後宮の嫌われ白蛇妃〜推し活をしていたら愛されちゃいました〜


「皆の者、聞いてほしい。今日より無期限で、苺苺を妾の宮に招待することにした」
 朝餉を終えたあと。
 木蘭は紅玉宮の女官を一堂に集めてそう告げたかと思えば、隣に立つ苺苺の腰辺りに、遠慮なくぎゅうっと抱きついた。
(ひえっ! 木蘭様が、木蘭様がっ)
 朝の支度を整えるために若麗が寝室を訪れるまでの間、木蘭から『お泊まり会によって歳の離れた妃たちが親密になった様子を演出する』とは聞いていたが、抱きしめるとは聞いてない。
 木蘭と紫淵は完全なる別の生き物と捉えている苺苺は、ただひたすら朝から強制過剰摂取させられる可愛さに頬を染めて悶える。
(目がぐるぐる回って、頭がくらくらします〜〜〜!)
「ふ、ふつつか者ではございますが、皆様どうぞよろしくお願いいたしますッ」
 やっとの思いで挨拶を言い切り、苺苺は遠慮がちに木蘭をきゅっと抱きしめ返す。
「ふふっ。苺苺お姉様と一つ屋根の下で過ごせるなんて、妾は幸せものです」
(あああっ、木蘭様とこんなに仲良くなれるだなんて、紫淵殿下に怒られないでしょうかっ)
 その紫淵が木蘭であることなど、もうすっかり忘れてしまった苺苺である。
「お待ちください、木蘭様! 白蛇妃を無期限で招待って……それはいったい、どういうことですか!?」
 筆頭女官の隣に立っていた苺苺と同じ年頃の勝気な相貌の女官が、キッと眉を吊り上げる。
「お泊まり会を延長ということでしょうか?」
「まあ、それは良いわね。紅玉宮がもっと明るくなるわ」
 若麗と、先ほどの勝気な女官とは反対側に立っていた背の高い年嵩の女官は、顔を見合わせて柔和に微笑む。
「ちょっと若麗様、怡君(イージュン)様、なに和んでるんですか!『白蛇の娘』を紅玉宮預かりにするなんて縁起が悪いです。それも無期限なんて! 木蘭様と紅玉宮に障りがあったらどうするつもりですか!?」
春燕(チュンエン)様の言う通りだわ」
「そうね、木蘭様がいくら姐姐と懐いていても……『白蛇の娘』だわ」
「一泊二日だけだったらまだしも、ずっとなんて」
 勝気な女官、春燕の言葉を皮切りにして他の女官たちもざわざわと話出し、口々に不信感をあらわにする。
 年上の妃に甘える幼妃の演技に徹していた木蘭は、総勢十五人の女官を見渡す。
 なあなあな理由で煙に巻けたら御の字と考えていたが、やはり一筋縄ではいかなかったか。
 そう考えながら木蘭はむっとした顔をすると、抱きついていた苺苺から離れた。
 いつものお澄まし顔をして、ぱんぱんっと手を叩く。
「静粛に」
 幼い、けれどどこか凛とした木蘭の声で、紅玉宮は一斉に静まり返った。
 しんと静まり返った中、苺苺もつられるようにして、慌てて背筋を伸ばす。
「皆が知っての通り、妾は先日あやかしに襲われた。そのあやかしを退け、命を懸けて助け出してくれたのが白蛇妃、白苺苺だ。……若麗、そうだな?」
「はい。私もしかとこの目で拝見しました」
 筆頭女官の若麗が木蘭の付き添いとして事件現場にいたことは周知の事実。その若麗の証言を聞いて、反対していた女官たちは押し黙る。
「どうして苺苺が妾を助けられたのか。それは『白蛇の娘』である彼女に、あやかしを退ける異能(・・・・・・・・・・)があるからだ」
「あやかしを……?」
「そんな異能が……?」
「『白蛇の娘』の異能の噂は本当だったのね……」
 ざわめき出す女官たちに、木蘭は再び「静粛に」と言い放つ。
「過去後宮で起きた事件に、『白蛇の娘』がなんらかの関わりがあった可能性が指摘されているのは妾も知っている。だが、皆の者が恐れているのは、伝説や歴史書に描かれた物語の中の『白蛇の娘』に他ならない」
 木蘭はキリリと目を細め、貴姫としての風格を見せつける。
「つまり! ここにいる白苺苺の異能は、妾たちが恐れるものではない!」
 その言葉に、女官たちは困惑げにそれぞれ顔を見合わせて、「そうかも」と頷きあう。
「今後また、先日のあやかしが紅玉宮を狙わぬとも限らない。そのために苺苺には、妾をあやかしから守護する『異能の巫女』として、護衛や夜警をしてもらう。紅玉宮の皆のためにもなるだろう。……苺苺、皆に異能の説明を」
「はい。ええっと、わたくしの異能は、わたくしの血を使ってあやかしを退けるというもの……です。宦官の方々は妖術だと騒がれておりましたが、ただの退魔の術だとお考えください。ど、どうぞよしなに」
(それだけがわたくしの異能ではありませんが、すべて開示することはできませんので、どうかご容赦くださいませ……!)
 頭を下げた苺苺は、ぎゅっと目を瞑ってやり過ごす。
「そういうことだ。あやかしが再び現れない確証を得るまで、苺苺には妾のそばにいてもらう。紅玉宮は白蛇妃を歓迎し、貴賓としてもてなすように。いいな?」
「――御意」
 それぞれの胸中に思う気持ちはあるが、事の次第を理解した女官たちは木蘭の命令に一斉に応じると、一糸乱れずに恭しく(こうべ)を垂れた。


 ◇◇◇


 ――時は少し遡り、朝日が昇りきった木蘭の寝室にて。
 最上級妃・貴姫と最下級妃・白蛇による今後の話し合いは行われていた。
『木蘭様も朝の身支度があるでしょうから、わたくしは一度失礼させていただきますね』
 そう言って一度退出しようとした苺苺だったが、そんな苺苺をムッとした顔で通せんぼしたのが木蘭である。
『どうせなら、同じ寝台で眠って〝お泊まり会を満喫しまくったふたり〟を演出するために、あえて女官たちが来るのを待とう。苺苺、女官が来るまでは話し合いを続けるぞ』
 木蘭はそんな提案して、再び寝台に腰掛けるよう苺苺の手を引いた。
 そうして提案されたのが、紅玉宮への無期限滞在だったわけだが――。
「これ以上、木蘭様にご迷惑をおかけするのはわたくしとしても心が痛みますッ。秘密は死守しますので、夕餉を終えてからお泊まり会にだけご訪問させていただくというのは……!?」
「却下だ。夜だけ紅玉宮に来るだなんて、事情を知らない女官や宦官の間で変な噂が立つだろう。ただでさえ木蘭暗殺未遂の容疑で投獄されていたのに」
「うぐっ。確かに『白蛇妃が木蘭様を毎日呪いに通っている』なんて噂されそうです。ですがわたくしにも、立派な水星宮がございます。白蛇妃として管理をせねば!」
 現在、苺苺は大反対の真っ最中である。
 なぜなら推しに迷惑をかけないのが、推し活を嗜む者の流儀だからである。
「水星宮の実態は調査させている。あんなところに住まわせて悪かった。これからは心置きなく、妾の紅玉宮で過ごしてくれ」
「いえ、あんなところだなんて! わたくしだけ離れだなんてむしろ好待遇、極楽お気楽自由気ままな刺繍道楽〜な毎日を過ごさせていただいておりましたわ! 鼻歌も歌い放題ですし」
「湯船は三尺の木桶。厨房は茶の湯が沸かせる程度。煎餅かと見間違う褥が敷かれた下女用の寝台。窓枠はどこもがたがきているし、日が暮れたら隙間風で冷えたはずだ。なにより、部屋が一室しかない。なんだあれは、馬小屋か? 誰が造った? 馬鹿なのか?」
「木蘭様、水星宮は歴史的建造物なのですっ。なにより一室にぎゅぎゅっと全てが整えられた画期的設計! むしろ時代の最先端やもしれません! 単身者向け一室住居(風呂、御手洗完備、厨房無し)ですっ」
 頭を抱える木蘭に、苺苺はふんすと鼻息荒く力説して詰め寄る。
 木蘭は「はあ?」と幼妃に似合わぬ呆れた声を出して、「とにかく」と苺苺の額を指先で小突いて押し返した。
「妾が自分の怪異に掛かりきりだった弊害だ」
 青年から幼女になるという怪異のせいで、青年の時間には天藍宮に籠もって溜まりきった多くの執務をこなさなければならず、幼女の時には妃らしくあるために授業がある。
 しかも後宮に入ってからは悪意による体調不良にも見舞われていた。
 そのせいで身動きが取れなかったというのもあるが、最も東八宮を調査しなかった理由は――。
 罪悪感と後悔が鬩ぎ合う。
「栄養たっぷりの朝晩の食事に八つ刻(三時)の茶菓子、燐華国十三大銘茶も苺苺のためだけに取り寄せる。美肌に効くという薔薇もすでに用意させた、湯浴みも妾の湯殿で好きなだけしてくれ。寝台も苺苺にふさわしいくあるよう、昨日のうちに十分に整えさせてある。犯人探しの時間以外は、ぐっすり昼寝をしてて構わない」
「な、なんと。豪華薔薇風呂と三食昼寝つき……!?」
「どうだ。好条件だろう?」
 ふふん、と木蘭は胸を張る。
 その仕草のあまりの可愛さに思わず胸がそわそわした苺苺だったが、
「はっ、自分を見失うところでした」
とぶんぶんと首を振る。
(それに、栄養満点の朝晩の食事とお茶の時間は魅力的ではありますが、わたくしは日がな一日刺繍をしているので、昼寝の時間はあまり意味はありません。薔薇風呂は、その、ほんの少し興味はありますが……やはり湯浴み時間を長く使っては刺繍ができませんし、本末転倒です。わたくしは木蘭様を全力でお守りするためだけに、後宮へ参ったのですから)
 苺苺は寝台に三つ指をついて深く頭を下げる。
「あ、ありがたいお申し出ですが、辞退させていただきます」
 得意顔をしていた木蘭は、すっと表情をなくして閉口した。
「〝異能の巫女〟として紅玉宮でのお勤めは果たさせていただきます。ですが、やはり日中にはお暇を……」
「なぜだ」
「木蘭様にご迷惑をおかけしたくないからです」
「それは最初に聞いた。迷惑じゃないと言っているだろう。……ここにいてくれ、苺苺」
「で、ですが……」
 真剣な表情でこちらを見上げてくる木蘭が、そっと小さな両手を苺苺の頬に添えた。
 あたたかい。紫水晶の大きな瞳に吸い込まれそうだ。
 何も答えぬ苺苺に焦れたのか、木蘭の瞳は徐々に捨てられた子犬のような眼差しになる。
 苺苺はぐるぐると目が回り動悸が激しくなるのを感じた。
(ううっ。かわゆすぎます、木蘭様の命じられるままに、ここは)
と芯がぶれぶれになったところで、
(それでは推し活を嗜む妃として示しがつきません!)
と脳内の荒ぶる苺苺がお怒りの様子できゃんきゃんと叫び出したせいで、なんとかぎりぎりで踏みとどまる。
(そうです。それに水星宮には大事な、養うべき家族もいます!)
「わたくし、水星宮の庭で野苺を育てているのです。今朝には果実も赤く色づいているやもしれません。お世話をしに帰らなくては――」
「は?」
 紫淵は自分が今、木蘭の姿だということを忘れて、地獄の底から出たような低い声を出した。
 ――俺より野草が大事、だと?


 ◇◇◇


「宵世、盆器はこちらに」
「かしこまりました」
 普通の宦官よりも上質な官服をまとった青年、宵世が大きな古盆器を両手に室内へ入ってくる。
 侍女たちに朝の支度を手伝ってもらった木蘭は、堂々と皇太子付きの筆頭宦官に指図を出した。
 貴姫という立場上、東宮補佐官を呼び捨てても許されるようだ。
 宵世も当然といった表情だが、彼こそが紫淵が幼い頃から信頼している腹心の臣下のひとりだというから納得である。
「え、ああっ」
 同じく朝の支度のために紅玉宮で与えられた部屋に一度戻り、女官の手を借りずに身支度を自分で行った苺苺は、目まぐるしい展開に今だについていけていない。
 寝室での話し合いから宵世がやって来るまで、木蘭が本当になんでも決めてしまったからだ。
 苺苺はどうして良いのかわからずに、木蘭の一歩うしろでおろおろと動き回る。
 そして宵世が手に持っている古盆器に植えられていた緑の正体を知り、目を見開いた。
「あ、あ、わたくしの野苺ちゃんが……!」
 御花園で雑草抜きをしていた宮女たちが、ぽいっと投げてきた洗濯桶。それをありがたくもらってきて、寄せ植えにしていた野苺を栽培していた。
 洗濯桶栽培の野苺も見慣れると味があって乙なものであったが、……今はなぜだが、燐華国の千年の歴史を感じさせる上等な古盆器に植え替えられているではないか。
「まったく。僕に野草の植え替えを命じるなんて、どこのどいつですかね」
 窓際の日差しが丁度良い飾り机の上にそれを置きながら、小言を呟いた宵世がぎろりと苺苺を睨む。
(ひえええ。東宮補佐官様、申し訳ございません! ですがこの事態はわたくしも不本意でして……!)
 獰猛な黒狼に睨まれた生まれたての白蛇のごとく、苺苺は「すすすすみません」と小刻みに震える。
「ふむ、完璧だ。苺苺、これで妾より大切なものなどないな?」
 木蘭が満足げな表情で腰に手を当てながら、策士の笑みを浮かべる。
「もちろんでございます……っ」
 えぐえぐと悲喜こもごもの涙を流した苺苺は、「ありがたき幸せ」と完璧な礼をとる。
 こうして苺苺は紫淵の〝異能の巫女〟として、紅玉宮での無期限住み込みが正式決定した。

 苺苺が滞在する部屋は、昨日のお泊まり会決定の際、若麗たち女官が苺苺のために用意してくれた場所をそのまま使用することになった。
 木蘭の住まう本殿の隣にある、二番目に豪華な建物だ。
 この場所を女官たちが用意したのは、苺苺の妃の位や、一応ではあるが木蘭の安全を考えてのことだろう。
 建物同士は廻廊で繋がっているので、犯人探しの計画上にはなにも問題はない。
 その後は筆頭女官に呼ばれるがままに木蘭と一緒に優雅な朝餉を取り――あの、木蘭が『苺苺お姉様』と呼んだ、女官たちへの説明に至るのである。
 女官への説明を終えたあと。紅玉宮預かりとなった白蛇妃、苺苺の部屋にはふたりの上級女官が来ていた。
 勝気な十六歳の少女、紅玉宮の侍女の中で第参席を務める春燕(チュンエン)
 そして、おとなしく控えめな十四歳の少女、鈴鹿(リンルー)
 どちらも皇太子宮解禁の際に女官登用試験を勝ち抜き、若くして貴姫・木蘭妃付きの上級女官になった、見目麗しく器量も好しの後宮の花だ。
「なんで私たちが『白蛇の娘』の世話なんか……」
「白蛇妃様なのです、春燕」
「だあって! ……私たちは木蘭様の侍女なのに。仮とはいえ最下級妃の侍女なんて、左遷もいいとこよ」
「白蛇娘娘(にゃんにゃん)、お許しください。本心ではないのです」
「勝手に謝らないで鈴鹿! 本心よ!」
 春めくような容貌と陽の気をまとう春燕と、冬の静けさを思わせる容貌の陰の気をまとう鈴鹿は対照的ではあるが、ふたりの掛け合いからは仲がすこぶる良好らしいことがうかがえる。
「大丈夫ですよ。(いわ)れもなく嫌われるのには慣れていますので」
「うっ」
 苺苺がにこにこと笑顔で対応すると、元気の良かった春燕が(ひる)んだ。
 苺苺はぴかぴかの笑顔でにこにこし続けながら、ふたりを観察する。
「ちょっと、なんなのあいつ! ……ごほっ、ごほっ」
「白蛇妃様なのです。ほら、興奮しすぎは身体に毒なのです。大丈夫なのです?」
「興奮なんかしてない。ちょっと咳き込んだだけ。いつものやつよ」
 ふん、と春燕がそっぽを向く。
(……不覚にも眠ってしまった昨晩でしたが、『恐ろしい女官発見器』と化したぬい様に変化はありませんでした)
 犯人である女官が木蘭への悪意を抱くのをやめた、と判断するのは時期尚早だろう。
 隠密に犯人探しをしたかったが、どうやら苺苺の存在事態がなんらかの抑止力になっていて、『恐ろしい女官発見器』に引っかからなくなってしまったようだ。
 苺苺は女官ふたりのやりとりを眺めつつ、頭の中では今朝方の木蘭と宵世との作戦会議を思い出す――。

 朝方、水星宮にある野苺の寄せ植えを古盆器に植え替えて紅玉宮へ運んでくるという任務を終えた宵世は、堂々と室内に居座り、「どういう風の吹きまわしです?」と心底不服そう木蘭に問いかけた。
「警戒はできています。僕の得意分野ですから」
 ――事情を洗いざらい話せ。でなければここから出ていかない。
 そう言外に含んだ問いかけに、頑固だなと言いたげな顔をした木蘭が、昨晩からの事情を語り出す。
 宵世は少しだけバツの悪そうな顔をしながら苺苺に向かって、「木蘭様をお守りする仲間なので、東宮補佐官じゃなくて〝宵世〟でいいです」と言い捨てると、今度こそ堂々と居座ることにしたらしい。
 こうして、「頭痛が痛い、みたいなひどい状況だ」なんて頭を抱えた宵世が、恐ろしい女官探しの仲間に加わった。
「ということは、『白蛇の娘』の異能を警戒して鳴りを潜めることに徹底していたか……。わたくしの存在のために、木蘭様に対して悪意を抱く必要がなかったと考えられます」
 昨晩は【お泊まり会をする】という内容の文を皇太子殿下宛に出すように、木蘭がわざわざ女官たちに命じている。
 狙いは〝皇太子殿下が駆けつけたりしない密室を作り出すことで、好機と捉えた犯人が悪意を持った計画を練るのをうながす〟ためであったが、逆に皇太子殿下の訪問はないと知って、寵妃へ抱く悪意の溜飲が下がった……なんて可能性も考えられる。
「その、呪毒(じゅどく)でしたっけ? それを生じさせるまでに精製された殺意を持っていて、なおかつ、あやかしを虐げてけしかけるほどの残忍な女官なのでしょう? 今さら計画を変更するわけがない。相手は今も木蘭様を殺す気です」
 言葉も選ばずに宵世が厳しく言い放つ。
「妾もそう思う。呪毒が食事に混じり始めたのは清明節以前なのだから、今さら計画の変更はないだろう。あやかしをけしかけるくらいだ、足がつきやすい毒殺や刺客を放っての暗殺はしない主義に違いない」
「呪毒を生じさせるほどの悪意を抑え込めるだなんて、自己感情の制御も得意な方です。長期戦を覚悟しなくてはいけませんね。この調子では安易には尻尾を掴ませてはくれないやも……」
「裏で糸を引くのが得意な陰湿な性格の女でしょうね。まさに紫淵様が嫌いな典型的な後宮の女だ」
「宵世、余計なことを言うな。……こほん、とにかく。ここに来て苺苺に警戒しているというのなら、あえて苺苺の手札を晒して(おび)き寄せるしかないな」
「わたくしの手札、ですか?」
「ああ。嘘も方便というやつだ」

