*
片付けを終えたのは2時を過ぎようとしていた時のこと。「お疲れ様でーす」と一番最初にタイムカードを切ったのは早川くんだった。私も続いてタイムカードを切ったものの、休憩室にギュッと人が濃縮されるのも嫌だったので、バーカウンターの椅子を引いて腰掛ける。すると、「あ、」と西野さんが声を上げた。
「ちょちょ、一瞬で戻るから向かいのコンビニ行ってきてもい?俺今日店残ってちょっと事務作業あんだわ、煙草が足んねえ」
「いいですよ」
「助かるわー。鍵がね、一回一回かけんの面倒なんだよねー。すぐ戻るから。早川のことは帰らせて大丈夫だから、おつかれって言っといてー」
「分かりました」
慌ただしく店内を出た西野さん。一気に静まり返った店内にぎこちなさを覚える。ふたつ離れたバーカウンターに座っていた灰崎くんは、頬杖を付きながらスマホを見ていた。
「……灰崎くん」
私の声に反応した灰崎くんがスマホを閉じ、少しだけ体の向きを変える。目が合って、ふっ、と笑われた。
「んー、トモちゃん」
「お疲れ様」
「だねえ。俺全然使えなかったよね、ごめんね」
「いや……」
「今日は皿1つとグラス2つ」
「え?」
「俺が割った数。全部厨房で割ったからセーフ?だったけど。なーんかな、俺の手、ゆるゆるなんだよ」
灰崎くん───灰崎在真(はいざきあるま)くん。金髪が印象的な男の子。可愛らしい、柔らかい、中性的な顔立ち。歳は私と同じで、大学は早川くんと同じ。辞めたという噂だけれど、真相は聞いたことがない。女の子を取っかえ引っ変えしているという噂もあるけれど、それもまた、謎に包まれたまま。何一つ、灰崎くんの口から正解は聞いたことがなかった。
掴めない人。不思議な人。
「あのさ、灰崎く……」
「あー、ほんっと今日は疲れましたねー八敷さん」
──早川くんが嫌う、"顔だけ"の人。
言葉を遮って、バタンッ、と乱暴に休憩室の扉が開けられた。はあぁー……という大きなため息と共に、私服姿の早川くんが出てくる。「ほんと、俺と八敷さんだけじゃないっすか?こんなに疲れてんの」とわざとらしく言われ、空気がピシャリと締まる。
「ハハ、早川くんオツカレー」
「どーも」
「西野さんが帰ってていいよって言ってたよ」
「言われなくても帰りますよ」
「八敷さん」
「っえ」
「あんまり相手してたら食われますよ?気をつけてくださいね」
感じ悪い、これ以外の言葉が見つからなかった。「ハハ、嫌われてるわ」と苦笑いを浮かべる灰崎くんと、「じゃあ、俺はこれで」と、灰崎くんとは目も合わせず出口に向かう早川くん。休憩室で、灰崎さんには内緒でお願いしますね なんて言っていたくせに、自ら内緒にするつもりなんてないようだ。
「おつかれさまでしたー」
カランカラン、バタン。ベルが鳴り扉が閉まった。
「…ククッ」
二人きりの店内。静寂の中、二つ隣の席で肩を揺らす灰崎くん。何がおかしかったのだろう。私はむしろ気まずさでどんな顔をしているか分からない。
「はぁ……、ごめんね。あんなに露骨に人を嫌えるの凄いなって。笑い事じゃないか、ごめん」
「……いや」
「早川くん、仕事できるもんなぁ。同じくらいに入ったのに俺とはまるで出来が違うからね。早川くん、多分皿割ったことないし。俺、西野さんにわりと好かれてる方だから、それも気に食わないんじゃないかなー」
「なんか申し訳ないわ」灰崎くんが笑う。これは皮肉……だと思う。同じ時期に入ったのに、仕事が出来る早川くんより、皿とグラスを毎度のように割る俺ばっかり贔屓されてるんだよね、と、そういうことだ。
灰崎くんとこれまであまり2人きりになる機会がなかったからイメージがなかったけれど、彼もしかしたら早川くんと同じタイプなのかもしれない。悪口は苦手だ。言うのも聞くのも、だれもいい気がしないから。とはいえ、あれだけあからさまな態度を取られたらムカついてしまう気持ちもわかる。
