お茶会は一旦お開きとなり、木蘭の命にて紅玉宮の一室には苺苺用の部屋が整えられた。
水星宮に帰り白蛇ちゃん抱き枕を抱えて戻って来た苺苺は、若麗と歓談しながら、用意された部屋に手荷物を置く。
「まさか木蘭様が、苺苺様と『お泊まり会をしたい』と言い出すなんて、本当に夢のようです」
若麗は心底安心した様子で、姉のような、ぬくもりにあふれた優しい微笑みを浮かべる。
「まだ六歳だというのに、木蘭様は大人びていますでしょう? 私たちが幼い頃に夢中になった遊びなどには、興味もなくて。一日中、大人さながらに書物を読まれたりなさるものですから」
「そうなのですね。木蘭様は天女様の御使いですから、天界で遊び尽くしていらっしゃったのかも。もしかしたら本当は、六歳ではないのかもしれませんわ」
「六百歳とか!」と苺苺がくすくすと笑いながら言うと、若麗もくすくすと笑って、「そうかもしれません」と応じた。
「もうすぐ夕餉の用意が整いますので、しばしお待ちくださいね」
「はい」
その後も若麗に木蘭の可愛い日常話を聞きながら、苺苺は幸福に浸る。
木蘭は読書家で、自由な時間があれば、いつも時間を忘れたように皇太子殿下からいただいた書物を読んでいるそうだ。
毎日決まった時間に妃としての勉強にも勤しんでおり、皇太子殿下に馴染みのある老齢の老師が付いているが、妃としての作法においては若麗が指導役となることもあるとか。
夜は時折、幼くして後宮に入ることになってしまった木蘭を案じた皇太子殿下が、絵巻物の読み聞かせや添い寝をしに来るらしい。
その甲斐甲斐しさはまるで本当の兄のようでもあり、遠い将来の夫でもあるようだと若麗はやわらかく眉を下げた。
(お噂通り、木蘭様は皇太子殿下と仲がよろしいのですね。きっと皇太子殿下も木蘭様の魅力にめろめろなのですわ! ふっふっふっ、わかっていらっしゃいますわね!! どんな方かはあまり存じ上げませんが、同じ木蘭様推しとして親近感を覚えずにはいられませんっ)
若麗の語る、木蘭と皇太子殿下のほっこり小話に、苺苺は癒されすぎてにやにやが止まらない。
心がほんわか温かくて、幸せでほっぺたが落ちそうだ。
一方その頃。苺苺と若麗に噂をされていた木蘭は、ひとりきりになった自室で「くちゅんっ」と可愛らしいくしゃみをしていた。
「……誰かが妾の噂を? はぁぁ。それにしたって、苺苺を泊めることになるなんて。正体がバレでもしたら大変なことになる」
暗殺されそうになったのは事実。
だが、燐家最大の秘密を抱えた身で、犯人探しのためとはいえ夜中まで苺苺を紅玉宮内に置いておくのは憂鬱だ。
「今夜だけは、絶対に戻ってくれるなと願いたくなるな……」
木蘭は額に片手を当てて頭を抱えながら、幼女らしからぬため息をつく。
それでも緩慢な所作で筆置きに置いていた筆を手に取り硯の墨を含ませると、上質な紙にさらさらと〝木蘭の筆跡〟で字を書き連ねていく。
机の上には、厨房へ今夜の夕餉の希望を伝えるお品書きがある。
女官に任せれば簡単だが、それをしたくないのは相手が苺苺だからだろう。
その理由がなぜだかは、わからないが。
ただ、せっかくだから喜ぶ顔を見せてほしいとは思った。
◇◇◇
あれから半刻が経った頃。苺苺と若麗は、相変わらず〝木蘭様の健やかなかわゆい日常話〟で盛り上がっていた。
女官であり姉の顔をした若麗が披露する小話に、苺苺はくすくすと微笑みながら、幸せいっぱいに相槌を打つ。
「それで殿下が清明節の剣舞の舞い手に木蘭様を指名なさった際も、殿下が短剣を賜られたんですよ」
「素敵なお話ばかりですわね。それにしたって、とっても羨ましいです」
「ええ、本当に。木蘭様が羨ましいですわ」
「そこは皇太子殿下が、ではないのですか?」
苺苺がくすくすと笑いながら若麗の言葉に突っ込みを入れた、その時。
寝台に並べていたぬい様が一体、ザクッ! と音を立て、刃物に切りつけられたかのように裂けた。
「……な、なんの音でしょうか?」
部屋に突然響いた不気味な物音に、若麗が怖々と苺苺に尋ねる。
「す、すみません、わたくしのぬいぐるみですわ。ぬいぐるみが無いと眠れない性分なものでして、その、たっ、たっくさん持って来たのです」
「まあ、それでこんなにたくさん……」
「はい。たぶん、きっと、移動の時に引っ掛けてしまった部分が、さささ裂けてしまったのだと思いますッ」
苺苺はぎゅっと目をつぶって嘘を言い切る。
先ほどのお茶会の時に木蘭に頼み、編み込んでいない背中の髪を鼈甲櫛で梳らせてもらい、数本の髪を懐紙に包んでもらってきていた。
そのうちの一本をぬい様に仕込んでいたため、現在のぬい様は形代として全力が出せている状態だ。
呪靄と呪妖を少しも漏らさずに自動的に封じて祓っているので、効果覿面すぎて限界が早く来たのかもしれない。
