ルークと別れたミキは、おばあちゃんと真っ白な林を進む。
「おばあちゃん、あれ、変わった馬だね?」
銀色の馬は額から一角を生やし、背には大きな翼を持っていた。
『いいや、あれはユニコーンだね。見た目は大人し気だが、気性が荒いから安易に近寄っちゃいけないよ』
天界をゆく途中、ミキはいくつもの種とすれ違った。そのどれもが、見た事の無い風貌をしていた。 
天界は、生き死にに関わるあらゆる種族が生きる、不思議の地だ。
「天界って不思議な所だね」
『この地に固有の生者も、そしてあたしのような亡者も、ありとあらゆる者がここには集うからね』
おばあちゃんの語った、ありとあらゆる者。その中には、早くに亡くなったおじいちゃんも含まれている。
もしかするとおばあちゃんは、おじいちゃんを探し求めているのかもしれない。ミキは、それっきり黙り込んでしまったおばあちゃんの小さな背中を見下ろした。
なんとなく胸が苦しかった。
命の木の周囲は白い木々が多く生えていたけれど、命の木を背にして進む内、木々は段々と数を減らした。
今はもう、周囲には一本の木だって見当たらない。見渡す限りサラサラとした真っ白な地面だけが続いていた。
「すごい、ずっと先まで真っ白」
一体どこまで真っ白な大地が続いているのだろうか。
『命の木は天界の中心に位置している。あたしたちは命の木を背にして進んでいるから、段々と天界の果てに向かっているよ』
「果てには、何があるの?」
『さてね? そもそも天界に最果てなどあるのか、本当の所は分らない。だからこそ、行ってみたいじゃないか』
「少し分かるな。分からないからこそ、知りたくなる。この手で解き明かしてみたくなる!」
ミキの胸は、未知への好奇心にわくわくしていた。おばあちゃんは、眩しいものでも見るように目を細め、懐かしむように呟く。
『ついこの間まで、ほんの赤ん坊だったのに。いつの間にか、随分としっかりしたものだね』
「え~? 私もう6年生だよ」
『おや、そうだったね』
おばあちゃんは、カラカラと笑ってみせた。
ミキはおばあちゃんと二人、一面真っ白な世界を進んだ。

カタン、カタン。
「おばあちゃん、何か聞こえない?」
『ああ、何の音だろうね?』
まず、聞こえたのは音だった。次いで、遠くかすんで小屋が建っているのが見えた。
真っ白な世界にあって、小屋は色彩を持っていた。
カタン、カタン。
『こりゃ、機織りの音だね』
「機織り?」
音は、機織りの音だった。規則正しい音を立て、誰かが布を織っている。音は傾いた小屋の中から聞こえていた。
カタン、カタン。
現代では、そうそう聞く事のない音だけれど、ミキはどこか懐かしい思いでそれを聞いていた。
(いったい誰が、織っているんだろう?)
小屋の横開きの戸が、僅かに開いているのに気付いた。ミキは吸い寄せられるように小屋に近付いた。
その時、ふわりと温かな何かが、ミキの横を通り過ぎた。まるでミキと入れ替わるように、それは小屋から遠ざかっていった。
(何だったんだろう?)
けれど姿のないそれに、ミキは気のせいだと思い直した。
そうしてミキは、そっと引き戸に手を掛ける。
「ヒィッ! が、骸骨!」
薄く開いた戸の隙間から覗き見て、ミキは腰を抜かした。
機織りをしているのは、なんと人ではなく、骸骨だったのだ。
ミキは地面に尻もちをつき、衝撃で腕に抱いていたおばあちゃんも取り落す。けれど猫の姿のおばあちゃんは、ピョンと身軽に地面に降り立った。
「誰だい?」
機織りの音が止む。
眼球のない頭蓋骨がミキを振り返る。当然、骸骨に表情などあろうはずもない。
(泣いている!?)
