『約束だ、十七になったらおまえを迎えに行くよ』

 あれは、いつの約束だろう。からめた細い指の感触を思い出す。淡く色づいた心は、炎によって燃え尽きた。あの炎はなんだったのだろう。

 白い花が散る。

 あの優しい声を、姿を、もう思い出すことができない。夢の内容は、いつも曖昧で、失った記憶を補填するには心許なかった。


 日の暮れた柳町(やなぎまち)に明かりがともり始めた。昼間静かなこの界隈は、夜になると一気に景色を変える。錦絵の中に飛び込んだかのように、町の中は鮮やかに色づくのだ。

 風花(かざはな)は欄干に頭を預け、下を流れる柳川を見ていた。暗闇の中にどんよりと流れる深い川は、この町を世界から隔絶するように見えた。
 事実、町は川の中州にあり、川を渡らなければ町を出ることなどできないのだ。深く広い柳川には、時折誰の物ともわからない遺体が浮かんでいた。

 どろどろと流れていく黒い川を見ていた風花は、ふっと長い睫を伏せる。

 風花が七つの時に、両親が大きな借金を遺して失踪した。以来、身寄りのない風花は、返せるかどうかもわからない借金を一人で抱え、ここで生きるよりほかなかったのである。

 幼い日に母に教わった琴の腕一つ、他に頼るものは何もない。

 ただ、あの日の約束が風花を支えていた。いつか、あの少年が自分を迎えに来てくれるのだと、信じていたから。

 厳しい稽古や仕事を淡々とこなしていた風花の心に波が立ったのは、半年前のことである。

 失踪していた両親が、この川に遺体となって浮かんでいたという。
 
 仕事で都へに出かけた両親が、どうしてこの川に浮かんでいたのか。風花はその真相を探りたくてたまらなかった。あの優しい両親が、自分を捨てたとはとても思えないのである。突然姿を消し、十年近く経ってから遺体となって見つかったのはなぜだろうかと。

「風花、お座敷に呼ばれたよ、早く行っておいで」
「はぁい」

 風花はゆっくりと立ち上がり、他の芸妓の後について部屋を出た。

 花町といえば、いくつか有名どころがある。柳町もかつては大きな花町であったが、時代の流れとともにその規模は全盛期の半分ほどになった。自然とどの店にどんな客が出入りしているのかがわかる。

 十年近くこの町で暮らしていた風花にも、それなりに情報網はある。この半年の間、両親の死に関わるであろう人物を幾人かに絞り込んでいた。

 一人目は薬問屋の藍染屋の主人、二人目は高利貸しの片目、そして三人目が――

「ねぇねぇ、今夜のお座敷は伯爵家の(しん)様がおられるところでしょう? いいなぁ私もそっちがいいなぁ」

 芸妓仲間の桜花(おうか)が小声で囁いてくる。頬が赤く染まって見えるのは、廊下を照らす明かりのせいではないだろう。風花は嫌そうな顔をした。

「桜花は趣味が悪いよ」
「えぇ、新様とっても素敵じゃない。そうよね、風花には北条(ほうじょう)様がいるもんね」

 芸妓になって十年。風花は愛想というものを振りまいたことがなかった。おかげで客や店の旦那や女将、先輩たちに何度も殴られたことがある。体には折檻の痕が絶えなかった。
 可愛げがないと言われたところでこういう性分なのだからどうすることもできない。
 ただ、琴の腕だけは確かなものであったので、手の足りない座敷には積極的に出向かされた。

 笑顔も見せず、つんと澄ましてひたすら琴を鳴らす風花のことを目をかける者は今まで一人としていなかった。北条というのも、風花の両親の仇を共に探ってくれている男にすぎなかった。

「私が待っているのは北条様じゃないよ」
「えぇ、だぁれ? いいなぁ、そんな人がいるなんて。あぁ新様、私のことを身請けしてくれないかなぁ」
「桜花にはもっと素敵なご主人が見つかるから」
「そうかなぁ。あぁ、私の年季はいつ明けるんだっけ」

 桜花が指を折りながら年数を数え始めて間もなく、風花は自分の座敷につく。

 十畳ほどの部屋に男が五人。真ん中で片膝を立てている洋装の男が桜花のいう「新様」であった。

 風花から見ても、伯爵家の後継ぎである有馬新太郎(ありましんたろう)は人目を引くほど美しい顔をした男であった。だが、風花にはどの男も両親の仇に見えて仕方がないのである。ただ一人、北条という男を除いて。

 やっと見つけた手掛かりなんだから、必ず証拠を掴んでやる。

 風花ははやる心を落ち着けて、いつもどおり琴を爪弾いた。