(裏を返せば、それだけの量の悪意を常に向けられている証拠です)
呪毒を生じさせるほどの殺意を胸に秘めている女官の悪意がその筆頭なのだろうが、幼くして貴姫の冠をいただいた木蘭の進む道は、薄氷を履むが如く危ういのだと肌に感じる。
(悠長にしている時間はありません。できるだけ早く、恐ろしい女官の方の尻尾を掴まなくては。でも、ぬいぐるみが突然裂けるなんて、若麗様を気味悪がらせてしまいましたよね……)
苺苺は心配しつつ、そっと若麗の顔色をうかがう。
けれども、彼女の顔を見てみると、どうやら無用な心配だったらしいことがわかった。
(若麗様は……きっと大人びた木蘭様のことが、ずっとご心配だったのですね)
若麗は寝台にこれでもかと並べられているたくさんのぬい様を眺めながら、「苺苺様は本当に木蘭様がお好きですのね」と、今にも泣き出しそうなほどの優しい微笑みを浮かべていた。
他の女官が「夕餉の準備が整いました」と呼びに来たことで、苺苺は木蘭の待つ食事をするための一室へ向かった。
(木蘭様と食卓を囲めるだなんて、夢のようですっ)
上座に座る木蘭の合図で、紅玉宮の女官たちがほかほかの料理が乗る皿を運んでくる。
準備が整い、壁際に恭しく女官たちが整列すると、木蘭は苺苺が自分にとって大切な客人だと周囲に印象付けるよう、再び丁寧に食前の挨拶を述べた。
「苺苺、今夜は妾と過ごしてくれること、とても嬉しく思う」
「こちらこそ、お泊めくださりありがとうございます。木蘭様と一緒に夜通しお話できるかと思うと、わくわくが抑えきれません」
「ふふ、そうか。今夜は紅玉宮の女官たちに妾の好物を用意させた。どれも苺苺に勧めたい一品ばかりだ」
(木蘭様の大好物!? はわわわっ)
「どうか存分に楽しんでくれ」
乾杯、と木蘭が搾りたての橘子果汁の入った玻璃杯を持ち上げる。
苺苺もそれに倣って乾杯した後、玻璃杯に口をつけた。
(橘子果汁も木蘭様のお気に入りなのでしょうか? かわゆいが爆発しています……!)
果汁の甘さと、幼妃にぴったりの桜花の意匠が施された玻璃杯を持つ木蘭の組み合わせのあまりの尊さに、思わず静かに感謝の合掌をしてしまう。
「どうした苺苺、もうお腹がいっぱいなのか?」
「いいえ、木蘭様への感謝の気持ちを全身全霊で表しています」
「そ、そうか。ならいい。よく食べてくれ」
「はい!」
(ですが、お食事をする前から幸せでお腹がいっぱいです……。あっ、美味しいです。なんと、これも美味しいです)
苺苺のとろけるような笑顔に、木蘭は頬を染めつつ得意満面に「ふふん」と胸を張る。
その後も、苺苺は夢心地のまま、木蘭に紹介されるままに豪華な夕餉に舌鼓を打った。
(それにしても、ふふふっ。昨晩の皇太子殿下が用意してくれた夕餉と少し料理の好みの系統が似ているところも、なんだか幼妃らしくてかわゆいですっ。木蘭様の新たな一面、尊すぎます……!)
苺苺は食事を頬張る木蘭の姿を眺めつつ、そう密かに思ったのだった。
そうして食後のお茶を楽しんだあとは、大きな湯殿に案内された。
侍女頭補佐と共に湯浴みの付き添いを申し出てくれた若麗に、「滅相もございません」と遠慮して断りを入れた苺苺は、ひとり残った広い脱衣所を見回して感嘆のため息をつく。
「湯殿に姿見を置くだなんて、紅玉宮の女官の皆様はすごいです」
湿気と蒸気のこもる湯殿で鏡は錆びやすい。
それなのに持ち運びもできない重量のある立派な姿見を据え置きにできるのは、女官たちがよほど徹底的に湯殿を管理し、鏡を常にピカピカに磨き上げているからだ。
その証拠に、錆びはおろか水滴の跡ひとつない。
苺苺はさすが最上級妃の女官たちだとその仕事ぶりに感動しつつ、コソコソと衣裳の帯に手をかける。
他の妃の湯殿を借りるのは、さすがの苺苺でも恥ずかしいのである。
(湯浴みのあとは姿見をお借りして、背中に傷薬を塗りましょう)
「湯殿に薬壷を持ってきていてよかったです」
と大袖を肩から下ろした時。
「あら? あらあら?」
朝までは肩にあったはずの赤黒い打撲傷が、綺麗さっぱり無くなっていた。
「傷薬の効果でしょうか……?」
すごい傷薬をくれたものだ。そう思いつつ、背中を姿見に写すと。
「……えっ」
蚯蚓腫れになっていた傷も、内出血していた傷も、すべて跡形もなく消えている。
白磁の肌はみずみずしく輝き、むしろ以前よりも張りがあるほどだ。
苺苺はもしかして、と左手に巻いていた手巾を急いで外す。
――鋏で斬りつけた傷は、ものの見事に塞がっていた。
「こんなことって、初めてです。良いことなのでしょうが」
苺苺は神妙な顔をしながら薄い湯着に着替えて、湯浴みをする。
普段であれば、見慣れた木桶ではなく異国の檜を惜しげも無く用いて造られた紅玉宮の湯船に感動するところであるが、今の苺苺の頭は不可思議な現象への疑念でいっぱいだった。