 そんな作戦会議があり、木蘭の策略で『苺苺はあやかしをその血によって退けられる〝異能の巫女〟である』と、女官たちに情報開示されることになったわけである。
(確かに一部の手札を晒したことで、紅玉宮内を動きやすくなりました)
 苺苺を歓迎していない女官は春燕を代表して多くいるみたいだが、今後は朝だろうが真夜中だろうが、『あやかしがいないか警戒している』とひとこと言うだけで反対派の女官たちをも黙らせることができる。
(わたくしにあやかしを退ける力しかないと知ったら、相手の気も多少は緩むはずです)
 そうでなくては困る。
 木蘭は再度確認をするため、朝餉の準備を整える女官も昨晩とは違う顔ぶれにした。十五人の女官を、明言はせずに三つの班に分けたのだ。
 お茶会の準備を行った筆頭女官が率いる侍女五人、そして夕餉を準備した古参の女官五人、今朝の朝餉を担当した年若い女官五人。
 暗殺を謀った犯人をさらに絞るため、今後はその三組の体制で徹底的に給仕にあたらせるそうだ。
(女官の皆様は順当という反応でしたね)
 当初は苺苺にお礼をするためのお茶会を予定していただけだったので、それを最も木蘭に近しい上級女官の侍女たちが準備するのは当然である。
(急遽決まったお泊まり会の準備を侍女の方々、そして夕餉を古参の女官の方々がするのも納得の配置です)
 最下級妃の白蛇の位といえど、苺苺は妃。
 貴賓を迎える準備に女官歴の長い上級女官たちが腕を振るうのは、木蘭からの信頼の証である。彼女たちにとっては名誉だったはずだ。
(そして中級女官の皆様。朝餉の準備は夕餉に比べると簡単ですし、普段はしないはずの仕事を任せていただけたのは、『紅玉宮は素晴らしい女官ばかりなのだと木蘭様が自慢したいからだわ』と、満更でもないご様子でした)
 上級女官見習いという立場の、普段は紅玉宮の掃除を専門に行う中級女官たちだ。
 慣れない給仕をしながら、嬉しそうにクスクス笑い合いながら喋っていたのは聞こえていた。
(けれどもこの給仕で、本当に確定してしまいましたわ。木蘭様の五人の侍女のどなたかが、呪毒をもたらす悪意を秘めていると)
 結果、監視や行動把握がしやすいよう、木蘭は五人の侍女をふた組みに分けた。
 木蘭付きには侍女頭・若麗(ジャクレイ)、侍女頭補佐・怡君(イージュン)、第伍席の侍女・美雀(メイチュエ)
 そして、苺苺付きとなったのが第参席の侍女・春燕(チュンエン)と第肆席の侍女・鈴鹿(リンルー)である。
(春燕さんは正真正銘の木蘭様推しみたいですし、とっても仲良くなれそうな気がするのですが……。残念ながら、目の前にいるどちらかが、呪毒を秘める恐ろしい女官の可能性もあるのですね)
 今もまだ、怒りがおさまらないのか、春燕は鈴鹿に噛みついている。
「異能があるからなんだっていうの?」
「あやかしから木蘭娘娘を守ってくれるのです」
「あやかしなんて見たこともないし、もう出ないに決まってる。――『白蛇の娘』なんて、絶対に追い出してやるんだから」
「春燕」
「左遷なんてまっぴらごめんよ! 左遷先がなくなったら、戻れるんだから!」
 部屋の隅でフンッとそっぽを向いている春燕と、しずしずと控える鈴鹿を観察していても、怪しい様子は見当たらない。
 ――追い出したいくらい、『白蛇の娘』を厄介に思っているところを除いては。

 ◇◇◇


「もう、なんで私が白蛇妃の部屋付きなんですかっ」
「……春燕? その言葉、この三日で聞き飽きてしまったわ」
「若麗様ぁ。そんなこと言うなら交代してください!」
「木蘭様の命令よ、代わったりできないわ。わかっているでしょう」
 紅玉宮の厨房で材料を広げ、本日の飲茶(やむちゃ)点心(おやつ)となる生地を手でこねながら、若麗は苦笑する。
「それに苺苺様って、とっても素朴で良い方よ? 妃であるのに威張っていないし、白州出身だから針仕事もお上手で……。しっかりした姫君だけれど、ふふっ、ぬいぐるみがないと夜は眠れないんですって」
「ふふふっ、そういうところが木蘭様の姐姐(おねえさま)たるゆえんでしょうか? 『白蛇の娘』なんて恐れられていたけれど、近くで過ごせばお優しい方だとすぐにわかりました」
 くすくすと、若麗と怡君は穏やかな声で微笑む。
「そうそう。水星宮を訪れた時には、女官の私を部屋に招いて手作りの薬草茶をご馳走してくれたのよ? 野苺の葉の薬草茶」
「野苺の葉が薬草茶になるのですか? それは知らなかったです」
「ええ、私もよ。なんでも、胃腸や美肌にとっても良いんですって」
「まあ。春先の御花園ではよく見かけますよね。まさか胃腸や美肌に良いだなんて」
 怡君は生地をこねていた手をつい頬に当ててしまい、舞った小麦粉に驚く。
 そんな様子を見て、厨房には侍女たちのクスクスという賑やかな笑い声が響いた。
「あらあら」
怡君(イージュン)様のお顔、真っ白なのです」
「ごめんなさい、つい驚いてしまって」
 若麗と鈴鹿の言葉に、怡君は恥ずかしそうに頬を染めながら、「やっぱり美肌には興味がありますから」と、口元にはにかんだ微笑みを浮かべる。
「作り方は、野苺の葉をそのまま乾燥させて薬草茶になさるのですか?」
「いいえ、葉を摘み取ってからよく乾燥させて作るそうよ。野苺の葉は生乾きのままだと腐敗の過程で(こうそ)を生んで、飲むと体内で急性中毒が発生してしまって、場合によっては死ぬこともある猛毒になるらしいの。だけどしっかり乾燥させて作ると、生薬と同じ効果が得られるそうよ」
「まあ。そのお話を聞くと少し怖いですが……美肌に良いとあっては飲んでみたくなりますね」
「ふふふ、そうね」
 毒にも薬にもなるという薬草は、生薬にも多い。そしてそういう生薬は希少で、病に非常に効くことも、有名な話だ。
 よほど美肌効果があるのだろう、と怡君は再び頬を押さえる。
 今朝も皇太子殿下の命で、東宮補佐官様が紅玉宮に来訪された。女官の憧れの的の宵世を前にして、やはり自分の身なりは気になるものである。
「ここだけの話、実は私も、お茶をいただいた日からお肌の調子がいいの」
「若麗様のお肌、最近きめもますます細やで綺麗だなと思っていたんです秘密は薬草茶だったんですね」
「ええ、そうかも。木蘭様のために少し分けていただいて、茶葉用の棚に入れてあるわ。私たちにも分けていただけないか、いつか苺苺様にまた頼んでみましょう」
 年長組の若麗と怡君の会話は穏やかに進む。
 それになんだかむかっ腹が立ったのは、春燕だ。
「若麗様も怡君様も簡単に絆されないでください! 確かに、白蛇妃が部屋でお世話してる野苺の果実は赤く実って美味しそうでしたけど……。でも、そんな猛毒茶になる野草を育ててるなんて、なにか魂胆があるに違いないわ! 『白蛇の娘』なんて、いつの時代も後宮では災いしか呼ばないんだから。絶対に追い出してやる」
「白蛇娘娘、鈴鹿は好きなのです」
「あんたはぼーっとしすぎなの! 刺繍ばっかりしてる最下級妃が、本当にあやかし避けになるわけがないわ! だいたい、あやかしなんて全然出てこないし。木蘭様を守ったのだって、まぐれだったんじゃないの? ……私にだってできる」
「こら、春燕。口が過ぎるわよ」
「はーい」
「春燕、若麗様に怒られたなのです」
「うるさいわね」
 わいわいと木蘭の侍女たちの賑やかな声が厨房に響く。
 そんな中、ひとり思いつめた様子で饅頭(マントウ)に包む(あん)を作る侍女がいた。
「……どうしたの美雀(メイチェ)? さっきから元気がないわね」
 一番元気の有り余っている春燕が、ひとつ年下の侍女に問う。
 ふたりは血の繋がった姉妹だ。地方でそこそこ大きな商家を営む両親を持つ。
 両親は姉妹を後宮に入れるため、幼い頃から一緒に手習いをさせていた。けれど美雀は甘えん坊な性格だったため、春燕が課題を引き受けることもしばしば。
『しょうがない子ね。この課題は手伝ってあげるけど、今度はもっと勉強するのよ?』
『うん、ありがとう姐姐(ジェジェ)! 姐姐だーいすきっ。私たちは自慢の仲良し姉妹ね!』
『そうね。でも妹妹(メイメイ)、後宮では暗記力だって重要なんだから。しっかりね』
 そう言いながらもながらも、春燕自身、家族から頼られることは嫌いではなかった。
『姉妹が同時期に後宮に上がっても皇帝の目には止まらん。次の秀女選抜の時、お前は十七を越える年になるが、今は美雀を先に入れる』
 三年前。美雀は街一番の容貌から、春燕よりもひと足先に皇帝宮の秀女選抜試験を受けた。
 そして次の秀女選抜試験を待つように言い含められた春燕だったが、今年の年始早々に公示された皇太子宮の女官登用試験を知り、父の言いつけを破って後宮へ上がること決断する。
 誰かの寵愛を争いたいわけじゃない。むしろ自分は裏方で誰かを支える方が向いている。
 そんな自身の性格から鑑みて、春燕は皇太子宮の女官を目指したのだ。
 仕える皇族は違うが、どちらにしても後宮。姉妹の再会は近いだろう。
 しかし後宮に入ったあとに大事な妹妹に会いに行くと、美雀は『下級女官にしかなれなかった。ここでは誰も私を必要としてくれない。姐姐と家族一緒の暮らしに戻りたい』と、泣き暮らしていた。
『ここは私がひと肌脱がなくちゃ』
 そう思った春燕は、筆頭女官の若麗に直談判した。
 美雀を紅玉宮の女官にしてもらえるよう頼み込んだのだ。
 春燕にとって美雀はなにものにも代え難い甘えん坊の妹妹で、美雀にとって春燕は幼い頃からなにがあっても助けてくれる、心強い姐姐だった。
「だって、姐姐がひどいんだもの。いつも悪口ばかり。もう聞きたくないわ」
「……そう。めんなさいね、かしましくして」
「違うの姐姐、気を悪くしないで? 私はただ姐姐が心配なの。悪口を言っていたら、姐姐が意地悪だと思われてしまうわ。……私は姐姐のためを思って言っているの」
 確かにこの三日間で、紅玉宮の雰囲気は変わってきていた。
 女官たちは皆、苺苺が普通の善良な少女であると気がつき始めている。
「でも正直な気持ちを言わなくてどうするの? 貴姫である木蘭様に進言するのも、私たち侍女の務めだわ。私に後ろ暗いことなんかない。歴史書を見て、ただ堂々と意見を述べているの。侍女としてなにか間違っているかしら?」
「なぜそんな意地悪を言うの……? う、ぐすっ……ひどいわ、姐姐……っ」
 美雀はとうとう泣き出してしまった。
 年長組が顔を見合わせ、「落ち着いて美雀」となだめる。
 春燕は唇をきゅっと噛み締めた。それを見て、鈴鹿が一歩前に出る。
「お、落ち着くのです美雀。白蛇娘娘は春燕の強気な性格、嫌いじゃなさそうなのです」
「そんなことない。うっ、ぐすっ、きっと迷惑してるはずよ。……姐姐。このままじゃ、姐姐の評判も下がってしまうわ。他の女官の皆も姐姐は意地悪ねって、そう言ってたもの」
 少女は庇護欲をくすぐる表情で涙をこぼし、心配げに眉をひそめる。
 厨房に満ちていた賑やかな空気は、いつのまにか凍っていた。
「――さあ、おしゃべりはここまで」
 ぱんぱん、と侍女たちを取りまとめる若麗がその空気を霧散させるように手を叩く。
「そろそろ饅頭を蒸しにかからないと、お八つ刻に間に合わなくなってしまうわ! (あん)はできあがった?」
「若麗様、奶皇包(カスタード餡まん)芝麻包(ごま餡まん)の餡はできました」
芋泥包(たろ芋餡まん)用もできたのです」
 若麗の問いに、怡君と鈴鹿が答える。
「それにしても……木蘭娘娘は最近なぜ鈴鹿たちの手作りを所望されるのです?」
「馬鹿ね、鈴鹿。木蘭様がお気に入りの美味しいものを、お気に入りの妃に食べさせたいからよ」
 生地に餡を包み込みながら、春燕が胸を張る。
「幼くして皇后(こうごう)様にも通づる矜持(きょうじ)を、貴姫様として自覚されているの。それから、私たち侍女の丁寧な仕事ぶりをご紹介されたいんだわ。はあ……とても名誉なことよ。木蘭様のためなら一日百個だって包子(パオズ)を作るのに」
 春燕は唇を尖らせると、「もう、なんで私が白蛇妃の部屋付きなんですかっ」と若麗に再びごねた。


 ◇◇◇


 真夜中、丑の刻(午前1時)を過ぎた頃。
 紫淵は自身の本当の住居である天藍宮で、執務机について溜まった仕事をさばいていた。
 そばには宵世が控え、次々と書状を渡してくる。
(姚州の治水工事の件か。地質の観点から、山が崩壊し河川が氾濫するおそれがあると何度指摘しても、曖昧で消極的な返答ばかり返すな。国庫から出ている予算を一体なにに使っているんだ)
 紫淵は姚州(ヨウしゅう)官吏(かんり)から送られた報告に苛立ちながら、筆を持ち、(すずり)の中の墨につける。
 病弱な皇太子という設定の紫淵の執務は、こうしてほとんど書状でのやり取りで行われている。
 書状だと面倒な面会や挨拶はないし、執務時間もある程度自由がきく。
(後宮に入るまでは木蘭の姿になってもここで執務をしていたが、幼い身体での執務はすぐに疲れがたまるし、筋力のせいか手が小さいからか筆を走らせる速度も遅くなるしで、思うようにはいかなかった)
 そして後宮に入ってからは、それはもう酷い有様だった。
 なにせ女官がうろうろしている時間帯に紅玉宮へ執務を持ち込むわけにはいかない。
 元の姿に戻れない日々が連日続く時は宵世に頼んで隠し通路を開いてもらい、真夜中にこっそり紅玉宮の寝室で執務を行う夜もあった。
 不眠症も重なって、睡眠不足でふらふらになる日もざらにある。というか、そんな日ばかりだ。
(だが今はどうだろう)
 苺苺が形代を作ってくれてからは、すこぶる体調がいい。
 あの日から夜になると紫淵本来の姿に戻れるようになったし、維持できる時間も長くて助かっている。
「そういえば宵世はいつ眠っているんだ? 昼間もここの管理をして、空き時間には調査に出かけて、夜だってこうして俺の手伝いをしているだろう」
「僕たちに睡眠はあまり必要じゃないので。まあ紫淵様が来られる前に少し仮眠を取りましたが。ですが変な疲れが取れませんね。正直、道士には関わり合いたくないですよ」
 はあ……っと宵世は特大のため息をつく。
 そのまま紫淵が書き終えた書状を受け取り、墨を乾かすために他の机に移す。
「一応、道士の血筋や近しい関係者がいないか、紅玉宮の女官たちの経歴を洗ってみました。ですが、それらしい人物はいなかったです。若麗様なんて朱家の出身ですし、この血筋に関しては紫淵様の方がご存知の通りです」
「よければ今ご覧になります?」と、執務にひと段落ついた紫淵へ、宵世は調査資料を渡した。
 紫淵はそれを受け取って、くまなく目を通した。
(もともと紅玉宮に集められた女官は、なにも名も知らぬ下女や宮女ではない。出生から生い立ちに至るまですべて宵世が厳正な精査を行った、紅玉宮の女官たる素質のある者たちだ)
 向上心があり、年齢にこだわらずに主である妃を尊ぶ。
 言い換えれば、己の価値を知り、立場をわきまえている者たち。
 年上の女官の中には皇后の侍女として仕えていた女官もいる。皇后直属の女官とはすなわち、皇太子宮のどの宮の上級女官だろうが頭を垂れる相手だ。
(ここまでして女官を募ったというのに、紅玉宮内で〝木蘭〟の命を狙う人間が出てくるとは思わなかった)
「……そうだな。相変わらず、怪しい者はいなさそうだ。後宮から出る外出許可もまだ誰も申請していない……となると、後宮内部でなにか取引があったのか?」
「かもしれません。若麗様と怡君様、それから元下級女官の美雀は、もともと皇帝宮の出身です。あちらの後宮に道術をかじった女官がいて、金品を対価にそれを広めていてもおかしくはない」
「つまり犯人の女官本人は、道士ではなく〝使役の術〟だけを行使できるだけの可能性が高いということか」
「ええ」
 宵世は強く頷く。
 あちらの後宮は魑魅魍魎の巣窟と揶揄されるほど、女の陰謀が渦巻いている。
 そこには妃に忠実な女官として暗躍する道士、薬師、調香師、鍼灸師、按摩師、そしてあやかしがいるはずだ。
 彼女たちは密かに身につけた技術を武器にして、必ず後宮でのし上がるってくる。
 時には愛憎と復讐の末に主である妃を貶め、妃嬪の座を手にするのだ。
(そんな西八宮には、いくら宦官の姿をしている宵世でも入り込みにくい。……それに宵世の顔はの補佐官として認知されすぎている)
 皇帝との不和を避けるためにも、西八宮には近づかないのが一番だ。
「女官に術を授けた道士本人を見つけるのは諦めてください。それにしても、あやかしを封じて従属させ、餓死寸前まで追い込んで使役するとは……おぞまし過ぎます。絶対に関わり合いたくない」
「なにせお前はあやかし〝饕餮(とうてつ)〟だしな。しかも妖術も使えず、あやかしの気配がわからない、鈍感な」
 筆を止めて、完全なる人間の肉体を持つ宵世を見上げた紫淵は、東宮補佐官として有能な宦官――いや、知己の悪友に向けてにやりと微笑む。
「うるさいですよ。僕はこの人間らしい成長する肉体を得るために、最高位の霊力を全振りしたんです。それにあやかしの気配はわからなくても、人間の気配はいくらでもわかります。狼よりも耳が良いですし、狼よりも鼻が利きます」
「それから?」
「暗器も習得しました。僕以外に紫淵様の補佐官を務めるに相応しい人材はいません」
「ははっ、違いないな」
 いつもの応酬を繰り広げた悪友たちはくすりと微笑み合う。
(もしここに苺苺がいたら、宵世の正体に飛び上がるほど驚いただろうな。彼女は宵世のことを有能すぎる宦官としか考えていないだろうから)
 紅玉宮に苺苺を住ませることになってからの三日間は、わざと豪華な茶会を催して侍女五人を忙しくさせ、朝餉や夕餉から徹底的に隔離した。
 呪毒が宿らない安全な食事の時間を作り、苺苺に安心して料理を楽しんでもらうためだ。
(水星宮に対する尚食局の女官と宦官たちの嫌がらせは、すでに調査をした宵世から聞き及んでいる)
 報告を聞いた時の紫淵は無表情だったが、「ふぅん?」と彼が相槌を打った瞬間には、怒りで筆が折れていたほどだ。もちろん全員処罰は下した。
(紅玉宮に来てからは苺苺も食事を楽しんでくれている様子なので、なによりだと思う)
 そして、ふたりの妃のために給仕に励む女官たちも、自己肯定感や責任感が強くなっているようで、紅玉宮の女官としてさらに誇り高くあろうとしているのがわかる。
 これにより、向けられる小さな悪意はかなり減少傾向にあるらしい。
(紅玉宮の女官が抱く悪意を一掃できる日も近いだろう。……問題は八つ刻だ)
 たくさんの茶菓子や点心、各州から取り寄せたお茶で、卓子の上は毎日華やかな食器や茶器でいっぱいになる。
 そのおかげで苺苺の持参した『龍血の銘々皿』を上手く隠してくれたので、呪毒が宿った食べ物は紫淵でも認知できた。
(呪毒は変わらず宿っているのに、呪靄(じゅあい)や呪妖は見つからないというのは、よほどの精神力であると苺苺も唸っていたな)
 紫淵も木蘭の姿で五人の侍女をそれとなく見張り、謀の痕跡や暗殺の証拠を得られないかと観察しているが――……彼女たちは、いっそ恐ろしいくらいに静かだった。
(茶会の内容を簡略化し、ひとりずつに準備を任せたら一発で犯人が特定できるだろうが……)
 紫淵があえてそうしないのは、どうせ厨房かどこかで手の空いている誰かが手伝うに決まっているので意味がないからである。
(二人一組にしようが、三人一組にしようが結果は同じだろうしな)
 それからもうひとつ、厄介な理由がある。
 元々一緒に仕事をしていた女官達の序列を、安易に崩さないためだ。
(後宮ではなにが女官同士の(いさか)いにつながるかわからない)
 本人たちが争わずとも、その下についている女官たちが勝手に対立を始めたりもする。
(任せる仕事内容によっても、『主人に贔屓にされている』だの『お前のせいで遠ざけられた』だのと問題になる場合もあるしな……。不満を募らせた末に、木蘭暗殺を企てる女官に肩入して派閥化されても困る)
 はあぁ、と知らず知らずのうちに疲れが溜まったため息がでる。
 結局、五人が朝餉と夕餉に手出ししないよう、日替わりで面倒な茶菓子を作らせて足止めするしかない。
 そのせいで苺苺には呪毒の宿る怪しげな茶菓子を毎日食べてもらうしかなく、夜にはぬい様と名付けられた形代を手に、真っ暗闇の紅玉宮を歩き回ってもらうほかなかった。
 女官ではなく〝妃〟である彼女に頼りきりになり、紫淵は申し訳なく思う。
(犯人探しが終わったら、ふたりでのんびり過ごせるだろうか。そろそろ御花園の油桐花(ヨートンファ)が散る頃だ。提燈(あかり)を持って、深夜に立夏雪(りっかのゆき)を見に行ってもいいかもしれない)
 春の終わりに降る、小さな花の雪。この国ではそれを立夏雪と呼ぶ。
(油桐花の白い花がくるくると舞い降りてくる中、あの銀花亭で密かに踊っていた舞いを見せてくれと頼んだら、近くで見せてくれるだろうか)
 道を埋め尽くす立夏雪が彼女の美しい仕草ひとつで舞い上がるさまを想像するだけで、なぜだか胸が締めつけられた。
(……苺苺は今頃なにをして過ごしているだろう。何事もなく過ごしていたらいいが)
 最近、気がつくとこうして彼女のことで頭の中がいっぱいになっていて、居ても立っても居られなくなる現象が続いている。
(最初は、自分のために彼女が〝異能の巫女〟として昼夜問わず悪意を封じて祓ってくれていることに、人知れず独占できる悦びのような高揚感のような……言語化しにくい感情を覚えていたのに。変だ)
 それが時間が経つにつれ、彼女の身の安全が心配になってたまらなくなるのだ。
 どうしようもなく、そわそわする。
(今夜は暗器を携えた宵世もここにいて、苺苺のそばには誰もいない。あやかしを退ける力や、悪意を封じて祓う術はこの目で見ていたから知っている。でももし、それ以外の彼女が対処できない事柄が彼女の身に降りかかったら)
 そう考えるだけで、紫淵の胸中は不安でざわめき、心臓が鷲掴みされたみたいに苦しくなる。
 それでも、紫淵は皇太子として、紅玉宮から離れなくてはならない。
(宵世と零理(レイリ)以外に、怪異に侵されている俺の補佐ができる人間はいない。……そう思ってこの十八年間生きてきた)
 だが今は――もうひとり、そばにいてほしい人間ができた。
 彼女と過ごす日々は明るく面白く、どれもこれもが新鮮で、なぜか視界が澄んできらめいているような錯覚に陥る。
 暗殺の危機に瀕しているというのに……まやかしの穏やかな日常が、ずっと続けばいいのにとさえ思い始めている。
 すべてが解決したらいつか叶うだろうか。
 皇太子妃として苺苺が自分の隣に立ち、手を取ってくれたなら、どれほど――。
(……は? 俺は今、一体なにを考えていた……?) 
 紫淵は額を押さえて低く唸る。
(怪異が消えたらいつか解体するこの後宮に、未来はない)
 そう、思うのに。
「宵世、ちょっと紅玉宮に行ってきてくれ」
「どうしてです? と、聞かなくてももうわかりますけどね。白蛇妃でしょう。いいですよ、僕は紫淵様の暗器ですからね」
「不審な気配がないかの確認だけでいい」
「わかりました。まったく、あやかし使いが荒いのは()(あるじ)も一緒ですね」
「すまん」
「そう思うのなら、僕の机にある書類をすべて片付けておいてください」
「わかった。……って、は? これ、全部か?」
 宵世のいなくなった部屋で、紫淵は山積みになった書類の柱を見つけて「嘘だろう……」と呟いた。

