数千人が働くとされる燐華(リンファ)国の後宮は、大きくふたつに分けられる。
 皇帝の妃嬪が住まう皇帝宮、そして皇太子の正妃候補が住まう皇太子宮だ。
 皇帝宮は後宮の西側に位置しており、皇后と上級妃が住まう絢爛豪華な〝西八宮〟を中心に、中級妃用の宮や下級妃が共同生活を営む長屋があり、後宮のほとんどを占めている。
 対して、皇太子宮とは後宮の東側に位置する区域のことを指す。
 敷地面積は皇帝宮の半分ほどで、九星術や風水学に基づいて皇太子宮内を八つに割った上で建築された〝東八宮〟のみで形成されていた。
 苺苺の住まいとして与えられた〝水星宮(すいせいきゅう)〟は、皇太子宮内でも北側の、さらに辺鄙な場所にある。
 後宮でも『特別な場所』である東西の宮のことを、人々は敬意を込めて〝東西十六宮〟と呼ぶが、水星宮だけはその枠組みから外されているのは誰の目から見ても明らかだった。
 なぜなら水辺が近いため朝晩は冷えてよく霧が立ち込めるし、晴れている日でも湿気で少しじめじめとしていて、なにより『宮』と呼ぶのを憚(はばか)られるほど狭い。
 だが、しかし。
 ふた月前の入宮当時――最初の選妃姫(シェンフェイジェン)を終えて、宦官(かんがん)から新しい住まいへ案内された苺苺は、キラキラと目を輝かせていた。
「まあ、なんて趣のある歴史的建造物でしょう! こちらが、白蛇妃が代々住んできたという水星宮……っ!」
 燐華城の多くの宮殿は黄瑠璃瓦で葺かれ、朱塗りの柱や欄干が並ぶ絢爛豪華なものだが、水星宮は青銅瓦の灰色屋根に黒塗りの柱があるだけで、欄干(らんかん)なんてものはない。
 妃の目を楽しませる飾りもなく、ただただ簡素な建造物である。
 それもそのはず。他妃の宮で物置蔵や馬小屋として使われている建物こそが、水星宮に存在する唯一の本殿だった。つまりここは本来、寝殿と呼べる場所ではないのだ。
 そのうえ長らく冷宮だったため、他宮と違い老朽化に伴う修繕も行われていない。
 広い後宮内でも数少ない建国当時からの面影を濃く残した〝灰かぶり離宮〟。
 それが、これから先――苺苺が後宮を出るまで住み続ける水星宮であった。
 燐華建国時代から続く由緒正しき九華家のひとつに数えられる白家の娘が、なぜこんな簡素な宮に追いやられているかというと、その特異な容姿――正しく歳を重ねた人間の白髪とは明らかに違う、真珠のごとき純白の長髪と、真っ赤な血を彷彿とさせる紅珊瑚の双眸のせいでもあるが……。
 最大の原因は、その出自のせいだろう。
 古代から語り継がれるかの有名な白家白蛇伝を、この国で知らぬ者はいない。
 その伝説とも史実とも取れる話が、白家が人々から『呪われ白家』と呼ばれ始めるに至る由縁である。
 蛇神(へびがみ)とも大蛇(おろち)とも称される白蛇との異類婚姻によって生まれた白蛇の娘は、白家の領地である白州では『神の愛し子』と言い伝えられ、敬愛されている。
 けれども、白州を一歩出ると途端に世界は変わった。
 白蛇の娘はいつの世でも迫害され、虐げられ、死の淵に立たされる。
 異能はすなわち、禁忌の異類婚姻で受け継がれたあやかしの妖術。
 悪鬼のように封じられ、罰せられるべき、禁忌の術であると思われているせいだ。
 それに加えて、白家白蛇伝を読んだ誰もが思うのだ。
『〝悪意をあやつる異能〟だなんて、白蛇が人間に復讐するために与えたに違いない』
『〝白蛇の娘〟は復讐のために生まれてくるのだ』
 ――と。
 そんな特異すぎる出自を恐れてか、直接的に手を下されることは少ない。
 だが古くから続く宮廷では特に言い伝えが強く信じられており、こうして後宮の離れには白蛇の娘を幽閉する場所が作られている。
