あやかし用の牢獄を出ると、空には満月が出ていた。
 戌の刻(午後八時)を告げる鐘が、月夜の後宮に響く。
(昼間はあんなに暖かかったのに、夜はとても涼しくなりました。少し肌寒いくらいです)
 苺苺は猫魈(ねこしょう)とぬい様が入った鳥籠を手に肩を擦りつつ、先導する宦官の後ろを歩く。
 彼の名は(サク)宵世(ショウセ)
 東宮の侍童として宮廷に入って八年。十八歳という若さで、皇太子殿下の身の回りの世話を一手に担う宦官の筆頭、〝東宮補佐官〟にまで異例の昇進を遂げた端麗な容姿の青年だ。
 木製の細やかな透し彫りが施された提燈(ちょうちん)を手に持って現れた彼は、「この先は僕が預かる」と告げて、牢から出た苺苺の身柄を他の宦官たちから有無を言わさず引き取った。
 墨をこぼしたような黒髪は、うなじの辺りの短さで整えられている。
 宦官ではあるが、中性的な美貌と涼しげな杏眼(あんがん)という組み合わせは、目の保養になると女官人気は凄まじいらしい。
 だが男性にしては細腰なその見た目と、皇帝陛下が命じたという異例の地位から、他の宦官達からは『皇帝陛下の稚児』などと邪推されてやっかまれている。
 というのは、先ほど目の前で繰り広げられた宦官達の言い争いから、苺苺も知ったことだった。
 そんな宵世の性格は厳格そのもの。
 後宮の規律や歴史を重んじるからこそ、苺苺への当たりも非常に厳しかった。
 なにしろ歴史上での白蛇妃は、妃嬪を害した犯人と記される方が多い。
(皆様とても刺繍の腕が優れた優しい方々で、まったくの濡れ衣です。『白蛇の娘』に代々伝わる書物に書き加えられている文字を見ればわかります)
 後世の『白蛇の娘』へ正しい知識を残そうと、書き連ねられた言葉は思慮深く、儚い。
 自分の二の舞にはならないでほしいと切々と願い、姉のように書物からそっと語りかけてくる彼女達が、下手人であるはずがなかった。
 しかし、それを証明できる人間はいない。
 皇帝陛下や皇太子殿下に過去の事件の再調査を依頼することすらできない。
 苺苺もまた、彼女たちと同じ――『白蛇の娘』なのだ。
(けれども、わたくしが後宮に来たのは『白蛇の娘』の冤罪を晴らすためではありません。わたくしはお慕いしている木蘭様を全力で応援し、お守りするためだけに馳せ参じたのです)
 だから、こんな扱いに怯んでいる場合ではない。
 苺苺の瞳はごうごうと熱い炎で燃えていた。

 宵世が手に持つ提燈が薄暗い夜道を照らす中、りーんりーんと春の虫の音が響く。
 高い塀に囲まれた通りを行き、知らぬ名の門を潜り、知らぬ廻廊を通ったところで、苺苺は「あのう……東宮補佐官様」と宵世の後ろからおずおずと話し掛けた。
「わたくしの住まう水星宮でしたら、こちらの門ではなく、あちらの門を通ってまっすぐ進んで北側の、鏡花泉のそばにあるのですが……?」
「ええ。もちろん場所は存じております」
「でしたら、東宮補佐官様はどちらに向かわれているのでしょうか……?」
 苺苺はあやかし用の地下牢の場所が後宮のどこに位置するのかサッパリだったため、彼の道案内に疑問を持っていなかった。
 が、見知った通りに出たことで、ようやく彼が自分をおとなしく水星宮に帰すつもりがないと気がついた。
 苺苺は冷やりとしたものを感じて、固唾を吞む。
「『白蛇妃に滋養料理を』と、皇太子殿下より命を賜りましてございます。大変遅い時刻ではありますが、御花園の四阿(あずまや)に特別な夕餉をご用意いたしました」
「夕餉、ですか?」
「ええ」
 皇太子殿下不在の第一回目の選妃姫(シェンフェイジェン)において、審査員である皇后陛下と四夫人のそばに控えて進行役をしていた宵世は、苺苺を終始無視していた。
 苺苺の番になり詩歌を披露しようとすれば、一言目を発す間も無く、『もう結構です。次の方、お入り下さい』と宵世に部屋からの退出を告げられたのは記憶に新しい。
 それがどうだろう。
  今は終始丁寧な口調で対応し、優等生的な微笑みまで浮かべているではないか。
(いったい、どういった風の吹き回しなのでしょう? 今夜の夕餉は猫魈様と半分こする予定ですのに。まさか! 白蛇の刑が怪しいとバレ、て……!?)
