風花が両親とともに郷を焼け出されたのは十二年ほど前。明け方、突然生まれ育った郷が炎に包まれたのだ。当の風花は郷から逃げる以前の記憶をすっかり失ってしまっていた。
微かに覚えているのは、畑に咲いていた花が燃えている景色。
白い花弁が火に呑まれ灰色に舞い上がる様が、脳裏から離れない。郷について残っている記憶はそれだけ。
命辛辛逃げ出し、新たに小さな薬問屋を営み始めた両親は、その人柄もあって商売は繁盛していた。
このまま穏やかな日が続けば良かったのだ。だが、現実はそう甘くなかった。
風花の生活が一変したのは十年前、仕入れに出かけた両親が、そのまま帰ってこなかったからである。大きな借金があることもわかった。
それからの日々は地獄そのもの。幼い風花に、この町はけして優しくなかった。
『約束だ、十七になったらおまえを迎えに行くよ』
名前も顔も思い出せない彼と交わした約束だけが、ただ一つの心の拠り所であった。
あれから十年。風花は両親が消えた真相を手に入れる機会を得た。
半年の間、手当たり次第に情報を集めてたどり着いたのが目の前にいる二人であった。
両親が亡くなる前に、誰かと会っていたことは分かっている。それが藍染屋と高利貸し、そして伯爵家の有馬新太郎であった。そのうちの二人が同じ座敷で相見えるという。これほど有益な情報が得られる日はないかもしれない。風花の指は、わずかに震えていた。
座敷というものは居心地の良いものではなかったが、今日の座敷はいつも以上に居心地が悪い。座敷のどこかから妙な視線を感じるのだ。それが誰のものなのか、わからないのも気味が悪い。
「有馬殿、最近また資金繰りが良くなったそうですね。よい事業がありましたら教えてくださいよ」
上機嫌で酒を飲んでいるのは有馬新太郎の横で胡坐をかいている男だ。赤い顔の男に、新太郎は笑みを見せる。
「いやいや、大したことはありません。そちらこそ、最近懐が温かいようだ」
「いえいえ、とんでもございません。すっかり景気が悪くなりまして」
大げさに手を振る顔の赤い男はなんといったか。風花は記憶を手繰ってみるが、わからない。初めて見る顔であることは確かだった。
「なにをいいますか、片目から金を借りてまで手を出した事業をお抱えでしょう?」
「うまい話があったに違いない」
片目という名が出てきたので、風花の手はさらに震えた。片目とは通称である。本名は知らない。背の高い陰鬱そうな男で、片方の目がつぶれているらしく、そこから通り名がついた。その目のせいか、顔のほとんどを布で隠しているのではっきりとした顔を知るものはいない。実に不気味な男だそうだ。
高利貸しの中でも一際取り立てに厳しい男で、金が返せないとなればまず命はないと悪名高い。
「いえね、ここだけの話なのですがねぇ、例の雪の――」
赤顔の男はそう言うと突然白目をむき、そのまま目を閉じて深い眠りに就いてしまった。
すでに夢でも見ているかのように、口もとが笑っている。
「おや、すっかり酔ってしまわれたようだ。話の途中で寝てしまうなんて仕方のない人だ」
ふと、顔を上げた風花は、今の今まで穏やかな顔をしていた有馬新太郎がものすごい形相で眠りに就いた男を睨んでいることに気がついた。それこそ、今にも人を殺しそうな顔で。
だがそれも一瞬のこと。すぐに穏やかな表情に戻ると、酒をゆっくりと口に運ぶ。
「そうだ有馬殿、少しお見せしたいものがあるのですよ、後で時間はありますか?」
藍染屋が有馬新太郎に声をかけたので、風花は耳をそばだてた。
「えぇ、少しだけならお付き合いできます」
二人が何をするのか気になる。追いかけない手はない。風花は琴を爪弾きながら、店を抜け出す算段を立て始めた。
「では、宴もたけなわではございますが、そろそろお暇いたしましょうか」
下座に腰かけていた藍染屋が声をかけたのでお開きになる。赤い顔で眠っている男はまだ目を覚まさない。
「仕方ないなぁ藤左ヱ門さんは、すっかり酔っぱらっちまって。おい、立てるかい?」
「うぅん、大丈夫ですよ、すみません。突然ひどい眠気が来てしまって」
ようやく目を開いた男を連れて、五人は店を出て行った。
座敷の片づけが始まったとき、風花は機を見て女将に声をかける。
「先ほどのお客さんが忘れ物をしたようです。今すぐに追いかけたら追い付けるかもしれません」
「おやそうかい? でもおまえ、次の座敷があるだろう?」
「返せなかったらすぐに戻りますから」
そう言って無理に店を出た。本当は忘れ物などありはしない。藍染屋と有馬新太郎を追うための方便だ。