 本来なら皇太子妃の住まいは選妃姫で得た地位によって決まるはずだが、白蛇の娘にとって選妃姫とは無いに等しい制度だった。
 それは現皇太子、紫淵(シエン)殿下の世でも変わっていない。
 後宮に八華家――(しゅ)家、(へき)家、(よう)家、()家、(ほく)家、(えい)家、()家、白家から八姫が招集された日。
 皇太子不在の中で行われた選妃姫で、審査員として出席していた皇后や四夫人たちは、苺苺を存在しないかのように無視した。
 選妃姫では皇太子殿下が気に入った妃のひとりに、百花瓏玉(ひゃっかろうぎょく)と呼ばれる最高級の宝飾品を褒賞として下賜する。
 妃たちは賜った百花瓏玉で着飾って最終試験に臨み、その数や希少性で皇太子殿下からの寵愛を競うのである。
 第一回目の選妃姫では、百花瓏玉の代わりに全妃嬪たちには官名と、宝石の名を冠した宮が与えられる手はずになっている。
 彼女たちを妃嬪と呼ぶのは、皇太子宮の妃たちの序列は選妃姫が終わるまで一様に〝妃〟となるからだ。皇太子が皇帝として即位すると、その序列はたちまち妃と嬪に分けられる。そのため皇太子宮の八妃に対して妃嬪という言葉が用いられるのは、至極当然で、まったくおかしいことではなかった。
 そんな選妃姫がつつがなく進行される中、けれども苺苺だけは入室早々、退出を促された。
 そうして明らかに不平等な試験の末、八華妃――貴姫(きき)淑姫(しゅくき)徳姫(とくき)賢姫(けんき)令儀(れいぎ)芙容(ふよう)彩媛(さいえん)白蛇(はくじゃ)の中で最下級を表す〝白蛇〟の冠を与えられ、他の妃たちの住まいとは遠く離れた水星宮に押し込められたのだ。
 最下級妃の名が白蛇なのだから、まあつまりは、はなから判じるつもりなどないというわけである。
 だが苺苺は、皇太子宮での虐めに屈しなかった。
 たとえ水星宮付きの女官が皆、初日で逃げ出そうともだ。
「ああ、わたくしだけ離れだなんてなんと好待遇なのでしょうか! ここなら誰の視線も気にせずに、全力で推し活ができますわ!
食事に携わる尚食の女官は来てくださるので、生命維持には問題ないです! 水星宮のお掃除とお風呂の管理、それからお洗濯や身支度なんかは、自分ですれば良いですし」
 入宮して一週間は勝手がわからずあたふたしたものの、あらかじめ白家の邸で侍女の後ろをひっついて予習と練習をしてきていたので、いざ水星宮にぽつねんとひとりきりというの状況に直面しても、なんとかこなすことができた。
(今では床の雑巾がけも良い運動です)
 そう。すべてひとりで(こな)すことを考えたら、寝台、衣裳部屋、応接間兼食事の間、それから厨房や湯殿がぎゅぎゅっとひとつに詰め込まれた水星宮は、苺苺にとって理想の間取りと言っても過言ではなかったのだ。
「はーっ。ここならついうっかり他のお妃様と鉢合わせして、めくるめく後宮の愛憎劇に巻き込まれる心配もありません。極楽ごくらく」
 というわけで苺々はむしろ、これ幸いと後宮での自由を謳歌していた。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
 今日も今日とて悠々自適にのんびりと過ごしながら、少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
 苺苺は手元の布に通していた特殊な縫い針を引っ張り、糸をきゅっと玉止めすると、丁寧に糸を鋏で切った。
「じゃじゃーん、できましたわ! 苺苺特製、木蘭(ムーラン)様ぬいぐるみ!」
 苺苺はぴかぴかの笑顔で、できあがったばかりの布偶(ぬいぐるみ)を両手で頭上に掲げた。