丁寧に身体を流し、檜が香るたっぷりと湯が張られた贅沢な湯船に浸かる。
湯気の上がるとろりとした湯から左手を出すと、ちゃぷんと音がした。
水滴が垂れる。
――水星宮での水仕事などなかったかのような、白く透き通った白磁のような手だ。
(いただいた傷薬も効果はありましたが、昨晩と今朝ではこれほどの効果は出ませんでした。となると、それ以降の行動がこれほどまでの影響を及ぼしたことに)
考えずとも、脳裏に浮かぶ。
左手で撫でて鎮火させた燐火、そして『龍血の銘々皿』に現れた茶菓子しかない。
「なるほど……。『白蛇の娘』にとって悪意とは恐れるものではなく、真正面から飛び込み、立ち向かうものなのですね」
それは、悪意に侵された白家の姫君を娶った白蛇が与えた――愛し子への祝福か。
(心なしか異能の力も今までで一番漲り、澄み渡っている感覚を覚えます)
あやかしのように、燐火が霊力に変わったのかもしれない。
苺苺の異能の力は、今もまだまだ成長を続けているということだ。
それに〝治癒の力〟も発現するだなんて。
(代々白蛇の娘に受け継がれてきた書物にも記されていませんでした)
苺苺は傷のなくなった手をきゅっと握る。
「怪我が、治せる。それがどれほどの範囲まで適用されるかはわかりませんが」
しかし、そうとわかれはこれまで以上に心強い。百人力になった気さえする。
「ふっふっふ、禁断の仙薬をキメたのは錯覚ではなかったようです。この白苺苺、木蘭様のためならば降りかかる悪意もすべておいしくいただいてみせます!」
苺苺はぐっと拳を握りしめて立ち上がる。
ザバァァァン! とお湯が波立ち、豪快な音がした。
湯浴みを終えた苺苺は一度与えられた部屋へ戻って荷物を置くと、「ね、寝物語を語りに……」と女官に伝えて、木蘭の寝室へと来ていた。
道術を操る恐ろしい女官の目を欺くために、今の苺苺は寝衣に羽織をまとっている。
これは『年齢の壁を越えて仲良くなった妃たちのお泊まり会である』と、印象付けるためだ。
花器に生けてある木蓮の花が、ひそかに香る。
木蘭も苺苺と同じように寝衣をまとい、羽織を両肩に引っ掛けるようにしていた。
けれどどうしてだか、木蘭の寝衣は丈も袖もぶかぶかだった。
どう見ても大人用の、もしかすると苺苺が着ても大きいと感じるだろう寝衣を身にまとっている。
(床に裾が引きずって……。こ、これは、もしや……)
後宮妃であれば、間違いなく、
『もしや皇太子殿下の寝衣かしら?』
『皇太子殿下はこの宮に寝衣を備えておくほどお通いに?』
『国を守護する行事で大事な剣舞を舞わせるだけでなく、これほどの寵愛を!?』
と怒りと嫉妬に駆れるところだが、しかし。
(寝衣のあやかしちゃんでしょうかっ! あああ愛らしい! 愛らしすぎますっ!)
苺苺は案の定、胸をずきゅんと撃ち抜かれていた。
興奮で真っ赤に染まった熱い頬を、ぱちんっと両手で押さえる。
(あまりのかわゆさに言葉が見つかりません。ああ、このお姿の寝台に横たわる木蘭様ぬいぐるみを作りたい……!! おねむな様子で今にも寝落ちしそうな姿の木蘭様、略して〝ねむねむ様〟。欲しいですっ)
後宮妃としてどこかおかしい苺苺は、『推しの応援作品を製作したい意欲と収集したい物欲で息ができませんんん』と、溢れんばかりのときめきと尊みに駆られて涙腺が緩んだ。
胸がはちきれそうに痛い。
そんな内心荒ぶりまくっている苺苺の本心には少しも気づかず、木蘭は『やはり自分とふたりきりはまずかっただろうか』と考える。
少し変わったところのある苺苺といえど、いざ他人の寝室に入るのは顔を赤くするほど恥ずかしいはずだ。
しかも卓も椅子もない寝台のみの部屋など。
風邪をひいたと聞きつけて見舞いに来たふりをしながら、皇太子を待ち寝室に居座ろうとする妃嬪や女官を防止するために、寝室には最低限の物しか置いていない。
今朝も前触れもなくやって来た徳姫を追い払ったばかりだ。
木蘭は申し訳なさそうに眉を下げると、「やはり椅子を用意していればよかったな」と寝台の端へ腰掛けるように勧めた。
「すまない、あまり女官の印象に残る不自然な動きはしたくなくて」
(あわわ、木蘭様をなにやら悲しませてしまいましたっ)
豪華な天蓋付きの寝台は、苺苺がかつて見たことないほど大きい。
大人が三人は悠々と寝転がれそうである。
(あまりのかわゆさにめろめろでしたが、幼い木蘭様がおひとりでここに寝るのは……きっとお寂しいでしょうね。皇太子殿下がいらっしゃる時は良いでしょうが、病気がちというお噂ですし)
他の妃嬪に御渡りがあった、というような風の噂は聞かないので、皇太子殿下は今のところ紅玉宮にだけ来訪しているのだろうが、それでもひと月の間にそう何日も訪れてはくれないだろう。
(皇太子殿下がいらっしゃらない夜は、ご両親を思い出したり、ご兄弟やご姉妹を思い出して涙されているやも……!)
