ずどん、と行く先を塞いでいた大岩が押しのけられて大地を激震させる。森一帯に響いて一斉に鳥たちが飛んだ。
「…………」
 大岩を見下ろせば、自動車ほどもある。凄まじい超重量。そんなものを押しのけて見せたのは、目の前の小さな背中の少女だった。
 高瀬アユミちゃん、にこにこ笑顔の十四歳である。
「はいっ、できたよ羽村くん」
「あ、ああ……」
 冷や汗を拭う。振り返った赤髪ショートボブの少女はふわふわにっこり。その白い細腕のどこにそんな力があるのか。相変わらず相方サマの腕力は、見た目と反比例に常軌を逸している。
 『怪力』。
 現代日本にあるまじき不条理だが、見慣れたものだ。
「こんな山の中、滅多に来ないよねぇ」
「そうだな。何か見るものがあるわけでもないしな」
 縁条市はずれ際の山の奥。木々の隙間のような小道を、少女と並んで歩いていく。空は清々しい晴天。実にハイキング日和ではあるのだが、残念ながら今日の目的はピクニックではない。
「死者は出てないんだっけ?」
「ああ、死者は出てない」
「それもへんな話だけどねぇ」
 ぽややんな愛らしい疑問符とともにアユミが口にしたのは、ダークファンタジーだった。
「森の奥の湖に河童が出るんだよね」
「そうだな。湖の底に引きずり込まれて殺されそうになる(・・・・・)らしい」
 確かに妙な話ではある。河童も奇妙だが、それで溺死しないというのがもうひとつ奇妙だ。そこでアユミちゃんが素直な疑問符。
「カッパって、なんよ?」
「なんで方言」
「悪いやつですよ。人をわざと溺れさせるなんて」
「そうだな。考えたくもない」
 溺死系のホラーは苦手だ。人間は地上の生物なので、水の中ではなす術もない。特に俺のような、地上でも無能だの縁条市最弱だの言われてる人間には厳しいものがある。
「はぁー」
 俺の名前は羽村リョウジ。ただのつまらない新人異常現象狩りで、個性の強い狩人たちの中でも何の特徴もなければ実力もない、退屈な人間だ。
 ついた不名誉な呼び名が『無能』。少し悲しくなりながら、相方さんに助けを求めてみる。
「アユミ、俺の特技って何だと思う?」
「えっ? 他力本願?」
 まるで俺の特技ではないが、たしかに俺の特技だ。例えば大岩が道を塞いでいて進めなくなったら、努力する前にさっさと怪力少女に大岩をどけてもらったり。羽村リョウジ(おれ)はそんな程度の人間だ。
「お」
「え?」
「見ろアユミ、そこの木の陰」
 うずくまる人影がいた。人ではなく、影。体育座りでまるで動こうとしない中年男性だった。一見遭難者のようだが、その輪郭がバチリと霞んだのを見逃さない。
「ユーレイさんですな」
「ああ、亡霊だけどな」
 ユーレイと亡霊は、俺たちの考えでは微妙に実態が違う。ユーレイとは残留した魂そのものを指し、架空のもの。実在しないので空想だ。対して亡霊とは、生者が残した感情の(・・・)残照。こちらは実在で、世にシミを残すほどの負の感情とそれから生まれた幻想を、俺たちは“呪い”と呼んでいる。
「……動かないね」
「ああ。無害だろ」
 呪いには無害なものと有害なものがある。こいつは石のように動かず、話しかけてもぴくりともしない。ただそこにいるだけの無害な存在だ。無視して歩き出す。
「そういえば羽村くん、カッパって第五なんだっけ?」
 第一の『亡霊』を始めとし、世の中に実在する異常現象は大きく五つの『五大異常現象』に分類される。
「カッパか。たしかに、本当にカッパだったら第五現象だけどな」
 しかしながら、第五現象には目撃例がない。歴史上一度も。カテゴリとしては存在するが、誰もそんなものは見たことがないのだ。
 鳥人間かと思ったら、飛行の呪いを持ってるだけの呪い持ちだったり。ワニ人間かと思ったら、捕食の呪いを持ってるだけの呪い持ちだったり。天使かと思ったら、翼の呪いを持ってるだけの亡霊少女だったり。ほとんどの場合、第五現象のように見えたけどニセモノだった、というオチがつく。
 ちなみに亡霊は第一現象だが、呪い持ちの生者は五大異常現象には数えられない。
「そっかー。やっぱり第五現象は幻なんだね」
「ああ、今回のカッパもそうだろ。本当にカッパみつけたら先生に自慢できるかもな」
