真っ白な光が弾けた瞬間に、ミキは硬く目を瞑った。直後、体がふわりと浮き上がる感覚があった。
ミキは間違っても腕の中のおばあちゃんとはぐれぬよう、抱き締める力を強くした。
浮遊感がなくなってしばらくしても、ミキは未知への恐怖から目を開けられずにいた。
『もう目を開けても大丈夫さ』
「う、うん」
おばあちゃんに促され、薄く瞼を開けた。
「なに、これ?」
目に前には、一面真っ白な世界が広がっていた。どこまでも続く白い地面は美しい反面、どこか物悲しい。
そんな真っ白な中にあって唯一、色彩をもって視界に飛び込んだのは薄く桃色に光る大木だった。大木はとても高く、仰ぎ見てもその天辺を臨む事は出来ない。
一体何メートルあるのか想像すら及ばなかった。幹もとても太く、十人が手を組んでやっと囲えるかというくらい太かった。
『ここが天界さ、そうしてこれが命の木さ。枝になっている赤いのが新しい命の実だよ』
命の木は真っ白だから、その色彩から枯れているかを判断する事は出来ない。
「赤い実は、あれだけ?」
大木の遥か上の方、ぼんやりと赤い実がなっているのが見える。けれど木の大きさを考えた時、実が少ないように感じた。
それが新しい命の数と聞けば、ますます少ないと感じた。
おばあちゃんを抱いたまま、ミキは命の木の幹に歩み寄る。
『その通りさ。命の木は枯れ始めてしまっている。この木の実りは本来、こんなものじゃないよ』
大木の前までやってきて、そっと木の幹に指先を触れた。
幹はカサカサに乾いていた、本来の幹の感触はこうではないはず。
木が泣いているような気がして、胸にジン熱い思いが込み上がった。
「絶対、肥料を見つけてくるから。だからもう少し、頑張って!」
まるでミキに応えるかのように、命の木は頭上で葉を揺らした。
おばあちゃんも目を細め、愛おしそうにミキを見上げていた。
「おばあちゃん、行こう!」
ミキは何かに突き動かされるように、力強く真っ白な大地に踏み出した。
肥料集めに関する詳細は分からぬまま。しかしミキには、漠然と分かっていた。
(きっと全ては、この真っ白な大地が教えてくれる!)

天界は、不思議な所だった。目の前に広がる無限の白。どこまでも続く白い大地に果ては見えない。
途中でおばあちゃんは、ミキの腕から下りた。ミキとおばあちゃんは並んで白い大地を進んだ。
(凄く静か……。虫の一匹だっていない)
ミキはキョロキョロと周囲を見渡して、一人うんうんと顔を頷かせた。
「ぅわぁっ!」
すると次の瞬間、真っ白な土の中から真っ白なバッタがピョンっと一匹飛び出して、跳ねて消えた。
(嘘、バッタ!? だって、草木の一本もないのに!? ううん、それよりも今のバッタ、白かった!?)