「お茶会のお呼ばれもありませんし、最近は雨ばかりでしたので木蘭様をお見かけする機会がなかなかありませんでしたが、意外にも推し活は捗りました。ぬいぐるみ製作、憧れだったのです……」
 後宮へ向かう途中に、王都の露天で売られていた演劇一座の応援商品を初めて見た時は、馬車から身を乗り出す勢いで衝撃を受けた。
『わぁ! こんな意匠(デザイン)のぬいぐるみがあるだなんて! わたくしも製作してみたいです……!』
 全体的に丸みを帯びた形は幼な子向けにも見えるのに、買っていくのは神に陶酔したような顔をしている、情熱的な若い娘や大人ばかり。
 その異様で幸福そうな光景に、これが王都の推し活かと目を輝かせたものだ。
 あれからふた月。
 合間を縫って製作し、とうとう完成したというわけである。
「納得がいくまで布地を選び尽くし、何度も型紙を修正したので随分と時間が掛かってしまいました。けれども、ふふふっ、渾身の出来栄えですっ……!」
 意匠には最近流行している布偶のものを取り入れ三頭身に簡略化し、さらに苺苺なりの創意工夫を加えて、お茶菓子のような色彩と可愛らしさを意識。
 お顔の表情は、二週間前にあった清明節の宴席で目撃した『おねむな木蘭様』にした。
 衣裳にも抜かりはない。襞飾り(フリル)をふんだんに使った中紅色の大袖の上衣に、きっちり胸元まで覆う桃色の(スカート)も三頭身に合わせて再現している。
 仕上げに、朱家の象徴である真朱を使った羽衣のような披帛(ひはく)を掛けたら完璧だ。
「柔らかな布地を使ったので触り心地も抜群です。今日からよろしくお願いいたしますね、ぬいぐるみの木蘭様! ……そうだ、ぬいぐるみの木蘭様ですから〝ぬい様〟とお呼びしますね。ふふっ、今にも寝息が聞こえてきそうです」
 木蘭様の特徴をよく捉えたぬい様は、どこか抜けている様子があって、見ているだけでも癒される。
 苺苺の故郷である白州は絹織物と養蚕業で発展した。
 燐華国三大刺繍の中でも、最も格式高いとされる『白州刺繍』が生まれた場所でもある。
 そんな白州白家の姫ゆえに、裁縫の名手と呼んでいいほどの腕前を持つ苺苺の手で作られたぬい様は、王都で布偶製作を生業としている職人以上の出来栄えだった。
「木蘭様の髪の毛を一本いただけたら、ぬい様も全力を出せるのでしょうが……。髪の毛は流石に『ください』と言ってもらえるものではないので、しょうがないですわね」
 苺苺は「このままの状態でどれほどの効力を発揮してくれるのかわからないところが心配ですけれど」と、毛氈生地で作った小さな頭を撫でた。
 ぬい様は、ただのぬいぐるみではない。
 苺苺の異能である悪意を祓う力を込めた、形代だ。
 形代は紙でも作ることができるが、精巧に作られた人形になると紙以上に身代わりとして優秀になる。
 さらに人形の中に守護対象者の毛髪を入れると、悪意が形を持った状態である呪靄だけでなく、その呪靄が変化し意思を持った〝呪妖(じゅよう)〟も吸収してくれて――。
「あっ! 〝白蛇ちゃん〟が……っ! 今日も見事にズタボロです!!」
 異様な気配を感じハッと視線を上げた先で、寝台に置いていた白蛇のぬいぐるみがブッチィィィッと音を立てて引き裂かれる。
 困り顔にしていた首はもげ、お腹からはふわふわの綿が飛び出した。
 まるで蛇殺しの現場だ。
「うぅぅ。白蛇ちゃん、どうか安らかに……」
 苺苺はぬい様を円卓に置いて、ズタボロにされた白蛇ちゃんに頬ずりする。
 きっと、今日も後宮内の誰かが、すさまじい悪意を苺苺に向けていたのだろう。形代に集められ封じられた悪意の総量が許容範囲を超えると、先ほどのようにズタボロに壊れてしまうのである。