 そんなことは万に一つもありえない、ということだが。
「実在するとしたら何かなぁ。ツチノコかなぁ」
「さあ。美人の人魚とかじゃね」
「それは羽村くんの希望かな?」
「かもな?」
「わたしはネコ型バスを期待するよ」
「そんなバスあったか?」
「となりにいるよ!」
「どこだよ」
 どこまでも森は深く、岩と緑しかない。進んでも進んでも無人。つまらない無駄話に興じて時間を潰しながら、ようやく目的地にたどり着いたのだった。
「…………ほほう」
 大きく空間が拓ける。滝のほとりの、霧がかった大きな泉だった。溢れんばかりに生い茂る植物。針葉樹の幹を蔦が巻いている。切り開かれた崖の真ん中を、水流がアーチを描いて降り注ぎ、小さな虹を生む。泉は底が見えない程度に深いが、浅瀬の辺りでエメラルドグリーンの水面にぽつぽつと百合の花なんかが浮かんでいるのは風流だった。
「……着きましたな、羽村くん」
「そうだな。思ってたより綺麗だ」
「ていうか不自然に綺麗だね。これも呪いの影響なのかな?」
「間違いない。なんかファンタジーっぽく霧に覆われてるし、なんとなく、平常時の写真より広い気もするしな」
 ここへ来る前に資料に目は通してある。確かに風流で風情があるのだが、ここは北海道阿寒湖ではない。ただの中途半端な街のはずれにある裏山程度の存在だ。こんなファンタジーで観光地っぽいはずがない。
 ならば答えはひとつ。この場所は、既に呪いが生み出した幻想に侵食されてしまっているのだ。
「………やるねぇ。どんだけ溜め込んだんだか」
 呪いは、抱いた願望を成就するために『幻想』をこの世に産み落とす。起こりえない異常を発現させるのだ。それは怪物であったり、手から出る炎であったりとまちまちだが、こんな風に神秘的な泉を創造するなんて芸当も可能だ。もとから泉があったぶん、形成しやすかったのもあるのだろう。
「まったく。あきれたね」
「河童はどこにいるのかな」
「ん……」
 ちゃぽんちゃぽんと泉の水が跳ねて気付いた。滝の上から小石が落ちてきたのだ。顔を上げれば、崖の上にいまにも落ちてきそうな大岩があるのを見つけた。そうそう落ちるもんでもないのだろうか? しかし、トラブルの種は摘んでおくに越したことはない。
「アユミ、河童の前に安全確認だ。あの岩、見てこれるか?」
「ん――ほい、お安い御用だよ」
 たん、とアユミが跳躍する。その衝撃で大地が軋んだ。身軽に崖の引っ掛かりを跳ねて、忍者のように上へと登って行く。怪力ってのは何も腕の力だけじゃないので、脚力を生かしてああいう使い方もできるわけだ。
「さて、と……」
 泉に近寄って、水面を見つめてみる。そこに映るのは気怠そうな片ピアスの少年の、死にきったサカナの目。まるで光がない。いつも気怠そうで、悩ましそうに眉間に皺を寄せている。俺だった。
「はぁ」
 退屈そうな顔をしている。さてアユミは無事登れたんだろうか、と顔を上げた瞬間。
「――――!?」
 俺はすでに水中にいた。周りはすべて水。掴むものは何もない。右足首が強い引力に引き寄せられていて、ぐんぐん水の底へと引きずりこまれている。
 叫ぼうとするが、空気を消費してはいけないと口を塞ぐ。混乱しきった頭で必死で冷静さを取り戻そうとするが、まるでうまくいきやしない。突然のことに完全にパニックを起こしていた。明るい水面に手を伸ばしながら、どこまでも沈んでいく。泉ではあり得ない、現実を無視しきった水深。一体何が俺の右足を引きずり込んでいるのかだけは突き止めないといけない。完全に溺れながら、死に物狂いで下方に顔を向けて――――俺は、見た。見てしまった。俺の足首を掴んで溺れ死にさせようとしているバケモノの、その醜悪な両眼を……。
 ――ああ、酸素がなくなってきた。命尽きる。やっぱり人間は水中では何もできない。頭の中まで水で満たされたように、何も考えられなくなったくる。ここで、終わりだ。
「……………、」
 海藻のように漂う。水面は明るいのに、あんなにも遠い。ゆらゆらと揺れる。死の間際ってのは穏やかだ。このまま、薄れるインクのように俺という意識は拡散していくのだろう。
 そろそろ走馬灯でも思い浮かべるか、と考える頃――何かが、太陽を見ていた視線を遮るのだった。
