◇◇◇

仕切りを隔てた向こう側に早苗さんがいる。
そう思うだけで、体が忙しなく動いてしまう。落ち着いていられない俺に呆れてか、岩にもたれて温泉を堪能していた義嵐が声を掛けてきた。

「落ち着いて肩まで浸かれよ、仁雷。
こっちまでソワソワしちゃうだろうが。」

「……お前はよく落ち着いていられるな。
俺達は早苗さんの護衛だぞ。なのにこんな…無防備な…。」

いざとなれば山犬の姿になって助けに行けばいい。
そうは思うものの、姿が見えないだけでこんなにも落ち着きを無くすのは予想外だった。
早苗さんは俺達に気を遣ってか、あまり水音も立てないよう入浴しているらしい。

微かに匂いがする。温泉の匂いに混じっていた雉喰いの生臭さが薄れ、代わりに覚えのある彼女の匂い。
姿が見えない以上、俺には匂いから“想像”することしかできない。
体の汚れを落とし、温泉に浸かった頃だろうか。今日は一日疲れた上に、恐ろしかったろうに。状況が飲み込めない中で、あの小さな体で早苗さんは精一杯頑張っていた。

ーーー小さな、体…。

温泉効果による“良くない想像”に傾きかけて、俺は勢いよく水面に顔を叩きつけた。

「…ハァ。仁雷は昔から真面目一辺倒なんだよなぁ。もう少し肩の力を抜いていいんだぞ?」

義嵐は言った。
それは奴に幾度となくかけられた言葉だ。
真面目。堅物。石頭。…そうは言われても、持ち前の性格は変えようがない。それに、

「真面目と言われてもいい。
俺はただ、後悔したくないだけだ。この巡礼の旅で、犬居の娘を最後まで護りたい。…それはこれまでもこれからも変わらない。」

「……おれは、あんまり肩入れしない方がいいと思うけどな。別れの時が辛くなるだけだ。」

そうだ。義嵐のこういう姿勢もずっと変わらない。元々緩い性格だが、ここ十年で輪をかけて関心が薄くなったように感じる。
狗神が何十年も義嵐と俺を組ませるのは、性格の釣り合いがとれているからなんだろう。

「義嵐も“必ず早苗さんを護り抜く”と強く決心すれば、成功する確率は上がる。気持ちを改める気はないか?」

「うーん、おれは自分の出来る範囲で努めるだけだからなぁ。
…ただ、早苗さんはやっぱり、今までの娘達とは一風変わってる。本家の娘と比べるとどうしても“血が薄い”から最初こそ半信半疑だったが、あの子が残りの試練をどう乗り越えるのか、近くで見てみたいもんだな。」

「………。」

血が薄い。
確かに彼女は、犬居家当主・犬居 玄幽と本妻との子ではない。それは初めてあった時、“匂い”で分かった。

犬居家が生贄に差し出すために産み育てた“妾の子”。その立場を、きっと彼女自身も分かっているのだろう。

「だから、彼女の振る舞いはどこか…。」

「……ウー…、仁雷…すまん…。
おれは先に上がるぞ。のぼせちまった…。」

義嵐は(がら)にもないふらつきようで、逃げるように岩を伝って、温泉から上がっていった。
元々山犬だから体温が高いうえに、俺と違って肩までしっかり浸かっていたせいだろう。

「義嵐、傷は痛むか?部屋に戻ったら雉に手当てをしてもらえよ。」

「あー、温泉効果でだいぶマシだ。
仁雷も早めに上がって来いよな。」

そう言うと、義嵐は炭色の山犬の姿に戻り、力の限り体を震わせて、全身の水気を払った。
巨体から放たれる豪雨。それから逃れるため、俺は敢えて距離を取っていた“仕切り”の近くへと移動する。

「…………。」

微かに匂いはあるが、仕切りの向こうから音はしない。
もしかすると、早苗さんはとっくに温泉から上がったのかも。俺達に気を遣って、音を立てないように。

指先で竹の仕切りに触れながら、俺はさっきの続きを考える。

ーーー早苗さんはどこか、自分以外を優先するきらいがあるんだよな……。

決して生きやすい身の上ではないはず。
彼女は年の割に、自己を抑えつけてしまっているように思えてならなかった。
今回の巡礼だって、心から望んでいるはずもない。それなのに、彼女はすぐに受け入れた。

