「ねぇ風花! 聞いた、今夜も新様がお見えになっているそうよ。今日はお一人ですって、私がお座敷に呼ばれないかなぁ」

 夜すっかり夜が更け、眠っていた柳町が目を覚ます頃、明るい声で桜花が教えてくる。風花は黒いため息をついた。憎しみが漏れ出るようだ。

「毎夜毎夜飲み歩くなんて、伯爵様は良いご身分だこと」
「あら、貴族院議員になるために、有権者との縁を深めておられるのかもしれないじゃない。あぁ、でも今日はお一人なんだった。ほら風花、そんなに眉間にしわを寄せると綺麗な顔が台無しよ。伯爵様に見初めてもらわないといけないでしょう? あぁ、それは駄目ね。風花の意中の人は北条様だもんね」

 眉間に指をあてながら吞気なことを言う桜花に、風花は苦笑いを返した。たとえ伯爵家だとしても、両親の敵とあればただでは置かないと、風花は奥歯をかみしめる。

「風花、ご指名だよ。早く琴を持っておいで」
「私だけですか?」
「なんだい不服なのかい? 生意気言ってないでさっさと行っておいで」

 有馬新太郎は風花を指名してきた。桜花が「いいなぁ、頑張って!」と片目を閉じながら見当違いの声援で風花を送り出す。

 両親の仇かもしれないと男と二人きりになれるなんて、話を聞き出す絶好の好機ではないか。印籠も返してもらわなければいけない。

 襖を開けると洋装の男が片膝をついて座っていた。風花を見ると、嬉しそうに目を細める。

「約束通り来たぞ」
「約束などしていません。あなたが勝手に会いに来るって言ったのですよ」
「そうだったか。でも君も俺に会いたかっただろう?」

 琴爪を弦に当てたまま、風花はギロリと有馬新太郎を睨んだ。

「私の印籠を返してください」
「いいよ、時期が来たら必ず返す」
「嫌ですよ! 今返してください、それは――」

 父の形見だと言おうとした口を、有馬の大きな手が塞いだ。

「代わりと言ってはなんだが君には俺の印籠をやる。誰かに聞かれたらそれを親の形見だと言えばいい」
「どうしてそんな嘘をつかねばならないのです。嫌です」

 風花がそう答えると、有馬は少し思案するような顔になる。

「私が欲しいのはあなたのではなくて父の――」
「固いことを言うな、何も盗ろうっていうんじゃない。後で必ず返す」

 有馬に引く様子がないことがわかると、風花は小さくため息をついた。

「仕方がありませんね、約束ですよ、必ず返してください」
「あぁ、約束する。俺は約束を違えたことは一度もない」

 はいはいそうですかと呆れた声で呟いてから、風花は琴を爪弾いた。

 その心地よい音色に、有馬は耳を傾け酒をあおる。しばらく琴を弾いてから、風花は指を止めた。

「有馬様、とある薬売りを存じませんか?」
「薬売り? 何人か知っている。あの藍染屋も、死んだ石田藤左ヱ門も薬屋だった。石田はむごいことになった」

 その石田藤左ヱ門もあなたが殺したのではありませんか――あの後、人波に消えていった有馬には、藤左ヱ門を殺すことができた。
 そう考えると増々怪しくなってくる。

「他に、半年前に柳川に浮かんでいた薬屋の夫婦のことでございます」

 初めて琴の弦に触れたときのように緊張する。どんな音が返ってくるのか――風花の心臓は己の声をかき消すほどにうるさく鳴った。

「知っている」
「あなたが――!」

 髪に挿してあった簪を取って握る。そのまま襲い掛かろうと立ち上がった体を、有馬に押さえつけられた。

「こういう歓迎の仕方はあまり好みじゃないな」
「私の両親は殺されました。あなたが、あなたがやったのではないのですか」
「風花」

 有馬は風花の手から簪を奪い取った。
 
「簪というのは、女を美しく見せるためにある」

 そういうと簪を風花の髪に挿し直した。

「髪が乱れたな。叱られるようなことがあったら俺に襲われそうになったと言え。ほら、もう少し琴の音を聞かせてほしい」
「違うのですか、そうなのですか、答えてください」
「今は何も言えない」
「では、やはりあなたが!」
「風花、じきにすべてがわかる。その時、君が俺を裁いてくれたらいい、俺は逃げない。だから少し待ってくれ。ほら、君の仕事は琴を奏でることだろう」
「待てば、必ず裁かせてくれるのですか」
「俺がやるべきことを終えたら」
「わかりました。もしも逃げたりしたら、どこまでも追いかけて追い詰めますから」
「それは嬉しいことだ」

 それ以上、特に会話をするでもなく、不機嫌そうな顔で琴を弾く風花を、有馬は楽しそうな表情で見るのだった。

 そんな夜が幾度となく続いた。有馬が逃げる様子はない。犯人であるのかどうか、はっきりとしないままいたずらに日々が過ぎていく。