その時だった。
「ーーー……………っ!?」
俺の本能が“動いてはいけない”と警鐘を鳴らした。ぞわりと総毛立ち、頭から氷水を被ったような緊張に襲われる。
それは猿達も、青衣も同様だった。何か大きな獣の歯牙が首元に迫っているような恐怖。
その感覚は、俺と…そして青衣にも覚えがあった。
振り向けないが、気配と匂いで分かる。
「……なんで…………。」
洞の奥底から忍び寄る、俺よりも何倍もの体格と畏怖を持つ、強大な獣の息遣い。
「…………“狗神”……。」
なぜこんな場所に。
まだ巡礼の途中だ。最後の聖地で待つはずの重鎮が、なぜこんな所に…?
青衣は顔色を真っ青に染め、その場から動けずにいる。その表情からは、奴がどれほど狗神を畏れているかが見て取れる。
洞を壊すことなど、もう意識の外だろう。
「……ッ!!」
狗神の口吻が、音もなく俺の耳元に寄る。
そうして告げられたのは、俺が到底容認出来ない命令だった。
「…………あ、“青衣に従え”と…早苗さんを一人にしろと……?
そう、言うのか…っ、狗神…っ。」
狗神からの命令に、俺は何ひとつ納得できなかった。
犬居の娘を最後まで護り抜くのが、我らお使いの使命ではなかったのか。
犬居の娘の巡礼の成功は、狗神自身の望みではなかったのか。
「……早苗さんは…人の身だ……。
こんな山中に捨て置くなんて……俺にはできない……。」
俺の中の山犬の本能が“狗神に従え”と叫ぶ。それを理性で必死に抑え込む。そんな命令を聞いてしまえば、彼女はどうなるんだ…?
こんな窮地でも、疲れ切った早苗さんは未だ、安らかな寝顔を浮かべている。
ーーー護りたい…。離したくない…。俺は……。
葛藤に苛まれる俺に助け舟を出すように、また狗神が囁いた。
「……………それは、信じていいのか……?」
狗神は言った。
“決して早苗さんを死なせない”と。
我が主神ながら、その考えは微塵も読めない。恐らく俺だけでなく、山犬の誰もが理解し得ないだろう。
それでも…悲しきかな。俺はこの神の“使い”なのだ。
己の首に触れる。そこに刻まれた紋様を消し去ってしまいたい。しかしそれが叶わないことも、重々承知していた。
「………………。」
俺は本能に従った。
早苗さんの体を、洞内に溜まった落ち葉の上に、そっと横たえさせる。
その安らかな、愛おしくてたまらない寝顔を目に焼き付けて…、
「……青衣、俺はお前と共に行く。猿達を一匹たりとも彼女に触れさせるなよ。」
芒色の山犬の姿へと変化し、その場に立ち尽くす猿達に向けて、牙を剥いて威嚇した。
すくみ上がり、猿達の中にはとうとうその場から逃げ出す者も。青衣だけは眉ひとつ動かすことなく、
【…儂に付いて来い。】
そう短く吐き捨てると、一刻も早くここから立ち去りたいという様子で、塒のある方角へ身を翻した。
洞から外へ出た俺は、尾を引かれる思いで、後ろを振り返る。
狗神は既に姿を消しており、薄暗い洞の中には、小さな早苗さん一人が横たわるだけだった。
ーーー早苗さん……。