「失礼いたします。白蛇妃様はいらっしゃいますでしょうか」
 水星宮の扉を叩く音が聞こえる。寝台の上で数多の木蘭ぬいぐるみに埋もれて眠っていた苺苺は、「ハッ」と飛び起きた。
(徹夜でぬい様を製作しているうちに、いつの間にか意識を失っていました……。ああでも、たくさんのぬい様に囲まれて眠ったおかげか、睡眠時間は短いはずなのに超回復している気がします)
「ふっふっふ、まるで禁断の仙薬をキメた気持ちです!」
 苺苺は寝ぼけた頭でおかしなことを口走る。
「もし。水星宮の女官の皆様? いらっしゃいませんか?」
「は、はい、います! 少々お待ちくださいませ!」
 窓の外を見るに、尚食局の女官が来る時間にはまだ早い。
(後宮の朝餉はほとんど昼餉という感じですものね)
 そう思っているのは実は苺苺だけなのだが、彼女はそれを知らない。
 苺苺の朝餉が遅いのは、尚食局の女官たちが互いに仕事を押し付け合っているためである。それで朝餉の時間が終わるギリギリの頃に、冷め切った御膳を持って、嫌々ながらしぶしぶやってくるのだ。
(どなたでしょうか? この声、どこかで聞いたことのあるような、ないような……? と、その前に着替えなくては)
 苺苺は慌てて寝台を降り、簡素な衣装に手早く着替えて、扉を開ける。
 そこには昨日見た顔があった。朱色を基調とした衣をまとった、木蘭付きの上級女官だ。
「白蛇妃様……?」
 上級女官は出てきたのが妃本人だったことに驚いた様子で一瞬ぽかんとすると、すっと礼のかたちを取った。
「前触れも出さずに突然のご訪問、申し訳ございません。私は(シュ)貴姫(きき)の女官を務めております、侍女頭の(シュ) 若麗(ジャクレイ)と申します」
(皇帝陛下の後宮では〝貴妃(きひ)〟に相当する貴姫の冠をいただく最上級妃、木蘭様の上級女官……。それも、木蘭様と同じ血筋の)
 瞠目した苺苺は、無礼に当たらぬよう即座に礼を取る。
「朱家の姫君、若麗様にご挨拶いたします。白苺苺でございます」
 家格を差し引いても、妃と女官という立場から身分は同等か。
 いや、現皇后陛下の縁者なのだからやはり彼女の方が上になる。
(それに朱家の若麗様と言えば『月琴(ゆえきん)の名手』と名高い、朱州を治める朱家当主の三の姫に違いありません。確かお祖母様は朱家に臣籍降嫁された公主様で、若麗様自身も現皇后陛下の(めい)御様に当たる高貴な血筋の姫君です)
 もしも木蘭が後宮に上がらなければ、現在十八歳の若麗が後宮に上がり貴姫となっていただろう。齢六歳の木蘭と比べて、皇太子殿下との年齢も近く遥かに釣り合いが取れている。
 だがそうならなかったのは、幼い木蘭の方が彼女よりもさらに朱皇后陛下に近しい存在だったからなのかもしれない。
「まあ、苺苺様。今の私めは一介の女官、本当に気にしないでください。どうか若麗とお呼びくださいね」
 若麗は苺苺に気を使わせぬようにか、優しく微笑みながらそう言った。
 苺苺を忌避している様子はまったくない。
 物腰も柔らかく、話していると〝姉〟のような親しみやすささえ感じられる。
(先ほどまでのように『白蛇妃』ではなく、あえて『苺苺』とわたくしの名前を呼ばれたのは、妹妹(メイメイ)と音を同じくされたのやも。偏見がなく、洒落っ気(ユーモア)に溢れた親切な方なのでしょう)
 苺苺の中の若麗の存在は、一瞬にして『木蘭様付きの信頼のおける女官』にまで爆上がりした。
 人との会話、それも木蘭関連の話に飢えていた苺苺は、うずうずが抑えきれなくなる。
「わたくしったら、お客様にお茶もお出しせずに申し訳ありません。ささ、お上がりくださいませ」
(若麗様は、尚食局の女官の方と伝令の宦官の方以外で水星宮を訪ねてくださった、初めてのお客様です。張り切っておもてなしをしなくてはっ)
 こうして苺苺は期待できらきらと目を輝かせながら、紅玉宮で暮らす木蘭の可愛いこぼれ話など聞きたさに若麗を部屋の中に招き入れたのだった。

 円卓の前にあるひとつしかない椅子を若麗に勧め、それからいそいそと湯を沸かす。
 お茶菓子はないので申し訳ないが割愛し、苺苺は水星宮の女官さながらにお茶を出した。
「こちら、野苺の葉で淹れました薬草茶です」
「の……野苺の葉の、お茶でございますか?」
「はいっ」
 実家ならば『お嬢様がお茶を、それもお手製の野草茶(・・・)を出すなど言語道断』と彼女付きの侍女に咎められそうな光景だが、ここに苺苺の侍女はいない。
 若麗に至っては女官という立場から妃にお茶を、それも得体の知れない野草茶を振舞われたことに目を丸めて驚きつつも、水星宮の主のもてなしを断ろうなどとはしなかった。
