ミキがおばあちゃんを腕に抱いて歩いていると、前方によろめきながら歩く動物の後ろ姿が見えた。
「犬?」
その姿は犬のようにも見えたけれど、頭部にいくつもある瘤のような膨らみや、同じく瘤の付いた尾っぽは見慣れた犬のそれではなかった。
その犬に似た生き物は盲目なのだろうか、両の瞼が固く閉ざされていて、片耳も欠いている。
なにより目に見えて毛づやも悪く、弱った様子で足取りがおぼつかない。
『いいや、あれは狛犬だね』
「狛犬って神社の入口なんかにいる、あれ? あ、危ないっ!」
ミキが咄嗟に声を張る。
狛犬が歩を進める先、地面が盛り上がっているのに気付いたのだ。
けれど一瞬遅く、狛犬は盛り上がりに足を取られて地面に倒れ込む。
「大丈夫!?」
狛犬は倒れ込んだまま、なかなか起き上がれずにいた。ミキは慌てて狛犬に駆け寄ると、助け起こそうと、狛犬の背に手を触れた。
「人間風情が儂に、触るでない!」
瞬間、狛犬はビクンと体を揺らし、声を荒げた。
「ご、ごめんなさい」
ミキは怒声に驚き、慌てて狛犬から手を引いた。
「ふんっ、儂は人間は好かん」
狛犬は息巻くが、ふらつく体はなかなか地面を踏んで立ち上がる事が出来ない。
ミキはハラハラとした思いでしばらく眺めていたが、途中でいてもたってもいられなくなった。
「狛犬さんは、どこまで行くの?」
手は出さず、おそるおそる問いかけた。
「ふんっ、神社じゃ。邪魔をするでないぞ、今日が百日目なのだ。儂は這ってでも行くんじゃ」
ミキの問いかけに、不機嫌ながらも答えが返った。
「神社まではあと、どのくらいあるの?」
「後二キロ程じゃ」
「二キロも先?」
毎日、通学で三キロを歩いているミキにとって、二キロの距離は決して遠いものではない。けれど地面に伏したまま立ち上がれずにいる狛犬にとって、二キロの距離は気が遠くなる程長い気がした。
「おばあちゃん、降りてもらってもいい?」
『あぁ、構わんよ』
ミキはずっと抱いていたおばあちゃんを、そっと地面に下ろした。
「狛犬さんごめんなさい」
「おい、何をする!?」
ミキは狛犬に一声かけると、答えを待たずにその胴体を掴んで持ち上げた。
持ち上げた狛犬はずっしり重く、おばあちゃんの三倍はありそうだったが、しっかりと胸に抱けば歩けない程ではない。
「娘、儂をどうするつもりじゃ!?」
ミキは狛犬を深く抱え直すと、歩き出した。
「どうもこうもしないよ。私ね、目的はあるけど行き先は決まっていないの。だから、神社まで送っていくよ。それから私は娘じゃなくて、ミキだよ。狛犬さんのお名前は?」
「……儂は、シロじゃ」
「シロね」
ミキは、不承不承でも狛犬が名前を教えてくれた事が嬉しかった。
「のぅミキ、重いじゃろう?」
シロは途中、ミキに向かってすまなそうに言った。
人間を厭うシロが労わるような言葉をかけてきた事が、ミキには少し意外だった。
「ぜーんぜん、私が好きで抱っこしてるんだから、シロは何も気にしなくっていいの。それに私、毎日三キロ歩いて学校に通ってるから、足は丈夫なんだ」
「そりゃあ最近では珍しいんじゃないか? 今は一キロの距離だって親が車で送り迎えをするんじゃないのか?」
「そういう家もあるよ。でもうちは共働きだから、そもそも登下校の時間の送り迎えは無理なんだ」
「そうか。ミキは逞しいな」
ミキは一抹の寂しさを振り払うように胸を張った。
「逞しくなきゃ、鍵っ子なんて出来ないよ」
そう、これからは帰ってもおばあちゃんが迎えてくれない。
(私がしっかりしなくちゃダメ)
「鍵っ子か。……奴も、自分で家の鍵を持っておったなぁ」
「奴って誰?」
シロはハッとしたように視線を横に逸らした。
「忘れてくれ。聞いて楽しい話ではない」
シロの閉じた瞼には、薄く涙が滲んでいた。
ミキは片腕でシロの腹回りをしっかりと抱えると、外した方の手でポケットからハンカチを引っ張り出した。
「シロ、ちょっとだけ目元を触るね」
一声かけるとミキはハンカチの角をそっとシロの目元にあてた。