風花は行き交う人をかき分けて、二人の後を追った。
微かに覚えているのは、畑に咲いていた花が燃えている景色。
白い花弁が火に呑まれ灰色に舞い上がる様が、脳裏から離れない。郷について残っている記憶はそれだけ。
命辛辛逃げ出し、新たに小さな薬問屋を営み始めた両親は、その人柄もあって商売は繁盛していた。
このまま穏やかな日が続けば良かったのだ。だが、現実はそう甘くなかった。
風花の生活が一変したのは十年前、仕入れに出かけた両親が、そのまま帰ってこなかったからである。大きな借金があることもわかった。
それからの日々は地獄そのもの。幼い風花に、この町はけして優しくなかった。
『約束だ、十七になったらおまえを迎えに行くよ』
名前も顔も思い出せない彼と交わした約束だけが、ただ一つの心の拠り所であった。
あれから十年。風花は両親が消えた真相を手に入れる機会を得た。
半年の間、手当たり次第に情報を集めてたどり着いたのが目の前にいる二人であった。
両親が亡くなる前に、誰かと会っていたことは分かっている。それが藍染屋と高利貸し、そして伯爵家の有馬新太郎であった。そのうちの二人が同じ座敷で相見えるという。これほど有益な情報が得られる日はないかもしれない。風花の指は、わずかに震えていた。
座敷というものは居心地の良いものではなかったが、今日の座敷はいつも以上に居心地が悪い。座敷のどこかから妙な視線を感じるのだ。それが誰のものなのか、わからないのも気味が悪い。
「有馬殿、最近また資金繰りが良くなったそうですね。よい事業がありましたら教えてくださいよ」
上機嫌で酒を飲んでいるのは有馬新太郎の横で胡坐をかいている男だ。赤い顔の男に、新太郎は笑みを見せる。
「いやいや、大したことはありません。そちらこそ、最近懐が温かいようだ」
「いえいえ、とんでもございません。すっかり景気が悪くなりまして」
大げさに手を振る顔の赤い男はなんといったか。風花は記憶を手繰ってみるが、わからない。初めて見る顔であることは確かだった。
「なにをいいますか、片目から金を借りてまで手を出した事業をお抱えでしょう?」
「うまい話があったに違いない」
片目という名が出てきたので、風花の手はさらに震えた。片目とは通称である。本名は知らない。背の高い陰鬱そうな男で、片方の目がつぶれているらしく、そこから通り名がついた。その目のせいか、顔のほとんどを布で隠しているのではっきりとした顔を知るものはいない。実に不気味な男だそうだ。
高利貸しの中でも一際取り立てに厳しい男で、金が返せないとなればまず命はないと悪名高い。
「いえね、ここだけの話なのですがねぇ、例の雪の――」
赤顔の男はそう言うと突然白目をむき、そのまま目を閉じて深い眠りに就いてしまった。
すでに夢でも見ているかのように、口もとが笑っている。
「おや、すっかり酔ってしまわれたようだ。話の途中で寝てしまうなんて仕方のない人だ」
ふと、顔を上げた風花は、今の今まで穏やかな顔をしていた有馬新太郎がものすごい形相で眠りに就いた男を睨んでいることに気がついた。それこそ、今にも人を殺しそうな顔で。
だがそれも一瞬のこと。すぐに穏やかな表情に戻ると、酒をゆっくりと口に運ぶ。
「そうだ有馬殿、少しお見せしたいものがあるのですよ、後で時間はありますか?」
藍染屋が有馬新太郎に声をかけたので、風花は耳をそばだてた。
「えぇ、少しだけならお付き合いできます」
二人が何をするのか気になる。追いかけない手はない。風花は琴を爪弾きながら、店を抜け出す算段を立て始めた。
「では、宴もたけなわではございますが、そろそろお暇いたしましょうか」
下座に腰かけていた藍染屋が声をかけたのでお開きになる。赤い顔で眠っている男はまだ目を覚まさない。
「仕方ないなぁ藤左ヱ門さんは、すっかり酔っぱらっちまって。おい、立てるかい?」
「うぅん、大丈夫ですよ、すみません。突然ひどい眠気が来てしまって」
ようやく目を開いた男を連れて、五人は店を出て行った。
座敷の片づけが始まったとき、風花は機を見て女将に声をかける。
「先ほどのお客さんが忘れ物をしたようです。今すぐに追いかけたら追い付けるかもしれません」
「おやそうかい? でもおまえ、次の座敷があるだろう?」
「返せなかったらすぐに戻りますから」
そう言って無理に店を出た。本当は忘れ物などありはしない。藍染屋と有馬新太郎を追うための方便だ。
風花は行き交う人をかき分けて、二人の後を追った。