 どちらもお人好しなのである。
「水星宮の庭園にて、わたくしが手塩に掛けて育てている最中なのです」
 苺苺はやや照れた表情をしながら胸を張る。
 茶葉は定期的に各妃嬪に下賜されると聞いていたが、まだ一度も届いていない。
 実家へ茶葉を送ってくれるように手紙を書こうかとも思ったが、王都から遠い白州との距離を考えると、野草や薬草で自作した方が早かった。
水色(すいしょく)はかの十三大銘茶のひとつ、君山銀針(くんざんぎんしん)を思わせる色合い。味わいはスッキリと爽やか……。舌先にほのかに残る甘みは絶妙で、一度飲んだら忘れられないこと間違いなしです!」
「た……確かに、一度飲んだら忘れられないかもしれません」
 若麗はお茶の水面を見つめてから、わずかに緊張気味な愛想笑いを浮かべる。
「いただきます。………………あっ、美味しい」
 恐る恐るという様子で茶碗に口をつけた若麗だったが、ひとくち飲んでから口元を隠し、感嘆の声を上げた。
「ふふっ、お気に召していただけてよかったです。薬草茶ですから、健康に良い効能もあるのですよ」
「そうなんですか? 例えば、どのような効果があるのでしょう?」
「ええっと、そうですねぇ。主に美容効果と消化器系の不調改善効果でしょうか。お肌を若々しく保つために必要な成分が含まれていたり、むくみをとったりできるそうです。健康面では健胃薬としての作用や、腎臓や肝臓の調子を整える効果もあります」
 利尿作用や浄化作用が強く、腎臓機能不全にも効果があるらしい。
 消炎鎮痛作用もあることから、どこに毒が仕込まれているかわからない後宮で飲用するにはもってこいかもしれない。
「まあ、そんな効果が」
 苺苺が丸暗記していた効能をすらっすらと説明すると、若麗は驚きに目を丸めながら茶碗を見つめた。
「けれど薬草とは時に毒にもなります。ですので、細心の注意を払って丁寧に天日干しをした葉だけをお茶として使用しています。じっくりと焦らずお日様の光を吸収させるのが、野苺の葉茶の良いところを引き出す秘訣なのです」
「なるほど。この爽やかな甘みはお日様が育てた味ですのね」
「はい」
 白州では伝統菓子『白雪月餅』のために庭先で野苺を栽培している家庭も多い。
 そのため幼少時より親から口を酸っぱくして伝えられるのが、『銀狐(ぎんこ)童歌(わらべうた)』だ。
戀慕公主的銀狐(姫に懸想す銀狐)化身為藥師(薬師に化けて)後偷取了(野苺の葉を)野苺的葉子(盗ったとさ)
 不知道桃仁的(とうにん知らぬ)銀狐(銀狐)將其熬煮(それを煎じて)嗚咽有聲(こんと鳴く)
 還不夠成熟的藥師(未熟な薬師の)銀狐(銀狐)使公主將其喝下(姫に飲ませて)嗚咽有聲(こんと鳴く)嗚咽有聲(こんこんと鳴く)嗚咽有聲(こんと鳴く)
(野苺の葉は腐敗する過程で(こうじ)を生み、葉に含まれていた成分と結びつくことで毒になります)
 葉に含まれる成分は、生薬として使用する桃仁、杏仁、枇杷仁がしっかり乾燥していない時に生じる毒と同じだ。
 しっかり乾燥させていない桃仁、杏仁、枇杷仁を体内に取り込んだ際に急性中毒が発生し、場合によっては死ぬこともある。
 童歌は桃仁と同じ毒が、しっかり乾燥できていない状態の野苺の葉にはあると示している。
 銀狐はそれを知らなかったので、病床にあった姫に薬湯として丁寧に献献と飲ませたが、多量の毒で昏睡状態になった。婚姻を結ぶ予定だったが姫はとうとう待ち合わせの場所には来ず、銀狐はひとり悲しみに泣いたという……薬草を取り扱う際の教訓を伝える歌だ。
(わたくしもより一層、常日頃取り扱いに気をつけなくては。幼い頃は自分でこっそり煎じて失敗してしまい、それはもう大変でした……)
 野苺好きがこうじて初めて作った、野苺の薬草茶。
 たっぷりの果実を入れて飲んだ時のあの味は、いまだに忘れられない。
『美味しい』とごくごく飲み干したものだが、後から思えばあれこそが〝有毒茶〟だった。
(あの強烈な手作り茶事件以来、乾燥が上手くいかなかった薬草茶は見た目と匂いだけでわかるようになってしまいました。特技といえば聞こえがいいですが、もうこりごりです……)
 苺苺は蓋つきの茶器の中の澄んだ水色を見つめる。
 本日の茶葉は惚れ惚れするほど香りが良く、黄茶のごとく健康的な色合いだ。美味しいだけでなく、薬草茶の名に恥じぬ効果が期待できるだろう。
 若麗はしばし考えるような仕草を見せると、「苺苺様」と円卓に茶器を置いて居住まいを正した。