 不安でドキドキと心臓の鼓動が増す。
(どどどどうやって切り抜けたらよいでしょうかっ)
「にゃぁお?」
 ご飯たくさん? と目を輝かせた猫魈が、鳥籠の中でおすわりをしながら首を傾げる。
「しーっです、猫魈様」
 苺苺は慌てふためきながら鳥籠を胸に抱き込んで、小声で猫魈に注意した。
「白蛇妃様、どうかなさいましたか?」
「い、いえ、お気遣いありがとうございます。ですがその、夕餉ならば水星宮でいただきますので、そちらに運んでいただければ、けけけ結構です」
(とにかくお断りを入れて水星宮に帰らなくては、わたくしだけでなく猫魈様も酷い目に合わせられ――)
 まるで思考を読んでいたかのように、妃の歩幅など考えずにスタスタと先を急いでいた宵世(ショウセ)が、ぴたりと立ち止まる。
 彼は静かに苺苺へ向き直ると、ニコリと作り笑いを浮かべた。
「白蛇妃様。白蛇の冠をいただく貴女様が、皇太子殿下のお慈悲を無下になさるおつもりで?」
「え!? いいえ、そんなまさかっ」
 まさか最下級妃が、皇太子殿下の命令逆らうつもりか?
 そう言外に聞かれているのだと察し、苺苺は慌てふためく。
 宵世はニコリと作り笑いのまま頷くと、何事もなかったかのように歩き出した。
貴姫(きき)様のお命を助けられたのです。本日ばかりは〝千年の冷宮〟で過ごされずとも、天罰は与えられぬでしょう」
 丁寧な対応ではあるが、宵世の物言いはどことなく不満そうで、刺々しく感じられる。
 千年の冷宮とは、最初の『白蛇の娘』が入宮した時に皇帝が読んだ詩の一節を抜き取った呼び名だ。
【在往後的千年、皇太子將再也不會有造訪白蛇娘子所居住之水星宮的時候了吧。】
『これより千年が経とうとも、白蛇の娘が住まう水星宮を皇太子が訪れることはないだろう』
というその詩の一節から転じて、『あやかしと交わった末に生まれた異能の娘として、冷宮で天罰を受けている』と揶揄する時に使われる。
 宵世もそう告げたいのだろう。
 彼の墨色の瞳は、明らかに苺苺を嫌悪している色を含んでいた。
 そんな宵世の様子に、苺苺はぴーんとひらめいてしまった。
(東宮補佐官様はこんなにもわたくしを嫌っておられるので、白蛇の刑の嘘がバレていたらもっと嬉しそうに報告なさるはずです。これほどご不満そうだということは……皇太子殿下がわたくしに夕餉を振る舞えと命じられたことに納得が言っていないから。つまり、なにもバレていないということですわ!)
 導き出した答えは、それはもう大正解に思えた。
 苺苺は『それならよかったです』と、ドキドキしていた胸をこっそりなでおろす。
(けれど、水星宮で夕餉を取るのは無理そうですわね……。それならどうにかお人払いをして、猫魈様と食事をするしかありませんわ)
「にゃーん?」
「大丈夫です、お任せください」
 苺苺は鳥籠の中の猫魈と視線を合わせ、静かに囁いた。

 宵世に案内されたのは広大な御花園の、東八宮側にある四阿(あずまや)だった。
 その中でも最も格式ある〝銀花亭(ぎんかてい)〟に誘うかのごとく、廻廊の灯篭(とうろう)に煌々と炎が灯されているのを見た苺苺は、「ほわっ」と奇妙な悲鳴を上げてから声を失った。
「なんて荘厳美麗な景色なのでしょうか」
 揺らめく炎の灯篭に照らされた白い花々の輪郭が淡く輝いている。
 花々にあらかじめ水滴が吹き付けられているからだろうか、光の雫がつるりつるりと滑る様子は仙界にでも迷い込んだみたいだ。
「……これも、皇太子殿下がご用意を?」
「にゃあぁ」
 鳥籠の中の猫魈は、ぬい様を前脚で捕まえながら小さく鳴く。
 あやかしである猫魈でさえも、この幻想的な廻廊には驚いたらしい。
(木蘭様をお助けしたお礼として、短時間でここまで準備をされるとは……。これぞ、皇太子殿下が心から木蘭様を大切になさっている証拠。ああ、木蘭様こそ至高……。わたくしも同じ気持ちです……!)