けれど何故か、ミキにはがらんどうの目が涙を流しているように見えた。
「おや、珍しいお客様だね。お嬢ちゃん、あんたが本来ここに来るのは、何十年も先だろうに」
骸骨は年嵩の、柔らかな女性の声をしていた。
優し気に語りかける女性の声は、ミキの心を落ち着かせる。ミキはもう、対峙する骸骨を怖いとは思わなかった。
骸骨はただの見てくれに過ぎず、その本質は心優しい女性なのだと理解したのだ。
「あなたの言うように、私が本当にここに来るのはずっと先なんだけど、どうしてもやらなくちゃならない事があって特別に来させてもらってるんだ」
「はははっ、そうかい。今は仮初なんだね。それじゃ、次の時また会えたなら、あたしの茶飲み仲間にでもなってくれると嬉しいね。生前にはそんな余裕もなかったけれど、今ならそういうのも悪かない。なに、ここに時間はあってないような物だ。ゆっくり待っているさ」
女性のいうように、天界に時間はあってないような物。それならば、ミキが本来の寿命を終えた時、また会えばいい。
ところが、ミキが実際に声にしたのは違っていた。
「その茶飲み仲間は、今じゃ駄目?」
「え? う~ん、駄目ってんじゃないけど、あたしとお嬢ちゃんじゃ年の開きが大きいからね。最近の流行りのゲームやらの話じゃ、あたしにゃ分からないよ」
そもそもミキはゲームをしない。かといって、女性と共通の話題を見つけるのは難しい。
それでも、この女性と話をするのは何十年も先じゃなく、今がよかった。なんとなく、このまま立ち去りたくないと思った。たとえ、あってないような時間の流れとはいえ、今この瞬間に涙を流す女性を、一人にしておく事が憚られた。
「大丈夫、私の話があなたに分からなくても、私があなたの話を聞きたいの。私はミキです。あなたは?」
「あたしはサヨだよ。それにしたってミキは変わった子だね。年寄りの昔話なんて聞いてもつまらないよ?」
「何言ってるのサヨさん。一人のお年寄りの持つ知恵や経験は、一つの図書館にも匹敵するんだってお父さんが言ってたよ。だからサヨさんの話が聞きたい。だってそれはどんな創作小説も及ばない、図書館一館分にも匹敵する話だもの」
「そうかい。ならば決して面白い話じゃないが、聞いていくといい」
サヨさんは機織りの席を立つと、ミキを手招いた。
「碌なもてなしも出来ないが、中にお入りよ?」
「はい!」
サヨさんは、小屋の中にミキを招き入れた。傾いた小屋は外壁が崩れかけ、お世辞にも立派とは言い難い。
けれど中はきちんと掃除され、手入れが行き届いて奇麗だった。
「お座りよ」
「凄く奇麗な敷物!」
サヨさんがミキに差し出したのは、編み目の美しい敷物だった。けれど美しく編み上げられた敷物は、暗い色合いをしていた。
「あたしの手作りさ。生前は、これに随分と助けられたよ」
ミキが座ると、おばあちゃんがミキの膝の上に、トンっと乗り上がった。
サヨさんも、ミキの向かいに腰掛けた。
「サヨさんは機織りを仕事にしていたんですね?」
「そうだね。はじめは夫の稼ぎが安定しなかったから、少しでも家計の足しになればいいと思ってはじめた。だけど途中からは、子供ら養うのに、脇目を振る余裕もなく織り続けたよ」
ふっと宙を仰ぐサヨさんのがらんどうの目は、これまでの人生を振り返っているようだった。
「……あたしの夫はね、生前に罪を犯した。貧しさに耐えかねて、隣家が軒先で乾燥させていた小豆を盗んだ。留守中の向かいの家にも忍び込み、米びつから米を盗んだ。その晩、夫から手渡された久しぶりの米と小豆が、あたしはとても嬉しかったのを覚えているよ」
サヨさんが、ポツリポツリと語り出す。
ミキは、静かに耳を傾ける。
「だってあたしは盗んだ物だなんて、知らなかったからね。子供らも、自分の食べた小豆まんまが、まさかお父ちゃんが盗んだ物だなんて知らなかった。皆、その晩は貪るように、腹いっぱい小豆まんまを食べたよ」
たまのご馳走を前に、子供達は目を丸くして頬ぼる。
光景が、目に浮かぶようだった。
「よっぽど小豆まんまが嬉しかったんだろうね。翌日に子供らが、近所の子らに告げた。……そうすれば、あっと言う間に、夫はお縄になったよ」
サヨさんの声が、淡々と語る。
「しかも盗みは初めてじゃなかったからね、刑期は長かった。私は夫を待った。私ら家族のために犯した罪だと知っていたし、何年でも夫の帰りを待つつもりだった。だけど刑期が明ける直前、夫は病であっけなく死んじまったさ」
「サヨさん……」
無情な現実に、聞いているミキの目が涙で潤む。
サヨさんは気丈に、話し続けた。