そのうえ不眠症気味とあっては、木蘭様の心が蝕まれていくのも時間の問題に思える。だからこそ。
「木蘭様、大正解だと思います! こちらの方がお泊まり会らしくて断然楽しいです! 皇太子殿下の代わりにはなりませんが、この苺苺、今夜はしばし木蘭様のおそばにおりますからね」
その言葉に、木蘭は虚を突かれた様子できょとんとする。
「ええと、その……苺苺は以外と度胸があるんだな。安心した」
「……? せっかくの機会ですから!」
(お泊まり会のふりではありますが、少しでも、幼い頃の楽しい思い出を作っていただきたいです)
そう願わずにはいられなかった苺苺は、最上級妃と最下級妃という間柄は都合よく忘れることにして、遠慮せずに寝台の端に腰掛けることにした。
「あえて人払いはしていないぞ。この時刻は女官たちもそれぞれの残りの仕事で忙しく、持ち場につきっきりで妾の部屋の前にはいないからな。だが、声を落としておくに越したことはないだろう」
そう言って同じく寝台に腰掛けた木蘭は、幼女らしからぬ難しい表情しながら、
「……確定だな」
とため息まじりにいった。
「夕餉に呪毒は宿っていませんでしたね」
「ああ。ということは、妾が茶会に携わらせた女官の中に、犯人がいる」
「はい」
苺苺は気を引き締めて、背筋を伸ばし、真面目な表情で返事をする。
お茶会での打ち合わせで、木蘭は夕餉に携わる女官を総入れ替えすると言い出した。
『せっかく苺苺が炙り出してくれるんだ。できることは全部やろう』
とは、六歳には思えぬほどの名言であった。
(幼くてもやはり貴姫となったお方。さすが、聡明であらせられますわ)
苺苺がますます〝天女様の御使い木蘭様〟に陶酔したのは無理もない。
「お茶会に携わった女官は五人でしたね。お名前とお顔は一致しておりますから、今夜こっそりと見張りをいたします」
五人の女官の中には、筆頭女官の若麗もいる。
なので、実質的には四人の女官を見張ればいいだろう。
数体のぬい様と白蛇ちゃんの抱き枕を持ってきていた苺苺は、「では作戦の確認です」と、もともと小声で話していた声の音量をさらに小さくした。
「現在、このぬい様ひとつだけに、木蘭様の髪を一本入れてあります。夜中に向けられる悪意は全てこの子に集まるので、不眠症を引き起こすほどの悪意であればすぐに限界を迎えて裂けてしまうでしょう。その反応を、犯人を探す目安にいたします」
日中は木蘭のことを考える妃嬪や女官も多い。
夜も遅くの人々が寝静まった頃となると、よほどの恨み辛みがなければ思考し続けていたりしない。
しかも夜警当番の女官以外は、紅玉宮の敷地内にある宿舎で就寝している。
「悪意が向けられるのは発生源の方の意識がある時ですから、その時に起きている女官の方、もしくは明かりの点いている部屋が怪しいと言えるでしょう。人目を忍び、わたくしが確認してまいります」
「ああ、わかった。頼んだぞ」
「はい」
苺苺は『いざ出陣!』とばかりに、ぬい様を両手で持ち上げて突き出す。
木蘭様の髪は懐紙に包んで袂にしまっているので、あまりに悪意が強大で封じなくてはいけない場合でも、すぐに新しい形代を用意できる。早業刺繍だって準備万端だ。
(ふっふっふ。恐ろしい女官の方を見つけ出したら、木蘭様の素晴らしさを夜通し布教させていただきましょう。そして、底なしの木蘭様沼に引き摺り込んで、足の先から頭のてっぺんまで綺麗に沈めてさしあげますわ!)
作戦は完璧と言えた。
それから半刻後――。
打ち合わせの段階では、亥の刻以降に、〝寝物語を聞かせた設定〟の苺苺が、〝眠った設定〟の木蘭の部屋から出発し、『恐ろしい女官発見器』と化したぬい様を片手に紅玉宮の女官を監視するため暗躍する……という予定だったのだが。
不眠症に悩まされていたはずの木蘭が、寝台に横になった途端にすやすやと眠ってしまったので、白蛇ちゃん抱き枕を抱えながらお喋りをしていた苺苺は部屋を出るに出られなくなっていた。
(せっかく久しぶりにぐっすりと眠れたのですもの。不用意に音を立てて、起こさないようにしなくては)
木蘭様の安眠をお守りいたします! と強い使命感を抱きつつ、物音を立てないようにしながら辺りに気を配る。
猫魈の事件では、女官に命を狙われたという衝撃もあっただろうに、そして皇太子殿下に苺苺を無罪にするよう便宜を図ってくれたり、今日もお礼にと茶会を開いてくれたりと……連日の疲労を押してまで苺苺のために仁義を尽くしてくれた幼妃に対し、敬服せずにはいられない。
そんな木蘭に訪れた、ささやかな休息。
ぬい様の効果がばっちり現れている証拠だが、そのぬい様が裂けた途端、疲労困憊の身体であっても木蘭は目を覚ましてしまうだろう。
できるなら、今夜ばかりは裂けてくれるなと形代に願いたくなる。
(このまま木蘭様が起きなければ、半刻くらい経ったあとに作戦通り部屋を出ましょう)
そう決めて、静かに新しい刺繍を始める。今夜は『白蛇の鱗針』は使わない。
(この円扇ができあがったら、木蘭様へ贈りましょう。……そうですわっ。わたくし用の円扇もお揃いの図案にしたら、誰もが夢見る推しとのお揃い円扇が叶います……! 楽しみですわね)
どこからか月琴のやわらかな音色が聞こえてくる。
弾き手はきっと、月琴の名手と名高い若麗だろう。
(なかなか眠りにつけない木蘭様を想って演奏しているに違いありません)
ただの女官の腕前とは思えないほど上手だ。
(若麗様のお部屋から弾いているのでしょうか? それとも中庭で?)