 二階建ての銀花亭へ続く階段の前に着くと、宵世は偽善的な笑みを浮かべて礼を取る。
「それでは白蛇妃様。案内を終えましたので、僕はこちらで失礼いたします」
「はい。ありがとうございました」
 どうやらこの先はおひとりでどうぞ、ということらしい。
(東宮補佐官様がいらっしゃらないだけで幾分か気が楽になりましたが、これから配膳や見張り番の女官の方がいらっしゃるのかもしれません。ううう、どう言ってお人払いをしましょうか)
 考えながら階段を登って、銀花亭に足を踏み入れる。
 銀花亭の名前は、この四阿の眼下に咲く金銀花(スイカズラ)に由来する。
 金銀花は立夏の頃から咲き始め、薄紅色の蕾は開花すると白くなり、受粉すると黄色の花に移り変わる。
 まさに後宮に上がったばかりの妃嬪が皇帝に見初められ、国を背負う皇子の母となるさまのようで縁起が良いとして、西八宮(さいはちぐう)側には〝金花亭(きんかてい)〟、東八宮側には〝銀花亭〟と名付けられた四阿が建築された。
 夜になると、金銀花のさらに甘い蜜を含んだ香りが四阿内に漂う。
 それがことさらに甘美で情緒たっぷりだとかで、ここで夜の逢瀬をするのが妃嬪たちの夢らしい。
 だが苺苺にとって、甘美な情緒なんてどうでも良かった。
(う〜〜〜っ。どうか、配膳の女官の他には誰もここへ来ませんように! 皆様すぐに帰ってくださいますように!)
 他の妃嬪が恋い焦がれるような皇太子殿下との逢瀬など、これっぽっちも脳裏に過ぎりはしない苺苺は、黒い漆塗りの円卓を囲んでいる椅子を引いて腰掛ける。
 続いて、猫魈が女官の目に晒されぬよう配慮しながら、隣の椅子に鳥籠を置いた。
「にゃあ」
「はい。白木蓮のいい香りがします」
 穀雨の今、金銀花が咲くまでは玉蘭(ぎょくらん)が見頃を迎えている。
 銀花亭内には白い玉蘭の花の、やわらかく優美な香りが漂ってきていた。
(ここの玉蘭は、皇太子殿下が寵愛する木蘭様のために植えさせたのだというお噂。貴姫である木蘭様は、もしかしたら日常的にここでお茶を楽しまれているのかもしれません。このお席に座られたこともあるやも)
「……と、いうことはここは聖地……?」
 苺苺は木蘭がかわゆくお茶をしている姿を想像して、赤く染まった頬を両手で抑える。
「ど、ど、ど、どうしましょう! 聖地を訪れるのには入念な心の準備が必要ですのにっ」
「にゃーん?」
「ええ、にゃーんでございます!!」
 鳥籠の中の猫魈の問いかけに、苺苺は身を乗り出しながら興奮気味に返事をした。

 そうこうしているうちに、宮廷料理の膳を持った女官たちが、ぞろぞろと四阿(あずまや)にやってきた。
 円卓には、見たこともないほど豪華な夕餉が次々に並べられていく。
 前菜には豌豆(えんどうまめ)を使った色鮮やかな翡翠豆腐と、花山椒ときゅうりの酢醤油あえなどのいくつかの冷菜。
 伝統的な蓋つきの器に盛られている清湯燕菜(ツバメの巣スープ)はまだ湯気が立っていた。
 主菜は魚翅蓋飯(フカヒレご飯)糖醋里脊(豚ヒレ肉の甘酢餡かけ)薑蔥炒龍躉(魚のネギ生姜蒸し焼き)
 點心(デザート)は最高級の銀耳(白きくらげ)蓮子(蓮の実)紅棗(ナツメ)枸杞子(クコの実)が入った銀耳蓮子紅棗湯。美容に良いと上級妃たちが好んで食べる、氷砂糖の優しい甘さが特徴の極上薬膳(スープ)だ。身体を芯から温めてくれる。
「すごいです、點心(デザート)まで……!」
