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　ひどく優しげな声だった。
　深月は沈みいっていた沼の底から這い上がるように、意識を浮上させる。

（呼んでいる、私を）

　体が焼けるように熱い。ぼんやりとした視界の先には、暁の姿があった。
　彼は片膝をつき、懸命に呼びかけている。

　応えたい。それなのに、体の自由がきかない。
　四肢がバラバラに引き裂かれるような激痛が繰り返し襲い、そこから逃れたくて深月は甘い芳香に縋ろうとする。

（だめ、だめっ……！）

　深月はすんでのところで抑える。
　このままそれに縋ってしまえば、何かが壊れる気がした。ゆえに奥歯を食いしばり、懸命に耐え続ける。
　そんな深月の耳に届くのは、暁の言葉だった。

「深月、君はどうしたい」
（どう……したい？）
「この先、何になりたい」
（何かって……？）
「他の誰でもない。選ぶんだ、君が」

　これまで奪取され続けていた人生の選択。
　暁はまさに今、深月にだけ取れる選択肢を委ねていた。

　その時、深月が着用するドレスの胸元から、鈴蘭の簪がぽろりと落ちる。
　密かに御守りとして所持していた物。
　視界の端に簪が映れば、手放しかけていた自我が徐々に戻っていく。

（私は……）

　自分には何もないと思っていた。
　人生を選べる権利はなく、いつの間にか麗子や大旦那に従うだけの日々だった。

　深月は、いつも考えていた。
　何もない自分が、特別な何かになる日はくるのだろうか。
　そして、未来の指針もなく無気力な自分が、生きたいと思える「なにか」に出逢える日はくるのだろうかと。

（違う。決めるのは、私だ）

　受け身になるのではなく、それらを選ぶのは深月だ。
　忘れかけていた意思の選択。
　それを思い出させてくれたのは、暁と過ごした短くとも穏やかな時間。

（私は、他の誰でもない私になりたい）

　人間、華月、稀血。
　そんな言葉で括るのではなく、私は私でいたい。
　そして、あわよくば――

「私は、あなたの、特別になりたい……っ」

　人として好き。
　そう思った自分の心に嘘はなかった。
　けれどそれだけではない。

　恋なのか、憧れなのか、初めての感情ばかりで強く断言はできないけれど。

　惹かれていた、焦がれていた。
　いつだって自分を貫く、今までの人生で出逢ったことがない、彼に。