「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
 紅玉宮の白蛇妃に与えられた部屋にて。
 苺苺は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさみながら、窓際に置かれた古盆器の寄せ植えから野苺の果実を手でちぎって収穫すると、きゅきゅっと優しく手布でぬぐう。
(う〜む。今夜も収穫なしでしょうか……)
 苺苺が三日三晩見張った結果、やはり『恐ろしい女官発見器』であるぬい様が裂けることはなかった。
 それからさらに四日が経ったが、お茶会には相変わらず呪毒が出ている。
 木蘭暗殺の意志は変わっていないようだ。
 しかし、いくらこちらを警戒して鳴りを潜めている犯人でも、作戦が遂行できないために相当な心的疲労(ストレス)を感じているはずだ。
 ――そろそろ、苺苺の存在を邪魔に感じている頃合いだろう。
(無期限なんて正気の沙汰ではない、必ず『白蛇の娘』を追い出さねば。決して自分の手は汚さずに。……そうお考えのはずですわ)
 白家の次期当主となる兄、静嘉(セイカ)が、
『頭の良い女官は決して自分の手は汚さない。後宮での事件はそうやって起こものだと、僕の読んだ小説に書いてあったよ』
と物知り顔で得意げに話していた。
(いくら妹妹(メイメイ)のためだからと言って、後宮小説にはまりすぎでは? と思っていましたが、お兄様のご助言が事件解明に役立ちました)
「……あらあら? 今朝まで元気でしたのに、一株分、しおれています……! なんということでしょう、うううっ、悲しいです。まさかご病気に!?」
 苺苺はしなびてしおれている株に手を添えて震える。
 そこには寄せ植えを毎日見ている苺苺だからこそ気がつける、不自然な切り口があった。
(……――こうなったら、形代をやめてみるべきでしょうね)
 真っ赤に色づいた果実を見つめ、あーん、と唇を開いた時。部屋の扉が無遠慮に開かれる。
「ちょっとあんた。そのまま食べる気?」
春燕(チュンエン)さん」
「白蛇娘娘、水盆を持ってきたなのです」
鈴鹿(リンルー)さん」
 苺苺はきょとんと目を丸くする。
 夕餉と湯浴みを終えた苺苺が、あやかしを警戒するために部屋を出るまでの間、静かに刺繍をしながら自ら育てた果実を摘むのを知った侍女二人は、頃合いを見計らって、果実を洗うための水差しと盆を持ってきていた。
「それ、洗ったら」
「ありがとうございます。わざわざすみません」
「別に。これくらいどうってことないわよ」
「白蛇娘娘、鈴鹿たちがお手伝いするのです」
 円卓に水盆を置いた鈴鹿が、「どうぞお座りくださいなのです」と窓際の苺苺を呼ぶ。
 春燕が引いてくれた椅子に苺苺がおずおずと腰掛けると、春燕は「ほら野苺」とぶっきらぼうに言った。
 苺苺が収穫したばかりの野苺の果実を差し出す。
 春燕はそれを受け取ると、意外にも丁寧な所作で水差しから清浄な水をかけた。
 丁寧に埃を洗い流し、鈴鹿が手渡した清潔な手巾で拭ってから透明な玻璃皿に盛り付けて、苺苺の前に差し出す。
 春燕は不機嫌そうな顔をしていたが、鈴鹿は少しだけ嬉しそうだ。
 苺苺は「いただきます」と食前の挨拶をしてから、玻璃の上できらきらと輝く果実を摘んで食べる。
「むむ。少し冷えていて、なんだか甘さが増した気がします。お二人のおかげか、いつもより美味しいですっ」
「馬鹿ね。いつもとおんなじよ。……あんたさえ良かったら、明日も出すけど。厨房でやってきてもいいわ」
「鈴鹿たちに野苺の管理を命じてもらえたら嬉しいなのです」
「お言葉に甘えて、と言いたいところですが。ふふっ、この子は水星宮で唯一のわたくしの家族でしたので。わたくしがお世話したいと思っています」
 お水を持って来ていただけるのは嬉しいです、と苺苺は微笑むが、春燕はぷいっとそっぽを向く。
「ふんっ。じゃあ知らない」
「春燕は『明日も持って来ます』と言っているのです」
「言ってないわよ!」
 ぎゃあぎゃあと春燕が鈴鹿に噛みつく。
「春燕、あまり騒ぐとまた肺にゴホゴホ響くのです」
「もうずっと患ってる慢性のものだから、今さら急に悪くなったりはしないわ。……でも変ね? ここ数日は咳き込んだ記憶がないかも……?」
「もしや治ったのです?」
「……そうかも?」
(ふふふっ、春燕さんと鈴鹿さんは息がぴったりで羨ましいです。わたくしも木蘭様と息がぴったりの仲になれたら……)
 苺苺そっちのけで言い合う賑やかな女官たちを眺めつつ、夜食の果実を摘み終えた苺苺は、
(はっ! いえいえ、わたくしは紫淵殿下の〝異能の巫女〟です! 美味しいご飯にお茶菓子にお風呂、それからこんなにふかふかな寝台を用意してもらっているのですから、お給料分きっちり働かなくてはッ)
 水差しの水を使って水盆の上で手を清めてから、ぱっと立ち上がって夜警の準備を始めた。
 衣装箪笥から取り出した一張羅、金糸で蛇の鱗模様を刺繍した破魔の装束を広げて、寝台の上に並べていた白蛇ちゃんたちを覆うようにして掛ける。
「あんた、ちょっと目を離した隙になにやってるの? そんな上等な衣裳を寝台に敷くなんて」
「ふっふっふっ。今夜は白蛇ちゃんたちに上等な(しとね)でのびのびと眠ってほしくて。わたくしの一張羅(とっておき)をお貸ししているのです」
若麗(ジャクレイ)様が言ってたぬいぐるみ好きは本当だったのね」
「白蛇娘娘のぬいぐるみ、鈴鹿たちは好きなのです」
「私は好きなんてひと言も言ってないわよ!」
木蘭(ムーラン)様のぬいぐるみ、春燕もかわいいって言ってたなのです」
「言ってない!」
「白蛇ちゃんも木蘭様と一緒だと和むって言ってたなのです」
「言ってないったら!」
 再び言い合いを始めた春燕と鈴鹿。
 苺苺は心の中で『喧嘩するほど仲が良いとはまさにこのこと』と思いながら、「わたくしは夜警に出かけますので、どうぞゆっくりお過ごしくださいね」とにっこり微笑んで、部屋の扉に手をかける。
「ま、待ちなさいよ。主人のいない部屋にいつまでもいるわけないじゃない」
 弾かれたようにこちらを向いた春燕が、ばたばたと持って来ていた水盆を片付け、鈴鹿はぱたぱたと歩いて円卓を整える。
 急いで部屋を出てきた二人に「おやすみなさい」と声をかけた苺苺は、木蘭から預かっていた鍵で、しっかりと部屋を施錠した。

 ぬい様を手にした苺苺は、いつもと同じ時間にいつもと同じ道順を通って紅玉宮を巡回する。
 苺苺の異能は、人々の心に宿る悪意や口から出た悪意を眼で視ることができる。
 つまり意図的に隙を作って恐ろしい女官に謀を行う時間を与えることで、その尻尾が掴みやすくなるのだ。
 犯人を捕まえるために犯人に計画を練る時間を与えるとは皮肉だが、悪意で形代が裂けないということはすなわち、計画が思うように進んでいない証拠でもある。
(そろそろ勝負をつけなくてはいけません。わたくしたちが有利なのは相変わらずです。恐ろしい女官の方が動き出す前に、必ずや捕らえてみせます)
 いくら精神力のある女官といえど、邪魔者への苛立ちは募るだろう。今夜は『白蛇の娘』への悪意が、最大限に膨れているはずだ。
 女官たちの仕事が終わる頃を見計らって、苺苺は紅玉宮本殿の外側に造られた階段から二階へ上がった。
 本殿は紅玉宮の他の建物より高く造られており、四阿(あずまや)造りの楼榭(ろうしゃ)からは四方を観望できる。
 春の夜風が吹き抜ける星空の下、苺苺は欄干(らんかん)のそば近くに寄る。
 ひとり、またひとりと女官たちが紅玉宮内の宿舎に入っていく。
 上級女官は一人部屋を持っているが、他の女官たちは二人ひと組の相部屋だ。
 元西八宮出身の下級女官で、紅玉宮の現体制が発足してからあとに入った美雀(メイチェ)とは、推薦人であり血の繋がった姉妹である春燕が同部屋となり過ごしている。
(真夜中ともなると、ほとんどの部屋の明かりが消えていますね)
 宿舎から出ているのは本殿近くの控え部屋で、あくびをしながらお茶をしている中級女官の二人くらいだろう。
 ほう、ほう、とどこからか(ふくろう)の鳴き声が聞こえてくる。静かな夜だ。
 この時間帯になると決まって若麗の奏でる月琴(ゆえきん)の音が聞こえるが、その優雅な音色と相まって別世界に来たかのような錯覚に陥る。
 灰かぶりの水星宮とは違う、煌びやかな後宮の姿がここにはあった。
 今晩の音色は、雅やかに膨らむ音の中に憂いのような緩慢さが含まれていて、なおのこと幻想的である。
(もしかして、心配事でもおありなのでしょうか? そういえば今朝、若麗様から『紅玉宮で皇太子殿下をお見かけしませんでしたか? 最近皇太子殿下が木蘭様に会いに来られないので、御心が離れられたのかと心配です。苺苺様、なにかご存じではありませんか?』と聞かれましたね……)
 その時の若麗の瞳が、不安そうに揺れていたのを覚えている。
 あれはなにかを〝信じたくない〟と、〝そうであってほしくない〟と訴える目だった。
(紫淵殿下から木蘭様に向けられていた寵愛が失われたかもしれないと、筆頭女官としてご心配されているのやも)
 その心情が憂いとなって、月琴の音色にも表れているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、どこからか風に乗ってふわふわと青黒い靄が流れてきて、ゆうらりと苺苺の周囲を取り巻来始める。
呪靄(じゅあい)です。それほど強いものではないですね。わたくしのことを思考している程度でしょうか)
 後宮に上がって形代を作ってからは、とんと視ていなかった自分へ向けられた悪意に触れる。
 そうして幾ばくか経ち、子の刻から丑の刻から差し掛かった頃。
 かたり、と机に物を置くような小さな音がした。
「な、なにやつです……っ!」
「なにやつとは、随分な言い方だな」
 苺苺ががばりと振り返ると、四阿の下には武官の姿に身を包み、見事な長剣を佩いた紫淵(シエン)がいた。
階段があったにも関わらず足音がしなかったのは、さすが武官の格好をしているだけのことはある。
「紫淵殿下でしたか。白苺苺、皇太子殿下に拝謁いたします」
「君からの礼はいらない。俺たちの仲だろう。それほど畏まってくれなくていい」
「はて? どんな仲でしょうか?」
「つれない人だな。こんなにも互いの秘密を共有し合う仲だというのに」
「確かにそうですね……?」
 紫淵は不機嫌そうに眉を寄せて、頬を膨らませる。
 今夜の紫淵は、紺青の長髪を結い上げてはいなかった。もしかしなくても、ここ以外の場所へ行く予定がないのかもしれない。
 明け方の黎明、あるいは黄昏の夜空、そして闇夜に流れる銀河のごとき艶やかな黒髪が、さらさらと風に揺れているのを眺めながら、苺苺は少々むっとする。
「時々こうして様子を見にいらっしゃいますが、来なくても大丈夫ですのに。悪鬼面もなさらずに軽率ですよ」
「裏から来たから問題ない」
 この楼榭は屋根が広いので、蝋燭が一本立っただけの燭台の光では影になる。宿舎側の欄干に近づきさえしなければ、人影すら見えないだろう。
「というか、君は俺が木蘭の姿ではなくなった途端に態度が変わるな」
「わたくしは木蘭様推しですので!」
 えっへんと苺苺は腰に両手を当てて胸を張る。
 その『推し』っていったいなんだ、と思いながら紫淵は少し不服そうな様子で苺苺の隣に立つ。
「だが中身は変わっていない」
「それは……そうかもしれませんが……。紫淵殿下と木蘭様では違いすぎます」
 成人間近の美青年と六歳の美幼女が隣同士に並ぶ様子を想像した苺苺は、その違いを頭の中で並べ立てて『不合格』の烙印を紫淵に押した。
「紫淵殿下は推しじゃないです。不合格です」
(木蘭様推しの同志ではありますが)
 苺苺は可愛いものが好きなのだ。
 そんな苺苺の言葉に、紫淵はなんだか……告白もしていないのに勝手に振られたかのような、妙な気分になる。
「たとえ俺が不合格だろうと、君は――」
 胸の内側をぎゅっと掴まれるみたいな切なさを感じ、思わず、『すでに俺の(もの)だ』と言いかけて、彼は閉口した。
 厳密には、まだ仮初めの妃にすぎない。
 そう思うと、さらに胸の中のもやもやが増した。胸の奥底で、そろりと独占欲の炎が燻る。
「……まあいい。それより、今日の収穫はありそうか?」
「呪妖は相変わらず確認できていません。けれど、わたくし宛の小さな呪靄でしたらいくらかは」
 白蛇ちゃんの形代はすべて一張羅の中だ。
 本来なら形代に集められるため、視界に入らずにいる呪靄や呪妖といった悪意がこちらへ向かってくる。苺苺は手慰みに持って来ていた絹扇に、異能を使わずに白の大蛇と木蓮を刺繍しつつ、それを観察していた。
 紫淵はその絵画のごとく繊細で見事な両面刺繍に視線を落とし、「また見事な作品だな。白蛇と木蓮、それから玄鳥(げんちょう)神鹿(しんろく)()とは縁起がいい」と口元を緩める。
「ここ最近は玄鳥神鹿図が多いな。新しい図案か?」
「はい。少々、思うところがありまして」
「ほう? それについては後で話を聞かせてもらうとして。温かい花茶を持って来た。少し休もう」
「ありがとうございます」
 紫淵は少し迷った末にそっと苺苺の手を取り、四阿の卓子に誘う。
 自分の大きな手に遠慮がちに添えられた小さい手は、強く握ると折れそうなほど儚い。指先は夜の寒さに冷えており、氷のように冷たかった。
 紫淵は眉をしかめる。苺苺を体調不良にしては本末転倒だ。
「君にあげた肩掛けはどうした? 身体を冷やさないようにと思って、薄くても上等な品を選んだんだが」
「あっ」
「西方の国使が皇太子への献上品に持って来た織物だ」
 純白の織物は燐華国において死を連想させるが、西方や東方では花嫁が身にまとう祝福と幸福に満ちた衣なのだという。
「白家は白蛇の加護を意味する白色をことさらに尊ぶとか。その……、君への贈り物に相応しいと思ったんだが、気に入ってもらえただろう――か」
 長椅子に腰掛けた苺苺は、明らかに動揺してサササッと紫淵から目をそらす。
 そんな彼女の隣に座った紫淵は、卓子の上に頬杖をついて、胡乱げに彼女を見下ろした。
「その顔、まさか……無くしたのか?」
「無くしたと言いますか、その……」
「なんだ、歯切れが悪いな」
 苺苺は両手の人差し指を合わせたり離したりしつつ、「ええっと、その……」と口ごもりながら、紅珊瑚の大きな瞳を紫淵に向ける。
「友情の証として、猫魈(ねこしょう)様と半分こにしちゃいました」
「……は?」
「え、えへへ」
「はあぁぁぁ。皇太子の下賜した品をあやかしに躊躇(ちゅうちょ)なく下げ渡す妃なんて前代未聞だ」
 紫淵は深いため息をついて顔を覆った。
「だんだんわかってきたぞ。君はそういう人だ。昔から……」
「昔ですか?」
「いや、いい。こちらの話だ。……ほら、そろそろ頃合いだ」
 玻璃の茶壺(ちゃふう)の中で工芸茶の蕾がふんわりと花弁を開き、大輪の黄花を咲かせた。
「菊花茶ですね」
「ああ」
「よい香りがします」
 菊花は漢方にも使用され、眼精疲労の回復や、解毒と消炎、鎮静作用があるとされる。
 紫淵がこれを選んだのは苺苺の体調を心配した結果だ。
 連日の長時間の刺繍や見張りで目を酷使しているだろうし、宦官に打たれた怪我やあやかしから守ってくれた時の傷もある。
 朝晩の薬湯も飲ませたいところであったが、必要ないと断られたので、せめて。
 まあ茶壺を用意し淹れたのは宵世(ショウセ)であるが。
 紫淵は隣に座る苺苺へ顔を向け、立ち上がろうとした彼女の手首を掴む。
「座っていてくれ。今晩は俺が給仕する」
「いいえ、紫淵殿下にお茶を淹れていただくわけには」
「こう見えて、皇太子妃の作法を学んでいるんだ。まずくはしない」
 ふわりと優しく口元を綻ばせた紫淵に、苺苺も思わずくすりと笑ってしまう。
 この白皙の美貌の青年が皇太子妃の作法の手習いとは、なんだか似合わなくて面白い。
「ふふっ。ではお言葉に甘えさせていただきます」
「ああ」
 紫淵は美しい所作で茶壺を持ち、ゆっくりと茶器に菊花茶を注ぐ。とろとろと静かに注がれた茶から清涼な香りが漂い、夜半の空気に湯気が白く見えた。
 それからゆっくりとふたりで菊花茶を楽しむ。
(ほう……っ。あたたかいです)
 一息ついた苺苺を満足げに見やった紫淵は、「そういえば怪我の具合はどうなんだ」と問いかけた。
 女性に何度も聞くのはどうかと思って直接聞くのを避けていたが、白蛇妃投獄事件からもう一週間以上が経つ。宮廷医に見せるべきだと告げたが、これもまた拒否されていた。
 左手に手巾を巻いたままだが、そろそろ少しくらいは治ってきているのだろうか。
「よく効く傷薬もいただき、おかげさまですべての傷が治りました」
「そうなのか? 塞がってきたのなら良かった。そろそろ追加の軟膏が必要だろう? 宮廷医に託けて用意させる」
「いえ、新しいお薬は必要ありません。こちらは……」
 苺苺がするすると手巾をほどく。
「綺麗さっぱり跡形もなくなっているので」
「な……っ」
 苺苺は水仕事知らずの白磁のような手のひらを紫淵に見せた。予想通り、相手は絶句している。
(それはそうですよね。(はさみ)での切り傷で、あんなに血が滲むほど肉が裂けていましたから)
「これも『白蛇の娘』の異能なのか……?」
「わかりません。ただ、呪毒を宿したお茶菓子や燐火を封じて祓うことで、治癒の力を得たようです。治りが早いのは良いことですよね。元気はもりもりが一番です」
「そう、だな」
 頷いたものの、紫淵は畏怖を感じていた。
 これが『白蛇の娘』の力。これが――『白家白蛇伝』に描かれた白き蛇神の血を継ぐ、神の愛し子なのか、と。
「でも怪我の具合を知っている方をこうして驚かせてしまいますし、治癒の力があると恐ろしい女官の方にばれても得することはないと思いましたので。もう少し隠しておきます」
「言えてるな。賢明な判断だ」
 苺苺は再び左手に手巾を巻き直す。その時、視界の端にちらりと青黒い(もや)が映った。
 その色の濃さ、密度が、瞬きをした瞬間にどす黒くなる。
「この呪靄(じゅあい)は」
 立ち上がり、欄干に駆け寄った。紫淵もそれを追う。――刹那。
 苺苺の頭上にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
「――っ、苺苺!」
 紫淵は視界に映ったありえない光景に目を見開き、苺苺をその(たくま)しい腕の中に素早く閉じ込める。
「ひえっっ」
(ひえええっ、紫淵殿下がご乱心ですっ! どどどどうしましょう!?)
「な、んだ、この蝶は」
「紫淵殿下にも視えているとは驚きですっ。これは、その、呪妖(じゅよう)と言って〜〜〜っ」
 数十匹はいるだろうか。
 黒い胡蝶は怪しげな青黒い燐光を振りまきながらひらひらと舞う。その姿は背筋がぞっとするほど美しく、聞こえぬ不協和音の羽ばたきが空気を震わせているようだった。
 (いびつ)なそれは、目が見えているのか見えていないのかも不明であるが、確かに苺苺を狙っていた。
 紫淵は片腕の中に苺苺をぎゅっと抱きしめ、腰に()いていた長剣を抜きざまに一刃する。
 じゅわりと()(ただ)れる音がして、途端に腐敗物が焦げた匂いが鼻を突く。
 この長剣は燐家の宝刀である〝破邪の剣〟だ。鎮護の懐剣と対とされ、千年以上昔から存在している。実際に悪鬼を封じた際に使われたもので、本来の姿が饕餮(とうてつ)である宵世も本能的に嫌っている、古代の名匠によって鍛えられた業物である。
 呪妖はこの世のものではない胡蝶だったが、あやかしでもなかった。しかし、どうやら通用したらしい。
 灼け爛れた胡蝶は灰となって、やがて風に攫われてさらさらと消えた。
「……苺苺、大丈夫か?」
(あわわわ! ぎゅっとしないでくださいっ! なんだか心臓がどきどきして、目が回りますぅぅ)
 紫淵に抱きしめられたままの苺苺は、頬がかぁぁっと熱くなるのを感じた。
(紫淵殿下は推しではないのに、抱きしめられてドキドキするなんて変で――……あっ、これが動悸ですね。きっと連日の夜更かしでいよいよ体調不良になってきたのやも。今夜は呪靄(じゅあい)呪妖(じゅよう)もわんさかやってきていますし)
 すんっと無表情になった苺苺は、「あ、大丈夫です」と自分を捕らえている紫淵の腕を、ぽむぽむと叩いた。
「……大丈夫なのか?」
「はい。お気遣いくださりありがとうございます」
 本物の虫の大群であったなら虫が苦手な苺苺には阿鼻叫喚ものであるが、あれは呪妖だ。悪意の塊で、意識はあるが、この世のものではない。
(それに、悪意には慣れています)
「ですからもう離してくださって結構です」
「え、ああ、わかった」
 先ほどまでは恥ずかしそうにしていたのに、落差が激しすぎないか?
 とは言えず、紫淵は苺苺を解放する。
 苺苺は乱れた身なりをぱぱっと整えると、一歩踏み出し、欄干を両手で掴んで星が瞬く夜空を見上げた。
 呪妖は紫淵に斬り裂かれたことに驚き、こちから距離をとってひらひらと飛んでいる。
「呪靄から一瞬にして呪妖が生じたのには驚きました。呪妖は普通、宿主の周辺を舞っているものなのです。それがわたくしの方へやってくるとは……」
「珍しいのか?」
「初めてです。あの一瞬にして強烈な殺意を抱くほどのなにかが、あったのでしょうか?」
(木蘭様をお守りしている最中でも眼にしたことはないです。ということは、呪詛に変化する寸前まで精製された悪意ということに……。もしや、どなたかからわたくしと紫淵殿下の様子が見えて……?)
 苺苺は眼下にある宿舎をじっと睨みつける。
(呪靄も呪妖もわずかに光っているので、暗闇はむしろ好都合です。室内灯をつけていなくても、ぼんやり視えるはずですわ。――――ああ)
 見つけてしまった。
 ひっそりと蝋燭の灯りの中に揺れる、呪妖の光を。
(やはり、そうでしたか)