 向けられた悪意が自分を害するほどの呪詛へと変化する前に、苺苺はこうして自動的に悪意が祓われるようにしている。
 そうでもしなければ、後宮の嫌われ白蛇妃なんて、命がいくつあっても足りない。
 明確な殺意を持って狙われていなくても、悪意の塵が積もって山となったら命など儚く散ってしまうのだ。
 ――とまあ、このように髪の毛入りのぬいぐるみは身代わりとして、それはすさまじい効果を発揮してくれるのだが、最下級妃の自分が最上級妃の木蘭に『髪の毛を一本ください』なんて言い出せるわけがない。
 誰の目から見ても立派な呪詛案件だ。
「それに……(わらわ)のことは忘れてくれ、と言われていますしね」
 苺苺はがっくりと肩を落とす。


 ◇◇◇


 白州にある実家に、ひとりの従者と共に美幼女がやってきたのは、昨年の暮れ。
 九華家のみしか使えぬ特別な装飾が施された木簡と印章を使って【お忍びで】との前触れがあったため、白家側は「異能絡みだろう」と考え、裏口から彼女たちを邸へ通すことにした。
 異能がらみの場合、当主である父ではなく次期当主の兄が出る。
 邸の応接間ではなく兄の私室に呼ばれた客人たちは、時に不服そうな顔をするものだが、木蘭たちは違った。
「この度は廓然大公(かくぜんたいこう)な出迎えに感謝する。妾は朱 木蘭。朱蓮芬(レンフェン)皇后陛下の縁者である。白家の次期当主・白静嘉(セイカ)殿におかりぇましては、御息災でお過ごしのこととお慶び申し上げる」
 鬼の角を思わせる濡羽色の結い髪に、大きな菫色の瞳。
 まろい頬を緊張で強張らせて、背筋をぴんと伸ばし、幼い少女は舌ったらずな口調で堅苦しい挨拶を(そら)んじてみせる。
 まだ五歳という、両親に手を引かれる年頃の木蘭が白家次期当主である兄への挨拶を完璧に終えて小さな頭を下げた時、苺苺は感動のあまり拍手せずにはいられなかった。
(な、な、な、なんてお可愛らしいお姫様なのでしょう!)
 ら行で噛んだ瞬間に見せた不覚そうな、ハッと慌てた木蘭の様子にめろめろに緩んでしまって治らない頬を、苺苺は両手で押さえる。
「お上手ですわ、木蘭様っ」
「せ、世辞はいい」
 木蘭は顔を真っ赤に染めて照れながら、挨拶などできて当然、というようなお澄まし顔をする。
 恥ずかしがりながらも精一杯頑張っている、一生懸命過ぎる仕草。
 その堪らない愛らしさに、思わず庇護欲を掻き立てられずにはいられない。
(はあぁぁっ。かわゆいです、かわゆいですっ。なぜでしょう……なんだか動悸がして、胸が熱いですっ! ああ、この胸の高鳴り……これが、きっと『尊い』という気持ちですわね!!)
 苺苺はずきゅんと胸を矢で射抜かれた気持ちがした。
 珠のように可愛らしい見目と、幼な子には不釣り合いな言葉遣い。教養深い挨拶。
 極秘の旅路だからか金糸の装飾や刺繍もない落ち着いた衣装を纏っているが、絹生地を見慣れた苺苺(メイメイ)の目には絹の極上さが手に取るようにわかる。
 こんなものを砂埃舞う旅路で纏えるのは、この国の公主くらいだ。
 しかも、その予想を裏付けるかのごとく、彼女が白家当主へ送った密書には(リン)家の木簡と印章が用いられていた。
(燐家は代々皇族のお血筋。その家紋が施された印章をお持ちなのは、この国でふたりきり。皇帝陛下と皇太子殿下のみです)
 燐家の印章を借りるためには、どちらかに直接話を通さなくてはいけない。
(もしかしたら……出自に深い理由を持つ、朱皇后陛下の公主様なのかもしれませんわ)
 苺苺はそっと、木蘭と――彼女の奥に立つ護衛の青年をうかがう。
