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嗅ぎ慣れない匂いに気付いて、おれの意識はゆっくり浮上していく。
頭が痛む。おれはどうしたっけ…。緋衣の塒で酒を飲みすぎて、早苗さんを見て…。

「……っ、早苗さん!仁雷!」

意識が完全に覚醒する。横たわっていた体を勢いよく起こすと、周囲の状況が目に入ってきた。

「……なんだここ?座敷牢か?」

八畳ほどの広さの部屋だ。正面には檻のような格子戸があり、壁は分厚い漆喰。窓もない。その座敷牢の中央で、おれは布団に寝かされていたらしい。
もしかしなくとも、緋衣とあの猿達の仕業だろう。

おれが目覚めたことに気づき、格子戸の向こうから様子を見ようと近づいて来る者がいた。

【お目覚めでございますか、義嵐様。】

「……あんた、柿、だっけか?」

毛並みを上品に撫で付けた、白毛のお猿だ。
そばには誰もいない。恐らくこいつがおれの見張りを仰せつかったんだろう。

「教えてくれないかな。一体何がどうなってるんだ?あの二人もいないし…。」

【相当飲まれておりましたから…。
早苗様と仁雷様は、先を急ぐと仰って、昨晩ここを発ちました。】

「……先を急ぐ?池泉の試練に向かったってことか?」

…おれを置いて?そんなはずはない。
頭痛と悪酔いに襲われながらも、おれは柿の匂いから違和感を感じ取った。

「妙な“薬”を盛られたおかげでおれはまんまと巡礼から離脱だ。そんな異常な状況で、なおも池泉に挑もうなんて、仁雷(あいつ)が考えるわけがないんだよ。」

【……気づいていらっしゃいましたか。】

柿の毛並みがほんの僅かに立つ。警戒心を現してきた。

しかし、すぐにその警戒心は解かれることとなる。柿の背後からもう一人、見慣れた人物が現れたからだ。

「おお、目が覚めたようじゃな、お使い殿。」

それは緋衣だった。緩慢な動きで柿の前へ歩み出て、おれの姿をよく見ようと、格子戸に近づく。

「理由を話してくれないか?なんでこんな面倒な真似を?」

理解出来ないことだらけだった。
こいつの目的は、おれ達狗神のお使いと、早苗さんを引き離すこと。そもそも、この緋衣という奴も、あの青衣という奴も、これまでの巡礼で見たことがない。

「手荒な真似をして申し訳ない。
しかし、早苗殿とお使い達を(わか)つには、こうする他なかったのじゃ。
どうか理解してほしい。」

「……もしかして、狒々王が消えたことと関係してるのか?」

緋衣は落ち着いた面持ちに切り替え、黙って頷く。

「儂が今の地位に着いた時、既に狒々王という者は跡形もなく居なくなっていた。
誰に継承されたわけでもない。気づいた時には、儂と青衣は、どちらもこの小山の主を名乗っていたのじゃ。」

「……妙だな。てっきりお前達は、狒々王の隠し子か、後継者の類だと思ったが。」

緋衣は、今度は首を横に振る。
話が本当なら奇妙奇天烈だ。自分の素性も知らない奴が、どうしてこんな堂々と猿達を統べられる?そして、

「柿や他の猿達も、この緋衣というお方を主と認めているんだな?」

おれは傍らの柿に声をかける。

【左様でございます。
到底信じられぬことでしょうが、私はおろか、猿達の誰も、緋衣様がどこからやって来られたのか。何者なのかを存じ上げぬのです。
…しかし、狒々王が失踪され、主人を失い途方に暮れていた我らを纏めて下さったのは、他ならぬ緋衣様。我ら猿達は皆合意の上、このお方を新たな主人と見込み、お仕えしている所存でございます。】

つまり猿達も、この緋衣の存在をすんなりと受け入れてるってことか…。

「儂に残っている最も鮮明な記憶。それは、瓢箪池の反橋(そりばし)に佇む、若草色の着物を纏った、一人の娘の後ろ姿じゃ。
それは恐らく、生贄となる犬居の娘…早苗殿であろうな。」

「…記憶…?」

若草色の着物…。犬居の娘…。
それが予知夢の類か、あるいは実際に目にした過去の記憶であるとしたら。
信じがたいいくつもの情報が、おれの中でひとつの可能性となった。

「……緋衣、お前の正体って…まさか…。」