 悲しいような、落胆のような、切ない気持ちが苺苺の胸を締めつける。
 苺苺はしゅんと落ち込んだ様子で、胸元から両手のひらほどの大きさの白銅鏡を取り出す。
 白蛇の神器のひとつ、〝白澤(はくたく)八花(やつはな)(かがみ)〟だ。
「……大変申し訳ありませんが、宿主さんのもとへお還りください」
 苺苺は静かに告げながら紫淵の隣から一歩出ると、両手で下から支えて上向きに持った八花鏡に異能の力を鏡へ込めた。
 しゃらん、とどこからか鈴の音が聞こえる。
 すると宙に舞っていた黒い胡蝶たちはぴたりと動きを止め、ボウッと青紫色の炎に包まれた。
 燐火になったのだ。
 八花鏡に誘われ、宿舎の中からもひらひらと黒い胡蝶が出てきて、次々と燐火に呑まれていく。
 そうして青紫色の炎がうねり、ひとつに合わさって――……二本の角を持った獅子に似た瑞獣、白澤の姿を形作った。
 燐火の白澤は空を駆け、苺苺のもとへ飛び込むようにやってくると、すうっと音もなく八花鏡に吸い込まれて消えた。
 それはただただ幻想的な光景だった。
 紫淵はいつのまにか魅入ってしまい、気がついた時には長剣を鞘におさめていた。
「あれが、人間の悪意なんだな」
「はい。紫淵殿下にも呪妖が視えるようになったのは〝龍血の銘々皿〟の影響でしょう。血の契約をしたので、紫淵殿下とわたくしとの間になにかしら……縁ができてしまったのかもしれません」
「……なるほどな。先ほどの術は?」
「宿主の方には申し訳ありませんが、呪妖を宿主の元へ送り返す術を使わせていただきました。封じたわけではなく、本当にただ目の前から祓う効果しかないので、わたくしとしてはあまり使いたくないのですが……」
 苺苺は欄干のそばに寄って、女官の宿舎へ視線を走らせる。
(書物には基本中の基本とありましたが、送り返された方の気持ちを思うと、とてもじゃないですが使えません。だって、あの黒い胡蝶が一瞬だけ実体化して、し、し、し、死骸にぃぃぃ)
 静寂を爪で引っ掻くかのごとく、ビィィィンと月琴の弦が切れた音がする。
「きゃあああああああ――――っ!」
 それから一拍遅れて宿舎から甲高い悲鳴が上がり、とある部屋の灯籠に灯りがついた。
 苺苺はその様子を見て仰け反る。
「お、おいたわしや……!」
 灯りがともされた部屋は、春燕と美雀の寝所だった。


