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『きみを好いている。』
それだけを告げると、義嵐さまは目を瞑ったまま動かなくなってしまいました。
耳を澄ますと微かな寝息…。お酒が回ってしまったのかもしれません。

「………義嵐さま…。」

大きな体をなんとか支えながら、わたしはその言葉の意味を考えました。

(たわむ)れなどではない。
それに、今のは多分“わたし”に言ったのではないわ。わたしを通して、別の誰かを思い出していたような。

ーーーでもそれならなぜ、あんなに寂しげに笑われたのかしら…。

その時背後から、二本の腕が伸びました。
腕はわたしの体を軽々と持ち上げます。

「あっ!」

支えを無くした義嵐さまの体は、床に倒れ込むことなく、周りに待機していたお猿達によって間一髪抱き止められました。

振り返れば、わたしを抱き上げた人物と目が合います。

「じ、仁雷さま…?
…どうされたのですか?険しいお顔…。」

「………早苗さん。」

仁雷さまは眉をひそめて、眠りに落ちた義嵐さまを見下ろします。
それから、わたし達の対面に座る、緋衣さまを強く強く睨みました。

「義嵐がただの酒に酔って意識を手放すはずがない。…緋衣、こいつに(ねむ)(ぐすり)を盛ったのか。」

「えっ!?」

わたしは義嵐さまのほうに目をやり、驚きました。
なんてこと…。無防備な義嵐さまの体は、お猿達によって完全に捕らわれていたのです。さっきまであんなに親しげだった柿さまも、今や牙を剥いてこちらを威嚇しています。

「んーむ…。匂いで気付かれぬよう稀釈したせいで、効き目が表れるのが遅れてしまったようじゃ。しぶとい山犬よ。」

「……どうして…っ。
緋衣さま、どうしてこんなことを…!?」

わたしはたまらず叫びました。
緋衣さまは指先をぴんと伸ばして、背後の瓢箪池を手で示します。月明かりに照らされ、水面全体が妖しく、青白く浮かび上がっていました。

「さっき伝えたじゃろう、早苗殿。
此度の試練に挑むのはそなたのみ。お使い達はどうしてもそなたから離れたくないと申す故、仕方がなかったのじゃ。

そこの芒色の山犬が一滴も酒を飲まなかったのは想定外じゃがの。」

仁雷さまの、わたしを抱く手に力が込められます。
けれど、どうしよう。これでは仁雷さまが満足に動けない…。

「早苗さん、俺達だけでもこの場所から離れるぞ。」

仁雷さまの言葉に、わたしは反射的に返します。

「えっ…ですが、義嵐さまが…。」

「……義嵐は強い。あんな猿達に簡単にやられはしないから、安心して。
それよりも俺達が優先すべきは巡礼と…貴女の身の安全。どうか俺達を信じて。」

仁雷さまの力強い眼差しが、わたしを見据えます。
本当はとても恐い。とても不安。けれど、

「…は、はい。信じます…!」

仁雷さまが「信じて」と言うのなら、わたしは信じるだけ。


唸り声と共に、仁雷さまの体が大きく盛り上がりました。瞬く間に、芒色の毛並みの山犬へと変化した仁雷さま。わたしはその背中にしっかりとしがみ付きます。

待機していたお猿達が、わたし達を捕らえようと飛びかかってきます。
けれどそれよりも速く、仁雷さまが社殿の出口を目掛けて跳びました。
大きな体はほんの二、三歩ほどで、社殿の外へと逃げおおせることに成功しました。

しがみ付く力は決して緩めず、わたしは背後に遠く小さくなっていく社殿のほうを振り返ります。
お猿達は社殿の外へ飛び出していますが、それ以上わたし達を追及することはありませんでした。

ーーー義嵐さま……。

どうか、どうか無事でいて…。

【早苗さん、大丈夫。
きっと大丈夫だから。】

「……はい……。」

仁雷さまの優しい声に、泣き出してしまいたいのをグッと堪えます。わたしはただ、背中から振り落とされないことにのみ集中するのでした。