「こちらの薬草茶を少し分けていただくことは可能でしょうか? 先ほどの効能を聞いて、木蘭様に体調がお悪い時にお出ししたいと思いまして……」
「む、木蘭様にですか?」
「はい。できましたらで構いません。手作りともなるとお大変でしょうし――」
「いいえ! まあ、まあ、ぜひっ!」
 若麗の頼みに、苺苺は食い気味に身を乗り出す。
「木蘭様にわたくしの作ったお茶を飲んでいただけるだなんて、感無量です……!」
 そしていそいそと木蓮を刺繍した巾着を取り出し、その中に手作り茶葉を分けて入れた。
「こちらの葉茶は冷え込んだ日などにお出しするのは控えられてくださいませ。胃腸が冷えすぎてしまいますので」
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ、木蘭様のためなら朝飯前でございますわ」
 ふたりはその後もお気に入りの茶葉の産地や、摘み取り時期による味わいの違いなどを語らいながら親睦を深めると、しばし和んだ。
 木蘭様のお茶の好みなどを聞いて、舞い上がっていた苺苺はしばらくして「ハッ」と現実に帰る。
「そういえば、どうして若麗様がこちらに?」
「そうでした。こちら、苺苺様宛に木蘭様がしたためた文にございます」
「まあ! 木蘭様からの文!? さっそく額縁に入れて家宝にいたしますわ!」
 苺苺は若麗から受け取った文を、胸にぎゅうっと抱きしめる。
「苺苺様!? まずはどうかご一読御くださいませ」
「はっ。わたくしとしたことが、つい高ぶってしまいました……」
 木蘭が白州の実家に訪問する際に届いた文は、その痕跡を消すために、父がすべて燃やしてしまった。なので、『推し直筆の文は燃やされる前に全部保存しておきたい欲』が、人前にも関わらず暴れてしまったのである。
「な、なんと書いてあるのでしょうか……?」
「文の内容は確認しておりませんので、私にはちょっと」
「そうなのですね。ああ、なんだかドキドキして手に汗握ってしまいますわ。……すーぅぅ、はーぁぁぁ。……よ、読みます」
 深呼吸をして、浅く早かった呼吸を整えてから、上質な手触りの紙を広げる。
 苺苺はそこに記された内容を見て、「えええぇぇ!?」と素っ頓狂な声を上げたのだった。

 若麗を見送った後。
 苺苺は本日も遅めにやってきた朝餉を食べ、急いで身支度を整えた。
「大変です、大変です、これは大変なことになりました……!」
 苺苺は衣装箪笥から一張羅(いっちょうら)の白衣の大袖を取り出す。
 これは皇太子宮に上がった初日に着た〝白蛇の白衣〟だ。白州の上質な絹を特殊な針と異能を使って自ら縫い上げ、金糸を使って蛇の鱗のような刺繍を施した破魔の装束である。
「ままままさか、木蘭様の宮にお呼ばれされるとは。夢のようです……!!」
 推しである木蘭様が――最上級妃が開くお茶会に呼ばたのだから、散策時のような気軽な襦裙(じゅくん)で伺うことはできない。
 鏡の前で薄く化粧をしてから着付けを終えると、最近は手慣れてきた髪結いに取り掛かる。
 長い白髪の半分を結い上げたら、三つ編みした髪の束を輪っかになるように左右に下げ、残りの髪は後ろに垂らす。結った部分にいくつかの簪をさしたら完成だ。
 大きく長い袂にはいつもの簡易裁縫道具を忍ばせる。
 さらに、徹夜で作ったくさんのぬい様を藤蔓(ふじづる)で編んだ籠の中にせっせと全部詰めて、早足で水星宮を出た。
 そして昼下がりの今――苺苺は木蘭の住まう紅玉宮に来ていた。
 苺苺は紅玉宮の侍女頭である若麗に案内され、瀟洒(しょうしゃ)な調度品で揃えられた客間に通される。
 水星宮の十倍は広いその部屋には、雛鳥のように可憐な真赭(まそお)色の衣装を着た木蘭が待っていた。
 彼女はいつものように、濡羽色の黒髪を鬼の角のようなお団子に結い上げ、残りの長髪を背に垂らしている。上質な薄絹で織られた髪飾りがお団子の下でふわふわと揺れている様子は、春の妖精のようですこぶる可愛らしかった。
「白家の姫君。(わらわ)の宮にわざわざ来てもらってすまない」
「皇太子殿下の寵する可憐なる玉蘭(ぎょくらん)、貴姫様にご挨拶申し上げます。こちらこそ、本日はお招きいただきありありがとうございます」
「ああ。格式張った場ではないので、どうか楽に過ごしてほしい」
(ふぁぁあっ! 本日も大変お可愛らしいです、木蘭様……! それに、なんだか良い匂いがします! これは紫木蓮の花の香り……っ。きっとお庭で手ずから育てられた紫木蓮を、毎日頑張って花瓶に活けられているのですね。おもてなしのお気持ちのこもった、素敵なお部屋です!!)