 紫淵との話し合いの末、翌日はこれまで通りに過ごす手筈になった。
 五人の侍女たちは今日も変わらず茶菓子作りに腕を奮ってくれている。
 毎度のことだが、茶会で残った茶菓子は紅玉宮の十五人の女官たちに下げられ、彼女たちのおやつや夜食になる。
 呪毒とは、もとを辿ると呪妖であり呪靄だ。
 悪意を成就させるための精製された毒である。
 そのため木蘭に出された茶菓子に呪毒が宿っていても、他者の唇に触れた時点で霧散して発生源へと還っていく。女官たちにはなんの健康被害も出ないのだ。
 しかし『白蛇の娘』である苺苺ばかりは例外だった。『龍血の銘々皿』を通さずに食べた呪毒に、肉体は正しく反応する。
(けれども新たに目覚めた治癒の力で、呪毒で傷つけられた内臓もすぐに治ります。ふっふっふ、霊力が尽きぬ限りすこぶる元気なわたくしです)
 そんなわけで、紅玉宮ではおやつが豪華な日が続いている。
 年頃の女官たちは皆嬉しそうにはしゃいでいて、休憩時間も楽しそうだ。
 紅玉宮に集められて約三ヶ月、それぞれのことを知り始めた女官たちの仲も平和に深まるというものである。
(――紅玉宮に集まる以前から深かった仲を除いて、ですが)
 苺苺は昨晩刺していた紫木蓮が咲き誇る『白蛇玄鳥神鹿図』の円扇でそっと口元を隠し、給仕の支度を始めた春燕(チュンエン)を視線だけでひっそりとうかがう。
 大皿に上品に盛り付けられた茶菓子を若麗(ジャクレイ)が円卓に並べて、怡君(イージュン)が小さな取り皿をふたりの妃の前にしずしずと置いた。五色の陶製皿だ。五行にちなんだ色合いを使って邪を祓うという縁起物である。
「木蘭様。数刻前に宵世(ショウセ)様がいらっしゃいまして、次の選妃姫(シェンフェイジェン)に関する通達がありました。それから先ほど徳姫様の女官が来られて、徳姫様主催のお茶会を明日開催すると」
 筆頭女官の若麗が言う。
「徳姫は自分主催の茶会を誰よりも早く通達したかったんだな」
「そのようですね。お茶会の方は、招待状には紅玉宮からは貴姫様だけで、水星宮の白蛇妃様のお名はありませんでした」
 それで、と若麗が申し訳なさそうに言い淀む。
 けれど苺苺は「お茶会のお呼ばれがないのはいつものことですので、お気にならさずに。刺繍を刺しつつ、楽しくお留守番いたいますわ」と答えた。
「……宵世はなんと?」
「はい。七日後に行われる選妃姫の試験内容は、『端午節(たんごせつ)の香袋』だそうです」
 端午節は燐華(リンファ)国五大節句のひとつだ。
 国中のいたるところで無病息災を祈る龍舟嘉年華(まつり)が行われ、おこわを笹の葉で巻いた粽子(ちまき)艾饃饃(よもぎもち)などを食べて、子孫繁栄や疫病退散を願う。
 端午節に作る香袋は『香包(シャンパオ)』と呼ばれていて、五行に基づいた五色糸を使って刺繍し、中には清涼感のある香りがする(よもぎ)や生薬を詰めて作る。
 こちらも無病息災や疫病退散、そしてその末にある子孫繁栄を願って作られ、香包は主に首から下げて使われる。昔は母が子のために手作りするものだったが、今ではその風習も変化していて、親しい間柄で贈り合うことも多い。
「七日間で製作し、選妃姫当日に皇太子殿下へ披露するようにとの仰せでした」
「やはりそうか。過去の選妃姫では一度目が詩歌、二度目が端午節の香袋の腕前を競うことが多かったというから、驚きはないが」
 選妃姫の題目に一喜一憂する妃嬪が多い中、顔色ひとつ変えずに言う幼い木蘭に、侍女たちは賑やかになる。
「まあ、さすがは木蘭様」
「貴姫様として必要な教養をしっかりお勉強なされていて感心致します」
「木蘭娘娘、偉い偉いなのです」
「ふふん、妾にとっては当然の知識だ」
 木蘭は背筋を伸ばして胸を張り、紅玉宮の幼い主人らしく応じる。
 苺苺はそんな様子を見て、紅珊瑚の瞳に感動の涙を浮かべる。
(あああ、得意満面な様子の木蘭様……! 金銀財宝では買えない尊さ、ここにあり……ッ)
 頬を染め上げて眦を下げる苺苺を見て、『本当は、試験内容を決めているのは自分なんだが……』と木蘭はいたたまれず目をそらした。
「あー……。妾は詩歌には自信があったが、刺繍は苦手だ。その点、苺苺は刺繍の名手。ぬかりはないな」
「ふふふっ、はい。『端午節の香袋』とは腕が鳴ります」
 苺苺は早速頭の中に図案を広げる。
「領地をあげて香包製作をしている州もあると聞きます。他にも、粽子(ちまき)型や瓢箪(ひょうたん)型などの福寿にちなんだ意匠だけでなく、毒を持った蟲さんたちを刺繍する五毒図案(ごどくずあん)が人気を呼んでいる地域もあるとか」
 毒を以て毒を制するという意味を持つ五毒図案は、苺苺にとっては手に取るのも難しい図案だが、これまた巷で大人気なのだという。
(妃たちがどのような立場で、どのような意味合いを持たせた香包を製作するのか……。香包の完成度や刺繍の腕前だけでなく、持たせる意味合いも含めて試験されるのでしょう)
「わたくしも、あっと驚くような香包を考えなくてはなりませんねっ。紅玉宮に置いていただいている以上、木蘭様に恥じぬよう立派な働きぶりをお見せいたしませんと!」
「本当よ。あんたのせいで紅玉宮が落ちぶれたらタダじゃおかないんだから! ……頑張ってよね!」
「もちろんです、春燕さん」
「白蛇娘娘なら『百花瓏玉(ひゃっかろうぎょく)』を賜われるなのです」
「ちょっと! そこまでは望んでないわよ! それは木蘭様のものなんだからっ」
 百花瓏玉とは、選妃姫で皇太子殿下から妃に下賜される褒美だ。
 その名の通り百花の美しさを持つ最高級の宝飾品で、指輪、腕輪、首飾り、額飾り、(こうがい)(かんざし)があって、それぞれに金、銀、白金、そして至極の宝石をあしらっていると聞く。
 選妃姫の最終選抜ではこれらで着飾り、その美を競うとか。
 つまり、それまでに賜った『百花瓏玉』の希少性で妃嬪たちの力関係はすでに決すると言ってもいい。
 一回目の選妃姫では、妃嬪たちには階級を表す官名と宝石の名を冠した宮が与えられた。
 二回目の今回は、八人の妃の誰かひとりに百花瓏玉のひとつが褒賞として下賜されるはずだそうだ。
「木蘭娘娘なら『鴿血紅寶石(ピジョンブラッド)蓮花(れんか)(しん)』、白蛇娘娘なら『(しろ)翡翠(ひすい)花雫(はなしずくの)額飾(ひたいかざり)』が似合いそうだと言っていたのです」
「言ってないったら!」
 春燕と鈴鹿のふたりのやりとりに、クスクスと鈴を転がす笑い声がいたるところから漏れる。
 いつも自室で繰り広げられるやりとりがここでも見られるとは思わず、苺苺も「ふふっ」と思わず頬を綻ばせた。
「お二人とも、とっても詳しいのですねぇ〜」
 苺苺の周囲にぽけぽけと花が飛んでいる幻覚を見た春燕は、「ふんっ、こんなの常識よ」と顔をそむける。
「むしろこれくらい知ってなきゃ、皇太子宮の上級女官になんてなれないんだから」
「『百花瓏玉』の位と階級を事細かに示す、『百花瓏玉目録』があるのです」
 鈴鹿の言葉に、木蘭が鷹揚に頷く。
「皇帝宮の宮女を選ぶ秀女選抜試験でも、皇太子宮の宮女を選ぶ女官登用試験でも、『百花瓏玉目録』に関する試験がある。目録の写しが配布され、正式名称と宝石の種類、それから過去にどのような妃嬪たちが賜ったかという歴史を学ぶ筆記試験が実施されるんだ」
「へええ、そうなのですね」
「上級女官は妃嬪に最も近い存在だ。『百花瓏玉』を知らなくては、自らの主人をそれに相応しく着飾ることも、たしなめることもできないからな」
「なるほど、なるほど。勉強になります」
 木蘭の説明に苺苺が大きく頷くと、木蘭は幼妃に似合わぬ呆れた表情で頭を抱える。
「……苺苺、水星宮にもあっただろう? 『百花瓏玉目録』の写しが」
「いいえ? あったのは『王都妖怪大事典』でしたね?」
「は? 『王都妖怪大事典』?」
 木蘭が「意味がわからない」と突っ込んだのと同時に、茶会の準備を進めている侍女たちもポカンとする。
「なにが書いてあったか聞くのは負けた気がするが、なにが書いてあったか聞いてもいいか」
「ええ。なんでも、昔々に王都に現れたあやかしさんたちを事細かにまとめた大辞典だとか」
「ほう、それで?」
「黒墨で描かれた写実的な画風が猛々しく、夜はちょっぴり眠れなくなりましたが……。あやかしさん達について、とても勉強になりましたわ! ところどころ虫さんも載っていたので、冗談みたいな読み物なのかもしれませんけれど」
 そう語った苺苺は探偵のようにキリリと表情を引き締めて、指先をぴんと一本立てる。
「なんと王都には、悪鬼と並んで最恐と呼ばれる最高位のあやかし〝饕餮(とうてつ)〟も出たそうです……! 『王都妖怪大辞典』の解説によると、今もまだ王都にいるかもしれないとか。真相は謎のままです……!」
「そ、そうか」
 それって宵世だな? とは言えない木蘭であった。
(ということは、水星宮に『百花瓏玉目録』を配布される係の方が、間違えて『王都妖怪大辞典』を置いていかれたのでしょうね。おかげさまで猫魈(ねこしょう)様のお姿やお名前も勉強できましたので、ありがたかったです)
 と、苺苺と木蘭の話がひと段落したところで。
 筆頭女官の若麗が侍女たちに目配せをする。茶会開始の合図だ。
 上級女官五人はそれぞれの位置について、今日も時間を惜しまずに手作りした茶菓子をしずしずとつぎ分け始める。
「木蘭様、苺苺様。本日はお茶菓子は三種の餡の煎堆(揚げ団子)、それから艾饃饃(よもぎもち)をご用意いたしました」
 白胡麻がまぶしてある丸い煎堆の中は、落花生(ピーナツ)餡、紅小豆餡、黒胡麻餡だ。
 発酵させた米粉と小麦粉から皮を作り、餡も全て手作りしたそうだ。
 端午の節句の訪れを一足早く知らせる艾饃饃は、昨日のうちに夕露時の御花園で摘んだ春蓬を使ったらしい。朝でなく夕方に収穫するのは、日中に陽気をたっぷり浴びて糖分を増やした葉は甘くなるからだ。
 みずみずしい翡翠色に蒸しあがっている小ぶりの姿は、それこそ『百花瓏玉』と例えたくなる。
「こちらの艾饃饃(よもぎもち)は珍しい形をしていますね? ひとつは木蓮の意匠ですが、もうひとつはまさか、苺の花でしょうか……?」
「はい。こちら私が型から作らせていただきました」
 女官の中で一番背の高い、いかにも先輩という雰囲気の怡君が腰を曲げ、少しはにかみながら言う。
「怡君さんが?」
「はい。実は私、木彫りが趣味なのです。普段は観音菩薩様などを彫っているのですが、木蘭様と苺苺様のお泊まり会延長が決まった時から、なにかおふたりの記念になるようなものを作れないかと考えていて……」
 茶菓子の型にしようと思い至り、休憩時間に図案を考えて彫刻刀で木を彫って作ったらしい。
「すごいです、怡君さん! ありがとうございます」
「うむ。妾も気に入ったぞ」
「ありがたきお言葉でございます」
 怡君が下がると、美雀がふたりの妃の前にそれぞれ空の銀杯を置く。
「本日のお茶は、春燕と一緒に考案した食譜(レシピ)で作った水果茶(フルーツティー)です」
蘆薈檸檬(アロエレモン)と野苺の薬草茶を合わせて、目の前でお作りいたします」
(野苺の薬草茶! あの時、水星宮で若麗様にお渡ししたものですね)
 玻璃(はり)の水壺には蘆薈(アロエ)と檸檬の果肉が入った果汁蜜(シロップ)が入っている。まずはそれを、春燕がふたりの銀杯にそれぞれ注いだ。
 とろとろと注がれた果汁蜜から、清涼感のある香りがふわりと漂い始める。
 薬草茶が入った茶壺を持った美雀が、木蘭の銀杯にそれを注ぐ。
「そちらの匙でよく混ぜてお飲みください」
 次に苺苺の隣にやってきた。
 茶壺から銀杯にとぽとぽと――。
 その彼女の周囲を、ひらひらと黒い胡蝶が飛んでいる。誰にも見えないはずの呪妖の姿を、苺苺と、木蘭だけは捉えていた。
「いただこうか」
 木蘭が銀杯を手にする。それから不自然にならぬよう、互いの視線を合わせた。
 色鮮やかな食器や茶菓子でいっぱいになった朱塗りの円卓の隅に、苺苺がそっと置いた朱塗りの小皿の上はまだ空だ。それを二人で確認する。……だが。
「飲んではいけません、木蘭様。そちらには――〝毒〟が含まれております」
 苺苺は毅然とした態度で言い放った。
 真珠色のけぶるような睫毛の下、紅珊瑚の瞳がすっと温度をなくす。
「ど、毒なんて」
「そんなまさか……っ」
 先ほどまでの紅玉宮に似つかわしくない言葉に、女官たちはハッと息をのんで動きを止めた。
 木蘭は銀杯をくるりと回して、内容物を確かめる。
「……苺苺、銀杯にそれらしき痕跡はない。毒とはいったいどういうことだ?」
「銀杯には反応しない毒が使用されております。野苺の葉の毒です。よく乾燥させずに茶葉を作ると、腐敗の過程で有毒になるのです」
「なんだと?」
「薬草茶の水色(すいしょく)をご覧ください」
 銀杯の中身は比重の関係で二層になっている。下は薄黄色、上は黒茶のような色だ。
「こちら黒茶のように濃くしっかりと出ておりますが、通常の野苺の葉茶は黄茶。君山銀針(くんざんぎんしん)を思わせる色合いをしているはずです。そして香りも青く、清涼ではありません。それをごまかすために蘆薈檸檬の果汁蜜を入れたのでしょうが、」
 苺苺は「ふふふっ」と絹扇で口元を隠し、この場でただひとり呪妖の中に立つ犯人に笑う。
「わたくしはごまかせません。……ねえ、美雀さん?」
(幼い頃に飲んだあの、あの猛毒茶の匂いと味は忘れていません! 嘔吐が止まらず、お腹を下して寒気の中で震え、死の淵を見たあの日……! お兄様が助けてくれていなかったら今頃どうなっていたか。ああああ、思い出すだけで感情がごっそり抜け落ちます……っ! けれど今は木蘭様に猛毒茶を飲ませようとした犯人の前。ここは無理やりにでも笑顔を作り余裕を保ちませんと! 笑顔です、笑顔っ!)
 苺苺の赤い唇が弧を描いた瞬間。
 その場にいるすべての人間は息をのみ、胸の奥底から湧き上がる畏怖から微動だにできなくなった。
 白き大蛇と生贄花嫁の異類婚姻によって生まれた――『白蛇の娘』。
 その、この世のものとは思えぬぞっとするほどの禁忌の美貌が、美雀を見据える。
 先ほどまで少女らしい可憐な笑みを浮かべていた美雀は、その禁忌の美貌に直視され、恐怖のあまり青ざめてガタガタと震え出した。
「白蛇妃様? わ、私には、白蛇妃様がなにをおっしゃっているのか、わかりません……」
 彼女の周囲をひらひらと舞っていた呪妖が、途端にぶわりと数を増す。
「茶葉は厨房にある、刺繍袋に入っていたものを使いました。白蛇妃様のお作りになった茶葉です。見知らぬ茶葉だったので、量はたくさん使ってしまったかもしれませんが……。けれどそれだけで、私は無実ですわ……!!」
「おかしいですねぇ。わたくしは確かに野苺の葉茶をお贈り致しましたが、しっかりと乾燥させ、薬草茶として人体に良い影響を与える状態にしたものだけを吟味しておりますわ。それに黒茶になるほどの量も差し上げておりませんでした」
 今もひらひらと飛ぶ黒い胡蝶をまとっているのは、感情が乱れるほどの悪意を抱いているからだ。
 昨夜の呪妖の光は、美雀と春燕の部屋から()確認されている。
 白澤の八花鏡を使い異能を行使した時、呪妖は美雀のそばに還り、だからこそあの悲鳴をあげたはずだ。
 その件に関しては、すでに紫淵(シエン)に報告済みである。――もちろん、()()()()()()()()()()()()()()
「……美雀さん。わたくしの野苺ちゃんを(はさみ)で切ったのは、あなたですね?」
 苺苺が静かにそう告げると、美雀が大粒の涙を浮かべる。
 彼女の手から滑り落ちた茶壺が床で跳ね、パリンッ! と部屋の空気をさらに凍らせる音を立てて割れる。茶壺の中から茶葉が飛び散った。
 それはゆうに十人分以上の量に相当するほどの茶葉だった。
「……やはり。よく乾燥させずにわざと有毒の状態にした茶葉ですね。こんなにたくさんの葉で抽出したお茶ですから、きっとひとくちでお手洗いに駆け込むことになりますわ! 一杯飲んだら死の淵です!!!!」
 苺苺は毅然と美雀を睨みつける。
 美雀は悲痛そうに顔をくしゃくしゃにすると、「――春燕ですッ!」と泣き叫びながら崩れ落ちた。
「毒茶を淹れた犯人は春燕です! この食譜は、春燕が考えたものなんです!」
「な、なにを言ってるの美雀……!? あなたが最初に『白蛇妃様に喜んでもらうお茶にしよう』って提案してたから、だから、私は――!」
 春燕が驚愕し顔を青ざめる。
「春燕はいつも白蛇妃様の悪口を言っていました……っ。出て行ってほしいっ、不吉だって。白蛇妃様の野苺だって、白蛇妃様付きの春燕だから盗めましたっ! 昨日、(よもぎ)を摘む時にもいっぱい摘んできていて……っ」
 美雀は頬を真っ赤にしながら、一生懸命に叫び、大粒の涙をこぼす。
「私は……ぐすっ、……何度も止めたんです! だけど、春燕は紅玉宮から白蛇妃様を追い出すために……ッ!!」
「は、はあ!? ちょっと、でたらめ言わないで!」
「木蘭様! 春燕は白蛇妃付きにした木蘭様を逆恨みしていました、それで木蘭様の銀杯にまで……! ううっ、ぐすっ、私が春燕を止めていたのは、紅玉宮の女官全員が証人です!」
 涙で目を腫らした美雀が泣き崩れた姿のまま、冷静に事の成り行きを観察していた木蘭を見上げる。美雀はそのまま膝立ちで駆け寄り、幼妃の小さな膝に縋った。
姐姐(ジェジェ)が、『寝台の下に腐敗した茶葉を隠してるのを黙っててほしい』って言ってたけれど、私……っ。私もう、姐姐の大きすぎる罪を隠し通せないわ……っ!」
 ポロポロと大粒の涙をこぼしながら春燕を仰ぎ、美雀はそう堂々と叫んだ。
 ……まるで悲劇の少女(ヒロイン)だな。
 木蘭は幼い顔に似つかわしいほど冷めきった表情で、まるで蛆虫でも見るかのような視線を美雀に向けた。
 心底軽蔑しきった表情をして主人に気づかぬ美雀は、まだ膝に泣きすがっている。
 春燕はふつふつと湧き上がる怒りのせいでぶるぶると震えながら、一歩踏み出した。
「隠してなんかない! いい加減にでたらめ言うのはやめて!」
「うっ、ぐすっ……私が白蛇妃様に疑われるように、わざと茶壺(ちゃふう)を持たせたんでしょう? 姐姐はいつも、木蘭様付きになった私を妬んでいたものね……っ。それで犯人に仕立て上げて、白蛇妃様と一緒に追い出すつもりだったんだわ! そうやって、幼い頃からいつも、姐姐は私に意地悪をして虐げる……っ」
 (らち)が明かないな。
「……若麗(ジャクレイ)
「はい」
 木蘭は呪妖が次々に湧き出す美雀から視線を外すと、硬直している怡君と鈴鹿の隣に並んで、神妙な顔をして事態を見守っていた筆頭女官に命じる。
「今すぐここへ東宮補佐官を呼べ」
「御意」
 完璧な礼をとった筆頭女官が颯爽と応接間を退出し、皇太子付きの筆頭宦官を呼ぶために紅玉宮を出て行く。
 それからすぐに宵世と皇太子宮の警備請け負う宦官が到着し、宿舎にある春燕と美雀の部屋が改められた。
 宦官たちが、湿り気のある水盆に入った大量の腐った野苺の葉を持って、この部屋に入ってくる。それから土のついた鋏、蓋つきの籠の中で衰弱死した野兎。
「ひいっ!」
「なんとむごいことを……っ!!」
 女官たちが顔を青ざめ小さく悲鳴をあげ、苺苺は悲痛に満ちた表情で口元を覆う。
 声をあげなかったのは木蘭くらいだ。
 木蘭は指を顎先に当て考え込みながら、それらの品を改める。
 鋏に付着しているのは栄養のないその辺の土ではなく、御花園の腐葉土だ。水盆の湿り方から見ても、毒素を含ませるため意図的に野苺の葉を大量腐敗させたのは間違いないだろう。
 皇太子宮に上がっていた盗難報告書に野兎があったな。
 蓋つきの箱も目撃情報と一致している。
 極めつけに、彼女を慕うように飛び回る黒い胡蝶。……決まりだな。
 木蘭は侮蔑を含んだ笑みを浮かべそうになるのを抑え、大袖に埋もれた両の指先でちょこんと口元を隠す。
「証拠品は以上です。すべて春燕の寝台の下から出てきました」
 墨をこぼしたような杏眼を、宵世が春燕に向ける。
 動かぬ証拠を前に、集まってきた紅玉宮の女官や宦官たちは誰もが黙したまま思っていた。『春燕が犯人だろう』と。
「そんな……ッ。東宮補佐官様、私じゃありません! 信じてください!」
「そうですよ、宵世様! 春燕さんではありません!」
 四面楚歌の春燕をかばうために、苺苺も負けじと声を張る。
 春燕はハッと目を見開き、信じられないものでも見る顔で、自分を庇った苺苺を見た。
「春燕さんの言葉は警戒心から生まれるもので、わたくしへの悪意がありません。春燕さんはなんだかんだ言って、わたくしを慕ってくれています……!」
(どんなことを口にしていてもどなたの周りにも呪靄(じゅあい)が生じず、今だってこんなに混乱している状況ですのに呪妖を宿してもいませんッ。そして、なにより――木蘭様を推している方に、悪人はいないのですわ!! 木蘭様推しのひとりとして、わたくしが春燕さんを守らなくてはっ)
「わたくしには春燕さんの心の清らかさがわかるのです!」
 力説した苺苺を心底気だるげに一瞥した宵世は、抑揚のない声で「引っ捕らえよ」と冷たく宦官たちに命じた。
 万事休すか、と春燕が唇をぎゅっと噛み締めた時。
「……な、なぜ、私を……!?」
 杖を持つ宦官たちに捕らえられたのは、床に崩れ落ちたままの姿で冤罪を訴えるように泣いていた美雀だった。
「美雀。お前のことは昨晩苺苺から報告を受けて、すでに宵世が調べている」
 紅玉宮の幼い主人、木蘭は威風堂々とした足取りで捕らえられた美雀の前に歩み出ると、紫水晶の双眸を冷たく細めながら彼女を見下ろした。
「昨日、尚食局に搬入されていた野兎が一匹盗まれた。その際、『不自然な蓋つきの籠を抱えていた皇太子宮の女官を見た』と多数の目撃証言があったんだが、西八宮の下女がお前の顔を覚えていてな」
 三年も一緒に働いたのだからわかる。彼女は美雀だった、と。
「…………っ!」
「妾も今朝報告を聞き、紅玉宮ではどう罰するべきか考えあぐねていた最中だった。だが、盗みだけでなく……――皇太子妃を未遂とはいえ二人も害そうとした罪、そして虚言を重ね、皇太子宮最上級妃付きの上級女官である春燕に濡れ衣を着せた罪は重い」
 投獄され杖刑ののちに、上級女官から下女へ落とされるだけでは済まされない。
 彼女には厳罰が下るだろう。
「毒茶の威力を試すなら、せめてどぶ鼠でも捕まえたら足がつかなかっただろうに。育ちの良さが(あだ)になったな」
 木蘭の言葉を聞き、美雀はギリっと奥歯を噛みしめる。
「美雀、妹妹……なんで……」
「姐姐が全部悪いのよ!! 昔からそう。利用してやってただけなのに勝手に姐姐づらして! そのせいで紅玉宮で私は姐姐の下に見られるようになったッ。私が街一番の美人で、誰からも可愛がられて幸せだったから嫉妬して、こうやって私に意地悪をするんでしょう!?」
「私が美雀を妬む? そんなわけないでしょう。私たち、いくら姉妹でも別人なのよ……? それに意地悪なんてしてないわっ」
「してるわ! 木蘭様にも白蛇妃様にも取り入って……私の出世の邪魔してるっ! 私が先に後宮に入ったのに……私が先に妃になるはずだったのに!! こんなのおかしいわ、姐姐はずっと私のご機嫌を伺って、なんでも請け負って、下女みたいに傅いててよ!!」
「宵世、連れて行け」
「御意」
「私の人生がめちゃくちゃになったのは姐姐のせいよ! 今すぐ紅玉宮から出て行って……ッ」
 泣きわめく美雀は宦官たちにきつく取り押さえられながら、紅玉宮を後にした。