 質素な旅装束を纏っているが、腰に佩いた剣は立派だ。名のある名刀の類だろう。
(彼の纏う気配からも、それが見掛け倒しではないのがわかります。随分鍛え上げていらっしゃるのやも)
 年齢は十代後半くらいだろうか。
 青みを帯びた長い黒髪をひとつの三つ編みに束ねた精悍な顔つきの青年は、一見すると垂れ目が柔和で優しそうな印象を受ける。
 だがよくよく見ていると、彼の亜麻色の鋭い双眸は温度もなく冷淡に苺苺を射貫いていた。
(ぴゃっ)
 まるで今にも『主を気安く見るなこの無礼者が』とでも噛み付いてきそうな視線に、苺苺は疾風のごとく顔を逸らした。
(なんて怖いお顔なのでしょうかっ。まるで般若ですっ)
 よく幼い木蘭が泣きださないものだ。
(こ、腰に付けていた玉佩(ぎょくはい)の文様は朱家のものでした。ということは、朱家当主に近いお血筋の方なのでしょう)
 幼姫の護衛役は彼ひとりしか任命されていない様子から、相当腕が立つのかもしれない。
 苺苺はぷるぷると震えながら、青年から向けられている突き刺すような視線から逃れる。
 背後の般若に気づいていない木蘭は、ひとり百面相を繰り広げる苺苺に不思議そうに首を傾げ、それから苺苺の兄を真剣な視線で見上げた。
「その、静嘉殿。折り入って頼みがある。聞いてもらえるだろうか」
(はい)。白家の次期当主として、木蘭姫の頼みを聞かぬわけには参りません。なんなりとお申し付けください」
 兄の静嘉は、いかにも育ちがよさげな美貌を持つ青年である。
 瞳の色は青色で、襟足の長い灰色の髪を首の左右に細く垂らしている。白家には時々、この兄のような容姿の人間も生まれるらしい。
 しかし青色の目は異国では珍しくないこと、そして『白家白蛇伝』の大蛇のように白髪紅瞳ではないことから、王都や宮廷に出向いてもあまり警戒されていないようだった。
『灰色の髪のせいで爺爺(イェイェ)と思われているのかな? まったく、失礼しちゃうよ。妹妹(メイメイ)にも僕が爺爺に見える?』
『お兄様はお兄様ですよ、お変わりないです。今年も貴族のご令嬢方から縁談がたくさん来そうなお顔です』
『げえっ、縁談かぁ……。それは勘弁してほしい』
 げんなりする兄はとうに成人しているが、浮いた話がない。縁談も嫌いだ。
 しかし爺爺には見られたくないという我儘な矛盾を抱える、二十四歳である。
 そんな掴みどころのない性格をしている兄だが、来客の前ではただ人当たりの良さそうな顔をして、まだ内容も聞かぬうちから快く頷く。
 二十四歳と五歳の対話。年齢差を見れば異例にも思えるが、家格を思えば妥当だ。
 白家は九華(きゅうけ)に名を連ねる貴族ではあるが、歴代に多く皇后陛下を輩出した朱家と比べれば、その地位は足元にも及ばない。
 それもそのはず。白家の娘といえば『白蛇の娘』だ。
 そのうえ白家ではひとつの世にひとりの娘しか生まれないこともあり、家格を上げるために後宮へ娘を嫁がせる政略結婚には向いていない。
 現に、延峯(エンホウ)帝の治世から遡って三世代……約百年の間は、皇帝陛下の後宮に白蛇の名を冠する妃は冊封されていない。
 延峯帝の今代は娘に恵まれず、また八華八姫の勅命がなかったことから養女も取らずに済んだ。
 先代は選妃姫の最中に他の妃嬪に罪を被せられ自害。
 先々代は同じく罪を被せられ、皇太子から直々に流罪を言い渡され処刑されている。
 そして、それ以前の数百年間はどこまで遡っても、『白蛇の娘』の末路は同じだった。
 だからこそ、いつの時代も白家当主は愛おしみ育んだ『白蛇の娘』を、白家の威厳や繁栄のために手放したいなどとは考えていなかった。
