を振り解き解き、肩をブルルッと振るわせたかと思うと、その体をさらに肥大させていく。青い体毛を全身に蓄えた、恐ろしい狒々の姿へと変化します。

【…儂と貴様が狒々王の半身じゃと?
冗談では無い。池泉の主は一人だけ。この青衣だけで良い!!】

青衣は両手を大きく天へ振りかぶると、人の姿の緋衣様目掛け、その拳を振り下ろしました。

いけない、このままでは緋衣様と…仁雷さまも巻き添えに…。

「じんっ……!」
「早苗さん!!」

名を叫ぼうとしたわたしの体を、とっさに人の姿の義嵐さまが抱え上げ、その場から大きく跳びました。

直後、青衣の拳が、今さっきまでわたしが立っていた床板もろとも、緋衣様の体を真上から叩き潰しました。橋の一部が破壊される轟音が辺りに響き渡ります。

「……じ、仁雷さま…!緋衣様…!」

間一髪攻撃を逃れたわたし達は、緋衣様と仁雷さまの姿を目で探します。
けれど後には、青衣の拳に穿たれた無残な床板があるだけ。そこに人の姿は見えません…。

「…は、離して…っ!」

「落ち着いて早苗さん。今は近付いちゃいけない。」

認めたくない。わたしは緋衣様と…それ以上に仁雷さまの無事を求めて、義嵐さまの腕の中で(もが)きます。

「仁雷はおれの知る山犬の中で一番強いから、大丈夫。早苗さんが信じてやらないと、あいつの面子が立たないよ。」

「……うっ、……………う…。」

義嵐さまの励ましを受け、わたしは必死に落ち着きを取り戻そうと努めます。
けれどそんなわたし達のすぐそばまで、“あれ”は迫っていたのです。


【…良いか小娘、これが答えじゃ。
緋衣は死に、儂一人がこの池泉を治める。
“犬の老いぼれ”の試練など知ったことか。猿共も、宝も、貴様等の命も全部全部、儂の物じゃ!】

青衣が巨体を引き摺り、義嵐さまとわたしの元へ迫り来る…。
目は血走り、剥き出しの牙からは唾液がぼたぼたと垂れて、その姿は怒りを湛えた(けだもの)そのものでした。

恐ろしい青い狒々の姿を、わたしは顔面蒼白で見上げることしか出来ません。
わたしを抱く義嵐さまの手に、力が込められるのを感じました。

【……小娘、最期に言い残す事があれば聞いてやろう。儂は寛大な狒々の王じゃからな…。】

青衣がまた、腕を天へと振りかぶります。

ああ、どうして、本当にわたしは…自身の命を差し置いても、叫ばずにはいられないのでしょう。

「“狗神さま”とお呼びなさい!!
この…、罰当たり者!」