 ◇◇◇


「そ、壮絶な修羅場でした……。あれが後宮……恐ろしいところです……」
「あれくらいなら後宮では序の口程度のやり合いだ。死人が出なくてよかったな」
 執務用の椅子に腰掛け、長い足を組んだ紫淵は憂いを含んだ顔で淡々と言う。
 ここは皇太子の居城である天藍宮(てんらんきゅう)
 本来ならば夕刻となり後宮の門が閉ざされたあと、後宮妃は滅多なことでは門の外へは外出できない。
 そんな後宮内皇太子宮は紅玉宮預かりの〝白蛇妃〟苺苺は、初めて訪れた天藍宮で紫淵の執務室に通されていた。
 後宮から出てしまったという罪悪感でなんとなく居心地が悪い。
 それに万が一、許可なく後宮を抜け出しているところを誰かに見つかったらと思うと、不安に駆られてしまう。
 だって、あやかし用の地下牢に投獄された経験のある白蛇妃だ。問答無用で即刻打ち首になる気がするのも無理はない。
(わたくしは全力で木蘭を推すために後宮へ来ただけであって、後宮で死ぬ気はさらさらないのですが……! けれどもあのご様子では、)
「わたくしと木蘭様も、だっだだだ脱走罪で……!」
「寝室の内側から扉に閂をかけているから、女官に侵入される心配はない。外から声をかけて反応がなくても寝ているだけだと思うだろう。そのためにわざわざ俺が演技をして寝室に君を引き入れたんだ、問題はない」
 苺苺がビクビクしていると、呆れ顔の紫淵が「心配する必要すらない話題だな」と首を振る。
 まあ連れ出したのは皇太子宮を治める皇太子殿下本人なので、誰かにバレたところでどうとでもなる。
 それにもし、二人の姿が目撃されたとしても、【皇太子殿下が白蛇妃と月下の逢瀬!? 天藍宮で禁断のご寵愛】と煽るような見出しと尾ひれと背びれと胸びれがついて、後宮全土に激震が走るだけなのだが。
 苺苺はそんな状況下にあることにまったく気がついていない様子だ。
(はぁぁ……。ここに来るまでの間でどっと疲れてしまいました……。それに加えて、呪妖を視るためとは言え白蛇ちゃんを長く封印しすぎた弊害の疲労も……)
 紫淵の執務机の向かい側に置かれた応接用の長椅子を勧められた苺苺は、そこに座ったまま〝白蛇の鱗針〟を片手にグッタリしている。
 いくら異能の才が強まり、歴代の白蛇の娘にはなかった癒しの力を得たと言っても、常に悪意に蝕まれていると癒しの力も追いつかないものだ。
 目の前には、夜光貝の総螺鈿(そうらでん)細工が施された漆塗りの卓子がある。
 普段の苺苺であれば、その緻密な吉祥図案と猫足の曲線美に心底感服するところなのだが、今は「きらきらしていてきれいですね、まるでおほしさまのようです」と現実逃避をする感想しか浮かばなかった。
「ふふふ、ふふふ」
「……苺苺、君はよほど疲れたんだな。言動が支離滅裂だ」
(それにしても……。昨晩のあの様子から事件が起きそうな気配は察知していましたけれど……まさか『木蘭(ムーラン)様暗殺未遂事件その二』と『白蛇妃(はくじゃひ)暗殺未遂事件』、それから『上級女官追放未遂事件』が立て続けに起きるだなんて……)
「って、いえいえ、死人なら出ましたよっ」
「……誰か死んだか?」
「無実の野兎ちゃんが暗殺されてしまいました……!!!!」
「皇帝陛下の滋養強壮料理用に食肉業者から仕入れていたやつだろう」
「なっ、なんと冷たい! 紫淵(シエン)殿下は鬼ですっ、この悪鬼武官!! ではなくて悪鬼皇子めっ!」
「なんとでも言ってくれていい。事実だしな」
 野兎は苺苺によって手厚くお別れ会が行われた。あの世で寂しくないように、ぬい様と白蛇ちゃんも一緒に詰めてある。どうか野山を元気に駆け回ってほしいと思う。
 執務の手を止めた紫淵は机の上で頬杖をつくと、「それよりも」と言葉を切る。
「君の身になにも起こらなくてよかった。美雀が刃物でも持っていたら、あの姿の俺では君を守れないかもしれないからな」
 静かな夜にふんわりと溶けるような微笑みを浮かべる。
(うっ)
 絶世の美青年の甘い眼差しを直視してしまった苺苺は、手慰みに刺していた刺繍の手を止めて、その絹扇で目元以外の顔を覆う。
「い……今の会話の流れで、よくそのようなお顔をできますね……?」
「今夜の図案はまた凄いな。『白蛇玄鳥神鹿図』に観音菩薩と紫木蓮とは……天界か? 君は一体どこへ向かっているんだ」
「木蘭様は天女様の御使いですので、推しの概念を表現しました。ではなくて、」
「華やかでいいな。色選びもいいからごちゃついていないし、統一感があっていつまでも眺めていたくなる。なによりも、なんだか嬉しい」
「わたくしの突っ込みは聞いてませんね?」
(……今夜の紫淵殿下はおかしいです)
 時刻はすでに亥三つ(22時半)を回っている。
 しかし苺苺が寝衣ではなく、普段は散歩用に使用している簡単な衣裳をまとっているのは、ちょうど夜警に出てすぐだったからだ。
 猫魈(ねこしょう)を使った『木蘭暗殺未遂事件』の犯人である〝恐ろしい女官〟が誰だかわかった今、()()から木蘭を守らなくてはならない。
(現行犯で取り押さえた暁には、ぜひとも心を入れ替えていただかなくては。ふっふっふ、この白苺苺、必ずや木蘭様の素晴らしさを布教し、恐ろしい女官の方を木蘭様沼に突き落としてさしあげますわ! そのためにも今夜からは本殿に籠城ですっ)
 そう強く意気込んだ苺苺がぬい様と〝白蛇の神器〟を携え、紅玉宮(こうぎょくきゅう)本殿の見回りを始めようとしていたところ、寝室からぬっと出てきた寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭様に抱きつかれて、
『お姉様ぁ。(わらわ)ひとりで寝るのは怖いです。今夜は妾と一緒の部屋で寝てくださぁい』
と言われたからさあ大変。
(かわゆいが大爆発をしていて、ついつい寝室に……。そうして気がついたら紫淵殿下に捕まって、こんなところまで……)
 寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭から『目をつぶってしばらく待つこと』と言われて、衝立の裏でおとなしく待って過ごしていたら、いつの間にか寝衣から着替えた紫淵から『もういいぞ』なんて声をかけられるとは聞いていない。
 あまりの出来事に苺苺は『こんなの詐欺です!』と叫んでしまった。
 そうして箪笥の下に隠されていた扉から階段を降り、地下通路を通って出た先は、灯籠がらんらんと輝く天藍宮(てんらんきゅう)の瀟洒な寝室。
『苺苺、今夜はここで寝てくれないか』
『え?』
『俺は向こうの部屋で執務をしているから、問題があったら呼んでくれ』
『ええっ!?』
『おやすみ』
 まるでそれが自然であるかのように紫淵は優しい手つきで苺苺の頬を撫で、そう言い残して寝室を出て行く。
 はて? と思い室内を見回すと、木蘭の部屋にあるものよりも大きくて豪華な寝台の上には、紫色の堅物感のある枕が。
 そしてその隣には、新品とおぼしきふわっふわの羽根枕が鎮座しているではないか。
『ええええええっ』
 苺苺は思わず羞恥心にさいなまれ、ぶわりと頬を染め上げる。
『ま、待ってください! わたくしも行きます!』
 弾かれるようにして慌てて寝室から飛び出した苺苺は、濃紫の深衣姿の紫淵の背中を追いかけた。
 早足が捌く長い裾がふわりと広がるのに合わせて、後頭部を一部結って載せらた皇太子を表す(かんむり)(かんざし)飾りと、背中に流された紺青の黒髪がさらさらと揺れている。
 銀糸の刺繍が施された幅広の帯がきっちりと締め上げる腰はより細く見え、いつもの冷酷な雰囲気が漂う佩剣(はいけん)した武官姿とはまた異なる雰囲気だ。
 地下通路では判らなかったが、この姿は紫淵をこの宮の主人たらしめていて、よりいっそう高貴さが漂っている気がする。
 随分と見慣れてきた紫淵の姿との違いに、苺苺が少しどぎまぎしてしまうのも仕方ないだろう。
 しかもそんな皇太子の寝室に枕がふたつ、なんてただごとではない。
(い、いいえ。気おくれしていても仕方ありませんっ。ビシッと行きましょう! ビシッと!)
 そうして紅玉宮の本殿より長い廊下を通って辿り着いた先がここ、現在地である紫淵の執務室である。
(いったいなんだったのでしょうか……? もしかしてあれも豪華薔薇風呂と三食昼寝付きの〝異能の巫女〟の給金に含まれて……?? だとしたら不要な優待特典です)
 苺苺は絹扇の裏からじーっと胡乱げな視線で紫淵をうかがう。
「なんだその目は」
「いえ。あの枕はなぜあんなところに? と考えていまして」
「ああ、あれのことか。今夜は君の安全を考慮してここにいてもらおうと思って用意した。枕がないと寝にくいだろう?」
「それは……ありがたいですが、その、なぜに安全を? 紅玉宮でわたくしが置いていただいてる部屋も、十分安全な気がするのですが……?」
「今日、後宮警備を担う宦官の詰所から、あやかし捕獲用の封籠(ふうろう)が盗まれた」
 紫淵の告げた言葉に、苺苺は驚きで目を見開く。
「美雀の起こした事件の混乱に乗じて、手薄になった詰所に何者かが侵入したらしい。目撃者はいないが、この手口は以前のあやかし……猫魈(ねこしょう)の時と同じだ」
「なんと!」
「実は『木蘭暗殺未遂事件』が起きた後、東宮侍衛たちに命じて皇太子宮内を徹底的に調べさせていた」
 東宮侍衛とは皇太子である紫淵を護衛する武官だ。武官の中でも皇太子の直臣たる青衛禁軍所属になるため、より信頼できる精鋭部隊と言える。
 内待省に属し皇太子宮を管轄する宦官に、皇太子宮内に関する報告は常々あげさせていたが、各妃たちの俸禄や食事、茶葉や反物などの下賜品も規定通りに行われていることになっていた。
 紅玉宮の主人として目を光らせてはいた範囲では、皇太子宮に上がってくる報告通り。
 だが実態はどうだろう。宦官や女官たちは私腹を肥やすために、白蛇妃が正当に受け取るべきものを着服していた。
 閉鎖的な後宮内では、宦官による不正や横領もあり信用がおけない。私利私欲のために動く者も、他の皇子や貴族、妃嬪などと癒着して偽の報告をあげる者もいる。
 そうなってくると、本来は後宮の門外を護衛する東宮侍衛を介入させることになる。
 厄介な体質の紫淵は宵世に指揮権を預け、東宮侍衛長率いる武官たちに事件解明の証拠を集めてもらっていたのだ。
「とはいえ、主要部署は皇帝宮内。皇太子宮側に面する御花園までの捜索がせいぜいだったが、犯人も皇帝宮に罪をかぶせる度胸はなかったみたいだな。その捜査時、盗まれたものとみられる封籠が、鏡花泉(きょうかせん)付近にある竹林の中で見つかった」
(鏡花泉は水星宮の裏側に広がっています。竹林となると……)
「水星宮とは対角線上に位置する、御花園にほど近い場所でしょうか? 恐ろしい女官の方はそこに道術をかけた猫魈様を隠し、事件当日にあらかじめ籠の封を解いていたと」
「宵世が言うには、相当霊力のある道士になるとあやかしを式符(しきふ)に封じて従妖(じゅうよう)に下し、無言で命じるだけで自由自在に顕現ができるらしい。だが犯人はわざわざ封籠を用いている。しかも目くらましの呪文が書かれた呪符付きの、だ。これらの証拠から犯人が道術を使う際には呪文や儀式が必要となり、あらかじめ犯行現場を定めておく必要があると考えられる」
「ふむふむ。それで紫淵殿下は、恐ろしい女官の方が今回も同じ手を使われるはずだと……?」
「俺はそう考えている」
 紫淵が険しい表情で頷く。
 苺苺は寝台にあった枕のことなど忘れて、「それは一大事です」と眉根を寄せた。
 昨晩、紫淵と一緒に呪妖を目撃した際、苺苺は女官宿舎のふたつの部屋で、蝋燭の灯りの中に揺れる呪妖の光を見た。
 ひとつめは、春燕と美雀の部屋だ。
 しかし、呪妖は宿主の周囲にとどまっている様子だった。ということは、あのどす黒い、強烈な殺意を抱いた末に生まれたような呪詛に近い呪妖とはどう見ても違う。
 だが、もうひとつの部屋の光は、爛々としていて――。
 事件を起こした美雀が捕まった今、疑いは確信に変わっている。
「美雀さんの起こした事件との関連性から鑑みても、そろそろ()()が手を打つはずです」
「〝選妃姫に臨んだ妃が百日経たずに命を落とした場合、血族を代わりに妃とせよ。百日を皇太子宮で過ごした妃が命を落とした際はすべからく空位とする〟――選妃姫の『八華八姫』に関する規律だ。()()の計画を遂行するためには、木蘭暗殺は百日以前に行われなくてはならない」
「つまり……明日、ですね?」
「ああ。だから君には今夜、ここで過ごしてもらう。美雀を操って、君の追放も暗殺も失敗した()()が、君を紅玉宮から消し去るために今夜なにをしでかすかわからないからな」
「わかりました。では明日は何があってもすぐに対応できるよう、しっかり身体を休ませていただきます」
 苺苺はその場を辞すために簡略の礼を取ってから、「ですが」と微笑みを浮かべる。
「わたくしは、枕があるのでしたら寝台ではなく長椅子でも大丈夫ですので」
「……は? 長椅子?」
「はい、今夜はこちらでぐっすり眠らせていただきます。長椅子が使用不可であれば、廊下でも、二階の楼榭(ロウシャ)も結構です!」
「ちょっと待ってくれ。俺の話を聞いていたか?」
「ええ、もちろんです。紫淵殿下は執務が終わり次第、ごゆるりと寝台でおやすみください。明日の木蘭様のためにもっ」
(わたくしが木蘭様と一緒ではないことを好機と捉えられてもいけませんし、今夜は夜警をおやすみして、ぐっすり就寝させていただきましょう。そして明日は全力で木蘭様をお守りするため、ぴったりくっついて過ごさせていただきますっ)
 ふんすと気合を入れた苺苺は、紅珊瑚の瞳をごうごうと燃え上がらせる。
(とりあえず、先ほどの枕をいただいてこなくては)
 その時。こんこんこん、と執務室の扉が入室の許可を求めて叩かれる。
「入れ」
 紫淵が短く答えると、白磁の茶壺(ちゃふう)(ふた)茶托(ちゃたく)付きの湯呑である蓋碗(がいわん)を乗せたお盆を手に持った宵世が「失礼致します。お茶をお持ちしました」と慣れた足取りで入ってきた。
「僕のことは気にせず、お話の続きをどうぞ」
「ああ。もとより気にするつもりもないが。……珍しいな、宵世が白毫烏龍(はくごうウーロン)を淹れるなんて」
 いつもは『時間がもったいないから起きておいてください』とか言って、眠気覚ましにすごく濃い茶を淹れるのに。
 紫淵は手元に届いた茶器の蓋をふちを少しずらして、琥珀色をした白毫烏龍の果実と蜂蜜を思わせる香りを楽しみながら、怪訝(けげん)な顔で宵世を見やる。
「まあ、そうですね。今夜はどうしても早く寝落ちしてほしいお方がいらっしゃるので」
(むむ? 紫淵殿下のことでしょうか? 確かに宵世様のおっしゃる通りです! 紫淵殿下も連日頑張りすぎですし、今夜は執務をお休みして明日に備えられた方がよろしいかと)
 宵世は苺苺を『わかっていなさそうですが、そこのあなたですよ』という顔で一瞥すると、
「さあ、どうぞ」
と長椅子の前に置かれている低い卓子に蓋碗を置いた。
「白蛇妃様。明日は犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいね。東宮補佐官と白蛇妃が並んでいるのは至極不自然ですから」
「合点承知でございます。わあ、わたくし白毫烏龍は初めていただきますわ。ありがとうございます」
(最高峰の茶葉を寝る前のお茶として使われるだなんて、さすが天藍宮ですっ)
 うきうきと好奇心で頬を緩ませた苺苺は、わくわくで逸る気持ちを抑えつつ、丁寧な所作で蓋碗を茶托(ちゃたく)の下から左手のひらに乗せる。
 右手の親指と人差し指で蓋を摘んでずらし、すんすんと芳しい香りを楽しむと「ほう……」っと感嘆のため息をついた。
「とっても豊潤な香りがします。甘い蜂蜜や果実酒のような……?」
「発酵度が高いので。最高峰と呼ばれる由縁は、生産方法が非常に難しく、年に一度少量しか収穫できないこともありますが……。なんと言っても、美しい琥珀の艶めきを持つ水色と独特の深い甘みが、西方の上流階級に好まれる『香檳酒(シャンパン)』を思わせるという――」
「ふ、あ………っ」
 宵世は直立不動でつらつらと香檳烏龍(シャンピンウーロン)とも呼称される茶葉の説明を行なっている横で、茶器に唇をつけてこくりこくりとお茶を嚥下していた苺苺が、唐突に呂律の回らぬ様子で呟いた。
 その甘くとろけ落ちる蜂蜜のような声音に、紫淵はびくりと肩を揺らす。
 慌てて苺苺の様子をうかがうと、苺苺の頬や目元は赤く蒸気し、けぶるような真珠の長い睫毛がの下では紅珊瑚の大きな瞳がとろとろと潤みを帯びていた。
 その双眸がうっとり艶やかに、紫淵を捉える。
「しえん、でんかぁ……。なにか……ん、ん……っ、へん、れす……」
 思わず食みたくなるほど濡れた赤い果実の唇が、たどたどしく名前を呼ぶ。
 木蘭と刺繍と茶菓子にしか興味がなかった少女の、直視できないほどの色っぽい姿に、紫淵は頬が熱くなるのがわかった。
 鼓動が否応無しにドキドキと激しくなる。
 喉にきゅうっと甘い感情がせり上がり、反対に胸の内側が独占欲でずくりと切なく痛んだ。
「……宵世! お前いったいなにを茶に混ぜた……!?」
香檳酒(シャンパン)ですけど」
 焦ってガタリと椅子を揺らしながら立ち上がった紫淵に対し、宵世は悪びれもなくケロリと言う。
「は、はあ? 香檳酒だと!?」
「ええ。以前、紫淵様が白蛇妃に下賜されていた西方の品つながりで。あの時に国使の方からいただいた最高級品です。これぞ本当の香檳烏龍ですね。おや、一気に飲むとはなかなか」
 宵世は苺苺の手の中にある蓋碗を確認し、爽やかな笑みを浮かべる。
「白蛇妃のことですから、どうせ長椅子で寝るとか、廊下で寝るとか、二階の楼榭にある寝台で寝るとか言いだしそうだと思いまして」
「ぐっ。全部当たっているから言い返せない」
「紫淵様は長剣抱えて紅玉宮の寝室で寝る気でいるんでしょう? それならそうと最初から話せばいいんですよ。心配かけまいとしても逆効果です」
 執務が終わったあと、確かに紫淵は木蘭の寝室でおとりになるつもりでいた。
 なにもなければそれでいい。しかしなにかあった時は、青年の姿であれば遠慮なく長剣も振るえるので、あやかしにも遅れはとらない。
「白蛇妃がいない紅玉宮で今夜中に片がつけば良いですが、終わらなかったらどうするんです?」
「それはわかっているさ。だから、そのだな……あとで寝台に運べばいいかと」
「甘いですね。どうせ途中で起きて、『紅玉宮へおともします!』とか言いだしますよ」
 宵世はげんなりした様子で、空中をぽやぽやと眺めている苺苺を見下ろす。
 明日の紅玉宮ではなにが起きるかわからない。
 極限まで気を研ぎ澄まして、白蛇妃は〝異能の巫女〟として木蘭と自分自身の命を守らなくてはいけないのだ。
 廊下や外で寝られて風邪でも引かれたら困るし、長椅子で横になって疲れがとれなくても困る。
 今日だって美雀が起こした事件を解決したばかり。連日の疲れが溜まっているのは我が主だけでなく、この憎たらしくもついつい世話を焼きたくなる存在も同じで――。
 宵世は肩を下げながら大きなため息をつく。
「とにかく、天藍宮の寝室以外で寝られたら面倒ですからね……って、もう眠ってますね」
 いつのまにか長椅子にくたりと横になっていた苺苺の顔を、宵世が覗き込む。
 先ほどまでの、とろけるような艶やかな表情は夢だったのかと思えるほど消えさっている。
 紫淵の胸を切なく掴んでいることなど知りもしない苺苺は、「むーらんしゃまぁ」となんの夢を見ているのかわかりやすい寝言を唱えながら、すぴーすぴーっと安らかな寝息をたてていた。
「こんなに酔うなんて、きっと酒も少量しか口にしたことなかったはずだぞ」
「そうでしょうね、思ったよりも効きすぎました。ですが大丈夫です。僕は耳が良いので、何かあったらすぐに駆けつけられますよ」
 そう言って、宵世は夢の中に旅立っている苺苺を、紫淵の寝台に運ぶため担ぎ上げようとして、
「……宵世。俺がやる」
 音もなく隣へやってきた紫淵に腕を掴まれた。
 普段はただただ冷たい紫水晶の双眸の奥に、仄暗い熱が揺らめいている。
 それは白蛇妃に対する、激情とも呼べる苛烈な独占欲や嫉妬心。
「……殺気だだ漏れじゃないですか。やめてくださいよ。僕はあなたの忠実なる従僕で、暗器で、あやかしです」
「……そうだな。お前は俺の悪友で、右腕で、あやかしだ。疑ってなんかいない」
 紫淵がそう告げた時には、宵世が感じていた突き刺さるような威圧感はおさまっていた。
 紫淵は苺苺の両膝の裏に腕を回し、背中を支えて抱き上げる。いわゆるお姫様抱っこだ。
 羞恥心で頬を染めた紫淵は、ちょっと拗ねたような表情をしているものの、どこか満足げに幸せそうな顔で苺苺を見つめている。
 望めばこの国のすべてを手に入れることができ、ゆえに本当に欲しいものは手に入らない次期皇帝が、唯一気にかけ、心を寄せる……――仮初めの皇太子宮の妃。
 けれども、きっといつか近い将来、主人は白蛇妃を手に入れるのだろう。
 宵世は幼い頃の紫淵を思い出す――。
 あの頃の紫淵は、後宮妃たちから向けられる壮絶な悪意と悪鬼が歴代の皇太子に向けていた怨念のすべてを被ってしまい、瘴気に呑まれてほとんど鬼化しかけていた。
 その呪詛を命がけで押さえ込んでくれたのが、白家で九尾の銀狐に過保護に庇護され、さらには溺愛されて育った幼い苺苺だった。
 今も昔も、彼女は兄が数百年を生きる神獣だとは知らない様子であるが、あの日、力尽きて昏倒してしまった苺苺の記憶を封じたのは、宵世と同じく特異な存在である彼女の兄だ。
 宵世は幼い紫淵が苺苺と過ごした日々の記憶を対価に、東八宮の地下に封じられた悪鬼の封印を再び強固なものにした。その際にほとんどの霊力を失うことになったのだが、後悔はしていない。
 そして、静嘉に言われた通りに宵世は密約を交わしたのだ。
『ふたりに起きたことはすべて内密に』
『わかりました。ふたりは出会ってなど、いなかった』
 ……あれから九年。ひとつの九星が巡り、幼かった皇子も大人になった。けれど。
 武芸に秀で、誰よりも冷酷な処断を指先ひとつで行えるようになった紫淵様が、また再び白蛇の娘に惹かれることになろうとは……。
 宵世はかすかに眉を下げて、自らの主人を見つめる。
 現在、紫淵の身に起きている怪異――性別が変わり、年齢も後退して幼女に変化するという怪異は、苺苺に封じてもらった悪鬼の怨念とは別ものだ。
 建国時代から歴代の皇太子を蝕んできた呪詛で、皇太子が成人の儀を迎えるまでに命を落とすよう仕向けるためのもの。そのため起きる事象は大小さまざまで多岐に渡る。そして呪詛の発現は兆候にすぎず、年数を経て怪異に変わる。これが非常に厄介であった。
 ……だが、この世でもしも主人を怪異から救えるとしたら、それはきっと白蛇の娘だけ。
 そう考えて、危ない橋を渡る決意をした。
 紫淵と苺苺が再び出会うことで、悪鬼の封印が綻びるのではないかと懸念し、不安に思わないはずがなかった。
 そして美しく可憐な少女に成長した苺苺が、歴代の白蛇の娘のように後宮だけでなく紫淵自身にも災いをもたらすのではと警戒していたわけだが――どうやら、どちらも杞憂だったようだ。
 苺苺の人となりには、長い時間を生きた宵世にもどこか惹かれるものがある。
 そんな彼女へ向ける主人の視線が過去見たこともないほど柔らかくて甘いものだから、宵世はなんとなくイライラしてきて、『はいはい、末永く爆発しろ』と作り笑顔を浮かべながら紫淵を見送ったのだった。


