「ねぇねぇ風花、昨日のお座敷のお客さんのことを覚えてる? 新様と同じお座敷にいたったいう人よ、帰り際ひどく酔っていたらしいじゃない」

 翌朝、琴の稽古をしていると、桜花がささやいてきた。

「こら、静かになさい」

 先生が叱ると、桜花はペロッと舌を出してから、「柳川に浮かんでいたんですって。怖いよねぇ」と続ける。先生が桜花を睨んだので、桜花は肩をすくめた。

 指を動かしながら、風花は酔った客のことを思い出す。あの後、あの赤顔の客はどうやって帰ったのだろうか。あれだけ酩酊していたのだ。柳町から帰る途中、酔って川に落ちた可能性もなくはない。

 だが、風花の頭をよぎるのは、不敵な笑みを浮かべたあの伯爵子息だった。藍染屋と別れた後、彼がなじみの女のところへは行かずに石田藤左ヱ門を殺害した可能性もある。

 酔った藤左ヱ門を見る般若のような顔を思い出した。殺意に満ちたあの目は、一度見たら忘れられるものではない。

 気になるのはそれだけではない。彼が印籠を見て一瞬目を見開いたのを、風花は確かに見た。

 両親が亡くなる先日、父は有馬新太郎と会っていたらしいとの話がある。情報が集まれば集まるほど、犯人は彼ではないかという確信が得られるようであった。

「風花、北条様がおまえに会いに来られているよ! ちょっと顔を出しな!」

 下の階から女将さんの声がした。桜花が、「ふふっ」と意味深な笑みでこちらを見てくる。

「北条様、昨日もいらっしゃっていたのよ。あなたが他の座敷に呼ばれていると聞いて残念がっておられたわ」

 下に降りると洒落た洋装の男が見えた。半年ほど前、風花が両親の墓参りに行っているときに出会った侯爵家の男だ。以来、風花に協力してくれている。藍染屋と片目に加え、有馬が怪しいと教えてくれたのも北条だった。
 
「お待たせしました、北条様」

 柔らかなくせ毛の男に、座敷では決して見せない笑顔を向ける。
 
「やぁ、なかなか顔を見せられなくてごめんね」
「北条様はお忙しいですから、昨夜もいらしてくださったそうで、申し訳ありませんでした」

 たわいない話をしてから、北条はそういえばと話し始める。

「風花、お父上が君に遺していたものはなかったかな?」
「父がですか?」
「そう、出かける前に君に渡したものとか、なかったかな? 十年の前のことだから覚えていないかな。もしかしたら、それが犯人の手がかりになるんじゃないかと思っているんだけど」

 問われて風花は少し首をかしげて思案してから首を横に振った。

「そのようなものはなかったと思います」
「そうか。君に頼まれて色々探りを入れていみてはいるけれどなかなか尻尾が掴めないんだ。相当の手練れかもしれない、君はくれぐれも危ないことをしないようにね」

 自らの手で報復したいと話せば止められるような気がする。風花は頷くことにした。

「わかりました。北条様、またお琴を聞きにいらしてください」
「あぁそうしたいよ、落ち着いたら足を運ぶから。君の琴は本当に良い」
「ありがとうございます、母がよく稽古をしてくれましたから。あぁ、今は先生も」

 と厳しい先生の名を付け加えてペロリと舌を出してから、懐かしい日々を思い出す。優しかった両親と過ごした日々。やはり、絶対に仇をとろうと誓う。
 
「それじゃぁ私はそろそろ行かないといけないんだ。そのうちきちんと客として来るから」
「お待ちしています」
「君を身請けしようかな」

 優しく微笑む北条に、風花はあいまいに微笑んだ。幼い頃に郷の誰かと交わした約束が頭をよぎる。

 あの人は、本当に私を迎えに来てくれるだろうか。私がこんな場所にいると、知っているだろうか。知ったら、幻滅しないだろうか。 

 去っていく背中に小さく手を振りながら、風花は固く目を閉じた。