「けどね、一家が食いっぱぐれる訳にいかないから、泣いてる間なんてなかった。夫の刑期中も、夫が死んでからも、私はがむしゃらに働いてきた。子供ら養うために、何だってした。夜も明けきらぬ内から漁港の手伝いに出た。日暮れまで余所の畑仕事を手伝って、夜通し機織りの内職をしたよ」
ミキの目からは、堪え切れない涙が珠になって頬を伝っていた。
「そうすればね、子供ら皆、無事に育て上げられたよ。気付けば夫が死んで、二十年が経っていた。一番下の娘も、嫁に行ったよ。そうして子供らが皆巣立って行って、一人になれば亡くなった夫を思い出すゆとりが出来たんだ。やっと夫を偲べるって、懐かしく思い返せるって、思ったんだよ」
ここにきて、サヨさんの声が、震えていた。
「だけど、おかしいんだよ。私に出来て、どうして夫には出来なかったんだろうって、そんな思いが浮かんできちまった。どうしてまともに働いて、一家を養えなかったんだって思うのさ。夫は僅かだけど、晩酌に酒を飲んでいた。時々だけど、煙草をふかしていた。そんな事ばかりが、脳裏を過ぎるんだよ。死んだ人恨んだって仕方ないのに、恨みたくなんてないのに、思い浮かぶんだよ」
まるでサヨさんは、心の膿を吐き出すかのようだった。
壮絶な、サヨさんの人生が偲ばれた。ミキには、掛ける言葉が見つからなかった。まだ、ほんの子供のミキが受け止めるには、あまりに大きな告白だった。
「情けないね、ミキにこんな話聞かせちまってさ。さて、年寄りの昔話はこれで終わりさ」
「終りなんかじゃないよ。ねぇサヨさん、旦那さんを恨む心は、殺さないでいいと思うの。それだけの苦労をしてきたサヨさんだから、そんな風に思うのは当然だから。その代わり、それだけに支配されちゃいけない」
「うん?」
ミキは身近に見て、知っている。残された者の辛さも、それを乗り越えた強さも。
腕の中の、温かな重み。おばあちゃんを抱く腕に、少しだけ力が篭る。
「旦那さん、方法は間違たかもしれないけど、自分のためじゃなく、家族のために良かれと思った。優しい人だったんだね」
「あぁ、そうだね。夫は優しい男だった」
サヨさんは唐突なミキの言葉にも、頷いて応えてくれた。
「子供達は、しっかりしているね。出来る所で、働くお母さんをしっかり支えた。じゃなかったら、一家は立ち行かなかったかも」
「あぁ、そうだね。本当に子供らは、よく手伝ってくれた」
子供達の事を語るサヨさんは、誇らしげに見えた。
ミキは、サヨさんを見上げて微笑んだ。
「ちっともうまく言えないんだけど、どんな感情も胸においておけば、いいような気がするの。私のおばあちゃんはそうしていたよ。私のおばあちゃんも早くに旦那さんを亡くして、女手ひとつで子供達を育ててきたんだって」
「そうかい、ミキのおばあさまも、苦労されたんだね」
ふと、ミキの胸に疑問が浮かんだ。対峙するサヨさんは、腕に抱くおばあちゃんの存在を認識しているのだろうか。ルークにしても、そうだった。
サヨさんはミキしか、見ない。ミキの腕の中には一切目を向けない。
今この瞬間、おばあちゃんはミキの腕の中にいる。なのにこれではまるで、いるのにいない者のようではないか?
「おばあちゃんはね、次に会ったらおじいちゃんを怒ってやるんだって、口癖みたいに言ってたよ。私に苦労させてって、恨み言は尽きないって、口を尖らせてた」
だけど決まって、それを言うおばあちゃんの表情は晴れやかだった。
「おばあさまの気持ちはあたしにも、よく分かるね」
サヨさんはうんうんと頷いていた。
「恨む心はきっと、愛情の裏返し」
「え?」
「サヨさんの旦那さんは凄く幸福だったよ。サヨさんみたいなしっかり者の女性を奥さんに出来て。子供達も、幸せ者。厳しい暮らしでも、ちゃんと一人前にしてもらった。サヨさんは多くの人を幸せにしてきた。だけどサヨさんも、苦しい生活の中で楽しい事や嬉しい事が、あったよね?」
「そうだね。子供らの成長が励みだった。少し大きくなれば、あたしを気遣う言葉だって、かけてくれたよ。嬉しかったね、苦労も吹き飛ぶくらい、嬉しかったよ。こっちに来る直前、長男夫婦の所に初孫が生まれた時は、幸せに胸が詰まったよ」
骸骨のサヨさんから表情は読み解けない。けれどその瞬間、確かにサヨさんは柔らかな笑みを浮かべていた。
子を、孫を、思い出しているのだろう。
そして、それらの思い出の中にはきっと、心優しい旦那さんの姿もあるはずだ。
「サヨさん、恨み言って愛する心が言わせるのかもしれないね。相手に対する強い思いがあるから、苦労を分かって欲しい、努力をちゃんと認めて欲しいって思うんだよね。どうでもいいと思う人が相手なら、そんなふうには思わないもの」
「そうだよ、愛していたよ。愛していたから、その分だけ悲しくて悔しくて……。会いたいさ、そうしてまた会えたら、あたしだって尽きない恨み言を全部ぶつけてやるさ!」
