【……ひ、ひ、ひっ…、緋衣様…!!】
緋衣とおれの元に、側近の柿が血相を変えて飛び込んで来た。
いつもきちんとしてる身なりも、この時ばかりは大層乱れてしまっている。
「なんじゃ、柿!騒々しい!」
【さ、さ、さ、…ささ…!!】
口で荒く呼吸を繰り返してから、柿は搾り出すように言う。
【早苗様が!お一人で!
この塒へ戻って参りました!!
“池泉の試練の答えを見せる”と…おっしゃって…!】
「!?」
おれと緋衣は全く同じ反応を示した。
が、驚く点は全く違う。
「早苗殿が自ら戻って来たと言うのか?」
【…一人で?仁雷はどうした?一緒じゃないのかよ?】
柿はもはや情報の容量を超えているらしい。前足をバタつかせ、そして助けを求めるように、
【さ、早苗様をこの場へお連れいたしました…!】
背後に控えさせていた、あの小さな女の子を、おれと緋衣の前へと進み出させた。
おれの目が自然とそちらを向く。鼻が自然と、彼女の匂いを嗅ぎとる。
【…さ、なえさん。なんてカッコだよ…。】
久々に見る彼女は、だいぶ様変わりしていた。
若草色の着物は泥だらけ。纏められていたはずの髪も、乱れてくしゃくしゃだ。
唯一彼女を護れるはずの仁雷の姿も今は無い。この子は一体どんな過酷な目に遭って、どれだけ歩き続けていたのだろう…全身何度も汗をかいて、彼女特有の匂いをより色濃く纏わせている。
けれど…なぜだろう。彼女の目に、強い決意が宿って見えるのは。これまでの、仁雷とおれに手を引かれ、不安げな表情を浮かべながら、理不尽な巡礼に挑まざるを得なかった頃の早苗さんとは…全然違う。
そんな姿に、おれは胸が締め付けられるのを感じた。
「…緋衣様。柿様にお伝えした通りです。
池泉の試練の答えをお見せします。
わたしと一緒に、反橋へ来ていただけませんか?」
早苗さんの淀みない物言いと、深く深く下げられた頭。
緋衣も、彼女の変わり様に呆気に取られているらしい。少しの間を置いて、答える。
「…早苗殿、儂は宝を“ここへ”持って来るよう伝えたはず。しかしそなたは何も手にしてはおらぬようじゃが?」
「いいえ、緋衣様。あなたは“自分の元へ”持って来るようおっしゃったのです。
あれは非力なわたし一人では、どうにも動かすことの叶わない代物です。
ですから、“緋衣様から”宝の元へ赴いていただきたいのです。」
至極真面目な顔でそんなことを言うものだから、おれも、そして緋衣も、意表を突かれた思いだった。
「…ホホ、良いか早苗殿。それは故事付けというものじゃ。
まさかそれで、試練を達成したと言うつもりではあるまいな?」
「まだです。試練の達成には、緋衣様にご足労いただかねばなりません。
どうか、お願いいたします。」
そう言って深々と頭を下げる早苗さんは、ふざけてるわけでも、ましてや自暴自棄に陥ったわけでもない。
この子は強い信念を抱いてこの場に立っている。それは匂いからも明らかじゃないか。
「緋衣。
早苗さんは、狗神の使いの目の届かない所にいた。逃げ出すことも出来たんだ。
だが試練のため、辛い思いをして戻って来た。ご褒美として、願いを聞いてやってくれよ。」
おれは人の姿に変化する。
緋衣はしばし黙って、早苗さんとおれとの顔を見比べる。幸い、その様子に否認の色は伺えなかった。
「……んーむ、良かろう。
早苗殿の企みに賭けてみようではないか!」
緋衣が檻に手を翳す。
すると、狗神の呪いの紋様が、砂を吹くように掻き消えていく。
すんなりと解放されたおれは、真っ先に早苗さんのそばへと駆け寄った。