「早川くん、結構アレだよね、うーんと、……自分の感情に素直っていうか。かっけーよなぁ、羨ましい」
けれど、その予想は違ったらしい。「え?」と声を漏らせば、「ん?」と首を傾げられた。
「何か変なこと言った?」
「え、いや…」
「そう?んでさ、トモちゃんは感情を隠すのが上手いよね。隠すっつうか、あれか。普段から感情を一定に保ってるのか」
凄いなー、みんな。そう言って灰崎くんはカウンターに上半身を倒す。首から上だけを私の方に向けると、彼はへにゃりと笑った。よく笑う人だ。愛嬌がある。可愛い顔立ちをしているから余計に、だ。こんな表情を向けられたら、お客さんだって和むに決まっている。「顔だけ」じゃない。灰崎くんは そういう雰囲気やオーラを作り出すのが上手いのだ、きっと。
「つーかトモちゃん、あんま笑わないよね」
「面白いことは別にないから…」
「ははっ、たしかに、そりゃ笑うことねーや。早川くんは、トモちゃんの前だと可愛く笑うよね。俺あんなん見たことねーや、別に、いいんだけど。八重歯、可愛いよね、早川くん」
「……まあ、そうかも」
「可愛い男キライ?トモちゃんってどんな男がタイプなんだろ。あ、これセクハラかな、大丈夫?」
「大丈夫」
他愛もない話。誰のことも悪く言わない、柔らかい話し方。さっきのも皮肉じゃなかったのかもしれない。灰崎くんは自分が抱えている事実を言っただけなんだ。彼の言った事実を皮肉だと勝手にとらえたのは私。私がひねくれていただけ。そう思ったら、また、自分のことを嫌いになった。
「……灰崎くん、」
「んー」
「灰崎くんは……いつも、凄い」
さっき言いかけた言葉。早川くんが出てきたことによって遮られてしまったけれど、私はそう言いたかったのだ。
「俺が凄い?いやー、皿割るけど」
「そっ、そうじゃなくて…、」
私が灰崎くんだったら。あんなあからさまな態度耐えられない。この人私のこと嫌いなんだって気付いたら、相手のことが好きじゃなくても怖くなってしまう。人に嫌われるのがこわい。そのくせ、誰のことも信用してもいない。早川くんに「悪口言うのは良くないよ」と言わないのは、彼が私にある程度好意をもってくれているから。何か余計なことを言って、灰崎くんにしているみたいな態度をとられるのが嫌だ。笑わないくせに、つまらない人だと思われたくもない。理不尽でどうしようもないわがままを全部飲みこんで生きているから、家族である母にだけ、唯一反抗のつもりで無視してしまう。
「……私は、嘘ばっかりだから。灰崎くんが羨ましい」
灰崎くんは凄い。そうやって笑ってなんでも許せる広い心を持っている。凄い、凄いよ。素直な気持ち。人を貶さない温かい心。全部、私には無い力。二人きりになって、こうして言葉を紡いで気付いたこと。灰崎くんの柔らかい雰囲気と何にも臆さない度胸に、私はずっと憧れていたみたいだ。
「ハハ、トモちゃん悪趣味だ」
そんな声に ばっと顔を上げると目が合った。違う、間違えた、口が滑った。そんなことをいうつもりはなかった。大体灰崎くんとはそんなにちゃんと話したこともないのに、こんなふうに急に 凄いだなんだと言われても困るに決まっている。
「ご、ごめん、今の忘れて…、」
「えー、いやいや。そりゃ無理だ」
「…、深い意味はなくて、……ごめんなさい」
「なんで謝んのー。嬉しいよ、そうやって言ってくれたの、トモちゃんが初めてだからさ」
ドキ、心臓が音を立てた。にひっと笑う灰崎くんは本当に嬉しそうにしていて、それもまた心臓をきゅううっと鳴らす。灰崎くんは普段から明るくて可愛らしい人柄だからギャップと言うほどでも無いけれど、私が知っている印象とはまた少し違う、無邪気な雰囲気も出せるのか…と関心もした。