「儂なんぞに、優しゅうせんでいい」
「優しい訳じゃないよ。でも、目の前で泣いている人がいたら、手を差し伸べたいって思うでしょう?」
「はははっ、本当に子供らには色々なのがおる」
シロは、乾いた笑いをこぼした。
「儂が神社におった時も、儂を撫でる者もおれば、小石を投げつける者もおったわ。けれどしょせん、子供のなす事。儂は腹を蹴られた時も、耳を折られた時も、そう自分を慰めて堪えてきたんじゃ。じゃが、そなたのように他者を気づかおうとする者は、なかなか稀じゃな」
おそらく、シロなりにミキを称えた言葉であったのだろう。けれどミキの心には、シロが傷つけられたという事実が重く響いていた。
「シロの目も子供たちがやったの?」
シロは耳が欠けているばかりじゃなく、目も堅く閉ざされている。
「いいや、目は違う。儂はもう、愚かな人間を見ていたくなかった。だから儂は、自ら望んで視界を閉ざしたのじゃ」
「自分で!?」
シロが目を覆いたいと思った程の出来事。ミキは、シロを抱く腕に力を籠めた。
「楽しい話じゃなくていいから私に聞かせて? 私は、聞きたい。一体、何があったの?」
「はははっ、本当にミキは変わった娘じゃ。では、そうさな――」
シロはゆっくりと語り出す。
シロの身に起こった事を。シロが目を閉ざす原因となった事を。
「狛犬である儂は、ある神社の守り神じゃった。儂のいた神社は、目と鼻の先に小学校があった。儂は小学校がまだ寺子屋と呼ばれていた時代から、ずっと子供らを見てきた」
「江戸時代から……!」
「けれど時代の流れだろうな、最近は塾やら習い事やらと子供らも忙しい。儂の所にやって来る子供は随分と少なくなった。そんな中、珍しく儂によく懐いた子供がおった。奴は毎日、学校帰りになると儂の元に寄ってきて、その日あった事を話して聞かせた」
ミキは歩を進めながら、シロの話に耳を傾ける。
「ある日奴が、クラス替えをしてから新しいクラスに馴染めんのだと、軽い調子で言っていた。そんなのはよくある事と、儂は別段気にも留めていなかった」
シロの声には後悔が滲んでいた。
「ところがそれから奴は、よく持ち物をなくすようになった。朝持っていた手提げかばんが帰りにはなかったり、靴を履いていなかったりと様々だった。当然、儂と奴に双方向の会話はない。けれど不思議と、心は通じていた。儂がちゃんと名前を書いておかないからだと内心で思っていれば、奴も笑っていた」
ミキは、その子が持ち物をなくす理由に思い当たっていた。
「けれど、そんな笑い顔も段々と減っていき、表情が暗くなった。半ズボンから覗く奴の膝小僧に痣を見つけた事がある。奴は転んだとこぼした。儂は、不注意な奴だと、これからは気を付けろと笑った。奴も、本当にドジだと、笑っていた。けれどある日を境に、奴はパタリと神社に来なくなった。儂は来る日も来る日も、奴を待った。けれど奴が儂の元には来る事は、二度となかった」
腕の中のシロは、見えない目でジッと前を見据えていた。ミキはいたたまれず、シロを抱き締める腕に力を篭めた。
そうして俯いていたミキが次に顔を上げた時、前方には赤い鳥居が浮かび上がっていた。
「奴が来なくなって一月程が経ったある日、神社を訪れた子供らが話しているのが聞こえてきた。『もう一ヵ月にもなる。今更目覚める事はないだろう』と、そんなような内容だった。儂は最初、何の事か分らなかった。けれど聞いている内に語られているのが奴の事で、奴が入院しているのだと分かった」
神社の鳥居はもう、目前だった。
バクバクと鳴り響く心臓の音が、ミキの脳内に反響していた。
「子供らの話はそれだけに留まらなかった。『ただ、持ち物を隠しただけ。少し、いたずらをしただけ。ほんのちょっと、仲間外れにしただけ。なのに、自分たちのせいにされてはたまらない。奴が海で溺れた事は自分たちとは無関係だ』と、子供らは口々に責任逃れとも思える無責任な言葉を繰り返した」