なんて考えている頭に気持ちのよいもやが掛かってくる。
「ふぁぁ……」
ついつい小さく漏れたあくびを、針を持っていない方の手で押さえこんだ。
しかし、緩やかに心と身体を解す優雅な調べは、昨晩から徹夜でぬい様を作っていた苺苺にもよく響く。
そうして微睡みに誘われ始めた苺苺は、いつもの就寝時間を迎えると、こくりこくりと船を漕ぎ始めたのだった。
◇◇◇
「……俺はいつの間に眠って……――なぜ、苺苺がここに寝ているんだ」
広い寝台の上で上半身を起こした美青年は、寝台に腰掛けた状態で倒れている少女を見つけて、寝ぼけていた思考が一瞬で覚醒した。
「作戦と違うじゃないか。だから泊めたくなかったんだ。いや、俺が寝室に入れたのがそもそもの間違いか……」
ああ、頭が痛い、と美青年は骨ばった大きな手のひらで額を押さえる。
夜中の紅玉宮を、ただの客人である白蛇妃が女官も付けずにうろうろするのは、非常に怪しい。
だから女官に見つかった時のために、『幼い木蘭が寝物語をねだったせいで遅くまで妃の寝室にいた苺苺は、自室の場所がわからずにうろうろしていた』、という言い訳を作れるようにした。
それなら見張りがどんなに夜中まで及ぼうとも、他の女官を気にせずに、悪意を向けられている頃合いを見計らって犯人探しに行ける。そういう計画だった。
だが実際はどうだろう。
「……とにかく、眠ってしまった俺が悪いな。この姿で見つかれば面倒が増える」
今は過去の過ちを後悔するよりも、彼女を起こさないように部屋を出なくては。
そう思って立ち上がった瞬間、ぎしりと大きな音を立てて寝台が軋んだ。
「……っ!」
「んう、木蘭様? 起きられましたか? ……ごめんなさい、わたくしとしたことが、ついうっかり眠ってしまって――!?」
上半身を起こし、寝ぼけ目を擦っていた苺苺が次第に大きく目を見開く。
「きゃ――」
「すまない。静かにしてくれ」
「むぐ、むぐうぅ」
ここに居るはずのない、銀花亭で出会った悪鬼武官と〝同じ声〟を持つ寝衣姿の美青年を前にして驚きの悲鳴をあげそうになった苺苺の口元を、大きく無骨な手が素早く覆った。
(ななななにやつです!?)
むぐむぐと言葉にならない声がもれる。
美青年はぎゅっと眉根を寄せて非常に困惑した表情であったが、真摯な瞳を苺苺に向け、
「俺の名は、燐 紫淵。この国の皇太子だ」
しっかりとした口調で、そう名乗った。
(こ、この方が、皇太子の紫淵殿下……!?)
苺苺はむぐ、っと驚きで思わず漏れそうになった声を反射的に抑える。
「銀花亭で会っただろう。あれは俺だ」
「むぐぅぅ!?」
「その、昨晩は名乗り出ずにすまなかった」
(え、えええ……? こ、声も同じですし、確かに皇太子殿下の姿絵ではあの悪鬼武官様と同じお面をかぶっておられましたが……。うーむ、そう言われてみると瓜二つのような気もいたします)
今はその顔を晒しているため、苺苺はまじまじと彼を見つめる。
透き通った紫水晶の色の瞳は長い睫毛に縁取られており、桃花眼の目元は艶やかで鋭い。
誰をも惑わせる蠱惑的な色気を持っていそうな絶世の美貌は、しかし、氷のように冴え冴えとしていて近寄りがたい雰囲気があった。
燐家の象徴とも言える紺青がかった黒髪は、腰の辺りまで伸びている。
この髪色こそ、苺苺が皇太子殿下の姿絵を初めて目にした時に、『まるで闇夜に流れる銀河のごとき艶やかさです』と感嘆した色だった。
昨晩よりもはっきりと色鮮やかに見えるのは、灯籠の赤みを帯びた光がないことと、彼のまとっている寝衣のせいだろう。
苺苺はなんとなく状況を理解できたような気がして、おとなしくこくこくと頷く。
「そして、信じがたいと思うが――朱 木蘭でもある」
苺苺はこくこくと頷きそうになり、思いっきり首を捻った。
(な、なにをおっしゃっているのです? 皇太子殿下が、木蘭様? 似ても似つかぬお姿ですわ!)
「うむぐぅ、むぐうう!」
口元を覆われていて喋れないため、慌てふためいた苺苺は身振り手振りでなんとか伝えようとする。
「君の言いたいことはわかる。だが、誰がなんと言おうとも、木蘭は俺なんだ」
(そんなこと、あるわけが……!)
反論する苺苺をまっすぐに見つめる紫水晶の瞳は、確かに木蘭とまったく同じ色だった。
木蘭の瞳に忠実な色合いを再現するため、何度も木蘭を観察し、紫色の刺繍糸の色味を細かく厳正に選んできた苺苺が、見間違えるわけがない。
それに、細かな仕草や口調も一致している。
(わたくしに異能があるのですもの。姿形が変わる怪異があっても不可思議ではありませんわ。猫魈様の妖術も見たばかりですし……。もしかしてよくあることなのやも……)
苺苺は『理解しました』と示すように頷く。
その様子を見て、紫淵は「手荒な真似をしてすまなかった」と申し訳なさそうな表情で苺苺の口を覆っていた手を離した。
苺苺はぱっと立ち上がり、寝衣姿だが膝を折って最上級の礼を取る。
「燐華国の至宝の御剣にご挨拶申し上げます。……あの、ですが一体なぜ皇太子殿下が」
「苺苺。そんなに堅苦しく呼ばないでくれ。紫淵でいい」
「え、ええと、では……その、紫淵殿下と」
紫淵は少し不満げに苺苺の礼を受け取ると、寝台に腰掛けるように促す。
苺苺はこのまま立っているべきかと迷ったが、木蘭と作戦会議をしていた時のように隣に腰掛けた紫淵を見て自分も元いた場所にちょこんと座りなおし、そわそわと居住まいを正した。
(なんだか、その、落ち着きません)
それもそうだろう。幼妃である木蘭ではなく、十八歳になる皇太子殿下と同じ寝台に並んで腰掛けているのだから。
そしてそれは、紫淵も同じことだった。
まさか自分の正体を明かす日が来るとは思ってもみなかったし、昨晩だって念入りに誤魔化していたのに。
加えて紫淵は紅玉宮以外を訪れた経験も、誰かと寝台で過ごした経験もない。
木蘭と添い寝などと皆話しているが、同一人物であるからして、それは巧妙な作り話であった。
そんな自分が、事故とはいえ、先ほどまで苺苺と添い寝をしていたなんて。
(むむむ、お部屋に心臓の音しかしません……! 先ほどまでどんな風に会話していたか、忘れてしまったわけではないのですが、なぜだか、気まずいです……!)
