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「おーい、アキ。稀血ちゃんの腕の手当て終わった……」
不知火 蘭士が隊長室の扉を開けると、すぐに腕を組んで佇む暁を発見する。
神妙な横顔に語尾を濁しながら近づくと、執務机の上に置かれた指令書と、小瓶が目に入った。
「それ、血だよな?」
「そうだ」
「指令書と一緒に届いたんだよな、なんでまたそんなのが」
「これを対象に飲ませろとのご指示だ」
対象とは、深月のことである。
深月が危惧していた通り、初夜のことは騒ぎになっていた。
だが、狂人化した華月の仕業ではなく、夜盗によるものとして、すでに軍が処理をしている。
そして深月はというと、表向きは保護対象、実のところは監視対象として特命部隊本拠地に連れてこられていた。
同じく華月の被害に遭った誠太郎には、帝国軍独自に調薬した忘却剤を打ち、祝言を挙げた丸一日のことを忘れさせていた。
「血を飲ませろって、そりゃ随分と強引だな」
「……最良の手段なんだろう。飲ませれば、仇なす者かそうでないかの判断がつくだろうからな」
「でもお前は、納得がいってないと。道理で怖い顔してるわけだわ」
「…………」
図星を突かれた暁は、人の血が入った小瓶を手に取り軽く振ってみせた。
「人間か、華月か」
不意に、暁の脳裏に浮かんだのは、己が何者かを聞き眼を震わせる深月の姿だった。
遥か昔、世に蔓延っていた異形の種族――あやかし。
人々を襲い命を食い散らしたあやかしだが、次第に妖界というこの世とは切り離された場所に移り住むようになったという。
しかし、ある一族だけは妖界に移ることなく人の世に残り、現在まで子孫繁栄を続けていた。
それが、華月である。
以来、華月についての情報を知る者は限られていた。
政府幹部と、帝国軍では特命部隊員のほか、参謀総長と幹部数人、隊長職に就く者のみだ。
「俺はあの一族が好かない。個人的感情を差し引いたとしてもだ。だが、このやり方は理念に反する」
華月は、人の血を摂取することで高揚し、覚醒を促せる。
稀血である深月の内側に眠る本性を呼び覚ますには、この方法が手っ取り早いのだろう。
「稀血ちゃんは興味深いが、もし血を飲ませて暴走でも起こしたら……始末される可能性が高い。そら勿体ないわな」
あくまでも研究者目線でものを言う蘭士だが、暁が言いたいのはそういうことではない。
とはいえ訂正する気もなく、再び指令書に目を通す。
「時期は、一任されている。それまでは夜間巡回も極力控えて監視に集中するようにとのことだ」
「ほかの隊員じゃなく、隊長のお前が直々に監視? まさか、ずっと?」
「何か問題があるか」
「いやあ、そりゃあ……」
蘭士は素っ頓狂な声をあげた。
こんなに綺麗な顔をしている暁だが、普段から女っ気がなく、異性からの好意にも動じない鉄壁の男である。
そんな暁が任務とはいえ四六時中、女性の近くにいなければならない状況というのは、どんなに想像してみても異様な光景にしかならない。
「稀血ちゃんは一応、一ノ宮家に嫁入りした身じゃねえか。それ、いいのか?」
「その件に関しては、一ノ宮家当主が庵楽堂の店主にすべて白紙に戻すと伝えたらしい」
指令書とは別の報告書を手に取った暁は、深月の身辺調査の結果を口にする。
元々、今回の縁談は、当主不在の際に誠太郎が一ノ宮の名を使い取り付けたものだった。
誠太郎の甥にあたる一ノ宮家当主は、昨晩帝都に戻ってその一連の流れを知り、今朝には白紙の報せを出したという。
一ノ宮家当主も伯父の気随気ままな振る舞いには手を焼いていたらしく、今回の件で厳しい処遇を与えることを決定したそうだ。
「はあー、祝言も終わってんのに、そう簡単に罷り通るのがすげぇわ」
天子の遠い外戚ということで今回は無理にでも収められたのだろう。
奉公先の主人として送り出した大旦那は、面目丸潰れだが。
「……難儀だな」
「なんつった?」
その独り言に、蘭士は聞き返す。
しかし暁は無言のまま瞳を半分ほど伏せ、一度しっかりと目を通した報告書を流し読んだ。
(老舗和菓子屋の奉公人として数年間いたそうだが、近所周辺の人間には殆ど認知されていない。……あの手を見れば、どのような扱いを受けていたのかは明白)
華月が暴れた一ノ宮家の寝所から深月を連れ出した際、赤く爛れた手が目についた。あれは、水仕事や雑用によるもの。
奉公とはいえあまりにも酷く、そして抱えた身体の軽さに驚愕したのを覚えている。
ぞんざいな扱いを受けていたのだろう。
実の両親には捨てられ、養父とは死に別れ、奉公先では冷遇され、大旦那の娘の代わりに妾を囲い込む男の元へ嫁がされた。
初夜では華月に襲われかけ、それによって自身が稀血であることが明かされ……報告書と深月の証言を合わせれば、こんなところだろうか。
あまりにも自分以外に左右された人生だ。
それを難儀とは思えど、監視対象を同情的に見ることはできない。
(……ひとまずは、数日様子見だ)
人か、人ならざるものか。
それを見極めるのが、己の責務だ。