耳にして、ミキの胸が狂おしく締め付けられる。腕の中ではシロが、閉ざされた瞼を新たな涙で濡らしていた。
「真相は分らん。奴が自ら命を断とうとしたのか、あるいは事故だったのか。けれど救助された奴はいまだ病院のベッドの上で目覚めぬままで、聞く事すら叶わん」
シロが百日目と言った意味も、自ずと知れる。シロはその子の目覚めを祈って、百日詣でをしていた。
そして今日がその、百日目――。
「儂は怒りで震えた。気付いてやれなかった己が、悔しかった。神の端くれであるくせに、儂は上辺しか見ていなかった。端々から滲み出ていた真実を、どうして儂は汲み取ってやれなかったのだろう。儂は奴が日に日に表情を陰らせていくのを、見ていたのに!」
シロのせいじゃない。シロが悪い訳じゃない。
だけどこの言葉をミキが掛けたところで、シロの心は救われるだろうか? そうではないような、気がした。
「人間は何故、こうも残酷になれるのだろう。人間は阿呆だ。あらゆる種の中で、人間は一番、知恵を持つ。その知恵で豊かな暮らしを送ればいい、なのに人間は愚かにも過ちばかりを犯す。己の欲望でもって他を傷つけるのは、人間しかおらん。動物が他を傷つけるとすればそれは、己の命を繋ぐためだ」
ミキには返す言葉がなかった。
「……シロ、着いたから下ろすね?」
ミキはそう一声かけてから、シロをそっと地面に下ろした。鳥居をくぐるのは、シロの足であるべきだと思った。
「ありがとうよ、ミキ」
シロは小さく礼を告げると、おぼつかない足取りで鳥居に向かう。そうしてシロは、ゆっくりと鳥居をくぐる。ミキもシロの後に続き、軽く一礼して鳥居をくぐる。おばあちゃんも、ミキの後に続いた。
鳥居をくぐると、真っ白な空間に色彩が浮かび上がる。
足元は真っ白な地面から、砂利が敷き詰められた参道に変わる。参道の先には数段高い場所に本堂がある。
シロは長い時間を掛けて一歩一歩、砂利を進み、階段を上った。
盲目のシロだが、既に百日参拝を繰り返した神社だ。五段の階段を上りきると、神の身許でピタリと足を止めた。
シロに合わせ、ミキも神前で一礼した。次の瞬間、真っ白な光の渦が巻きあがり、ミキは眩しさに目を瞑った。
再び瞼を開けた時、目の前に浮かび上がるのは真っ青に輝く空と海だった。キラキラと眩しい二つの青は、境すら曖昧だった。
(ここは、どこ!?)
ミキは茫然と、目の前に広がる二つの青を一望していた。
すると、一人の少年が砂浜から波打ち際に向かって駆けてくる。
少年は、熱心に何かを探していた。
少年の手が、何かを拾い上げる。けれど一瞥した少年は、拾い上げたそれを、ポイっと放り投げてしまった。少年が放ったそれは、小さな貝殻。ただし、貝殻は端の部分が欠けていた。
少年が波打ち際で次の貝殻を拾う。少年は少し逡巡し、また放る。少年の放った貝殻は欠けこそなかったけれど、くすんだ色をしていた。
「もっと、奇麗な色じゃなくっちゃ」
少年が呟いた。
貝殻探しに熱中する少年は、波打ち際から段々と深い方に移動していた。波が、少年の膝上までを濡らすが、貝殻探しに熱中する少年は、自分のいる場所にもまるで無頓着だ。
「五百年目のお祝いには、奇麗な形の奇麗な色の貝殻じゃなくちゃ」
「五百年?」
「……創建際じゃ」
「え?」
足元で小さく呟かれたシロの言葉。見下ろしたシロは、体を震わせて泣いていた。
「儂は、とんだ阿呆じゃ」
「シロ?」
ミキはしゃがみ込むと、震えるシロの背中を、そっと抱き締めた。
「奴が言う五百年は、儂の神社の創建五百年の事。海に近い儂の神社は、昔から貝を供える風習があるんじゃ……。奴が探している貝殻は、儂のため」
必死で貝を探すのは、シロが語った男の子……。
聞かされた事実に、ミキは息を呑んだ。
「奴が溺れたのは、子供らにいじめられたからでもなんでもない! 儂のせい! 儂のせいじゃ!」
シロの叫びに、ミキはただシロを抱く腕を強くする。
映像はここで途切れて消え、目の前には神社の本堂が静かにそこにあるばかり。