苺苺からちらりとうかがうような視線を向けられて、紫淵はうっと胸を押さえる。
一睡するまでは確かに一緒に会話し楽しく過ごしていたのに、今はなぜだか、寝衣姿の苺苺にどぎまぎしている自分がいる。
もしもここにいるのが他の妃嬪であったら、いつもの冷笑を浮かべて、『誰の許可を取って俺の寝所にいる? 今すぐ出て行け』と理由も告げずに凍えるような声で一喝できただろう。
皇太子宮を解禁した時に皇帝陛下が定めた規律に触れたのだから、口封じも行うかもしれない。
だが、苺苺に対しては、そんなことをしようとも思わなかった。
紫淵は『駄目だ、落ち着け』と、脳内で黒い狼と化した宵世を数え始める。
「宵世が一匹、宵世が二匹、宵世が――」
「あ、あのう、なぜ東宮補佐官様をお数えに?」
「……っ、それはだな、ええっと」
言えるわけがない。君に触れたくなるから、だなんて。
紫淵は「それはそうと、俺になにか聞きかけていただろう」と咄嗟に話をそらした。
「そうでした。お伺いしてもよいのかわからないのですが、その……いったいなぜ紫淵殿下が木蘭様のお姿に?」
「……そうだな、君には話しておこう」
紫淵はそう前置きしてから頭を切り替える。
「悪鬼の呪詛だ。皇太子になるべく生を受けた皇子は、成人になるまでの間になんらかの怪異に巻き込まれる」
「もしや、……燐火の悪鬼の?」
苺苺はそっと息をのんだ。
「ああ。千年は続く呪詛ということになるな。俺の場合は十歳を過ぎた頃から、突然夜だけ幼い少女――木蘭の姿になるというものだったのだが……。昨年の暮れより、日常的にその姿になるようになってしまった」
「なんと!」
飛び上がるほど驚いた苺苺は、思っていたよりも大きな声が出てしまって両指先でハッと唇を押さえる。
幼女の姿の紫淵を〝木蘭〟と名付けたのは、当時その姿を初めて見た皇帝陛下だったらしい。
老齢の父に代わり男装した少女が男ばかりの軍に入りって武勲をあげる伝説から、
『朱 木蘭。皇子が女ばかりの後宮に入って栄華を極めるのに、これほど縁起の良い名があるか?』
と皇帝陛下は笑いながら言ったそうだ。
(そういえば、入宮前に王都を通った時に見かけた演劇一座で上演中の演目が、ちょうど『花木蘭』でしたね。馬車で通り過ぎるしかありませんでしたが、やはり早めに王都入りして観劇しておくべきでした……!)
推しの概念はすべて網羅しておきたい欲にかられ、思わぬつながりに内心ワナワナする苺苺である。
「怪異はいつ、どのように起きるかわからない。そのため皇太子の象徴とも言える紺青の黒髪を持つ皇子は、発現する怪異の実態が掴めるまで、生まれて数日後には皇帝陛下の名のもとに幽閉されて育つ」
「そんな……。幽閉とは、お大変でしたね。王都からお離れに?」
「いや、後宮の奥深くだ」
苺苺は息をのむ。
(後宮から離れられない、立太子するのが決定づけられている皇子。きっと様々な悪意に晒されたに違いありませんわ)
きゅっと眉根を寄せて、あたたかな憐憫を長い睫毛のけぶる大きな双眸に浮かべた苺苺の頭に、紫淵はぽんっと手のひらを乗せた。
慰めてほしくて言ったわけじゃない。
だが、幼かった頃の自分に、そっと苺苺が寄り添ってくれた心地がして、嫌な気分ではなかった。
「滅多な行事以外では姿を現さない俺に対して、周囲は次第に『やはり歴代と同じく病弱か』と囁くようになった。まあそれが一番身を隠すのに都合がいいから、今も好んで使う言い訳だが」
「そうなんですね」
「実際の俺は病弱とは程遠くて、幼い頃から武術も嗜んでいるから剣術もひと通りできる」
(ではやはり悪鬼武官様のお姿の時に足音がしなかったのは、本当に手練れである可能性が!? よ、よほどの剣の才をお持ちなのやも……!)