 それは次期当主である苺苺の兄、静嘉もだ。
 静嘉は、尊い血筋にある幼姫の深い事情を察して、あえて何も言わずに『是』と頷いたのではない。
 経緯はどうあれ、最も尊き燐家の紋章を持ち出してまでも『白蛇の娘』に依頼をしたいのだという誠意と、最上級の礼儀をはらった木蘭に対し、信頼の証として快諾したのだ。
 苺苺を溺愛している兄は、優しい顔を浮かべながらも木蘭自身とその背後を容赦なく判定していた。
 しかし兄の思い妹知らず。
(やはりお兄様も、木蘭様の深いご事情を察されたのですね! 健気でかわゆく尊い存在であらせられる木蘭様を全力でお助けしたいお気持ち、手に取るようにわかりますわ!! やはり兄妹は似るものですのねっ)
 と、思いがけない場面で血は争えないと実感した苺苺はひそか照れつつ、兄への尊敬の念を強めていた。
「白家の姫君には代々異能が受け継がれると聞いた。妾にかけられた呪詛を至急解いてほしいのだが、できるだろうか」
 膝の上に置かれていた両手にぎゅっと力を入れて、唇をきゅっと結んだ木蘭は不安そうに尋ねる。
(こんなにお小さい頃から悪意を向けられているなんて……。きっと我が家へ来る決断をするまでも、必死に悩まれたはずです)
 藁にも縋る思いであることが如実にわかる木蘭の仕草に、苺苺は痛みでいっぱいになる胸を押さえる。
(王都から遥ばる白蛇の娘を頼っていらしたのですから、わたくしが絶対に呪詛を解いて差し上げなくては!)
「苺苺。この件は白家への勅命に値するんだ。頼めるかな」
「もちろんです、お兄様」
 苺苺は食い気味に「すぐに確認させていただきます」と身を乗り出す。
 そうしてすぐさま紅珊瑚の双眸に異能を集中させて木蘭を視た。だが。
「あら? あらあら? どうしてでしょう……?」
 悪意が呪靄(じゅあい)となったものも纏っておらず、呪詛の痕跡すらもない。
「な、んだ。なにが視えている……?」
「それが、なにも視えません。特に異状は見当たらないのです」
 燐家の木簡と印章を用いてまで白蛇の娘を頼ってやって来たのだから、彼女自身は呪詛を自覚しているはずだ。
 そして少なからず皇帝陛下や皇太子殿下も、その事象、または怪異を実際に確認していることになる。
(朱家のお血筋にありながら、あえて朱家当主の持つ印章を使用しなかったのだとしたら……)
 木蘭は確かに、朱家当主にも漏らせぬ国家機密に匹敵するほどの問題を抱えながら、苺苺のもとを訪れているのだ。
(きっと木蘭様のお命に関わるはずです。一度で視えぬからと諦めては駄目ですわ)
 苺苺はその後も何度も集中して挑戦してみる。
 が、何度試しても悪意の残滓すらも掴めない。
「……そうか。やはり、妾にかけられた呪詛は視えないのだな」
「ううう。お力になれず、大変申し訳ございません」
「頭を上げてくれ。そうかもしれないと思いながら、白家を訪ねた。世話になったな」
 結局、その時は呪詛の原因は視えず、なんの手助けもできずにお帰りいただくことになってしまった。
 そうして別れ際に、「差し出がましい真似だとは存じますが、呪詛の症状の詳細をお教えいただけませんか?」と木蘭へ問うたところ……。
「白家の姫君に原因と症状がわからないのなら、教えられることはない。妾のことは忘れてくれ」
 そう言われてしまったのだ。

(……木蘭様のお力になって差し上げたい。どうにかできないでしょうか)
 それから悶々と悩んでいるうちに、新年を迎えた。
 ほどなくして後宮の皇太子宮の封が解かれ、朱家からはあの幼い姫君が入宮すると風の噂で聞き及んだ苺苺は、『わたくしが木蘭様を後宮の悪意から守って差し上げなくては』と勇み馳せ参じたわけである。