けれど必死に貝殻を探す少年の残像が脳裏から消えない。少年はとてもこの後自ら命を断とうとしている人のそれではなかった。
「男の子が溺れたのは事故だよ。誰が悪いわけじゃない、不幸な事故だよ」
「ならば、その事故にあった原因が儂じゃ! 儂のせいで、事故にあったようなものではないか!」
ミキの胸がグッと詰まる。言いようのない、後悔が胸に溢れる。
「ならばシロ、私のおばあちゃんが死んだのは私のせいだよ。だっておばあちゃんは、私が頼んでいた買い物の帰りに事故にあったんだから。私が頼まなければ、事故は起きなかったんだから!」
ミキの心の吐露に、シロのみならず、おばあちゃんもまた息を呑んだ。
ずっと胸に痛みを抱えていた。おばあちゃんへの申し訳なさに、押し潰されそうになるのを、必死で踏ん張って立っていた。
一度頽れて膝を突けば、二度と立ち上がれなくなってしまうのが分かっていたから。
「違う! ミキ、それは違う!」
ミキの言葉に慌てたのはシロだった。シロは決して己の後悔を、他者に押し付けたかった訳ではない。
「……うん。それは結果論に過ぎないって私はもう分かっている。私が頼まなかったら、私が頼まなければ、そんなたらればの後悔はおばあちゃんが望まない」
シロは閉ざされた目で、確かにミキを見つめていた。
ミキもまた目線の高さを合わせ、しっかりとシロを見つめた。
「それは、一緒じゃないかな? シロに貝殻を探してくれた男の子も、同じなんじゃないかな」
当事者だから、分かる。目の前の後悔の渦は大きくて、激しくて、ともすれば呑み込まれそうになる。
だけどゆっくり一息ついて、目を閉じれば、また違った景色が見える。
「シロ、強くなって。後悔に呑まれるのは簡単、でも、立ち向かう事はもっと勇気がいるの。だけど、逃げちゃだめ」
ミキの言葉は重く、深く、シロの心を揺り動かす。
閉ざされたシロの目が、小刻みに震えた。
そうしてゆっくり、ゆっくりとシロの瞼が上がっていく。
「ミキは、人間は、なんと強いのか。人間は過ちも犯す。けれど許容する寛大さを、受け入れる強さを、人間は備えるのだな」
瞼から覗くシロの瞳は、優しい光をたたえていた。
あらわれたシロの瞳に、ミキは柔らかに微笑んだ。
「シロ、私と一緒に帰らない? そうしてその子の目覚めを、待たない?」
ミキの脳裏に一瞬、病院のベッドの上で微笑む少年の姿が浮かんだ。そうして少年の笑顔の先、ベッドのサイドテーブルには、奇麗な貝殻がひとつ置かれていた。
その光景はきっと、幻じゃない。遠くない未来の、情景だ。
「ああ、帰ろう。そうして奴の目覚めを待つんじゃ。ミキ、ありがとう」
シロは何度も、ミキに向かって頭を下げた。
「ううん、私こそありがとう。偉そうな事を言ったけど、本当は私自身がずっと胸にくすぶらせていた思いなの。こんな風に真正面からぶつかれたのは、シロのおかげ」
ミキがシロの背を撫でる。
シロはもう、ミキの手を嫌がらない。どころかミキの手に、シロは身をすり寄せてその温度を感じていた。
しばらくそうしていれば、シロの体がキラキラと光の粒子に照らされ始めた。
「シロ!?」
光の粒子をまとい、シロが見る間に薄く霞んでいく。
「ミキ、共に帰ると約束したのにすまんが、神社から呼ばれておるようじゃ。儂は一足先に帰るが、この恩は忘れんよ」
怒りに支配され、一度は神性を手放したシロ。
そのシロが再び神性を取り戻し、神に回帰する。晴れ晴れとした思いでシロを見送る一方で、一抹の寂しさが胸に過ぎる。
「恩だなんて、だって、お互い様だもん。ねぇシロ、今度私も、シロの神社を訪ねていくね!」
シロの姿はもう、かろうじて輪郭が分かるくらいに薄い。
「楽しみに、待っている。ミキ、ありがとう――」
ありがとうの言葉を残し、シロの姿は、影も形もなく消えた。
堪えていた涙が、一滴だけ眦から頬を伝った。
ミキはシロがいなくなって、いつの間にか神社が消えてしまっても、しばらく、その場に立ち尽くしていた。