「トモちゃん、早川くんからなんか俺の話聞いたことある?」
「…え」
「あー、あれね?悪い方の話ね、早川くん俺のこと影で褒めるとか死んでもないって知ってるし」
仕事が出来ない、大学を辞めた、来る者拒まず、ラブホ街でよく見かける。どれが本当で、どれが早川くんの妬み?気になる、気になるけれど、本人に聞いていいものだろうか。
「えっと……、」
───カランカラン、
すると、私の言葉を遮るように扉が開いた。
西野さんからコンビニから戻ってきたのだろう。まだ着替えてなかったのかよーって笑われる気がする。私も灰崎くんも着替えることを忘れていた訳ではなくて、ただ何となく会話が続いてしまっただけではあるけれど。何にせよ、良いとも悪いとも言えないタイミングだったので、私たちはどちらともなく視線を逸らした。
「……あ、あれ、もしかして、お店もう閉まってますか」
入ってきたのは、西野さんではなく、スーツ姿の男の人だった。20代前半……だろうか。メガネを掛けたその人が、バーカウンターに座っていた私たちにか細い声で言う。スーツはヨレヨレでネクタイも曲がっていた。川の鞄を大事そうに抱えている。猫背で、縦に長い、いかにも仕事に追われているサラリーマンという感じがした。
「す、すみません、明かりがついていたのでまだやっているのかと思ってしまいまして」
「あー、すみません。うちはラストオーダーが1時半までで」
「そうだったんですね……、すみません、看板を見落としていました」
椅子から立ち上がった灰崎くんが接客する時のやわらかい話し方で謝ると、スーツの男は心底申し訳なさそうにヘコヘコと頭を下げて謝った。可哀想だけど、店長は未だ煙草を買いに行ったまま戻ってこないし、お店も閉店時間だからどうにも出来ない。「いえ、こちらこそすみません」と謝ると、隣にいた灰崎くんは小さな声で「トモちゃん優しー」と呟いていた。
「あ、あの、また日を改めて来ます。すみませんでした」
「ええ。またお待ちしていま」
「煙草〜っ煙草〜っ俺の主食~っニコチン〜───……あれぇ?」
再びドアが開く。変な歌が不自然に途切れた。
「新規おひとり様?いーよいーよ、座んな」
「え、あの」
「2時だもんなあ。空いてるとこ意外とねえよなー。俺の作る酒は美味いよお兄サン、何が飲みたい?」
コンビニから戻ってきた西野さん。入口付近に突っ立っていたスーツの男を捉えると、嫌な顔ひとつせず彼をカウンターに促し、自分は徐ろにエプロンを付けてカウンターに立った。私と灰崎くんは西野さんの行動についていけないまま呆然と立ち尽くすしか出来ない。西野さんのサービス精神が素晴らしいことは知っていたけれど、閉店後のお客さんにこうして接客しているところを見ると、余計に暖かな人柄を感じた。
そんな私たちに視線を移した西野さんが、「ちょちょ、二人〜」と間延びした声で呼び、手招きをする。「はい」と返事をすれば、西野さんはニッと口角を上げた。
「ほら、二人もカウンター座んな。せっかくだしお前らにも作ってやっから」
「え、西野さん、」
「つーかまだ着替えてなかったの。お前ら好きね、この店」
「いや、えっと……」
「灰崎。おまえも、な」
「や、西野さん俺はっ」
「まあまあ。ほら座った座ったー」
流されるままに、再びカウンターに座る。先程は二つ隣に座っていた灰崎くんが隣にいる。肩と肩の間には何センチ距離があるのだろう。思えば、仕事中も休憩中も灰崎くんとこんなに近い距離になったことは無いかもしれない。
「さてさて お客様方よ、何が飲みたい?」