「えっ」
今度は真っ白な大地から、突然双葉が顔を出す。白い双葉は見る間に大きくなって、たくさんの葉が茂る若木になった。
おもむろに手を伸ばす。
けれどミキの手は、真っ白な若木をすり抜けた。ミキは反射的に、ビクリと手を引かせた。
「おばあちゃん、これっ!?」
足元のあばあちゃんを振りかぶる。おばあちゃんは動揺するミキを安心させるように、深く頷いた。
『それは実体のない虚像だよ。ミキの思いが形となって、浮かび上がったに過ぎない』
「どういう事?」
『天界に現世の理は通用しないよ。天界は心が造る』
天界では、心が景色景観を生み出す。心で思い描いた映像が、目の前に浮かぶ。
「だけど、命の木は触れたよね?」
『天界にも、生きとし生けるものがある。その者らは実体を持っとるよ。それらは色彩を持つし、触れれば感触があって温もりも伝わる。命の木はその筆頭だね』
「そっか! 命の木も薄桃色をしてた! それに触れれば命の鼓動を感じたよ!」
ミキは柔軟に、受け入れる。
『そうだね』
おばあちゃんは眩しそうに目を細め、ミキを見上げた。
ミキの心根は真っすぐで温かい。おばあちゃんは心の内、神様は選ぶべくしてミキを選んだと確信していた。 
天界は実体と虚像が巧みに交錯する、摩訶不思議な地。けれど無限の可能性を思わせる、可能性の地だ。
ミキはゆうるりと周囲を見渡した。穏やかに、凪いだ心で見渡せば、真っ白な天界のそこかしこから命の息吹が浮かび上がる。 
そよぐ風は柔らかに頬を撫で、天界を真白く照らす陽光は温かな温度を伝える。
「面白いね! 心ひとつで、景色が変わって見える」
感嘆したようにミキが呟く。
白く塗られた大地は情報量が少なくて、だからこそ感じる事も多い。
『もう少し進んでみようか』
「うん!」
天界の大地を進むミキとおばあちゃんの背中が、真っ白な天界にあって鮮やかに浮かび上がっていた。

コツンッ。
「ん?」
真っ白な大地をしばらく進んだ所で、ミキの踵に何かがぶつかった。
ミキが足元を見れば、ぶつかったのは拳大の大きさの木の実だった。
コロン、コロン。
そうこうしている内にも、木の実はいくつも転がってきた。それは、一定の方向から転がってきていた。
ミキは不思議に思い、木の実が転がってくる方に足を向けた。
おばあちゃんは、ミキから少し距離をおいて続いた。
「ちぇっ、なんだよ。父ちゃんは分かってないよな。えいっ」
コロリン。
一本の大木の後ろから、木の実は転がってきていた。そうして近寄れば、誰かの声も聞こえてくる。
「それ、もうひとつ。どうして俺ばっかり、我慢しなくちゃならないんだよ」
コロンコロン。
どうやら木の実は、声の主が蹴り飛ばしているらしかった。
「はぁ~。もういっそ、夢なんて、なくなっちゃえばいいのに」
特大のため息をこぼすと、声の主はその場にしゃがみ込んだ。木の幹に寄りかかり、どさりと足を投げ出す。
木の幹から僅かに覗く足は、見慣れた人間の足ではない。ぽよんとした動物のそれだった。
ミキがそうっと覗き込めば、そこにいたのは今までに見た事のない動物の少年だった。
(サイ? でも、サラサラに光るたてがみがある。それに、奇麗な水色)
少年は覗き込むミキには気付かず、面白くなさそうに、先端にフサフサの付いた尻尾を地面に叩きつけていた。少年の脇には、ミキの方にも転がってきた木の実が、いっぱい積み上がっていた。
どうやらこの少年が、腹立ちまぎれに蹴った木の実が、ミキの方まで転がってきたらしかった。
「ねえ君、どうしたの? 何かあったの?」
ミキはくるりと身をひるがえすと、少年の前に飛び出して、問いかける。 
「な、なんだよ。お前、誰だよ?」
突然現れたミキに、少年は目を丸くした。
「私はミキ、隣に座ってもいい? 君の大きいため息が聞こえて、なんだか気になっちゃったの」
「別に、いいけど。俺、ルークな」