 幼い彼女の完璧な気遣いから『木蘭様の一日』の妄想が捗り、苺苺はぱぁぁっと、とろけるような笑顔を浮かべながら答える。
 対して、昨日よりもいくらか顔色の良い木蘭は、しゅんとした様子で頭を下げた。
「あやかしから守ってくれたこと、誠に感謝している。あの時は妾の力が及ばず、不敬な宦官たちの手による投獄を止めることができなくて申し訳なかった」
「そんな、頭をお上げください。もう本当に、あの、胸がいっぱいです……っ」
 苺苺は大好きな木蘭の前で頑張って取り繕っていた。が、初めて推しの宮に招待された緊張と興奮で頭がどんどん混乱してきて、段々とわけがわからなくなってきていた。
 胸が熱くて、目がぐるぐると回る。
「白家の姫君」
「ど、どうか苺苺とお呼びくださいまし!!」
「では、苺苺と」
(はうぅぅ! 木蘭様に名前を呼んでいただけるなんて、わたくしもう天に召されようとも構いません……っ)
 勢いで『後宮へ上がる以前より、ずっとお慕いいたしております!!』と口走り言いそうになるのをぐっと堪えて、真っ赤に染めた頬を隠すように円扇で顔を隠す。
「……っ! その、木蘭様にお怪我なくて何よりでした。昨日はあれから大丈夫でしたか?」
「ああ。妾の心配よりも、苺苺の方だ。宦官に打たれ、縄をかけられて投獄されたというのに……。怪我の具合はどうなんだ? 流血もしていただろう」
「怪我は……す、少し、青あざになった程度でしたので、ええ、その、すぐに治ると思いますわ! 切り傷もいただき物の傷薬を塗ったので、それほどっ」
 苺苺は紫木蓮の両面刺繍が鮮やかな絹の円扇で顔を隠しながら、幼い姫君を心配させまいと嘘をついた。
 本当のところは、昨晩ひとりになった途端に緊張の糸が切れたせいか背中がズキズキと痛んで、湯浴み中もかなり沁みたところだ。お風呂あがりに鏡で見たところ、青あざもひどかった。
 糸切り鋏で切った手のひらの肉はぱっくりと開いてはいたが、塞がり始めた部分もある。
 まだ少し血が滲んでいたので、ここへ来る前に包帯を取り替えてきた。
(わたくしが自分で飛び込んだのですから、幼い木蘭様には余計な心配や責任を感じてほしくありません。怪我が目に触れぬよう、念入りに気をつけねば)
 苺苺は大袖から指先以外が出ないように所作に注意する。
 悪鬼武官からもらった軟膏を塗ってからは格段に良くなってきている気がするので、もうしばらくの辛抱すればこれらの痛みも和らぐだろう。
「だったらいいが……。昨日からずっと苺苺の体調が心配で仕方がなかった。痛ければすぐに言うように。妾が皇太子殿下に(ことづ)けておく」
「お気遣いくださりありがとうございます」
 会話がひと段落ついたところで、紅玉宮付きの女官たちが部屋へ入室し、お茶や茶菓子を円卓の上に並べていく。
 木蘭はそれを見届けると、「皆、退がるように」と筆頭女官の若麗とともに全員を退出させた。
 六歳の幼妃であるが、見事な主人っぷりだ。
「――それで、本題なのだが」
「はい。内密のご相談があるのでしたよね」
 そうなのだ。文には紅玉宮付きの女官にも内緒で、『白蛇の娘』の異能を頼りたいとあった。そのために『白蛇の娘』の正装と、形代となるぬいぐるみたちを持参したわけである。
「以前、白州に伺った時のことは」
「……申し訳ありませんッ!! 昨日のことのようにしっかりと覚えております! 一言一句忘れられませんでした!」
 木蘭様は『忘れてくれ』とおっしゃいましたのに、と苺苺は白状する。
 しかし木蘭は怒ることなく、
「そうか。内密にしてくれたのだな。恩に着る」
と新春に花が綻ぶような、やわらかな微笑みを浮かべた。
「あっ、あっ、あっ。尊みが深いですっ」
(そんな、当然のことですわ)
 苺苺は淑やかな笑みを浮かべる。推しの摂取過多で、本音と建て前が反対になっているのには気づいていないらしい。
 木蘭は内心、『尊みが深い? とは?』と首を傾げる。
「朱家の両親から届いた茶菓子だ。食べながら話そう」
「はい。いただきます」
 勧められた皿には、桃花の塩漬けを練りこんである鮮やかな桃色をした桃花月餅(とうかげっぺい)と、鮮やかな鶯色をした緑豆糕(青小豆の落雁)が盛りつけられていた。
 どちらも春らしい色合いをしていて、宝石のごとき佇まいにうっとりしてしまう。
(ああ、ふたりきりでお茶会だなんて、心臓がいくつあっても足りないです……っ)
 苺苺は舞い上がるような気持ちで、勧められた茶菓子を手に持った。
 そして照れ隠しにひとくち食んで、
(……あら?)