"店長"の西野さんだ。黒いエプロンが良く似合う。バイトしている時はちゃんと見る機会が無く気づかなかったけれど、西野さんを目当てにこのバーにくる女性客の気持ちが何となくわかった。
「あの……、本当に良いんでしょうか」
スーツの男が控えめに言う。人間の雰囲気は姿勢に影響されるというのは本当らしい。現に、このスーツの男は小さな声と遠慮がちな性格に加えて猫背なので、頑張っても明るいイメージは連想できそうにない。
根暗、引っ込み思案、大人しそう、弱そう、嘗められていそう、オタク気質。見た目から想像できるのはそんな情報ばかりだ。
「遠慮すんなよお兄サン。俺が何のために店開いたと思ってんだ?酒つくんのが好きだからでしかねえだろ。お客様は神ってな、俺は本当にそう思ってんのよー」
「は、はぁ」
そう言われては何も言えまい。スーツの男はグッと口を噤み、「あ、ありがとうございます……」と萎みそうな声で言った。
「あの、西野さん。俺は禁酒中で、」
「あーあー灰崎。お前の禁酒は俺は信用してねえ」
「はい?」
「おまえの禁酒、ろくでもない理由だろ。俺ぁ知ってんだ」
「ろくでもないって……」
「うるせえうるせえ。俺のカクテルは最強なんだよ。飲んでから言えや」
「俺がアルコール摂取で死んじゃう病気とかだったらどうするんです……」
「そうだな、それはそれだな。その時は訴えてくれてもいい」
灰崎くんは反論するエネルギーを使い果たしたらしい。はあぁ……と大きくため息を付き、「分かりましたよ。西野さんのおまかせで」と言った。
禁酒ってこうも呆気なく終わるものなのか。本当に病気だったら灰崎くんは西野さんのことを訴えるのかな……とそんなことを考えた。
「今日のお客様はグダグダうっせえのばっかだからな。西野セレクトで提供してやっから待ってろ御三方」
「……それは西野さんが強引だからでしょ」
「ああん?灰崎おめーまだ何か言うか」
「はいはいさーせんでした」
呆れたように話す灰崎くんは、何だか私が見たことの無い雰囲気を持っている。西野さんが灰崎くんを気に入っているのはもちろんあるかもしれないけれど、それよりも、灰崎くん自信が西野さんに心を開いているようにも思えた。
「お兄サン、名前は?」
スーツの男が小さな声で「ひ、日野《ひの》です」と答える。日野 悠斗《ゆうと》さんは23歳の、社会人1年目のサラリーマンだった。20代前半だろうなという予想は当たっていたけれど、いざ本人から歳を聞くと、1年目にしてはハリが無いなと思ってしまう。
「日野くん、レモンは食えるか」
「……え?あ、は、はい」
「トモちゃんと灰崎は文句なしな。きっちり飲んで酔っちまえ」
「なんすかそれ…」
「わ、わかりました」
はあぁ…と灰崎くんがため息をついている。日野さんも、何を話していいかわからずオロオロと目を泳がせていた。
西野さんの手元は、私たちが座っているカウンターからはよく見えなかった。
バーで働いているものの、お酒のことは詳しく知らない。どのお酒がオススメだとか、どれが甘いとかも全然分からないのだ。このお店でバイトを始めたのは単に立地が良かったことと給料が高かったことが理由なので、西野さんに正直に話したら怒られちゃうかな、とそんなことも思った。
数分して、私たち3人の前に3つのグラスが並べられた。バイト中に何度か見たことがあるものもあれば、初めて見るものもあった。これが、西野セレクト……とやらみたいだ。
「日野くんはニコラシカな。レモンと砂糖 先に食って、それをブランデーで流し込むように飲むんだ」
「ニコラシカ……、すごい、なんか……すごい」
「ハハ。普通の飲み屋じゃあんま見たことねえか」