少年はぶっきらぼうにルークと名乗り、座る位置を横にずれた。ルークの座っていた場所には、柔らかな落ち葉のクッションが敷かれていた。
ルークはミキに、柔らかなクッションを半分譲ってくれたようだった。
ミキがチラリと振り返れば、おばあちゃんは少し離れた所で丸まって、薄桃色の毛を毛づくろいをしていた。
「ありがとう。ねぇ? ルークは奇麗な水色だよね。そのたてがみ、サラサラでうらやましい」
ミキはルークの隣、柔らかな落ち葉のクッションに腰を下ろした。その時、ルークのなびくたてがみが、ミキの頬をサラリと掠めた。
艶やかなたてがみは、見た目よりもずっと柔らかかった。
ミキは自分のくせっ毛に手をあてて、ルークに微笑む。
「こんな幼体、ちっとも奇麗じゃないよ。俺は早く、父ちゃんみたいなギザギザのたてがみになりたいんだ。それで父ちゃん母ちゃんと一緒に人の悪夢を食べに行くんだ」
「そっか! ルークは人の悪夢を食べる、聖獣のバクだったのね! ルークは早く、大人になりたいの?」
ミキにはルークの葛藤がよく分からなかった。子供でいる事は、決して悪い事ではない。時期が来れば皆、平等に大人になる。 
「そういう訳じゃないけど。だけど、子供のままじゃずっと留守番だから」
ルークの最後の言葉に、ピンときた。
「ねぇルーク、お父さんとお母さんが共働きしてるから、私もいつも留守番なんだ」
「ミキも?」
「うん。それでも今まではおばあちゃんがいたから、帰れば必ずおかえりって、出迎えてくれてたの。だけど、おばあちゃんがいなくなっちゃって、これから私は誰もいない家に帰る事になるんだ」
少し離れた場所にいたはずのおばあちゃんが、いつの間にかミキのすぐ横にいた。そうしておばあちゃんはミキを慰めるように、スリスリと腕に体をすり寄せた。ミキもまた、おばあちゃんの滑らかな背中を撫でた。
今までの当たり前は、もう当たり前じゃない。おばあちゃんが亡くなって、その大きさを改めて思い知った。
今、仮初の姿の猫になって、おばあちゃんはミキの腕の中にいる。だけどそれは、ミキが使命を果たすまでの期間限定だ。現実の暮らしに戻れば、おばあちゃんはいない。
「けどね、見方を変えてみたんだ。誰もいない家に帰るのが寂しいって感情は、お父さんやお母さんも同じだろうなって。しかもそれが、働いて疲れて帰って来たなら、なおさらだと思う。だからこれからは私が、笑顔で出迎えてあげる役をしようかなって思ってる」
ルークはじっと、噛みしめるようにミキの話に耳を傾けていた。そうして全て聞き終えると、ルークはそっと顔を上げてミキを見つめた。
「ミキは凄いな。なんだか俺、自分がてんで我儘みたいに思えてきたよ」
ミキは首を横に振る。おばあちゃんの死という現実が、そう思わせたのだ。
これまではミキも、忙しく家を空けてばかりの両親に、いじけていたのだ。
「俺さ、本当は寂しいんだ。毎晩、父ちゃんと母ちゃんは俺を置いて仕事に行っちゃう。だから俺も早く、一緒に行けるようになりたいって思ってた。もっと投げやりに、いっそ夢なんかなくなっちゃえばいいとも思った。……でも、そうだよな。父ちゃんも母ちゃんも遊びに行ってるんじゃないんだ。悪夢だけを見極めて食べる、大事な仕事なんだ」
「本当だね。凄く素敵な仕事だね」
眠りの世界におとずれる夢は、人の心に左右する。
悪夢を見れば、重たい目覚め。いい夢で目覚めた朝は、気分が明るい。
ルークたちバクの仕事は、人々の心を豊かにする、尊い仕事だ。
「俺さ、もう少し子供でいいや。俺にはまだ、荷が重い気がするよ。間違って皆のいい夢をかじっちゃったら、大変だもんな。少し寂しいけど、父ちゃん母ちゃんも頑張ってるって思って、ちゃんと眠って待つ事にするよ」
「ルーク。よかったらこれ、もらって?」
ミキはふと思い出して、背負ったランドセルを下ろす。そしてランドセルにぶら下げていたお人形型の匂い袋を取り外すと、ルークに差し出した。