「と、いうことは、わたくし……まさか剣の錆に!?」
「なぜそうなる。……いや、君の選択によってはその可能性もあるかもしれない。今夜起きた出来事が皇帝陛下の耳に入るようなことがあればだが」
「ひいっ」
苺苺は恐ろしい自分の最期を想像してしまい、「優しくしてくださひ」と青ざめてガタガタ震える。
「……そんなに怯えるな、冗談だ」
「冗談のお顔には見えません〜〜〜っ」
「それは申し訳ない。この顔しかできないからな」
紫淵は苺苺を落ち着かせようと、意識して、冷たい美貌に極上の微笑みを浮かべる。
「ひええ、あ、ああ、あくどい顔です……っ!」
けれども逆効果だったらしい。苺苺のガタガタは酷くなった。
苺苺の怯えようがあまりに可哀想で、庇護欲を掻き立てられてしょうがなかった紫淵は、真摯な謝罪を伝えるにはどうしたらいいのかと悩んだ末――苺苺の真珠色の長い髪をひと房指先で掬ってから、捨てられた子犬のような顔をして、
「許してくれ、本当に冗談だ」
と、今度は作り物ではない低く優しい声音で告げ、本心から、苺苺を安心させるように目を細めた。
まるで機嫌を直してほしいと言いたげな、紫淵の甘くとろけるような、やわらかな表情。
それを真正面から直視してしまった苺苺の唇から、「あっ」と無意識に音が零れる。
するとなぜだか途端に頬に熱が集まって、胸がきゅーっと甘く締めつけられていくではないか。
(ひぇ!? いいえっ、紫淵殿下は推しじゃありませんっ。わたくしは木蘭様ひと筋です!)
苺苺はぶんぶんと横に首を振って、火照った頬の熱と一緒に勢いよく邪気を払う。
苺苺は意図していなかったが、心からの謝罪を勢いよく拒絶された形になった紫淵は、
「……本当にすまない」
と落ち込むしかなかった。
けれども、紫淵はそれを上手く取り繕って、「あー、その、続きだが」と話し出す。
「立太子してからは天藍宮での政務も増えた。けれども木蘭の姿では政務にも差し障りがあるだけでなく、万が一誰かに知られることとなれば命も狙われやすくなる。白州を訪れた理由は、その場で燐家最大の秘密を晒すことになろうとも、この呪詛を解いてほしかったからだ」
悪鬼の呪詛から解放されれば、逃げも隠れもしなくてよくなる。
だが悪鬼の呪詛は、人間の悪意ではないので苺苺の眼には視えず、未解決に終わった。
「悪鬼の呪詛はその後もひどくなり、年明けにはとうとう夜だけしか元の姿に戻れなくなってしまった。そのため俺の身を案じた皇帝陛下によって、成年を迎えてから封を解く予定だった皇太子宮が解禁されたんだ」
「木を隠すなら森の中というわけですね。その、朱家の姫として後宮に入られたのは……?」
「素性を徹底的に偽るために、仕方なく母上――皇后陛下を頼った」
この怪異が他者に知れ渡ると大変なことになる。
だから千年の間、皇帝、そして皇太子の腹心の臣下を除いて秘匿され続けてきた。
それは今代の皇后陛下も変わらないはずだった。が、幼い姿の木蘭が、最も安全な立場である皇太子宮の最上級妃として君臨するためには、もはや手段は選べなかったのだ。
「皇帝陛下の口添えもあったからな。次期皇帝の座が約束された皇子を今さら陥れようなどとは、さすがの皇后陛下も思わなかったらしい。どこぞの高貴な血を引く自分の養い子として、皇后陛下が自ら内密に朱家の当主に掛け合った」
「なるほど。燐華国の国母となった娘の願いを、朱家の当主が無下にできるわけがありません」
「そうだ。木蘭の姿が娘に似ていることからも、なんらかの理由のある娘の実子ではないかと事情を察した当主は、木蘭を快く自分の養女として迎え入れた」
皇后陛下が気に掛ける幼姫だ。
もしも上級妃として取り立てられでもしたら、……いや、必ずそうなるのだから、莫大な利益と恩恵を受けるのは当然――木蘭を養女とした朱家。
「木蘭は便宜上、朱家の遠縁の娘になっている。国母となった娘の不義理の子かもしれない木蘭の秘密を、朱家の当主は絶対に墓場まで持っていくはずだ」
その証拠に今年、次期当主が三の姫の若麗を後宮の〝秀女選抜試験〟――西八宮で三年ごとに行われる皇帝陛下の妃嬪と宮女を選抜する試験に送り込んでいる。
十中八九、突然現れた養女が『八華八姫』の慣例に従って妃嬪に難なく納まるのに、次期当主が納得できなかったからであろう。
しかし木蘭の女官を募る際、もともと妃教育を受けていて、なおかつ現皇后に仕えていた若麗を侍女にしろと、朱家当主が言い出した。
やはりいざ選妃姫が近くと、妃養育を受けてまもない幼姫に朱家を任せるのが怖くなったのだ。
当主の命令は絶対である。次期当主であろうと、孫娘であろうと逆らえない。
若麗は命じられるがまま志願し、紅玉宮の侍女頭になった。
これが紅玉宮に朱家の姫が二人も存在する理由だ。
苺苺は朱家の当主や次期当主の命令に翻弄される若麗の心を案じ、そして知られざる木蘭の秘密に瞠目する。
「木蘭様にはそのような秘密がおありだったのですね」
「ああ。だが……今や夜中であっても、ほとんどこの姿には戻れなくなった。それが、昨日に続き今日までも戻れるとは……運が良いのか、悪いのか。今夜は念のために俺の寝衣を着ていて正解だったな」
紫淵は額に手を当てながら肩を下げてため息をつき、自嘲気味に言った。
それから長い髪をかき上げる。
怜悧な雰囲気をまとった絶世の美貌が、すっと苺苺を見据えた。
「俺の怪異の秘密は皇帝と皇后、それから幼い頃から共にいる信頼のおけるふたりの従者、そして――目の前にいる君しか知らない」
「ひえっ。それは、あの、申し訳ありません」