グラスを塞ぐように輪切りになったレモンが乗っていて、その上に砂糖が乗せられている。私の記憶が正しければ、この店のメニュー表には無いメニューだったと思う。日野さんの前に出されたニコラシカをまじまじと見つめていると、西野さんに「今度作ってやっから」と言われてしまった。そんなに物欲しそうな顔をしていたのだと思うと少しだけ恥ずかしい。
「……これ、なんか、飲むの勇気入ります」
「勘がいいなー日野くん。ニコラシカのカクテル言葉は『覚悟を決めて』だ。今の日野くんに1番必要なもんじゃねえか」
日野さんがテーブルの上でギュッと手を結んだ。グラスを見つめるように俯いている。なにか、覚悟を決めるような出来事があるのだろうか。
「……ぼ、僕は……、会社を、辞めたくて…」
ぽつり、ぽつり、日野さんが震える声を繋いでいく。俯くと猫背が一層目立っている。見るからに自信が無さそうな、弱くてちっぽけな姿に見えた。
「じ、実は、少し前に同じ部署の先輩には相談してたんです……っ、僕、仕事本当出来なくて、迷惑かけてばかりで……向いてないのも分かってて…。だけど、1年目で辞めるなんて早すぎる、根性がないって、……怒られてしまいました。僕なりに頑張ってきたんですけど…っ、自分でもポンコツなことくらい分かっているのに周りからもお前はダメだ、お前は何も出来ないって、どこにいても言われるんじゃ、辛いです……っ、今日も失敗して、残業して……、それで、無性にお酒が飲みたくなって、ここに来ました……」
社会の怖さ。人間関係。ストレスの構築。私が就活をやりたくない理由がまさにそうだった。
やりたくない仕事をしたくない。けれど働かないと世間からは冷たい目を向けられる。失敗は許されず、それなのに弱音すらも許されない。
人間は酷く脆い。誰かのために身を削って生きるほど強くない。自分の機嫌と感情をコントロールするので精一杯。優しい人ほど壊れやすいというのは、誰かを傷付けないために自分を犠牲にする回数が多いから。
日野さんはもう、限界に近い無理をしてきたのだと思う。社会に出て何年目かは関係ない。世界は平等じゃないから、人は、簡単に壊れてしまうのだ。
「俺は日野くんがどんな仕事しててどんな失敗してどんな辛い思いしてきたかわかんねーけどよ、毎日泣いて、肩バッキバキに凝って猫背悪化して視力も悪化するくらい辛いことって、がんばらなきゃいけないことなのか?」
「…っそれは、」
「覚悟決めて、頑張ってきた自分ごとぶっ殺せばいんじゃね?正直、死ぬほど辛い失敗から得られることって、何もねえだろ」
──心を救ってくれる人が、何処かに一人でもいてくれたなら。そしたら、きっともっと早く美味しいお酒が飲めたのにね。
「ぼ、ぼくは……っうう、ぼくはっ、」
「おう、ティッシュあんぞ」
「っ、いいんでしょうか…っ、ぼく、ぼく、」
「それ俺に聞いてどうなんだよ。まあ、俺だったらコンマ3秒で上司の鼻の穴に鷹の爪ぶち込んで辞職するけどな」
「うう……っ、辛かった、辛かったんです、ずっと…っうう……っ、」
「ほんとだわ。んな職場で頑張ってやっていこうって、ドMかお前」
「うっ、うう」
「なあ、日野くん」
「ニコラシカ、うめーぞ」
背中を丸めてぼろぼろと涙を流す日野さんに、西野さんはニッと悪戯に笑っていた。
「ありがとうございます…ぐずっ、…美味しいです……うっ、なんか、大人の味が、ッします」
「泣くか飲むかにしろや俺の酒を勝手に鼻水風味にすんじゃねえ」
「ううっ、すびばぜッ、んぐ」
西野さんからティッシュを受け取った日野さんがずびーっと鼻をかみながら謝る。先程より肩の力の抜けたように見えるのはきっと気のせいではないのだろう。西野さんのカクテルは、心をも救ってくれるみたいだ。「さてと、」と、日野さんから私たちに視線を移した西野さん。私にはどんなカクテルを作ってくれるのか、日野さんに贈られたニコラシカを見て期待が高まる。
