穂花には謝らなくていいと言われたが、やっぱりなんとなく気が済まなくて、放課後に神林に声をかけた。

「神林、ちょっといい?」

彼は、これから部活に行く予定だったのか、エナメルのカバンの紐を肩にかけたところだった。
普段全然話をしない私から突然声をかけられたことによっぽど驚いたのか、神林はビクッと肩を揺らした。紐が、ちょっとだけずれる。彼は右手でそれを整えた。
「どうしたの」
まだ教室にはちらほらと生徒がいたが、私は構わず彼に話しかけた。幸い柚乃とその取り巻きたちはすでに教室からいなくなっている。
「さっきのこと、謝ろうと思って」
「さっきのって?」
「犯人にされてたでしょ。これの」
私は掌にそっと握っていた画鋲たちを彼に見せる。ダイレクトに画鋲を見せられると思っていなかったのか、彼は少しだけたじろいだ。
「ああ、あのとき。大丈夫、気にしてないし」
「そう。それならいいんだけど」
「てか、なんで春山さんが謝るの? なんも悪いことしてないじゃん」

春山さん。
彼は私のことをそう呼ぶのか。
思えば、彼に名前を呼ばれたのは初めてだ。ううん、彼だけじゃない。学校にはたくさんの生徒がいるはずなのに、まともに名前を呼んでくれたのは数えるほどの人間しかいない。

「そうだけど……。でも、私のせいだよ。ごめん」
「……」

彼は、想定外の人物からの謝罪に心底戸惑っているようだった。余計なことをしたかもしれないと、気まずくなった私は伏せた目で自分の足元を見つめた。汚れた上履きを、いますぐ綺麗にしたいという衝動に駆られる。だってこんなんじゃ、あまりに格好悪い。格好悪い私が、格好悪く男の子に謝っている。そんなの、耐えられないじゃないか。

「おっけー。この話はもうこれで終わり。あいつら、マジで意味わかんねーいじめしてるんだな。なんで春山さんみたいな良い奴にあんなことしたんだか」

それ、貸して。
彼は私の掌から、画鋲たちをかっさらって、カバンの中から取り出したプリントにそれらを包んだ。
「必要のないものなら、捨てちゃえばいいんだ。こんなふうに」
ほい、と彼が投げた画鋲入り紙屑は、見事に教室の後ろにあったゴミ箱にダストシュート。
「すごい!」
思わず歓声を上げてしまう私。
「まあ、これでもバスケ部だからさ」
「そっか。シュートだね」
「いま距離なら、確実にスリーポイントだな」
「神林って、スリーポイントシューターなの?」
「そうとも言う」

大人しいだけの男の子だと思っていた。
教室の中ではほとんど喋らない。声を聞いたことさえあまりなかった。
でも、今日の神林は違った。
彼が優しい心根をしているということが、口調や話の内容からよく伝わってくる。春の暖かな日差しのように、格好悪い私のことを優しく包んでくれる。

「さっきの言葉、私もそう思う」
「スリーポイントだってとこ?」
「ふふ、違うよ。『必要のないものなら、捨てちゃえばいい』ってところ」
「ああ、そっちか。俺のモットーだからな」
「そうなの?」
「ああ。煩わしい人間関係、無駄なおしゃべりの時間、無意味な5教科の勉強」
「いや、最後のはいるでしょ」
「そう?」
「そうだって」
「くそー」

神林は優しいだけじゃなくて、冗談を言える人でもあったんだ。
彼がおかしそうに笑う。久しぶりに、男の子とこんなに話した気がする。

「じゃあ、俺部活あるから」
「そうだったね。今日はありがとう。また明日」
「ああ、また明日な」

教室から去っていく彼の背中を見つめる。小学生の頃は、男の子って自分より身長が小さいことがほとんどだったのに。いつの間に、神林みたいに大きくなったんだろう。
私も帰ろうとカバンを持ったところで、ふと先ほどの彼の言葉が気になった。

煩わしい人間関係。

思うに彼は、本当に心を許せる存在としか、関わろうとしないのだろう。
だったら私は、彼に関わっても良かったのだろうか?
彼は、私のことを「煩わしい」と思っていないのだろうか。