(後宮は幼い木蘭様にとって、きっと魑魅魍魎の巣窟です。微力ではございますが、わたくし、全力を尽くして参りますわ)
 苺苺が全力で推し活に挑む中で、異能を使ってこっそり悪意を祓っていることは、今のところ誰にもバレていない。
 異能とはあやかしの力であると信じられている燐華国で、異能持ちは忌避される。
 ましてやあの白蛇の娘が異能を振るっているとバレてしまっては、事実を歪曲した噂が立ったりして、推しに迷惑をかけてしまう恐れもある。
 苺苺は胸の前で腕を引き、グッと握りこぶしを作る。
「推し活を嗜む者として、礼儀作法に則った推しとの距離感が大事ですものね。握手を求めるは『握手会』でのみ、ですわ」
 市井では、演劇一座が定期的に開く『握手会』と呼ばれる素敵な催しがあり、役者と一対一で向き合って、握手をしながら応援の言葉を伝えられるそうだ。
 その催し以外では、たとえば市中で休暇を楽しむ推しを見かけたとしても握手を求めたりせず、推しの憩いの時間の邪魔はしないとか。
 それに習って、苺苺も後宮内で木蘭を見かけた時は、適切な距離を取っている。
 決してすれ違いざまに無闇に近づいたり、間違っても話しかけたりなんかしないのだ。
「木蘭様と同じ後宮にいられるなんて、わたくしは世界一幸せ者です! ですからこの苺苺。草葉の陰……では死者になってしまいますわねっ。ありとあらゆる物陰に身を潜めながら、ひっそりと木蘭様をお支えさせていただく所存ですわ! 木蘭様の髪の毛をいただけなくても、それを補う量と時間(・・・・)で勝負させていただきます」
 苺苺はズタボロになった白蛇ちゃんを、いつも通り、棺にしている木箱に入れる。
 そして棚から新しい白蛇ちゃんを取り出すと、懐紙に包んで綺麗に束ねて保管していた白髪を一本仕込んで、
「さてと」
と気を取り直すことにした。
「せっかくの快晴ですし、ぬい様と日光浴をしましょう。お日様の陽の気で効果も倍増です。さ、行きましょうぬい様!」
 苺苺は藤蔓で編んだ籠にぬい様を入れ、意気揚々と水星宮を出た。


 ◇◇◇


 久しぶりの快晴だからだろう。外を歩いていると、風に乗ってどこからか女性たちの賑やかな声が聞こえてくる。
 水星宮にほど近い大きな池〝鏡花泉(きょうかせん)〟には、数隻の小船が浮かんでいた。
 どこぞの妃が、女官たちと水上の花や鯉を鑑賞しているのかもしれない。
 苺苺は散策しながら静かな場所を探す。
「あっ。ここなんか良さそうですね」
 誰もいない水辺の四阿(あずまや)を見つけた。黄瑠璃瓦の六角屋根と朱塗りの柱が色鮮やかな四阿には、ちょうどよく日光が差し込んでいる。
 苺苺は中へ入り長椅子に腰掛けると、ぬい様を陽の気に当てた。
 長閑な春の日の昼下がり。後宮に渦巻く悪意や諍いなどが幻想であるかのように、穏やかな風景が広がっている。
「うーん。いいお天気ですわ」
 池の鯉がパシャリと跳ねる。
 苺苺は両腕を伸ばしてぐぐっと背伸びをする。
(ふわぁぁ。少し眠たいかもしれないです)
 そう思った時だった。
「きゃああっ!」
 遠くで、女性の甲高い悲鳴が響いた。
「あらあら? どうしたのでしょう。大きな虫さんでも出たのでしょうか?」
(清明節を過ぎてこの天気ですものね。毒蜘蛛(どくぐも)さんが枝から垂れ下がってきたり、蟷螂(かまきり)さんが大鎌を振り回していてもおかしくはありません。……そ、想像するだけでも、わたくしも怖いです)
「お逃げくださいませ!」
 人ごとのように思っているうちに、どんどん悲鳴が近づいてくる気がする。
「む、虫さんではないのでしょうか」
(だとしたら一体……?)