 ◇◇◇


 翌朝。苺苺が目を覚ますと、紅玉宮の木蘭の寝室にいた。
 窓紗が掛かった格子窓からは薄く陽が差し込んできている。
 上半身を起こして見回すと、大きな寝台の真ん中ほどで眠っていたらしい自分とは遠いところに、小さく蹲るように眠っている木蘭の姿があった。
(あんなところに木蘭様がっ! 寝台から落ちなくてよかったです……!)
 苺苺は抜き足差し足で寝台から降りて、寝ぼけたままあくびをする。
(それにしても、ふわわわ……。昨晩は天藍宮に行ったような気がしたのですが、夢だったのでしょうか? なんだか紫淵殿下と言い合いをして、宵世様から美味しいお茶を勧められたような……?)
「ん、苺苺。起きたのか……?」
 んんん、と小さく唸りながら木蘭は寝ぼけ目をこすった。
「おはようございます、木蘭様。お支度をお呼びいたしますね」
「ああ」
 苺苺が扉の閂を外して、部屋の外にいる女官に声をかける。
 その姿を木蘭は寝台に座ったまま眺めながら、小さな指先で、眉間にできた幼い顔に似合わぬシワを揉む。
「くそっ。不眠症が解消されたと思ったらすぐ眠く……っ」
 ――結局、一晩中ここで佩剣(はいけん)し犯人を待ち構えていた紫淵だったが、犯人は現れなかった。
 あやかしを使役するのなら夜が一番霊力が強まる。
 だが、それを押してでも、木蘭を〝異能の巫女〟から切り離したところを狙いたいのだろう。
 自分の手を汚さぬために、ギリギリまで粘って仕組んだ()()()使()()()()()が潰えというのに、決して勇み足になったりはしない。
 時間が押し迫った分、()()は木蘭を確実に仕留めたいのだ。
『……頃合いか』
 紫淵は周囲の気配を探り、長い前髪を搔き上げる。
 そろそろ女官たちが起き出す時間だ。今から数刻は安全だろう。
 そうして朝陽が昇る前に天藍宮に戻り、紫淵の寝台でぐっすりと眠っていた苺苺を抱き上げて、この部屋へ連れて帰ってきていた。
 しかし、朝陽が昇り木蘭の姿になった途端、壮絶な眠気が襲ってきて、ついつい一瞬で意識が飛んでしまっていた。
 やはりこの身体は不便だと、こんな非常時にはことさらに実感する。
 そんなことを木蘭が思考していると、部屋の扉の外から入室の許可を求める声がしたのちに、()()がしずしずといつもと変わらぬ様子で綺麗な礼を取る。
「おはようございます、木蘭様。朝のお支度をお手伝いいたします」
「おはよう。頼む」
 決して仮面を剥がすことなく貞淑に振る舞い、慎重に一歩一歩確実に詰めていく姿勢は実に見事。
 ――やはり紅玉宮の筆頭女官に相応しく、肝が座っていてぶれないな。
 木蘭は朱家の娘らしい完璧な所作の礼を取る若麗を前にして、すっと冷たく目を細めた。

 身支度を整えたあとは、紅玉宮の広間でいつもの朝餉だ。
 しかし今回は給仕を行う女官の顔ぶれが違った。苺苺はぱちくりと瞬きをする。
「若麗様が朝餉の席にいらっしゃるのは珍しいですね」
 大きな深皿から、海老や貝柱の出汁で作られた豆漿粥(とうにゅうがゆ)をお玉で掬った紅玉宮の筆頭女官に、配膳されるのを待っている苺苺はお行儀よく話しかける。
「昨日の事件の混乱であちらこちらの仕事が滞っておりますので、私がお手伝いに加わったんです」
「そうなのですか。お忙しい中、ご準備していただきありがとうございます」
「いいえ、滅相もございません。私どもは紅玉宮の女官ですから、木蘭様と苺苺様が健やかにお過ごしいただけるように尽くすのが使命ですので、どうかお気になさらずに」
 若麗は頼りになるお姉さんらしい優しげな笑顔を作る。
 そんな会話の最中も他の女官たちが次々に料理をよそい給仕をしてくれているが、どこか皆元気がない。
 木蘭はそんな様子を見るに見かねて、「配膳を終えた料理から下げるように」と言う。
「今日の朝餉は苺苺と妾のふたりでとることにする。皆、早めに朝餉を食べて休み時間をとるように」
 そう告げて、広間から早々に女官たちを退出させることにした。
 侍女見習いの立場にある年若い中級女官たちは、料理の乗った皿を持って木蘭と苺苺に礼をすると急いで踵を返し、
「わあ、豪華な朝餉だわ」
「木蘭様が私たちの心を気遣ってくださったのですね」
「見て、紅棗(ナツメ)枸杞子(クコの実)がこんなにたくさんっ」
「豆漿粥の色合いってなんだか白蛇妃様みたいでお洒落よね? 美容に良さそう」
「私、この海老の小籠包が食べたいわ! それからこっちの〜」
 などと口々に喋りながら嬉しそうに広間を出て、女官たちの私室がある棟に向かって行った。
「若麗も皆と一緒に朝餉を食べに行ってくれ」
「ですが」
「幾つだと思っているんだ。妾とて、朝餉くらい食べられる」
 木蘭は栗鼠(りす)のごとく頬を膨らませる。
(はわわわっ! 朝からなんて貴重な! 栗鼠ちゃん姿の木蘭様、かわゆいです!!!! 次のぬい様は栗鼠ちゃん姿にしましょう……っ! ぬい様と栗鼠ちゃん様、それから寝衣のあやかしちゃん姿のねむねむ様、きっと並べたら壮観に違いありません……!)
 苺苺は両頬を押さえて、めろめろになる。
 そんな紅玉宮の妃二人の様子に、若麗は「ふふっ」と吹き出すように微笑んでから、「わかりました」と折れた様子で頷く。
「では先に、本日のご連絡をお伝えいたしますね」
「うむ」
徳姫(とくき)様が主催のお茶会は、未の刻(午後二時)までにお集まりをとのことでした。場所は金緑宮(きんりょくぐう)ではなく、鏡花泉(きょうかせん)の東の四阿(あずまや)だそうです。お手土産はどうなさいますか?」
「どうせ次の選妃姫の腹の探り合いをする茶会だ、徳姫が喜びそうな茶菓子でいいだろう。朱州の桃花月餅はどうだ?」
 桃花(とうか)月餅(げっぺい)とは朱州の銘菓で、桃花の塩漬けを練りこんで作る、鮮やかな桃色をした月餅だ。
「良いご判断だと思います。それでは準備が整い次第、お支度のお手伝いに参ります」
 若麗はそう言って礼を取ると、しずしずと広間を辞した。
「さすが木蘭様ですっ! (ヨウ)家の姫君であらせられる徳姫(とくき)様は『探春(たんしゅん)(うたげ)』で桜花舞を披露されていましたから、『月日が移ろった今でも徳姫様の優美さを忘れることは誰もできません』と、桃花月餅でお伝えなさるのですね! きっと徳姫様や徳姫様推しの女官の皆様も、お喜びになると思います」
「そうだな」
 つんと澄ました顔で木蘭はそう言って、豆漿粥の器を手に取る。
 茶会に呼ばれた妃たちは、茶会の主催者、そして時には参加した妃たちに手土産を配る。
 それには血筋による家格を示したり、妃としての階級と威厳を知らしめたり、時に皇太子の寵愛を匂わせて他妃を牽制し、はたまた配下として庇護を仰ぎたいと擦り寄ったりと、ひとつの品に様々な思惑が複雑に絡ませてある。
 その思惑を正しく読み取るのもまた後宮妃の生きるすべ。
 足元をすくわれぬよう、本当の心を隠し、自分の意のままに操れる者こそが強者として君臨できる。
 木蘭が今回の土産に選んだのは(ぎょく)でも反物でもなく、ただの茶菓子だ。
 貴姫として、決して徳姫にへりくだる品じゃない。
 だが、茶会の主催者は必ず気を良くする。他の妃たちも、最上級妃が贈った土産に滲ませた年上の妃への羨望に警戒心をおさめる。
 表面上は穏やか笑顔を絶やさず、『次の選妃姫では自分こそが一番に選ばれるはずだ』と、腹の中では強い自信に酔うだろう。
 それこそが木蘭の狙いであった。
 茶会に集った誰もが、自分自身を過信し、――最下級妃の白蛇妃の存在を忘れてしまえばいい。
「ふふふっ。噂をすれば桃花月餅です」
 苺苺が円卓の上にそっと並べていた〝龍血の銘々皿〟に現れた、呪毒の宿る茶菓子もどきへ手を伸ばす。
「朝餉の時間にお茶菓子が出るのは初めてですね」
「……朝餉の時間まで悪いな」
「いいえ! わたくし、木蘭様のためなら悪意も美味しくいただきますっ」
 そう言って、苺苺は「いただきます。はむっ、んんん……! おいひいです〜〜〜!!」といつものように極上の茶菓子を味わう様子で頬を緩ませながら、呪毒を食べた。
 皇太子宮の宦官や女官たちが、なんの後ろ盾もないのに白蛇妃に嫌がらせをしたり、与えられる褒賞や下賜品を横領したりできるはずがない。
 彼らの後ろには妃の存在がある。
 白蛇妃に罪をなすりつけて、自分たちを正当化したあと、上手に庇いだてしてくれる妃がいるのだ。
 だからこそ、紫淵は思う。今に見ているがいい、と。
 俺がただひとり、どこまでも甘やかし尽くして幸せにしてやりたいと願うのは、この能天気な『白蛇の娘』。
 ――白苺苺だけだ、と。
 頬を高揚させて美味しそうに呪毒を頬張る苺苺を眺めながら、愛らしい幼妃(おさなひ)は策士な笑みを浮かべた。


 ◇◇◇


 朝餉を終えてしばし歓談した後は、木蘭の寝室の隣にある私室へ場所を移した。
 ここは本殿に造られたいわゆる書斎にあたり、立派な格子窓からは壺庭が望める。
銀花亭(ぎんかてい)の白木蓮(もくれん)はそろそろ終盤に入る頃ですが、紅玉宮の紫木蓮の花はあとひと月は見頃でしょう。窓を開けているので芳しい香りがしますね。木蘭様の香り、というかどちらかというと紫淵(シエン)殿下の香りを思い出すような気も?)
 厳粛な気高さを思わせる優雅な花の香りと、その深層で香る蜜の甘い匂いは、天藍宮(てんらんきゅう)で焚かれていた香炉から漂っていた匂いにも似ている。
(そういえば、こちらの書斎の調度品の配置も、紫淵殿下の執務室に似ていますね)
 ぼんやりと昨夜のことを思い出していた苺苺はふとそんなことを考えながら、壺庭の紫木蓮の手入れをする木蘭を愛でながら刺繍を楽しむ。
 本日は茶会の予定もあるので、木蘭の手習いはすべて休みだ。
 なので苺苺はこうして、できるだけ木蘭のそばにつきっきりで過ごす。
 苺苺の腰掛ける椅子の前にある茶机には、たくさんのぬい様が入った藤蔓(ふじづる)籠が置かれており、その向かい側の長椅子には、めいっぱい陣取った白蛇ちゃんたちが朗らかな顔で鎮座している。
 いざという時のための準備も万端だった。
「……木蘭様、苺苺様。怡君でございます」
 扉の外から入室の許可を得る声が掛かる。
「どうぞお入りください」
 壺庭にいた木蘭の代わりに苺苺が答えると、女官用の普段着ではなく正装した怡君(イージュン)が、「失礼いたします」と部屋に入ってきた。
 木蘭もそれに気がつき、室内に入る。
「木蘭様、そろそろお召し替えのお時間でございます。どうぞお支度部屋へ」
「わかった。支度は怡君が手伝ってくれるのか?」
「私と春燕(チュンエン)鈴鹿(リンルー)がお手伝い致しますよ。若麗(ジャクレイ)様は最終確認を終え次第、こちらに」
「そうか。それじゃあ苺苺、ここで好きに過ごしていてくれ」
「ありがとうございます。行ってらっしゃいませ、木蘭様」
「ああ、行ってくる」
 書斎から出て行く木蘭と怡君を、苺苺は穏やかに見送る。
 木蘭の衣裳がずらりと並ぶ支度部屋は本殿内にあり、この書斎とも近いので、もしあやかしが出てもすぐに助けに行けるだろう。
(本日もお茶会のお呼ばれはありませんので、わたくしは個人的に、あくまで私用で鏡花泉の東の四阿(あずまや)へお散歩に行かせていただきましょう!)
 決定的な瞬間を押さえるためには、付かず離れずの距離感も必要なのだ。
「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」
 苺苺(メイメイ)は少し調子の外れた能天気な歌を口ずさむ。
 手元の絹布に通していた〝白蛇(はくじゃ)鱗針(りんしん)〟を引っ張り、図案の裏側で針目に糸を何度もくぐらせて絡めると、きゅっと針を引っ張ってから糸を丁寧に鋏で切った。
 それからほどなくして、書斎の扉の向こうから再び入室許可を求める声が響いた。
 苺苺が「どうぞ」と促すと、「失礼いたします」と怡君(イージュン)と同じく女官の正装に身を包んだ若麗(ジャクレイ)が入ってくる。
 今日の若麗はとびきり綺麗であった。
(朱家の三の姫であることを忘れさせない凛とした立ち振る舞い、そして紅玉宮(こうぎょくきゅう)の筆頭女官として貴姫(きき)である木蘭(ムーラン)様を引き立てるお衣裳と髪飾り選び……。お見事です)
 もし彼女の前に木蘭が立っておらず、後ろに怡君と春燕(チュンエン)鈴鹿(リンルー)が並んでいたら、清楚な朱家の妃に見えるかもしれない。
 けれど幼くとも覇気のある木蘭という存在が、彼女たちを最上級妃の上級女官として正しくまとめ上げていた。
(もしもここが皇帝陛下の納められている後宮であったならば、若麗様は今宵、女官から一夜にして寵妃になられるでしょう)
 そう思わせるほどの嫋やかさが、今日の若麗からは見え隠れしていた。
「出発の挨拶に参りました。私どもは木蘭様とご一緒いたしますので、なにかご不便がおありでしたら、他の女官たちにお申し付けくださいね」
「わかりましたわ。わたくし〝異能の巫女〟とは名ばかりで、あやかし退治もできていない居候ですのに、細やかなお気遣いをいただきましてありがとうございます」
「いいえ、そんなにご謙遜なさらないでください。苺苺様がいらしてから、木蘭様の笑顔が増えて、紅玉宮が明るくなりました。今までの木蘭様はしかめっ面で、なんでもひとりでおやりになることが多かったですが、今は苺苺様に甘えられたりと……ふふっ、年齢相応で。ご成長が楽しみです」
「かわゆい木蘭様は無敵ですっ。本日のお茶会でも、木蘭様が元気で健やかにお過ごしになれるよう願いながら刺繍をしつつ、こちらでお留守番をしていますね」
「お願いいたします。それでは」
 若麗が腰を折って挨拶をし、踵を返して……肩越しに振り向く。
「あの、木蘭様のお部屋に、昨夜は紫淵様がいらしたのですか?」
「はい?」
 苺苺は突然の質問にきょとんとした。
 若麗は身体を苺苺に向けなおし、頬を染める。
「紅玉宮の閂は閉まっていたはずですが、まさかお忍びで? 美雀の起こした事件の調査でいらしたのでしょうか? 紅玉宮の筆頭女官として、紫淵様をお出迎えできず申し訳なかったです」
 熱くなった頬に片手を添えて隠した若麗は、恋慕の情を抱える姫のような表情で黒い瞳を潤ませた。
(し、紫淵殿下ッ!! なぜかわかりませんが若麗様にはほとんどバレてますっ!!)
 ギクリと顔を強張らせた苺苺は『とにかく上手に言い訳をしないと!』と、胸の前で両手をぶんぶんを横に振る。
「いっいいえ! 来られては、いませんでしたね?」
「ですが苺苺様から紫淵様の焚かれる香の匂いがかすかに……。御髪でしょうか?」
「ええっ!? そんな匂いが!?」
 すんすんと自分自身を匂ってみるが、わからない。
「あっ! 木蘭様の寝台で、一緒に寝させていただいたからでしょうか!? それとも、こちらのお部屋も木蓮の香りでいっぱいですし、その香りでしょうかっ!?」
(紫淵殿下のお部屋の香りと似ていますし、この言い訳で押し通すしかありませんっ)
「あの、若麗様? どうかしまし――」
 苺苺があたふたと言い訳をしていると、若麗の真っ黒な双眸がすっと温度をなくす。
 そして紅を引いた口元に、不気味な弧を描いた。
 その瞬間。
 ――ザクッ! ザクザクザクザクザクッ!
 長椅子の上にあった白蛇ちゃんたちが、刃物で斬りつけられたかのように、次々と腹を裂かれていく。
 一瞬にしてすべての白蛇ちゃんが無残な姿に成り果たその刹那、若麗の周囲にぶわりと黒い胡蝶が舞った。
 若麗は今しがた起こった怪奇現象に目もくれず、余裕のある笑みを浮かべる。
「私、ずっと苺苺様が羨ましかったんです。最下級妃でも妃は妃ですから。……けれど、それもきっと今夜まで」
 ひらひら、ひらひら。
 若麗の周りを不気味に彩るように、燐光を撒き散らすどす黒い呪妖(じゅよう)が踊る。
 あの時の……呪詛に近い黒い胡蝶が、今にも苺苺に襲いかかろうとせんとさざめいた。
「そろそろお茶会の時間ですね。私はこれで失礼いたします」
「はい。木蘭様をよろしくお願いいたします」
 呆気にとられた苺苺は、小刻みに震える手を悟られぬよう気丈に振る舞い、挑戦的な笑顔を浮かべながらそう返答するので精一杯だった。
 若麗が退出した部屋で、無意識に詰めていた息をふうっと短く吐く。
(美雀さんの呪妖と比較すると、まさに育ちきった(・・・・・)という表現がふさわしい姿でした。美雀さんの呪妖が(さなぎ)から(かえ)ったばかりの蝶なら、若麗様のは……豊富な呪毒(じゅどく)を含んだ霊気という〝蜜〟を吸い尽くして育った胡蝶の女王)
「――呪詛になる前に、決着をつけなくてはいけませんね」
 苺苺は静かに決意を固める。
 椅子から立ち上がると、長椅子に横たわるズタボロになった白蛇ちゃん抱き枕をそっと手に取った。
「うううっ、今夜はお別れ会です……っ。のちほど宵世(ショウセ)様からありったけの爆竹をお借りましょう。ばばばーんと白蛇ちゃんたちの無念を晴らさなければ……」
 苺苺はえぐえぐと涙を流しながら、「悲しいです」と腹綿(はらわた)の出た白蛇ちゃんに頬ずりした。
 部屋の中に散り散りになった白蛇(しろへび)ちゃんたちを一箇所に集め、飛び散った腹綿(はらわた)の回収を終えた苺苺(メイメイ)は、「これでよしっ」と額を拭う。
(そろそろ鏡花泉へ向かいましょう。木蘭様は、そろそろ金緑宮を過ぎたあたりでしょうか?)
 苺苺はたくさんのぬい様を入れた藤蔓(ふじづる)の籠を手に持つ。
 上級妃は御輿(みこし)に乗り、それを宦官に担がせ、周囲に女官を侍らせてて移動することも多いが、小さな空間内ではいざという時に逃げ場を失う。そのため木蘭(ムーラン)は、『今回は徒歩で向かう』と話していた。
 紅玉宮(こうぎょくきゅう)は後宮の入り口のそばである、もっとも天藍宮(てんらんきゅう)に近い場所にある。鏡花泉(きょうかせん)はその真反対で、皇太子宮の最奥。水星宮(すいせいきゅう)の近くだ。
 まっすぐ一本道の大通りを通っても、木蘭の幼い足ではかなりの時間がかかる。
(鏡花泉に到着なさる前に追いつけたらよいのですが。近くまでは走って、こそっと身を隠しましょう)
 考えつつ、苺苺は書斎を出て、本殿の扉を開こうとする。だが、しかし。
「えっ、ええっ? ……――扉が開きませんッ!」
 ガタガタと揺らしてみても、扉はびくともしない。
 扉の内側の(かんぬき)はかけられていない。となると。
「外から鍵を!? あわわわわ、まさか閉じ込められてしまうとは……!!」
 苺苺は顔を蒼白にして打ちひしがれる。
「なぜ気がつかなかったのでしょうか……。きっと若麗(ジャクレイ)様が出発を告げにきた後に、本殿からお人払いをなさったのですわ……!」
(木蘭様やわたくしに悟られぬよう、内密に女官の皆さんたちへ指示を出されていたのですね)
 この時間ならば本殿で掃除をしている中級女官たちも、いつのまにかいなくなっている。
 朝餉のこともある。彼女たちは若麗から『今日は掃除を早めに切り上げて休憩をとってほしいと、木蘭様からの伝言よ』と聞いて、掃除を中断して外から鍵をかけたのかもしれない。
 白蛇妃(はくじゃひ)はすでに外出したとか、別棟の自室で休んでいるとか、言い訳はどうにでもなる。
「……こ、こうなったら窓から出ましょう!」
 苺苺はパタパタと走って自分が出られそうな大きな窓を探そうとする。
 が、どの部屋の扉も錠前がかけてあり、鍵が閉まっていた。
「な、な、な。全部だめだなんて〜〜〜っ! さすがは紅玉宮の防犯意識です……!」
 仕方ないので廊下の小窓の鍵を開けて、「どなたかいらっしゃいませんかーっ!」と力いっぱい叫んでみるも、外には人っ子ひとりいる様子がない。
「もしかして……皆さん、お出かけに……?」
(ありえます。昨日の今日ですし、若麗様が突然『お休み』を言い渡されて……お茶菓子を詰めて、後宮内のどこかに遊びに行かれたのやも……! どうしましょう、この調子では紅玉宮の門も外側から錠前がかかっているはずですっ)
 残すは書斎しかない。
 苺苺は急いで襦裙(じゅくん)の裾をひるがえし、本殿の奥へと引きかえす。
「きっと壺庭からなら……!」
 壺庭に面する床から天井までの大きな格子窓は、引き戸になっていて庭に出ることができる。
(高い塀に囲まれてはいるものの、その壺庭をぐるりと回れば、本殿の二階に続く階段があります。楼榭(ろうしゃ)から屋根に降り立って、それで、そこから……どうにかなるでしょうかぁぁぁ!?)
 屋根の上なんか歩いた経験もない。
「ううっ、いまさらですが、練習しておくべきでしたッ」
 苺苺は急いで壺庭を出て、真っ白な髪をなびかせながら中庭を走る。真珠色のそれは陽の光を浴びてきらきらときらめいて美しいが、反対に表情は『あわわわわ』と聞こえてきそうな必死な形相をしていた、
 大袖を翻しながら階段を登って、楼榭の上を走り、苺苺は二階の欄干に勢いよく両手で捕まる。
「ど、どなたか、いらっしゃいませんか〜〜〜っ」
 最後の足掻きに叫んで、ぐっと唇を噛み締める。
(これはもう、屋根に降りて、どうにかして紅玉宮の塀に飛び移るしかありません)
「木蘭様の命をお助けするために、わたくしはここに来たのです。屋根くらい……塀くらい越えられなくてどうしますかっ! 女は度胸ですっ! いきますよっ」
 苺苺は欄干の前から一度大きく下がってから、呼吸を整え、助走をつける。
「いっ、せー、のー、せいっ!」
 そして勢いよく欄干を飛び越え、そのまま屋根の黄瑠璃瓦の上を全速力で駆けた。
 まるで鳥になったような気分だ。今ならなんだってできる気がする。
(本殿の屋根から一番近い塀瓦の上に飛び移れたら、こちらのものです! あとは紅玉宮の外に降り立って、全速力で――)
「あっ!!」
 つるっと、瓦の上で足が滑った。
 今ならなんだってできる、だなんて強めの錯覚に過ぎなかったらしい。
 ひやりと五臓六腑が浮かぶ感覚がする。
「おっ、落ち――っ! …………ない?」
「はぁぁぁ。あなたって本当に世話が焼けますね」
 苺苺は、いつのまにか宵世(ショウセ)の腕の中にいた。どうやら屋根の上から落ちそうになっていたところを、抱きとめられたらしい。
 状況を理解して、苺苺は頭上に疑問符を浮かべる。
「へ? 宵世様? どうしてこちらに?」
「あなたが鏡花泉に現れないからですよ。仕方がないから様子を見に来たんです。そしたら屋根から滑り落ちそうなあなたを見つけたので」
 宵世は苺苺を横抱きにして、軽々と跳躍し、紅玉宮の塀を越える。
 そしてそのまま、人気のない屋根瓦の上を物凄い速さで走り出した。
「ひ、ひえぇ。早すぎです、宵世様っ」
「口、開けてたら舌を噛みます。閉じてください」
「は、はいっ」
「犯人に悟られないよう、僕を見つけてもできるだけ遠くにいてくださいとは言いましたが、ここまで離れた別行動は望んでません。茶会はもう始まっている頃です。まったく、紅玉宮(こうぎょくきゅう)に閉じ込められるなんて。どれだけ鈍臭いんだか」
「すみません……」
「あなたは木蘭(ムーラン)様のあやかし避けなんですから、現場にいてもらわないと困るんです。しっかり〝異能の巫女〟してくださいよ」
「すみません……」
「…………まあ、閉じ込められたくらいでよかったですよ。怪我はないですか」
 宵世(ショウセ)はばつが悪そうにそう言って、ちらりと苺苺を見下ろす。
 その目元はうっすらと紅色に染まっている。
 けれどビュンビュンと吹き抜ける風圧で目が開けられなかった苺苺(メイメイ)は、毒舌宦官の言葉に打ちひしがれたまま、「ないですッ! お助けくださりありがとうございます!」と力の限り叫んだ。
(それにしても、さすが東宮補佐官様です。とっても身軽で運動神経も良いのですね。紫淵(シエン)殿下も足音がしませんし、皇太子殿下とその右腕は、これほどの妙技を持っていなくては危険なのやも……!)
 明らかに人間業とは思えない宵世の移動方法に対し、苺苺はただただ羨望の眼差しを向ける。
「……なんですか、その目は。そろそろ鏡花泉(きょうかせん)の東に着きますよ。自分の足で走る準備しててください」
「はい」
 苺苺がひとつ頷くと、宵世は水星宮(すいせいきゅう)の塀の屋根から降り立ち林の中を駆け抜ける。
 宵世が大きな木の太い枝を飛び移って移動していくうちに、苺苺の目にも拓けた場所にある四阿が見えた。
 四阿では華やかに着飾った七人の妃が、様々な表情でお茶や点心を楽しんでいる。
 選妃姫(シェンフェイジェン)の課題である『香包(シャンパオ)』について、各々の解釈や進行状況、完成品の程度の予測を言葉巧みに聞き出しているのだろう。
 その周囲には正装した女官が総勢四十人ほどいるだろうか。
 朗らかに見える七妃たちのおしゃべりの裏で、女官たちは互いを牽制しあっている様子だ。
 その時。
 宵世と苺苺は視界の端に、牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫が四肢を躍動させ、猛突進している姿を捉えた。
 その首に(なび)くのは音の鳴らない鈴付きの、純白の披帛(ひはく)
「あれは!」
猫魈(ねこしょう)様です!」
 あやかしの急襲に気がついた女官たちが、「きゃあああ!」「あやかしよ!」「逃げて!」と甲高い悲鳴をあげ、逃げ惑い、その場は阿鼻叫喚となった。
 猫魈は「シャァァァアアア!」と咆哮し一直線に木蘭を目指す。