と目を丸くする。
 さすが紅玉宮のお茶菓子だ。桃花を型どられた月餅は、選りすぐりの材料で作られているのだとわかる上品な甘さとほどよい塩加減がして美味しい。そう、確かに美味しいのだが……。
 なぜだか飲み込むたびに、ずくりと胸が痛くなる気がする。
(毒味の女官の方はいらっしゃるはずですし、毒ではないでしょう。となると……これは、まさか)
 代々『白蛇の娘』に受け継がれている書物の内容を思い出す。
(――だとしたら、木蘭様の身体が心配です)
 早急に対応しなくては。
「今回相談したいのは、その時に話した呪詛の件とは別になると思うのだが……最近、まったく眠れないんだ。不眠症というのだろうか」
「眠れない……。他にはなにかありますか? たとえば、身体のどこかが痛む、というような」
「ああ。清明節の二週間ほど前からだろうか、内側から胸が痛む。食事を摂ると胃が引きつるような感じもして……」
「……やっぱり」
 苺苺の予想は確信に変わってしまった。
(幼い木蘭様になんという仕打ちを)
「その症状が時々、消えることがあるのだ。大抵、妾が外に出た日なのだが……昨日は特に顕著だった。この症状は病ではなく呪詛で、苺苺が異能を使って祓っているのだろう?」
 木蘭は確信に満ちた様子で問う。
 苺苺はビクッと肩を震わせると、罪人のようにしゅんと俯いた。
「はい。木蘭様の言うと通り、わたくしの異能です……。まことに勝手ながら、木蘭様をお守りするために異能を行使しておりました。許可なく勝手をしていた罰は受けますわ」
 木蘭様をもう全力で推せないかもしれない未来に震えながら、「どうぞ、煮るなり焼くなりいたしてください」と深く頭を下げる。
「なぜそうなる。妾は苺苺に感謝しているのだ」
「え?」
「苺苺のおかげで、妾はこうして今も生きている。……礼を言う」
「あっ、あっ」
 苺苺は感動のあまり、だばーっと涙を流した。
 バレたら大変だと思っていた推し活が、まさか、まさか感謝されるだなんて。
「ううっ、ぐすっ……。これからもわたくし、木蘭様を悪意からお守りするために全力を尽くして参ります……! 配慮は最大限に、ですが、もう遠慮はいたしませんわっ!!」
 苺苺は袂から簡易裁縫道具を取り出して円卓の上に置く。
 そして、持ってきていた藤蔓の籠から布を外し、その中身の物も遠慮なく円卓の上に並べた。
 玉匣(ぎょっこう)に入った裁縫道具、海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)に似た八花形(やつはながた)の白銅鏡、朱塗りの銘々皿、絹の円扇にぬいぐるみと、木蘭からして見れば繋がりのわからないものばかりだ。
 いや、絹の円扇とぬいぐるみだけはわかるか。
 見事な紫木蓮の刺繍と木蘭によく似た人形……とくれば、これが自分に関連付けられるものだということくらい理解できた。
「これは『白蛇の娘』に代々伝わる〝白蛇の神器〟というものです。こちらから『白蛇の鱗針(りんしん)』、『白澤(はくたく)八花鏡(やつはなかがみ)』、『龍血の銘々皿』と言います。わたくしはこの白蛇の神器を使って、自らの血に流れる異能を操り、この世の悪意を祓うことができるのです」
 苺苺は涙腺の緩んでいた顔をキリリと引き締め、指先を揃えた手で円卓の上に置いたものたちを差した。
「この世の悪意とは五つの姿があるとされています。〝呪靄(じゅあい)〟〝呪妖(じゅよう)〟〝呪毒(じゅどく)〟〝呪詛(じゅそ)〟そして〝怪異(かいい)〟――」
『白蛇の娘』が書き記した書物には、【この世の病や死は五つの悪意からもたらされる】とされている。
【人間の肉体、精神、魂の三つのうち、肉体か精神が欠けると病にかかり、魂が欠けると死に至る】らしい。
「木蘭様に向けられているのは、呪靄と呪妖、そしておそらく――呪毒です」
 思わず静止の言葉が木蘭の口をついたが、鎮火活動を行う苺苺には聞こえていないみたいだ。
 そうこうしているうちに、青紫の炎が苺苺の手のひらの上に移る。
 底知れぬ不気味な美しさを持つ炎は、しかし踊るように揺らぎ、「ふっ……」という苺苺のひと息でたちまちに消えた。
 まるで、命の灯火が消えるみたいに。
「……それは、なんだったんだ?」
「先ほどの青紫の炎は、いわゆる燐火(りんか)ですわ。元気に燃え盛っておりましたが、ああ見えて見た目だけなので触れても熱くはありません」
「……あれが、燐火」
「その、木蘭様が手にされた時に、円扇に封じられる悪意の限界がきたようです。普段はその時期を見極めて焼却するので、このようなことは初めてで……!」
(もしかしたらご本人が触れたからでしょうか。今後は気をつけなくては……!)