 影になった、不可解なシルエット。上半身は人間だが下半身は魚。神聖な後光を纏っている。長い髪が、水中にも関わらずふわふわと美しくなびく。
 その何者かが手を差し伸べてくる。冬の雨を塗り固めてできたような深い青の瞳。
『――――しっかり……!』
 間違いなく、幻聴だった。



 霧は、いっそう濃くなっていた。
「う……!」
 目を開けるが、一瞬自分がどこにいるのかも掴めなかった。ホワイトアウト寸前の視界の中で、痛む頭を押さえながら体を起こす。俺が倒れていたのは岩場だった。すぐそこに泉がある。
「溺れた……よな」
 溺れさせられた、が正しいが。しかし何があった? 水中で朦朧としていたせいでまだ記憶の整理が追いついていない。自分の右手の平を見下ろすが、水に濡れていること以外は正常だった。不意打ちのように、怪物の醜悪な双眸が飢えたように俺を見ていたことを思い出す。
「…………河童、か」
 口に出してつぶやいてみる。やはり、例の怪談は真実だったようだ。ちらりと上を見上げた瞬間に足首を掴まれて引きずり込まれた。たまったものではない。
「くそ……」
 拳を握る。何もできなかった。ただ一方的に殺されかけただけ。確実にあのまま死ぬだろうと確信していた。まったくふざけている。逃げようがなかった。しかし、死の直前、誰かが俺の腕を引いて助けあげてくれた気がしたのは錯覚だろうか――?
「あなたは河童に襲われたのです」
「――は?」
 どこからか、美しい玲瓏の声が聞こえた。しかし隣には誰もいない。目を向ければ、泉におかしなものがいた。
「…………何やってんだ、アンタ」
 泉に浸かった女がいた。鼻から下が水中にいて、見えるのは鼻から上と、岩に引っ掛けた両手だけ。子供の隠れんぼのようだった。少女漫画みたいな美しい青色の瞳。すごい美女だ。どう見ても奇行で、変人だけど。
「いえ、私はここが落ち着くのです」
「水の中が? 警察に通報すべきかな」
「おやめください。警察は恐ろしいです」
「後ろ暗いことが何もなければ、助けてくれるはずだけどな」
「実は服を着ていなくて」
「その割にはぷかぷかと羽衣みたいなのが浮かんでるのが見えるが」
「きっと水死体でしょう」
「俺のかな」
「はい、あなたのです」
「………」
「…………」
 何なんだ、こいつ。頑なに水から出ようとしない。覗き込もうとしたら手で制される。
「鼻から下をマスクで隠してると美人に見えるらしいが、アンタもその類か?」
「失敬な! 鼻から下もれっきとした美人です、ほら、ほらほら。特に唇の下のほくろがチャーミングでしょう?」
 自分の口元をアピールする女。その肩が、濡れた割にさらりとした不思議な質感の布に包まれていた。
「着てるじゃねぇか」
「め、目の錯覚なのでは?」
 また口まで水に浸かる女。怪しさしかない。刃を突きつけて脅迫する。
「そっから出ろ。何を隠してやがる、あァん? 実はホントに死体でも引きずってんのか」
「………………」
「あるいは水死体でも引きずってんのか、もしくは水死体でも引きずってんのか。一体そこで何やってる。明らかに不審者だろうが、もしかして水死体でも引きずってんのか」
「……分かりました。そこまで水死体言われては仕方ありません」
 ざばん、と水から体を出す女。岩に水が跳ねる。白い緩めの、装飾がついたシャツを着ていた。岩に座り込むと、下半身は鱗に覆われたドレスを着ていて、足がなかった。
「――――」
 足がない。ドレスではなかった。代わりに魚のような鱗と、魚のような尾びれがあった。女はこちらをその海のような青い目で見上げている。上半身は美しい人間の女性だが、下半身は魚。もはや竜のようでさえあったが。
「ああ、人魚か」
「はい、人魚でした」
 つまり人魚だった。自分の子供の頃に絵本で見たであろう知識とも合致する。
「なるほどねぇ。縁条市に人魚が住んでたのか」
「はい、人魚住んでました。この泉に」
 軽い口ぶりに反して、神々しいまでの美貌。霧の合間に光が差し、麗しい微笑を神秘的に飾り立てる。青の目が、深すぎていっそ魔的だった。
「…………ふーん」
 このクソ地方の、山の泉に。言うまでもなく、そんなことはあり得ない(・・・・・)のだが。