 苺苺は円卓を埋め尽くす至極の料理の数々に、ほっぺたを緩ませる。
 お茶菓子に目が無い苺苺は、甘い湯物も大好物だった。
(女官の方は八人。むむ、多いですね。どうにかしてお人払いをしなければ……。どんな言い訳が良いのでしょうか)
 そろりと猫魈と視線を合わせた苺苺は、考え事をしながら女官達をおずおずと見やる。
 料理を並べ終わった彼女たちは、白蛇妃への給仕のために欄干のそばに控えて、なにやらヒソヒソ声で話し込んでいた。
「皇太子殿下に久しぶりにお会いできるかと思ったのに、白蛇の相手だなんて」
「迷惑よねぇ。私達だって忙しいのに」
「ここに立っているだけでも十分でしょう?」
「敬うべき相手ではないのだから給仕する必要もないわね」
「あら、給仕するふりをしてお皿を割ってやりましょうよ」
「ふふふ、いいわね。熱い湯で火傷でもしたらいいわ」
「これまで何百年も苦しめられてきた妃嬪たちの(かたき)よ」
「時間はたっぷりあるものね。給仕のしがいがありそう」
 その一人と、バチリと目が合う。
「……白蛇妃様、なにか御用でしょうか?」
「いえっ、ええっと」
(どうしましょう、どうしましょう、まだ言い訳を考えている途中でしたのに発言の順番が回ってきちゃいましたっ! 考えごとに没頭しすぎて会話の内容が全然聞き取れませんでしたが、皆様すごくイライラしたご様子で、こちらを睨まれていらっしゃいます……! なにか、この状況を切り抜けられる効果抜群な言葉はないでしょうか!? そう、先ほどの宦官の皆様方のように――ハッ)
 苺苺は閃いた。
 あの言葉しかない。なにがなんだかわからないが、あの言葉の出番だ。
「皆様聞いてください」
「なんでしょうか」
「い、今からあやかしさんに……『白蛇(しろへび)の刑』を執行します!」
 苺苺が告げた瞬間、女官たちの耳にはピシャァァァァン!と雷鳴が轟いたかのように聞こえた。
「し、しろっ、白蛇(しろへび)の刑!?」
「そんな、し、しし白蛇の刑ですって……!?」
「なんて恐ろしいことを考えるの!」
 女官たちは身を寄せ合い、やはりそれぞれの想像を巡らせて震え上がった。
「こちらのお人払いをしていただかなければ……」
 ドキドキと緊張感で胸がいっぱいの苺苺は、できるだけ場の雰囲気を盛り上げるような――恐怖を煽るような表情を作る。
「な、なに?」
「なんなの!?」
「――間違って、巻き込んでしまうやもしれませんんんんん!」
「ひ、ひいぃぃぃぃぃぃいっ!!」
「ごごご御前を失礼いたします〜〜〜っ!!!!」
「わっ私どもはこれにてぇぇぇぇぇぇええ!!!!」
「朝方片付けに参りますので、心ゆくまでお使いくださいぃぃぃぃぃぃ」
 女官たちは一斉に顔を真っ青にして飛び上がった。そして転げ落ちるように銀花亭の階段を駆け下りていき、足をもつれさせながら逃げていく。
 ここへ来た時の優雅さはかなぐり捨て、我先にと、とにかく苺苺から離れることに必死だった。
 苺苺はあまりの様子にポカンと唇を開いたまま固まる。
「皆様の考える『白蛇の刑』とは、一体なんなのでしょうか……?」
「にゃー?」
「わわっ、もうあんなところに。皆様とってもお元気ですね」
 苺苺は『白蛇の刑』という謎の言葉の威力を再び思い知るとともに、一難乗り越えたことにほっと胸をなでおろす。
(心臓がいまだにドキドキしています)