 骨組みだけになった円扇の残骸を手に、苺苺はおろおろとする。
「悪意が純度を増したものである燐火には、人間にとって有毒な瘴気(しょうき)が含まれております。他者から向けられた悪意自体は封じられて祓われたあとですが、あのように燐火になると、異能を行使して鎮火しなくてはいけません」
(書物には【出来る限りしてはいけない】と、先代のどなたかの走り書きがありましたが)
 それでも今までの人生で二度、燐火を発生させてしまって鎮火した経験があった。今回で三度目だ。
 一度目は修行中の身で、異能を操りきれずに。
 二度目は七歳の時らしいが、派手に昏倒したせいか、その年は丸々記憶がない。
 しかし今回は今のところ体調に大した影響が出ていないので、肉体が成長するとともに異能の力も成長しているのかもしれない。思わぬところで自分の成長を実感する苺苺である。
「なるほど。すごいものを見た。それが、苺苺の異能の一部なんだな」
「はい。こちらは一応、わたくしが回収させていただきますね。七つまでは何が起きてもおかしくはありませんから、木蘭様は触れられないようになさってください」
 苺苺は円扇の残骸を大袖の中へしまう。
 それに異能の術を使った証拠が残っていては、木蘭以外にバレた時に面倒になる。
「すまない、せっかくの大作を」
「いいえっ。これでまた、木蘭様を想って新しい図案を考える楽しみができましたわ!」
(はぁぁぁっ、想像力が掻き立てられます……っ)
「次の作品では木蘭様の初夏の装いにぴったりの図案を考えますから、ぜひ贈り物にさせてくださいませっ。あああ、そうですわ! 先日、わたくしの実家から朱色の絹が送られてきましたの。良かったら破魔の衣裳も作らせてくださいまし……!」
 王都の市井で行われている推し活では、推している演劇一座や演者本人に宛てて熱心に贈り物を送ったり、姿絵を購入して間接的に貢いだりすると聞く。
 全力で推し活をしてきた苺苺だが、〝白蛇〟の冠をいただく最下級妃という立場上、最上級妃への贈り物だけは許されなかった。木蘭に媚びたい他の妃たちに牽制されていたためだ。
(こんなに全力で推しに貢げる絶好の機会……逃しません!)
「衣裳は……燃えるのか?」
「破魔の衣裳は、悪意を寄せ付けないために特別な技法を用いて縫う衣ですので、燃えませんわ。ご安心ください」
「そうか。では、いつか貰えたら嬉しい」
 眉を優しく下げて、可愛らしい幼妃が目を細める。
(あっ、あっ。この限りない喜びを、木蘭様推しのみなさまと分かち合えたら、どんなにか……っ。そうですわ、あとから若麗様とお話できないでしょうか!? 若麗様は木蘭様の筆頭女官ですし、絶対に木蘭様推しですわよね!?)
 後宮妃で推し活をしているのは奇特な苺苺くらいだが、女官には嗜みとして浸透している。
 女官たちの推し活は妃を慕って尽くしたり、他の妃を推す女官と応援合戦や代理戦争をするもので、市井の推し活文化も取り入れた木蘭様過激派の苺苺とは若干推し活の方向性が違うのだが――それを知らぬ苺苺は、若麗との楽しいやりとりを想像しながら、『若麗様とお話するのが楽しみですわ』と微笑んだ。
「はっ! わたくしとしたことが、話が逸れてしまいました。……こほん。木蘭様が眠れなくなっている原因は、呪靄(じゅあい)によるものでしょう。呪靄はわたくしが刺繍の手を止めてしまうと祓えませんので……おそらく、木蘭様は夜中にも悪意を向けられているということになります」
「夜中にも、悪意が……?」
「ええ。まさか木蘭様が不眠に悩まされているとも知らずに、わたくし、亥の刻(二十一時)から日の出まで、ぐっすりと就寝しておりました……。一生の不覚です……っ」
 苺苺はきゅっと両目を瞑って、心の底から悔しがる。
 悪意を勝手に収集し封じ込めて祓う形代――ぬい様は、昨日の昼に完成したばかりだ。
(それまでは破魔の術である刺繍しか、木蘭様に向かう悪意を祓うすべがありませんでした。だというのに白蛇ちゃん抱き枕を抱いて、すぴーっと穏やかに就寝していただなんて……っ!!!!)
 呪毒を生じさせるほどの呪妖の宿主が発する呪靄なのだから、眼で直接視たらよほど禍々しいものに違いない。木蘭への影響も相当だったはずだ。
 苺苺の決死の申告に、木蘭は『確かに日の出以降しか眠れていない気がするな』と思いながら、はたと首を傾げる。
「その前に。まさか苺苺は一日中、妾を守護するために刺繍を?」
「はい、もちろんです。木蘭様が健やかでありますように、楽しく過ごされますように、と願いを込めてひと針ひと針、刺しております!」
「は……? 待ってくれ、一日中?」
「はい! と〜〜〜っても有意義な時間でございますわ!」
 推しが毎日幸せであることが、苺苺の幸せだ。
 それを叶えるためなら、刺繍の半刻(一時間)一刻(二時間)、いや五刻(十時間)十刻(二十時間)だってお茶の子さいさいである。
 木蘭への熱い思いを惜しみなく注ぎ続ける時間こそ、後宮で忌避されてもへこたれずに頑張れる活力なのだ。
 ぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む苺苺に、木蘭は無表情で閉口する。
 一日中、無償で刺繍を刺し続けるなど、後宮で尚服局に配属されている針子女官でもしないだろう。
 給金も名誉も欲しがらず、ただ陰ながら木蘭の毎日のために……。
 その心の向け方は、常人には真似できない。
 ありがたい。非常にありがたいが……なんだか、複雑な思いを抱いてしまう。もう何も言うまい。
「呪妖と呪毒に関してですが、昨日のあやかし――猫魈(ねこしょう)様は、『女官に道術で操られていた』と言っておられました。呪妖の宿主である女官の方が、木蘭様を攻撃するためだけに猫魈様を後宮に招き入れたのでしょう」
「猫魈……そうだったのか」
「猫魈様はその方によって無情にも飢餓状態にさせられ、そのうえで木蘭様を『襲え』と命じられたそうですわ。猫魈様自身にその意志はなく、今回の事態をとても後悔しておいででした」