ーーー我が儘とか…言ったことはあるんだろうか…。

あの小さな双肩にかかる重圧は相当なもののはず。弱音も吐かず受け入れられたのは恐らく、とうの昔に自制を身に付けてしまった証拠なのだろう。

「…早苗さんの我が儘を叶えるのは、“俺”でありたいな…。」

口を()いて出たそれは、俺の素直な願いだった。


「……あの、仁雷さま、でしょうか?」

突然仕切りの向こうから、聞き慣れた可愛らしい声が聞こえた。

俺は思わず、その場からほんの少しだけ飛び上がる。
声の主は間違いなく、早苗さんだ。

「あっ、申し訳ありません。名を呼ばれた気がして…。」

「…い、いや!すまない!考え事を、してて…!」

仕切りから離れようとしたが、その耳に心地良い…安心する声を聞いてしまっては、その場に留まらざるを得なくなってしまう。

…そうだ、今なら、顔が見えない今なら。

「…早苗さん。俺は…、」

「はい。」

俺は喉まで出かかった声を、

「………。」

言葉にすることができず、結局飲み込んでしまう。
代わりに、今日の出来事について話すことにした。

「…今日は、本当によく頑張ってくれた。
とても恐ろしかったろうに、早苗さんは勇気があるな。」

「そんな…ただ夢中で…。
仁雷さまこそ、わたしを助けてくださって、ありがとうございました…。」

「…イヤ、それが俺達の役目だから…。」

そこで会話は途切れる。
しばしの沈黙の後、早苗さんは不安げに訊ねる。

「…お怪我の具合は、いかがですか?」

俺は雉喰いに噛まれた痕に目をやる。

「大したことはないよ。」

早苗さんが見れば卒倒するかもしれないが、こんなのは擦り傷の部類だ。
今回だけじゃない。犬居の娘達を導く度に、幾度となく怪我を負ったが、今やもうほとんど痕は残っていない。

「早苗さんに怪我が無くて良かった。」

俺の安堵の声に対して、彼女の返答は弱々しいものだった。

「…でも、義嵐さまと仁雷さまが代わりに傷付くのは、とても恐ろしいです…。」

“恐ろしい”。
自分の命が脅かされること以上に、恐ろしいことなどあるものか…。

「今までも、犬居の娘達が同じ試練に挑んだのですよね。…皆、無事に乗り越えたのでしょうか?」

「…………。」

俺は、どう伝えるべきか悩んだ。
試練自体に成功した者もいれば…失敗してしまった者もいた。
正直に言えば、今回の早苗さんの対応は前例の無かったこと。

「…本来、雉喰いと闘うのは俺達お使いの役目だ。貴女達への本当の試練は、“何があってもその場から逃げ出さないこと”。

だが中には、恐ろしさのあまり、一人で竹藪の奥へ逃げ出し…後を追った雉喰いに捕まった者もいた。
自ら雉喰いに突っ込んだのは、俺の知る限り早苗さんが初めてだ。」

『俺達を信じて離れるな。』
人の身である娘達に、雉喰いと真っ向から闘う術なんてあるはずがない。
だから、“俺たちを信頼して見守っていてくれる”だけで良かった。俺と義嵐が雉喰いと闘い、勝利する一部始終を見守ってくれれば。

ーーーその場合、怪我はこの程度では済まなかっただろうが…。

「……そうと知らず…。
ご心配をおかけして申し訳ありません…。」

「…本当に、心の臓が止まるかと思ったよ。」

仕切りの向こうで一層小さく「申し訳ありません…」と呟く声がする。
責めるつもりじゃなかった。俺は慌てて、正直に本心を打ち明ける。

「だが、嬉しくもあったんだ。
早苗さんが逃げずに、自ら立ち向かってくれたこと。俺たちを信じてくれたこと。それが嬉しかった。

初めて顔を見た時にも感じた不思議な感覚。
貴女となら、きっと…。」

そこまでで、俺の言葉は続かなかった。
これ以上は言えない。

また沈黙が流れ、不思議に思った早苗さんが、小さく訊ねてくる。

「……仁雷さま?きっと…何です…?」

今はまだ言えない。
だが、きっと伝えられる時が来る。

「…早苗さん、覚えていてくれ。
俺達は何があっても、最後まで貴女を護る。だから、貴女も命を預けて、最後まで一緒に来てほしい。」

この巡礼の旅を乗り越えた先に、答えがあるから。


「……まだ、自分でも分かりません。
仁雷さまと義嵐さまのことを信じたい気持ちと、…この先に待つ試練への不安が、どちらも大きくて…。

今回だって、一度は逃げてしまいたいと考えました…。頼りなくて、申し訳ありません…。」

ーーー早苗さん…。

「ゆっくりでいい。
覚えていてくれれば、それで。」

また沈黙が流れた後、仕切りの向こうから、少しだけ元気を取り戻したような、早苗さんの可愛らしい声が聞こえた。

「はい…っ。」