 けれど「ひぎゃぁぁっ」という悲鳴が遠くの方に消えていくにつれて、だんだんとその鼓動も治まっていくのがわかった。
「……ふう、一件落着です。さてさて、それでは気を取り直しまして」
 苺苺は額を手の甲でぬぐう。
 それからパッと明るい表情に切り替えると、両手を合わせてパチンと一拍して空気を整えてから、隣の椅子に置いていた鳥籠の扉を開いた。
 封印が解かれたあやかし捕り物用の鳥籠から、猫魈がぴょんっと飛び出す。
 ちょっと見たところでは三毛猫にしか見えないが、その尾は猫のあやかしらしく付け根から三つに分かれている。
 ふわふわの三本の尻尾がふりふりと上機嫌そうに振れるのを見て、苺苺はほっこり頬を綻ばせる。
「わたくしの考える『白蛇の刑』、その一は美味しいお食事です」
「にゃぁん?」
「ええ。まずは食事をたくさんとって、住処に元気にお戻りくださいね。ではでは、木蘭様と木蘭様推しの皇太子殿下に感謝を捧げていただきましょう!」
「にゃー!」
 円卓に並んだ豪華な料理を取り分け、「いただきます」と食前の挨拶をする。
「うぅぅ、美味しいです……! もちもち濃厚な翡翠豆腐が、身体に染み渡ります……!」
「なぁぁぁん」
「猫魈様、清湯燕菜(ツバメの巣スープ)はいかがですか? 久しぶりのお食事ですから、最初は胃に優しいものからとお皿に盛らせていただいたのですが」
「にゃう、にゃう」
「そうですか、良かったです。遠慮なさらずどんどん食べてくださいっ」
「にゃんっ」
 一人と一匹は大いに盛り上がりながら、美味しい宮廷料理に舌鼓を打った。
 しかし、それから四半刻も経たないうちに、一足先にお腹がいっぱいになった苺苺は、「ごちそうさまでした」と食後の挨拶で締めてから、もぐもぐと小さな牙のある口を動かす猫魈を眺める。
「ふふっ、もりもり食べててかわゆいです。……そうですわ、せっかく聖地に来たのですから、この貴重な光景と木蘭様への想いを刺繍で記録しなくては!」
 先に食事を終えた苺苺は自分の周囲を整え、袂からサッと簡易裁縫箱と円扇を取り出す。
「にゃむ?」
「ええ。これぞ、木蘭様の聖地に巡礼した者だけが得られる、極上の時間です」
「にゃーん」
「にゃーんですっ」
 銀糸を通した刺繍針を手に持った苺苺は、銀花亭でかわゆく微笑む木蘭様を思い描きながら、絹地に刺した木蓮の花に光を纏わせていく。
 銀花亭には、猫魈がむしゃむしゃと夕餉を頬張る音と、苺苺の刺繍糸が絹地を滑る音だけが響いている。
 ――かのように思えていたが。
「くくっ……。君はなにをしているんだ。もしかして、夕餉が口に合わなかったのか?」
 いつの間にやら、仮面で顔を隠した青年が銀花亭の柱にもたれるようにして立っていた。
 見えている部分は少ないが、すっと通った鼻梁や口元の骨格から彼の美貌は十分にうかがい知れる。
 武官のような出で立ちのその美青年は、『面白いものに出会った』とでも言いたげな笑みを艶やかな唇に浮かべると、
「にゃーん、とは?」
と心地よい玲瓏な声を響かせた。
「ひゃっ!」
「にゃっ!」
 刺繍と食事に集中していた一人と一匹は、その場で肩を震わせぴゃっと飛び上がる。
 猫魈は自分の置かれている立場を理解しているのか、脱兎のごとく円卓の上から逃げ、武官に見つからないように小さくなって隠れた。
(おおお音もなくこんな近くに……! ま、まさか恐ろしい女官の方のお仲間でしょうか!?)