 苺苺がぬい様を抱きしめて恐々と四阿を出るのと、鬼気迫った女性の声が「木蘭様!」と叫ぶのは同時だった。
「えっ」
 突然の木蘭の名前に戸惑う。
 急いで声が聞こえた方向を探すと、ここから少し離れた場所に、大袖の襦裙で必死に走る木蘭と、それを追う牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫――否、あやかし『猫魈(ねこしょう)』がいた。
「なぜこんなところにあやかしさんが!?」
 猫魈は元は飼い猫であった猫が猫又となり、さらに年月を経て力を得た姿だ。巨体に三つの尾を持っている。
 恐怖で引きつった顔で息を切らしながら逃げる木蘭を、猫魈は今にも咬み殺しそうな様子で執拗に追いかけていた。
(木蘭様から気を逸らさなくてはッ)
 苺苺は駆け出しながら、大きく広がった袂から簡易裁縫箱を急いで取り出す。
 そうして先端が鋭くなっている糸切り鋏を手に持つと、『裁縫の名手』にとって命よりも大事な手のひらを、戸惑うことなく傷つけた。
「いっ」
 肉が裂け、焼けるような痛みの後に鮮血が滲む。
 苺苺はきゅっと眉根を寄せて痛みを我慢して、流れ出る血をぬい様の朱色の衣服に含ませた。
 木蘭の形代、異能の鮮血。
 これであやかしの眼は誤魔化せるはずだ。
「木蘭様ッ!」
「……う、っ」
 足がもつれてしまった木蘭が、べしゃりと地面に転倒する。
 その隙を猫魈は見逃さなかった。
「シャァァアア」
「危ないっ!!!!」
 猫魈が木蘭に襲いかかる。
 苺苺は腕を大きく振りかぶって、猫魈目掛けてぬい様を投げつけた。
 ぬい様が猫魈の前にぽてりと転がる。
 すると作戦通り、猫魈は木蘭から狙いを変えて、勢いよくぬい様に飛びついた。
 木蘭の身代わりになったぬい様を、大きな牙が貫く。
 苺苺は木蘭に走り寄って、「大丈夫ですか!?」と背中に手を当てた。
「ぬい様、あなたの勇姿は忘れませんっ。さあ木蘭様、ぬい様が食い止めているうちに、お逃げくださいませ」
「……あなたは、白家の」
 紫水晶の大きな瞳に、苺苺の姿が映る。
「木蘭様、宦官を連れて参りました!」
「貴姫様、あやかしが出たと……!」
 いつの間にか、先ほどの木蘭付きの女官が、槍を持った宦官たちを連れて駆けてきていた。だが。
「このっ、白蛇めかッ。どけ!」
「きゃあっ!」
 (いかめ)しい宦官は到着するやいなや、槍の柄で苺苺を背を打ちつけ、乱暴に転がした。
「なにをする、あやかしはあちらだ! 妾の――皇太子殿下の命なく、妃を罰するなど、許されぬぞ! 彼女は妾の恩人だ!」
 木蘭はふるふると震えながら、苺苺を守ろうと声を張り上げる。
「そ、そうです。わたくし、木蘭様のお力になりたくてここへ」
「この女、手から血が出ているぞ! 妖術を使った証拠だ!」
 しかし六歳の幼妃の言葉を軽んじているのか、後宮にほとんど姿を現さない皇太子殿下を見下しているのか。
 はたまた、後宮の嫌われ者である白蛇妃をいたぶる機会を逃したくないからか……。
 いや、そのすべてが理由なのであろう。
 宦官は誰も、妃たちの訴えに対して聞く耳をもとうとしない。
「選妃姫の場以外で他の妃を蹴落そうなど、卑怯な『白蛇の娘』め!」
「お待ちくださいませ、本当にわたくしは不埒な思惑など抱いておりませんっ」
 苺苺も負けじと自分の正当性を主張する。
 だがその甲斐も虚しく、宦官らに両肩を押さえつけられ跪かされてしまった。
「待てっ、彼女を一体どうするつもりだ……っ!」
「木蘭様、危のうございます。近づいてはなりません」
 苺苺に駆けよろうとする木蘭を、女官が慌てて引き止める。
「異能の妃など我らが罰してやる! この悪女め!」
「…………そんな、お待ちください、わたくしは――っ!」
 宦官らは苺苺を罵りながら、きつく縄に掛ける。
 そして今まで無視していた木蘭に恭しく礼を取ると、極悪人を引っ立てるようにして、その場から苺苺を連行したのだった。