「……いや。もともと君を頼った時点で、一度は君にバレる覚悟をしていた。それが早かったか、遅かったかの違いでしかない。他言無用で頼む」
もし誰かに告げるような真似をしたら命はない――とは伝えられなくても、苺苺は十分に理解していた。
そしてもうひとつ。
皇太子の命を守るためだけに解禁された後宮に集められた七人の妃が、〝森〟になるためだけの役割しか持たぬ〝仮初めの妃嬪〟であることも。
(わたくしは木蘭様を『白蛇の娘』の全力をかけて応援するために後宮に入ったので、もともと仮初め妃ではありましたが……。その理由でしたら、紫淵殿下を御支えするのも木蘭様を御支えすることと同義です。わたくしの立場は変わりません)
苺苺は腰掛けていた寝台から降りると、床に両膝をつき、すっと完璧な礼を取る。
「この命に代えましても、木蘭様と紫淵殿下の秘密をお守りいたします」
寝衣のため多少格好はつかないが、それが紫淵と木蘭への誓いだった。
「白 苺苺。君の言葉に偽りはないな」
「是」
「……ありがとう。恩に着る」
紫淵は眉を下げてふっとやわらかく微笑む。
「俺は木蘭を〝寵妃〟として扱うことで、女官たちの目を欺いている。それには今後も口裏を合わせてほしい」
「それはもちろんです! ですが、そんなに簡単に欺けるのでしょうか……? 確かに本日まで、誰も疑っていませんでしたが……」
(わたくしも皇太子殿下は木蘭様推しだという認識でしかありませんでしたし)
苺苺はそろりと、目の前の美青年を観察する。
こんな高身長の、しかもなにやら常人とは違う雰囲気を醸しだす絶世の美丈夫が紅玉宮を徘徊していたら、すぐに女官の目に付きそうなものである。
「大抵は深夜にしか元の姿に戻れないからな。木蘭の時でも、寝室には日中の決められた掃除の時間以外は女官を入れないようにしている。元の姿に戻れた夜は、衣服を整えてからこの部屋の隠し通路を通って紅玉宮の外に出るんだ。簡単にはバレない」
なんとこの寝室には厳重な鍵付きの箪笥があって、紫淵用の寝衣や衣裳、髪飾りがしまってあるそうだ。
紅玉宮の女官は日常的に紫淵の名で木蘭に多数の贈り物が届くのを目にしているし、鍵付きの箪笥があるのも気にかけていないらしい。
紫淵は寝台から立つと、室内を音もなく歩いて、彼の身長以上ある箪笥に手を触れる。
「この下に隠し扉があって、地下通路に続いている」
「隠し通路とは、なにやらわくわくする響きです」
苺苺は目をきらきらと輝かせる。
頭の中では、木蘭が小さな身体で一生懸命あの箪笥を押しのけて、幼妃に似合わぬ険しい表情で『右よし、左よし』と指差し確認したあとに、こっそりと隠し扉をくぐって紅玉宮から脱走する。
……想像してみると、その姿はなんとも庇護欲をそそった。
「やっぱりわくわくは撤回しますっ。なんとお大変な状況なのでしょうっ。この大きな紅玉宮でひとり、大きな秘密を抱える小さな木蘭様……! きっとたくさんの苦労があるはずですわ。健気なお姿を見つめるだけしかできず、胸が痛いです……」
想像し終えた苺苺は胸を抑えて涙ぐみ、うるうるとした視線で紫淵を見上げる。
「木蘭様にたくさんのご加護がございますように……っ!」
「えっ。いや、隠し通路は俺が通るんであって、木蘭は通らないぞ」
箪笥に熱い視線を送っていたかと思えば、今度は涙目で自分を見上げてきた苺苺の様子に紫淵はたじたじになる。
「女官や宦官でも押せないくらいあの箪笥は重厚に作ってある。武官でも押し入ってこなければ、隠し通路の存在は見つからないだろう。なにせ通路の繋がる先は地下、しかも出口は皇太子の寝殿の中だ」
「なるほど。天藍宮は位置的には紅玉宮の真後ろ。後宮とを仕切る城壁や門も、地下ならば関係ありませんね」
「そうなる。皇太子にしか誂えられない意匠が施された鍵付きの箪笥を、いちいち改めて事を荒立てる命知らずの女官は早々いないからな。隠し事はたやすい。まあそれも、こうして寝室で鉢合わせしなかった場合のみだが」
紫淵は深くため息混じりにそう言うと、苺苺の手を取り再び寝台へ着席させる。
頭上に疑問符を浮かべる苺苺の隣に遠慮のない仕草で腰掛けた紫淵は、まるで大切な宝物にでも触れるかのごとく妖艶に、もったいぶった動作でゆっくりと、苺苺の頬に男らしい手を添えた。
「――さて。秘密を知られた以上、ここから君を出すことはできなくなった」
「へ!? あの、わたくし、先ほど『この命に代えましても、木蘭様と紫淵殿下の秘密をお守りいたします』とお約束をっ」
「そうだな。だからこそ、俺が君の命を預かる」
「ひえっ!?」
「白苺苺。君には、俺の〝異能の巫女〟として、しばらくの間この宮に住んでもらう。少しでも秘密を漏らそうとすれば命はないと思え」
「えええええっ!?」
「もうじき日が昇る。秘密厳守、それから効率の観点からも、犯人探しは紅玉宮でしかできないからな」
紫淵はにやりと美しく微笑む。
美青年の姿はみるみる幼くなり、……――目の前には寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭がいた。
苺苺の頬に添えられていた手のひらは、大きさと温もりを変えて、そこにある。
「苺苺。乗りかかった舟だ。最後まで妾に付き合ってもらうぞ」
愛らしい幼妃の策士な笑みに、焦りと緊張から苺苺の鼓動はどきどきと高鳴る。
(えっ? えっ? どういうことですの? もしかしてわたくし、推し活をしていたはずが、なにやら紫淵殿下の重大機密に巻き込まれてしまったのでは……!?)