「な、なにやつですっ」
 苺苺は刺繍針の先をビシッと青年に向ける。
 鼻から上が隠れているお面のせいで顔の表情はわからないが、美青年は針の先に――異能持ちと噂の『白蛇の娘』が向ける武器に怖がる様子も驚いた様子もなく、苺苺のそばに足を進める。
(……足音がしません)
 重心移動が上手い武官は総じて手練れなのだという父の言葉が、苺苺の頭をよぎった。
「なにやつとは失礼な。俺は(リン)()……ごほん。ただの武官です。皇太子殿下の命を受けてここへ来ました」
「こ、皇太子殿下の武官様でしたか」
 となると、禁軍の独立部隊とも称される青衛(せいえい)禁軍に属する――東宮侍衛を行う、由緒正しき血筋の精鋭武官だ。
 緊張気味に刺繍針を下ろした苺苺は、目の前に立つその武官の青みが強い黒髪に気がつき、はっと我に返って最上級の礼を完璧にとる。
「高貴なる春宵(しゅんしょう)明星(みょうじょう)にご挨拶いたします。皇太子殿下より白蛇(はくじゃ)の冠を賜りました白家当主が娘、苺苺でございます」
 明け方の黎明(れいめい)、あるいは黄昏(たそがれ)の夜空のような青みがかった黒髪は、悪鬼を封じる力を持つ燐家特有のものだ。
 普通は皇太子となる公子様に宿るそうだが、稀に先に生まれた公主様にも受け継がれる場合があり、臣籍降嫁の関係で貴族の家にもごくごく稀に青みを帯びた黒髪の持ち主が生まれるという。
 闇夜の中では判別しにくいが、灯籠の光に透けて色鮮やかな濃紺が目に入り、苺苺は一瞬言葉に詰まった。
(彼はきっと、皇帝陛下に近しいお方)
 以前、木蘭様と共に実家を訪れた朱家の佩玉(はいぎょく)を持つ般若護衛より、彼の方が燐家に近しい血筋を引いているに違いない。
 その証拠に、目の前の彼は堂々と苺苺の礼を受け取ると慣れた所作でそれを制し、「どうぞ楽に」とこちらへ告げた。
 どうやら推測と違わず彼は九華の出身であり、それも白家の長姫の苺苺よりずっと身分の位が高い血筋にあるらしいことが、その一連の動作で理解できた。
(お名前をお教えしてはくれそうにありませんね。相当高貴なお血筋の方なのやも)
 警戒心を強めるに越したことはない。
 こちらへ歩み寄ってきた武官を、苺苺は礼を解きつつそっと上目遣いで観察する。
 あの時、すぐに猫魈が彼から見えない位置に隠れてくれて良かった。宦官や女官に通じた『白蛇の刑』の言葉も、この武官には効きそうにない。
(よくよく見ると被られているのは悪鬼面のようです。仮名として悪鬼武官様とお呼びいたしましょう。それにしても、皇太子殿下の直属の方は皆様悪鬼面を被られているのでしょうか? 後学のためにもお伺いしてみませんと)
 なんて考えながら、じーっと観察し過ぎていたのがバレたのだろう。
 悪鬼武官は首を捻ると、これまた慣れた様子で「発言を許す」と鷹揚に口にした。
 苺苺は白家の姫として、正しくお辞儀で(いら)える。
「ありがとうございます。ご質問なのですが、武官様のそちらの悪鬼面は、」
 問いかけようとしたところ、『白蛇の娘』の針にも怯まず堂々と立ち振る舞っていた悪鬼武官が、ピシリと音を立てたように固まった。
 けれどそれを背筋を伸ばしただけと捉えた苺苺は、そのまま言葉を続ける。
「皇太子殿下の直属武官の証でしょうか? 皆様被っておられるのですか?」
「いや。これは、その……」
 歯切れの悪い返事をした悪鬼武官は、表情は見えなくとも『しまった』という雰囲気をしていた。
 どうやらこの貴人の繊細な部分を突いてしまったらしい。
 そう気がついた苺苺は「はっ」慌てて口元を覆う。
(やってしまいました。どうしましょう、なにやら困惑されているご様子。なんだか逆に怪しくも感じてしまいますが、なぜそんなに困惑されて――)
 思考を巡らせていると、ハッと脳裏に、【女官もすなる推し活といふものを、文官もしてみむとてするなり】の冒頭から始まる有名な日記文学小説、『尊さ日記』を思い出す。
 入宮前に後宮の推し活を知りたくて読んだその内容は、後宮で流行中の文化に憧れた文官がこっそり皇帝陛下の推し活をする、時々くすりと笑えてほろりと泣ける楽しいものだった。