「いい匂い。これはなに?」 
ルークは引き寄せられるように、鼻先を寄せた。
「ポプラのお人形よ。中に乾燥させたハーブが入ってるの。ポプラは寝つきをよくしてくれるんだよ。それにこれ可愛いでしょう? 枕元に置いたら、寂しいのが少しは楽になるんじゃないかな?」
おばあちゃんの手作りのお人形は、ランドセルに付けて毎日一緒に登校していた。
擦り切れればまた、おばあちゃんに作り直してもらう。これまではずっと、それを繰り返してきたが、おばあちゃんが亡くなってしまい、これが手もとに残る最後のお人形だった。けれど、これでルークの寂しさが減るのなら、ミキは惜しくなかった。
「大事な物なんじゃないのか? 俺がもらっちゃっていいのか?」
おばあちゃんとの思い出は大事で、おばあちゃんからもらったこのお人形も、もちろん大事だ。
「ルークに、もらって欲しいの」
必死に頑張るルークにこそ、この人形をあげたかった。なにより、人形は手元からなくなっても、おばあちゃんがくれた思いは、ずっと心に残る。
「ありがとう、大事にする。ミキ、俺もう戻るよ。父ちゃんに不貞腐れた態度を取って、出て来ちゃったんだ。きちんと俺の、今の気持ちを伝えてみるよ。ミキのおかげで、もやもやしてた気持ちがスッキリした」
ルークは人形を受け取ると、大切そうに握り締めた。
「良かった!」
晴れやかなルークの笑みに、ミキの胸にも嬉しさがこみ上げる。
「それと俺、大人になったらその時は、父ちゃんに負けないくらい、立派に働いてみせる! もしミキが悪夢にうなされてたら、一番に俺が食べに行ってやるよ。それからこれ、俺からの感謝の気持ち。俺の宝物なんだけど、ミキにやるよ。じゃあな!」
言うが早いか、ルークは人形の代わりに拳大の何かをミキに握らせると、走って行ってしまった。
ルークから握らされた何か。ミキが、そっと手を開いた。
現れたのは、ルークが蹴っていた木の実だった。だけど、ただの木の実じゃなかった。木の実はミキの手のひらに、脈動と温もりを伝えた。
そうして木の実は、殻の隙間から眩いばかりの輝きを放っていた。まるで、木の実自体が輝石であるかのように。
「宝石みたい! こんな凄いもの、貰っちゃってよかったのかな!?」
物の対価は金銭的な価値が全てではない。とはいえ、とても手作りのお人形の代わりに貰っていい物だとは思えなかった。
おばあちゃんは、優しく目を細め穏やかに微笑んだ。
『ルークがミキにやりたかったんだ。ルークの気持ちだから、ミキが貰っておいたらいい。それに夢の黄珠は、ミキが持つのが相応しい』
「え!? これが『夢の黄珠』なの!?」
『ああ、美しいだろう?』
ミキの心は複雑だった。自分がルークから輝く木の実をもらえる程の事をしたとは、とても思えなかった。
「でも、私はなんにもしてないよ?」 
『いいや、ミキがルークの夢を繋いだよ。だってルークは、夢なんてなくなっちゃえばいいって、最初にそう言っていたろう?』
確かにルークはやさぐれて、そんな風に零していた。
「だけどそんな軽口は、誰だって言っちゃう事あるでしょう?」
『ああ、普通の人ならそのくらいは構わないよ。だけどルークが言うには、禁忌にも近い言葉だった。夢に携わるバクだから、言ってはいけない言葉だったのさ。それくらい、ルークは思い詰めていたんだよ』
おばあちゃんの言葉は、ミキには少し難しかった。
『投げた言葉の重みは、投げた側ではなく、受け取った側の思いで決まる。かと言って、受け取った言葉の重さが、ほんとうに受け取った通りのものとも限らない』
「なんだか言葉遊びみたいで分かんないよ」
おばあちゃんの言葉は、聞けばますますこんがらがった。
『はははっ、それもそうだね。とにかく、夢の黄珠が手に入ったのは確かだよ。無くさないようにランドセルに入れておくといい』
「うん」
ミキは輝く木の実を丁寧にランドセルに仕舞った。