「名前はナギといいます。あなたの命の恩人です」
「そうか、俺を引っ張り上げてくれたのはアンタだったか」
 覚えている。溺死する寸前、俺の手を掴んで引っ張り上げる、青の双眸の何者か。それが目の前のナギさんとやらだったのだろう。
「はい、命の恩人です。命の恩人ですよ?」
「…………」
 きらきらと輝く宝石箱の目で見つめられる。何か期待されているようなので、ゴソゴソとポケットを漁ってみた。いいものがある。
「これをやろう」
「? これはなんです?」
 小さな、四角形のビニール袋を投げ渡してやる。中にはパラパラと乾燥した何かが入っている。
「ニボシだ。魚を干したやつ。カルシウムが高い」
「…………ほう。へへぇ。」
 不服そうな半眼で見られる。瑞々しい人魚サマ。その輪郭が一瞬バチリと霞み、元に戻る。俺は何も言わずにその変化を見ないふりした。ぺし、とニボシを投げ返される。
「いりません! べっ!」
 見た目こそ女神じみてるが、どうにも子供みたいなやつだった。しかしよく分からない。人魚なんてものに出会うのは初めてのことだ。
「あんた、この泉に住んでるのか? 狭くないのか」
「そんなこと言ったって、仕方ないじゃないですか。海へ行けるわけでもないですし」
「川下りにチャレンジしようとは思わねぇのかよ、井の中の蛙」
「無理ですね。目立ちすぎでしょう、きっと水の浅い場所もたくさんありますし」
 すいー、とイルカショーのように優雅に泳いで見せるナギ。きらきらと輝く陽光に滝の飛沫、美しい水面。白磁のような肌を水で撫でて、気付いたように微笑みかけてくる。
「なんですか?」
 屈託のない笑み。まるで邪気がない。どこぞのお姫様のような容姿だが、その無防備で人懐っこい笑みは都会に出たことがない田舎娘のようだった。
「はぁ」
 やれやれ、と霧の濃い空を見上げる。ここだけ閉じてしまったように、視界が悪かった。こんな狭い泉で生きているらしい命の恩人さんが、ひどくかまって欲しそうなので、俺はくだらないことを口にする。
「ご趣味は」
「ふふっ、お見合いですか? そうですねー。お琴を少々」
「琴があるのか」
「ないですけどねー。一度弾いてみたいような気もするんです」
「それは遠まわしに要求してるのか」
「いえいえ、別に恩人特権を振りかざしているわけではないのですけどね?」
 優雅な背泳ぎ。さすが人魚、見たこともないくらい器用に自然に泳ぎやがる。
「あなたの名前はなんですか」
「羽村リョウジ。ただのしがない狩人だよ」
「狩人? イノシシでも撃つんですか? ばぁん!」
 猟銃を撃つモノマネ。からからと明るく笑う人魚だが、俺の脳裏には陰惨な異常現象狩りの記憶がよぎった。忘れよう。
「ま、そんな所だ」
「私、いつからここにいるのか分からないんですよ」
「へぇ?」
 水中に立ち、揺れる水面を見つめる海の瞳。
「きれいな泉。まるで私の理想の景色。けれど、ここには誰もいない。誰もいないんです」
 静かな水音だけの空間に、さみしげな硝子の声がさらさらと流される。
「どうしてここにいるのか、いつからここにいるのか、なぜここにいるのか、どんな経緯でここにいるのか、そして何よりなぜここにとどまるのか。私はひとつも答えを持っていません。あるいは、そんな機能はない(・・・・・・・・)のかも知れません」
 バチバチと、輪郭がぶれた。半透明はまた実体を取り戻し、正しく人魚の形に戻って美しい微笑みを象る。少しずつ空の霧が晴れてきたのを、少女は見上げる。
「自然の景色は美しいけれど、そればかりだと退屈するだけ。本当は自然なんて殺風景なものなんです。どんなに生き物がたくさんいたって、騒がしくたって、どんなに植物の色が変わったって、それはただの光景であって人格ではない。そこに心があるわけではないんです」
 微笑みの奥に、孤独があった。人魚は変わらず玲瓏のように美しい声を紡ぐ。碧の水面、浮かぶ百合。霧に包まれた鮮やかな、油彩絵具のような風景。表情だけはずっと微笑んでいるが、瞳は色抜けた氷のようで。
「とてもとても美しい場所。まるで私の理想の景色。けれど――――――ねぇ、あなたは、」

 ――――理想を叶えたあとにある、“これから”が何もない世界をしっていますか……?