 女官は妃嬪応援活動を嗜み、その威を借りてある意味堂々と代理戦争を行っているが、官吏にその風潮はなく、今は隠さねばいけないらしい。
 そのため『尊さ日記』の作者は古語を使い、女人の言葉遣いでもって皇帝陛下の推し活をする日常をしたためていた。
(――はっ。ということはつまり、この方は世間の風潮を鑑みた上で、皇太子殿下を推されているお気持ちを悪鬼面でもってこっそり表現なさっているのですね!? 市井では演劇一座の役者さんの衣装を真似て仮装をしたり、女装や男装をしたりして推し活をなさる方もいらっしゃるとか。悪鬼武官様のお立場でしたら、有事の際には身代わりにもなれます。なんと粋な推し活でしょうっ)
「素晴らしいです!」
「は?」
「わたくし絵姿でしか皇太子殿下をお見かけしたことはございませんが、重厚な素材感、色彩など、どれをとっても圧倒されます! そして年代を経てついた細かな傷への心遣い、ひとつひとつへの深い解釈の滲む再現……尊敬いたします!!」
「は、はあ……。ありがとう、ございます?」
「わたくしも推し活をする者として、より一層励まなくてはいけませんね」
(木蘭様……今頃何をなさっているでしょうか。健やかにお過ごしであればよいのですが)
 苺苺は頬に手を当て、ほうっと感嘆のため息を吐く。
「なにを言っているのか少しもわからないが、とりあえず良かった」
 悪鬼武官は苺苺が自己解釈で勝手に疑問の答えを導いてくれたことに、こっそりと安堵した。
 彼は苺苺が頬に当てていた手へに吸い寄せられるように己の手を伸ばすと、そっと優しくすくい取る。
 心ここにあらずの状態だった苺苺は「ひゃっ」と驚きの声を出し、蛇に睨まれたかのごとくかちこちに固まった。
 白蛇はそちらだろうに。
 そう心の中で思いつつ、悪鬼武官は艶やかな口元をふっと緩める。
 だが、その唇はすぐに閉じられた。
 手巾(ハンカチ)で簡易に包帯が施されたていた苺苺の左手のひらは、赤黒い血が付着していた。
 今もなお出血が止まっていないのか、赤い鮮血も滲んでいる。
「……やはり怪我を」
「これはその、しょ、諸事情で、自分で切ったのです」
(あやかしさんに対抗するために異能の血が必要だったので、とは言えませんっ)
「痛くはないのですか」
「へ? そうですね、そう問われると少し痛いのですが」
「……そうですか」
 悪鬼武官の声が心なしか沈んでいる。
(なぜこの方がこのように意気消沈されているのでしょう?)
 苺苺ははて?と首を傾げて、「ですが」と続ける。
「大切な方をお守りできた、名誉の傷ですので」
 道術を操る恐ろしい女官の毒牙から木蘭を助けることができたのは、この傷を負ったからだ。
 戸惑いもなく全力で(はさみ)の刃を立てたので、ズキズキした痛みは時間が経つに連れ増している気もするが、それよりも木蘭を助けられた幸福感で胸がいっぱいというのが今の気持ちだった。
 苺苺は尊すぎる木蘭のかわゆいお顔を思い浮かべて、大輪の花がほころぶような微笑みを浮かべる。
「――――っ」
 悪鬼武官はその笑みを真正面から受けて、小さく息を呑んだ。
 彼は『なにか見てはいけないものを見てしまった』と言わんばかりに唇を真一文字に引き結ぶと、懐から咄嗟に取り出したものを開いて、ふわりと、苺苺の表情を隠すように頭上から被せた。
「わわっ!」
「っ、外さないでくれ」
「ええっ?」
「それからこれは、謝罪の品として受け取っておいてください。背中の打撲傷にも良く効きます」
 視界不良になった中、苺苺の手のひらに冷たい感触の硬質ななにかが握らせられる。
「えええっ!?」
「なんと言えばいいのか。その、……礼を言う。――ありがとう」
「あっ、お、お待ちください――!」
 苺苺はわたわたと慌てながら頭上から被せられた広い布を引っ張り、悪鬼武官に問いかけようと顔をあげる。
「背中の打身をなぜご存知で……って、いらっしゃいません」
 拓けた視界には、もう誰もいなかった。
 きょろきょろと辺りを見回すも、人影すら見当たらない。
 静けさを取り戻した銀花亭には、木蓮の香りが先ほどより濃く香っていた。