ミキは小屋の入口に、視線をやった。
「じゃあさ、これからサヨさんの愛をいくらだってぶつけたらいいよ。天界には時間の制限はないでしょう? 思いの丈を余さず全部、ぶつけられる」
小屋の入口に、最初にすれ違った温かな何かがいる。
その正体は、ミキが明かすまでもない。
「なんだって?」
ミキはそっと敷物から立ち上がった。
「サヨさん、色々聞かせてもらってありがとう。私、そろそろおいとまする。それから、事の顛末は、何十年か後にまた来た時の茶飲み話に教えてね」
「なによ、随分と唐突じゃないかい?」
サヨさんが戸惑いをみせる。
「ごめんね。急に用事を思い出しちゃったの」
「そうかい、それじゃ、仕方がないね。ミキ、よかったらこれを持っていっておくれ。ミキが奇麗だって言ってくれたのが嬉しかったから、ミキにあげたいんだ」
差し出されたのは、今しがたまでミキが座っていた敷物だった。
「ありがとうサヨさん、大事にする。おじゃましました、サヨさんまたね!」
ミキは敷物を受け取って礼を告げると、足早にサヨさんの小屋を後にした。
小屋から出る時に、温かな何かと肩が触れる。触れた肩先から、温かさがふんわりと全身に広がった。
ミキは小さく会釈して、今度こそ小屋を後にした。 
ミキは男女の愛は、まだ知らない。
けれど家族の愛は、よく知っている。
おばあちゃんが、精一杯の愛で接してくれた事を知っている。
忙しい両親も、確かにミキを愛してくれている事を知っている。
そんな愛すべき人達との当たり前の日常が、突如断ち切られたら、それはありとあらゆる感情の嵐が吹き荒れる。
その内のひとつが恨みであろうとも、それに引け目を感じる事なんてない。
全ては、相手を愛おしく思うがゆえ。
「あばあちゃん、愛しているからこそ、嬉しいや楽しいだけじゃない感情も持つんだね」
ミキは、ミキなりの消化をみせる。
ミキなりに理解して、受け止める。
『ミキが話を聞いて、サヨさんの心に触れた。サヨさんの心は、解きほぐれたよ』
「私は、聞いただけだよ。それになんだかんだ言ったって、私には両親が揃っていて、おばあちゃんだっていて、食べるに困る暮らしなんて知らないの。本当の苦労を、私は知らない。私は、恵まれてるよ」
『実体験としては知らなくても、ミキはサヨさんを分かろうとして、寄り添おうとした。だからサヨさんも心を開いたんだけどね。まぁこれはおいおいでいいかね。だけど少なくともこれでサヨさんは、苦しい思いを胸に機を織る日々を終えたよ。ほら、みてごらん?』
おばあちゃんに言われるまま、視線を落とす。
「敷物がっ!?」
ミキは思わず、取り落しそうになった。
手の中の敷物が、地味な暗褐色からキラキラと輝く朱色に変わっていた。
『天界は、心ひとつで全てが決まる。とはいえ、まさかあの敷物が愛の赤錦になろうとはね。やはり、ここは面白い所さ』 
「え!? これが『愛の赤錦』なんだ! 凄く奇麗な赤色ね」
眩い程の美しさを前に、ミキは縫い止められたみたいに敷物から目線を逸らす事が出来なかった。
おばあちゃんは、そんなミキの様子を目を細めて見上げていた。 
『さぁミキ、これもまた無くしたら大変だ』
「うん」
ミキは眩い輝きを放つ敷物を、丁寧にランドセルに仕舞った。
敷物はランドセルの中に、木の実と一緒に収まった。
『さ、もうちょっと行ってみようかね』
「うん」
サクサクと大地を踏み出した、おばあちゃんの後に続く。
天界には、ありとあらゆる種が生きる。その中にはルークたちのように、天界に固有の種もいる。
一方で、おばあちゃんやサヨさんみたいに、現世での一生を終えた人達もいる。
そして、天界の皆も現世と同じようにあらゆる悩みを抱えながら生きている。
(生きる事ってなんなんだろう?)
ミキの心に、ひとひらの思いが過ぎる。
(天界も、同じように日々の暮らしを送ってる。それなら、永遠の別れに泣かない分、天界の方がいいんじゃない?)
同じ生きるなら、天界の方が良いように思えた。
(天界でずっとおばあちゃんといられたら、その方がいい)
こころの奥底では、口にはしがたいこんな思いが燻っていた。
『なんだいミキ? あんまり浮かない顔じゃないかい?』
「そういう訳じゃなんだけど、なんだか色々考えちゃって……」
うまく言葉では言い表せず、けれど釈然としないもやもやした思いがミキの胸に渦巻いていた。
『そうかい。まぁ、そういう事もあるだろうよ?』
おばあちゃんはそれ以上、追及する事をしなかった。
「……うん」
おばあちゃんの温もりを感じたかった。ミキは腰を落とすとおばあちゃんを抱き上げて、そのまま歩を進めた。