「となると、女官には妾への明確な殺意があったというわけだな」
「おそらくは。ここからは推測となりますが……その恐ろしい女官の方が、木蘭様の食事を呪毒で蝕まれているのだと思います。呪毒とは、呪妖になるほどの悪意を心に秘めている方が配膳などで触れた(・・・・・・・・)対象者の食事(・・・・・・)に、無味無臭の毒となって宿るものなのです」
 つまりは先ほど苺苺が口にした茶菓子にも、その女官の手が触れているという意味になる。
 呪毒は発生源が悪意を向けた相手の肉体を体内から蝕む。
 その性質上、特定の人物が口にした時にのみ呪毒が反応が反応し、それ以外の人物が口にすれば霧散する。
 苺苺が木蘭に向けられた呪毒を口にして感知できるのは、『白蛇の娘』であるからにほかならない。
(朱家ですでに呪毒に侵されていた可能性も考えられますが、清明節以前から日常的に症状が出ているのですから、紅玉宮(こうぎょくきゅう)での食事が呪毒で蝕まれていると考えるべきです)
 今日の茶会は急遽開かれたもの。
 朱家から届いて、厨房に保管するまでの間に誰が触れていてもおかしくない。
 それでも主人の口に入れるものだから、取り扱いを行うのは上級女官のみに限定されるだろう。
「食事に宿った呪毒は、こちらの銘々皿を使った時にのみ形にでき、祓うことができます」
 苺苺はおもむろに、円卓の上に並べていた辰砂のごとく赤く色づく『龍血(りゅうけつ)銘々皿(めいめいざら)』を手に取る。その名の通り龍の鮮血を塗って作られたものだ。
(とは言え、わたくしも使ったことはありませんが……)
 食事に呪毒となって宿るほどの悪意となると、ほとんど自覚のある殺意だ。
 苺苺がいくら後宮で忌避されていると言えど、誰かから『殺したい』と明確な殺意を抱かれるほど憎まれるような経験はまだ無い。
「契約できるのはひとりまでで、同時契約はできません。使用方法は、この銘々皿に血を一滴垂らしていただくだけなのですが……。木蘭様の手を傷つけるわけには参りませんので、困りましたわね」
「いや。やろう」
「えっ、あっ、木蘭様!? おやめください――!」
 苺苺の制止など意に介さず、幼い木蘭が懐から短剣を取り出す。
 それは清明節に、彼女が剣舞で使用していたものだった。
 燐華国の紋章が刻まれ、細かい装飾が施されている。その装飾は、皇太子殿下にのみ使用を許された意匠だ。
 木蘭は痛みに一瞬片目を瞑りながらも、銘々皿にポタリと血を垂らした。
(あわわわっ! 木蘭様をお助けするためとは言え、指先を、指先を斬らせてしまいました〜〜〜!)
「大丈夫ですか!? お怪我は、止血を……っ!」
「なんてことない」
「いいえ重傷です!」
(木蘭様に重傷を負わせたわたくしは完全に有罪ですわ……!)
「わたくし、自主的に牢獄暮らしをいたしますッ」
 顔を真っ青にした苺苺の脳内で、会ったこともない皇太子殿下が『そなたの名を牢獄妃に改名する!』と高らかに叫ぶ。
「牢獄妃の異名、謹んで拝命いたしますっ」
 罪悪感と絶望感でアワアワと目を回す苺苺の様子に、なんとなくどんな想像をしているのか察した木蘭は、
「投獄は絶対にあり得ないな。妾が保証しよう」
 これくらいで大袈裟だな、と呆れた表情を浮かべる。
「それに。第一、お……じゃなくて皇太子(こうたいし)殿下はそこまで鬼じゃない」
 木蘭はちょっと不服そうなむくれた様子で、ゆるく首を振った。
「そ、そうでしょうか……ッ!?」
「むしろ皇太子殿下は、『苺苺の手のひらの傷に比べたら、これくらい我慢して当然のことだ』と表情ひとつ変えずに妾に言うだろう」
 そうこうしている間に、龍血の辰砂に、ぷっくりとした柘榴石のような――木蘭の血の赤が溶けていく。
 契約が正常に行われた証拠を見届けてから、苺苺は「薬箱はどこですか!?」と弾かれたように立ち上がると、急いで木蘭の指の手当をするための綺麗な布と消毒薬を用意した。
 悪鬼武官からもらった薬壷を取り出し、軟膏を入念に塗り込む。
 真剣に手当てを施す苺苺に気づかれぬよう、木蘭は遠い憧憬を滲ませた切ない双眸で眺める。
「……これでよしっと。湯浴(ゆあ)みをされる際は気をつけられてくださいね。とっても()みますから」
「わかった」
「ふう……、ドキドキいたしましたが、契約は以上で完了です。あとは木蘭様が呪毒(じゅどく)の宿った食事に触れるだけで、この銘々皿に呪毒が形を伴って抽出されますので、それをわたくしが封じることで祓えますわ」
「試しにそちらの月餅に触れてもらっても?」と、苺苺は茶菓子を示す。
 木蘭が従って自分の月餅を手に取ると――真っ赤な銘々皿の上に、ことり、とどこからともなくまったく見た目の同じ月餅(げっぺい)が現れた。
「……は? まさか、その月餅が呪毒なのか?」
「はい。そのようです」
 書物によると、どんな飲食物に宿った呪毒も、すべて茶菓子の形をとって現れると書いてあった。
 しかし、何もなかった空間から突如現れた月餅は、同じ見た目といえど少し不気味である。
(でも、これが銘々皿の上に現れたということは……木蘭様の食事に長い間、呪毒が宿っていたという動かぬ証拠になります)
 苺苺は険しい表情で、目の前の月餅もどきを睨んだ。
 さて。呪毒は刺繍でも形代でもなく、白蛇の娘が自らに封じて祓わなくてはいけない。
 書物によると、【呪毒の茶菓子は捨てたり腐らせたりすると呪詛になる】とあった。
「どのような味がするのでしょうか。ちょっとドキドキいたします」
「こんな怪しいもの、食べなくてもいい」
「いえ。わたくしが食べなくては、大変なことになりますから。――いきます」
 苺苺は意を決して、はむっと食らいつく。
「ん……んんんん!?」
「ど、どうした?」
「お、美味ひいです……! なんということでしょう……。人生で食したお茶菓子の中で、一番美味しいです……っ!」
(なんと繊細な歯触り、洗練された甘みなのでしょうか! 見た目はもちろんのこと、食感も素晴らしいですわ。まるで超高級お茶菓子!!!!)