「お前らはこれとこれな。灰崎はハーバードクーラー、トモちゃんはジンフィズ」
けれど、西野さんは 日野さんの時と打って変わり、私たちにはカクテルの名前だけを伝え、それらの名前が持つ意味についてはひとつも教えてくれなかった。「気になるなら自分で調べな」と言われ、ぐっと口を噤む。
差し出されたジンフィズは、バイト中によく注文を受けるものだった。ほぼ透明に近い液体にレモンが添えられている。マドラーでクルクルと氷を回し鼻を近付けると、ほのかにレモンの香りがした。
「トモちゃんにそれ、ピッタリ」
意味は教えてくれないくせにそんなことを言われても。スマホは生憎休憩室の鞄の中に入れてある。カクテル言葉が分からないまま、私はグラスに口をつけた。
お酒には特別弱い訳でも強い訳でもない。ジンはアルコールが強いというのはなんとなく分かってはいたけれど、口に含んだジンフィズはさっぱりとしていて飲みやすかった。
「トモちゃん。俺は、どんなトモちゃんも好きよ」
「……はい?」
「若いんだからな、もっと正直に生きな」
多くは語られていないのに、まるで私の心を見透かされたみたいな気持ちになる。私より10年早く生まれて10年早く人生を知っている西野さんの言葉は、私の光みたいだ。「…ありがとうございます」と短く礼を言えば、「おうよ」と軽く返事が返ってきた。
日野さんはニコラシカ、私はジンフィズ。灰崎くんに差し出されたのは、ハーバードクーラーという名前のお酒だった。
西野さんが、「りんごとレモンのミックスジュースみたいなもん」と適当な説明を添える。私が作ってもらったジンフィズよりも色味が強い、りんごとレモンを使ったカクテル。3人分のカクテルはどれもレモンを使用したものだったのは、「おれレモン好きなんだよねぇ」と、そういう理由らしい。
ジンフィズのカクテル言葉はあとで休憩室に戻ったら調べるとして、ハーバードクーラーのカクテル言葉は何なのだろう。
灰崎くんは、目の前に出されたグラスを何も言わずに見つめている。やっぱり、禁酒中だから飲むことに抵抗があるのかもしれない。けれど、西野さんにお酒を作ってもらうなんて早々ない機会だし、飲まないのもそれはそれで勿体ないなぁと、そんなことを考える。
「灰崎、俺の酒はうめーぞ」
「…そんなん知ってますよ」
「カクテル言葉、特別に教えてやろうか?」
「…それも知ってますって」
「ほんと、おまえは変わんねえな」
やはり、西野さんと灰崎くんは私が知らない出来事をなにか共有し合っている仲みたいだ。
会話から読み取るに、少なくとも過去に1回以上、灰崎くんは西野さんにカクテルを作ってもらったことがある。そしてその時もまた、今出されたものと同じ───ハーバードクーラーだったのだろう。
「飲まねえなら、今日割った食器代給料から引いてやろうかなー」
「は、なん…、パワハラっすよ」
「今は営業時間外だからセーフなんだよ」
「意味わかんねぇ…」
「お前だけのために作ったのに飲まないんですかーそうですかー大した理由でもないくせに禁酒とかいってー飲まないんですかー」
「…はあ、もー…うっさいな」
西野さんの少々強引な誘いに、灰崎くんはあきらめたようにため息をつくと、グラスに入ったハーバードクーラーをぐっと飲み干した。グラスにそこまで体積があるわけではなかったけれど、一気飲みとなるとどうしてもハラハラしてしまう。すっかり泣き止んでいた日野さんも、「だ、大丈夫でしょうか?」と不安げに声をかけている。
グラスをテーブルに戻した灰崎くんは、数秒俯いたあと、「あー……」と低い声で唸った。
「……ほんと、サイアクっすよ、西野さん」
アルコールは、時に特別な力を持っている。