「…………」
 ざざぁ、と耳障りな風が撫でていった。殺風景な風。無粋にも、幻想の泉から霧を払っていく。人魚は変わらず、朗らかに笑っていた。
「なので、来客は嬉しいわけです。いらっしゃいませ水死体さん」
 おじぎされる。いやなニックネームがあったもんだった。
「あ、でも本当に危なかったんですよ? あのままだときっと危険でした。だからもう、ここには来ない方がいいかも知れません。さみしいですけれど……」
 なんて、本当に寂しそうな顔をする井の中の蛙。その姿が微笑ましかった。
「なぁ、俺を襲ったあいつは何だったんだ?」
「ああ……あれは河童です。」
「河童」
「はい、河童です」
 人魚の次は河童か。本当にファンタジーな泉だ。錆びれシャッターと傾き電話ボックスの街こと縁条市にはまるで相応しくない。
「見ましたかあの恐ろしい眼光。つららのような牙に、かいぶつの爪。おっそろしいことです。本当に、おぞましい。きしゃー」
「人を襲うのか」
「ええ。通りがかった人を引きずり込んで溺れ死にさせようとするんです」
「そんなやべえのと、一緒に住んでんのか」
「はい。残念ながら、同じ池のムジナです。でも不思議なんですよねぇ」
「不思議?」
 不思議生物が何言ってやがる。しかし、人魚は心底疑問符を浮かべて小首を傾げていた。
会ったことがない(・・・・・・・・)んですよ。おかしいんです。こんな狭い泉なのに、姿が見えない。もしかすると、幽霊か何かなのかも」
「幽霊ねぇ……」
 そりゃまた、第一現象か第五現象か判断に困る事例だ。
 しかし間違いない。その河童とやらがこの泉に隠れ潜み、訪れた人間を水底に引きずり込んでいたのだろう。証言とも一致。実体験もした。調査は十分だ。
「あー……」
 しかしながら水中戦は厄介だ。人類には難しい。しかも河童相手ともなれば、相当に厳しいだろう。この人魚なみに器用に泳ぐに違いない。
「…………どうしたんです?」
「あ」
 考え込んでいると、きょとんと見られていた。
「なんでもない。命を救ってくれてありがとうな。助かったよ、ナギ」
 感謝を述べると、青い美しい瞳が眩しそうに細められた。今生の別れなのだろう。
「はい。もうここへは来ちゃだめですよ、羽村くん」
 少女漫画のように美しい人魚。きっとどんな名画も、この実物の無垢な透明感には敵わないだろう。
「あ」
 遠くから、アユミの呼ぶ声がする。
「さようなら、さようなら。」
 ぷかぷかと、陽気に去っていく。どこまでも明るいやつ。でも最後の最後の一瞬に、とても淋しそうな顔をしていた。そりゃ孤独なんだろう。永遠にこんな泉でひとりきりなんて。
 霧が晴れ、アユミが現れる。ファンタジーを忘れさせるような赤髪と、柔和な微笑みに、自分が現実に帰ってきたことを実感する。
「やれやれ」
 青い瞳の、無垢な人魚は語った。この泉に危険な河童が潜んでいて、人間を襲うと。泉の中へ引きずり込んでしまう、と。でも会ったことはない。どちらもこの狭い泉に住んでいるにも関わらず。
「見えない河童、ねぇ……」

 その河童が自分自身だ、ということはきっと理解していないのだろう。