 苺苺は月餅を片手に持ったまま、「餡が舌の上でとろけます……極上の月餅ですわ……」と頬をを抑える。
 先ほどいただいた本物とは大違いだ。
(呪毒を抽出して作り出したお茶菓子だからこそ、この美味の頂点に君臨してしまったのでしょうか……っ!?)
「これぞ堂々たる王者の風格……。ううむ、菓子職人泣かせの神器ですっ!」
「そ、そうか。……苺苺の身体に害はないんだな?」
「ええ。わたくしはそう思います」
 苺苺はペロリと呪毒の茶菓子を平らげた。
(――さあ、これで証拠は出揃いました)
 木蘭の就寝時間や散策へ出かける頃合いを把握していて、なおかつ、昨日までは予定になかった唐突な来客の茶菓子に触れられる、女官。
「残念ですが、恐ろしい女官の方は……この紅玉宮にいる木蘭様付きの侍女(・・・・・・・・)のどなたかということになりますわ。けれど猫魈(ねこしょう)様を操れるほどの道士であっても、『白蛇の娘』が書き記した『五つの悪意の(ことわり)』は、ご存知ないのかもしれませんね。わたくしも道術は(かじ)っておりませんし、あやかしを強制的に操るすべも持っておりませんから」
 そう結論づけた苺苺に、幼い妃は鷹揚(おうよう)に頷く。
「なるほど。確かに、あやかしや道術を操り用意周到に妾を害そうとする者が、異能持ちだと噂される『白蛇の娘』の前にわざわざ証拠を残すはずもない。だが、どうやって炙り出すかだな……」
「ええ。ですがこの勝負、有利なのはわたくしたちの方です」
「いったいどうするつもりだ?」
「それなのですが……――本日、わたくしを紅玉宮に置いてはくださいませんか?」
 真剣な表情で問うた苺苺に、木蘭は紫水晶の瞳を大きく見開いた。
「――は?」
「大変ご無礼を申しているのは承知しております。ですが、木蘭様の危機とあっては、この苺苺、命を懸けないわけには参りません!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。紅玉宮に置くというのは、妾の部屋に泊まるという意味か?」
「いいえ、言葉通り紅玉宮のどこかに置いていただくだけで大丈夫ですわ! 室内がダメでしたら、廻廊(かいろう)でも、お庭でも、どこでも構いません。木蘭様か、紅玉宮の女官のみなさまのどちらかをつぶさに観察できる場所に置いていただきたいのです」
 お茶や茶菓子を運んできた女官たちの中に、黒い胡蝶をまとっている者はいなかった。しかし木蘭の行動を完璧に把握しているのだから、犯人は絶対に紅玉宮の女官だ。
(木蘭様はもう一ヶ月近くよく眠れずに、胸が痛む日々を過ごしていらっしゃいます。大人にとってもひどい状況ですが、幼い彼女にとってはもっと過酷でお辛い状況のはず。一刻も早く、解決してさしあげねば)
 苺苺が熱い決意で燃えているのとは裏腹に、木蘭は「それ以外の方法は――」と必死な形相を隠すようにして言い募る。
 しかし、木蘭様に害をなそうとしている恐ろしい女官を()らしめる気満々の苺苺は、「ないです!」と一刀両断した。
(そして一刻も早く、その恐ろしい女官の方に木蘭様の素晴らしき愛らしさを布教しなくては。天女様の御使いである木蘭様の尊さがご理解できれば、きっと悪さをしようなどとは考えられなくなりますわ! 推し活の真髄を、叩き込んで差し上げます!!)
 木蘭は、苺苺の背後にごうごうと燃える炎の幻覚を見た。
 どうやら、苺苺を紅玉宮に一泊させる以外の方法はないらしい。
「……わ、わかった。では、空いている部屋を用意するよう、女官に伝えよう」
 木蘭は口角を上げて微笑みを作ろうとして失敗したような、幼い見た目に似合わぬ引きつった表情でそう言った。