 木蘭の後ろで控えていた怡君(イージュン)春燕(チュンエン)鈴鹿(リンルー)が可哀想なくらいガタガタと震えて顔面を蒼白にしながら、木蘭を守るようにして腕を広げて、前に出た。
 騒然としたその場に降り立った宵世の腕から、苺苺は弾かれるように飛び出す。
 そのまま木蘭の前に躍り出て、そして、
「猫魈様!」
と苺苺は腹の底から大きく叫んだ。
 ぴくりと耳を動かした猫魈の双眸と、苺苺の瞳がかちあう。
 牙を剥いた猫魈の開いていた瞳孔が針のように細くなった。
 迷いなく後脚に力を込めた猫魈は、大きく躍動し、苺苺へと飛びかかる。
「シャァァァァッ!」
「苺苺――!」
 木蘭の切羽詰まった叫び声が猫魈の咆哮と重なる。
 獅子ほどの巨体が苺苺に突進するかと思われた、その時――。
「にゃーんっ」
「あうっ」
 猫魈が苺苺の肩に両前脚をかけ、勢いよく押し倒した。
 苺苺はごちんと地面で頭を打って、思わず舌を噛む。
 大きな姿の猫魈はとたんに子猫ほどの大きさになると、ぺろぺろと苺苺の頬を舐めた。どうやら妖術を使ったらしい。
「にゃぁぁぁん」
「ああ、猫魈様……。そうだったのですね。またお大変なめに……!」
 苺苺は地べたにペタリと座り込むと、子猫になった猫魈を手の中でよしよしと撫でる。
 猫魈の話から推察するに、猫魈はまた名が刻まれた式符で道術を使われ、後宮内に顕現されてしまったようだ。
 しかし苺苺がくれた友情の証のおかげで、道士に意識までは操られずに済んだらしい。
『木蘭を喰い殺せ』と再び命じられたが、寸前まで使役の術にかかったふりをして、木蘭を安全なところへ連れ去ったうえで苺苺が来るのを待つ気でいたとか。
「あやかしに喰い殺せと命じるなんて、非道な女官だ」
「へ? すみません、宵世様。今なんと?」
「いいえ、なんでもありませんよ」
 猫魈を抱き上げる苺苺の隣に、眉根を寄せながら立った宵世が首を横に振る。
 その宵世がどこぞへ合図を送ると、隠れていたらしい青衛禁軍に属する東宮侍衛の武官たちが、四方八方を取り囲んだ。
「四半刻ほど前、『あやかしが後宮内に侵入した』との報告を受け――、あやかしを退ける力を持つ〝異能の巫女〟として紅玉宮預かりになっていた白蛇妃を伴い、巡回していた最中でした。あやかしを引き入れた首謀者を炙り出すため、ご報告が遅れましたこと誠に申し訳ございません」
 宵世はまったく申し訳なさそうではない顔で淡々と口にすると、
貴姫(きき)様、淑姫(しゅくき)様、徳姫(とくき)様、賢姫(けんき)様、令儀(れいぎ)様、芙容(ふよう)様、彩媛(さいえん)様、お怪我はございませんでしたか」
とこれまた淡々と言う。
 墨をこぼしたような黒髪美青年を前に、妃たちは頬を赤らめてふるふると小さく首を振る。
 あやかしに阿鼻叫喚だった女官たちも、見目麗しいと女官や宦官たちに人気の高い宵世の登場で、悲鳴を黄色い声に変えていた。
 今まで張り詰めていた緊張の糸が緩む。
 だがしかし、誰もが白蛇妃への感謝など抱かずにいるようだった。
 宵世の脇に歩み立った木蘭が、周囲を見渡してから、最上級妃らしく背筋をぴんと伸ばして叫ぶ。
「皇太子宮に侵入したあやかしは、『白蛇の娘』が弱体化した。皆の命を救わんと、命懸けでこの場に駆けつけた白蛇妃(はくじゃひ)に、すべからく叩頭せよ!」
 そんな木蘭(ムーラン)の言葉を聞き最初に反応を示したのは、一番背の高い中性的な容貌の美姫、(ヘキ)()出身の淑姫(しゅくき)だった。
「感謝いたします、白蛇妃(はくじゃひ)
 彼女は美しく丁寧な所作でもって叩頭(こうとう)する。
 その凜とした声に、我に返った五妃たちはどこか不満そうに戸惑った表情を浮かべながらも、「感謝いたします」と淑姫に続くようにして叩頭した。
 女官たちもそれに習い、続々と皆が叩頭していく。
 苺苺(メイメイ)はその光景にびくりと肩を揺らして、猫魈(ねこしょう)を抱きしめる。
「ど、どうぞ皆様、頭をお上げください」
 後宮に来てからというもの、見知らぬ妃や女官たちに嫌われることは幾度もあったが、感謝されることなどあっただろうか。
(木蘭様暗殺阻止のために駆けつけたのですが、まさかこんな風に皆様にお礼を言われるだなんて)
「事件が起きる前に駆けつけることができて、よかったです」
 照れくさい気持ちではにかみながら、苺苺は微笑みを浮かべた。
「……東宮補佐官殿、この場の指揮を頼めるか」
「御意」
 木蘭に代わって、怖い表情をした宵世(ショウセ)が前に出る。
(シュ)若麗(ジャクレイ)を捕縛せよ」
「……っ!」
 黒い胡蝶が舞う中、若麗は東宮侍衛長によって捕縛された。


 ◇◇◇


 茶会は中止になり、集った妃たちはその場で解散となった。
 宵世の采配で青衛禁軍の東宮侍衛がそれぞれ彼女たちの護衛に付き、各々の宮へと帰路につく。
 捕縛された『木蘭暗殺未遂事件』を起こした犯人、朱若麗は、朱家次期当主の三の姫という立場から、紅玉宮で取り調べが行われることと決まった。
 場所を移した一行は、紅玉宮(こうぎょくきゅう)にある木蘭の私室に向かう。
 入室可能な関係者は限定され、木蘭、宵世、東宮侍衛長、そして若麗となった。
「木蘭を三度も暗殺しようなんて。馬鹿な真似をしたなぁ、若麗? 木蘭は俺たち朱家の宝だったんじゃねーの?」
 この垂れ目の東宮侍衛長こそが、紫淵(シエン)のもうひとりの腹心。
 木蘭が白州を訪れた際に、木蘭の後ろに控えていたあの般若護衛。齢十九になる朱家当主が次男、零理(レイリ)であった。
 朱皇后陛下の随分歳の離れた弟君にあたり、紫淵とはそれこそ赤子の時からの幼馴染になる。
 そして零理にとって、若麗は血の繋がった姪に当たった。だが彼は、両膝で跪かせた若麗の首に、長剣の刃先を戸惑いもなく向ける。
 しかし、若麗は「誤解です」と静かに首を振った。
「木蘭様、私はあやかしとなにも関係ありません。一体なぜ、私があやかしを使役するのですか? それに木蘭様を暗殺しようだなんて、理由がありません……!」
「野苺の葉茶の有毒性について、自然な会話を装って美雀(メイチェ)に吹き込んだのはお前だな?」
 木蘭の言葉に、若麗ははっと息をのむ。
「美雀が春燕(チュンエン)に抱く劣等感を感じ取り、うまく煽って操作したんだろう? 春燕はちょうど苺苺を紅玉宮預かりにしたことに反発し、事あるごとに意見していた」
 そんな春燕を紅玉宮の中で孤立させようと、美雀が他の女官たちに、
『春燕は悪口が多くて意地悪なところがあるの。昔から私も、姐姐(ジェジェ)には虐められてきたわ』
と喋って裏から根回ししていたというのは、美雀が捕まった後に女官たちから聞いた話だ。
 美雀はその劣等感を、いつしか木蘭や苺苺にまで向けるようになっていた。
「春燕を評価する妃が邪魔だと、憎しみを抱くようになっていた美雀に毒のことを話せば、春燕を紅玉宮から追放するために行動に移すと理解していたのだろう?」
「そんな、ことは……」
「一度、猫魈を使った妾の暗殺に失敗していた若麗のことだ。自分の手を汚さずに妾を暗殺できる方法を考えて、美雀が事を起こしてくれるのを待った。違うか?」
 美雀は春燕が事件を起こしたことにし、紅玉宮を追放されたらいいと考えた。
 木蘭と苺苺を暗殺できるかどうかはどうでも良かった。
 ただ春燕が被る罪の大きさが、大きければ大きいほどいいと考えていたのだ。
 計画が失敗したら、野苺の葉茶を作った張本人である苺苺に罪を被せられるし、逃げ場は十分にある。
「お前の計画では、あの時ついでに苺苺も糾弾して追放するはずが……とんだ失敗だったな」
 木蘭が鼻であざ笑うと、若麗は顔色を変えてギリっと奥歯を噛み締めた。
「美雀の計画が上手くいけば、『犯人である春燕は白蛇妃に毒された』だの、『やはり白蛇の娘が紅玉宮に不幸をもたらす』だのと言って追い出す予定だったんだろう? あやかしを紅玉宮に引き入れるには、〝異能の巫女〟が邪魔だからな」
「選妃姫が始まって今日で九十九日目です。それで悲願を成就するために、邪魔で邪魔で仕方がなかった白蛇妃を、今日はまんまと紅玉宮に閉じ込めた。なぜあなたは、木蘭様を暗殺してまで――紅玉宮の妃になりたかったんですか?」
 木蘭の言葉を引き継ぎ、木蘭を守るようにして立つ宵世が言う。
「……紅玉宮の、妃、ですか? うふふっ。まあ、皆様。どうしてそんな突拍子もないお話になるんです?」
「筆頭女官なら、(わらわ)を暗殺する手段も機会も、いくらでもあったはずだ。だがそれをせず、あやかしを使役し……美雀(メイチェ)を使うという回りくどく足のつかない方法を選んでいた。それは自分の手を汚さず綺麗なままでいることによって、皇太子の前で後ろ暗いことのない妃になりたかったから。間違っているか?」
 本日の若麗(ジャクレイ)がまとっているのはそのための衣裳、そのための化粧だ。
猫魈(ねこしょう)が妾を襲おうとした時……若麗、お前だけが妾を守ろうとはしなかった。どうせ逃げおおせて、妾があやかしに殺された不幸の理由を歴史上の『白蛇の娘』に重ね、苺苺(メイメイ)を罪人に仕立て上げる予定だったんだろう?」 
「うふふっ。木蘭様は幼くていらっしゃるのに、想像力が豊かですのね」
「あいにく、見た目通りの年齢ではないからな」
 木蘭はやれやれと肩をすくめると、紫水晶の大きな瞳で若麗をすっと冷たく見据える。
「百日以内に妃のいなくなった紅玉宮(こうぎょくきゅう)に君臨するのは、朱木蘭の血筋に連なる――朱若麗。お前だ。……さて。ここまで来て、言い逃れは無駄だぞ。もう逃げ場はない」
 木蘭は上座にあたる椅子に座り、肘掛の上で頬杖をついた。
鏡花泉(きょうかせん)の東の四阿(あずまや)付近の竹林で、宦官の詰所から昨晩盗まれた封籠が見つかった。……若麗、猫魈を従妖(じゅうよう)にした際の式符を持っているな? 出せ」
「………っ」
 ぎりいっと奥歯を噛み締めた若麗は、本当にもう言い逃れができないのだと悟った。
 悪態を吐き、言葉の限り暴言をわめき散らしたいのをぐっと我慢しながら、胸元から式符を取り出す。
 道術を力を込めて作られた白い式符には【招来猫魈】と書いてある。
 それを宵世が受け取った。
「これはどこで手に入れた?」
 木蘭が問いかける。
「……西八宮である女官から……目くらましの霊符と合わせて、金品と交換をしました。彼女は以前、西八宮に来ていた異国の宮市で買ったそうです。道術も彼女から基礎を教わりました。ですが、彼女は……不治の病に侵されていたため先日亡くなっています」
「そうか」
 神妙な顔で木蘭は頷く。
「若麗。お前の処罰は後宮からの追放、そして朱家での生涯に渡る禁足(きんそく)だ。またいかなる理由があろうとも、燐華城(リンファじょう)に立ち入ることは禁じる。燐華城内に足を踏み入れた瞬間、死罪を覚悟しろ」
「……そんな――ッ!」
「すべて未遂に終わったからこそ、情けをかけてやった。苺苺もお前の死罪は望まないだろう」
「……情け? うふふっ、幼児からの情けなんて、そんなのいらないわ! あなたが現れなければ、私が選妃姫(シェンフェイジェン)に臨めたの。それなのに、選妃姫に臨めない私をお父様は自分の地位を固めるためだけに、皇帝陛下に嫁選びに参加させた。……ねえ、知っていて? ふふっ、皇帝陛下に見染められたら、私は紫淵(シエン)様の義理の母になるんですって。そんなの、そんなの耐えられない……!!!!」
 ねえ、義理の母なのよ? と若麗は目を見開き、何が面白いのか狂ったように笑う。
「そんなの、そんなの耐えられないわ……。だから西八宮で、ずっと復讐の方法を考えていたの。……うふふっ、だからあなたの女官になれると聞いた時、救われたのだと思った」
 若麗はうっそりと(わら)う。
 若麗は幼い頃から、宮廷行事の際にひっそりと姿を現す紫淵に恋心を抱いていた。
 悪鬼面をかぶり決して顔を見せない彼に惹かれたのは、その洗練された所作と、美しい紺青の黒髪、そして凛々しい立ち姿、なによりも氷のような冷たさを帯びる甘い声だったかもしれない。
 祖父や父が招かれた宮廷行事がある際には、二人に何度も頼み込んで、次期当主の三の姫という立場で顔を出した。
 いつか彼と一言でも話せますように。
 そしてお顔を拝見できますように。
 そう願いながら。
 十三歳のある日、招かれた宮廷行事の際に道に迷った。しかも、絶対に入ってはいけないと言われていた皇帝陛下の後宮に迷い込むなんて。絶対に処罰される。帰宅は絶望的だと思った。
 そんな時、幼い若麗に救いの手が差し伸べられる。見知った影を見つけたのだ。
零理(レイリ)お兄様!』
 若麗は走って、彼らを追いかけた。
 そして禁足地で見つけたのだ。叔父の零理と、――紺青の黒髪が煌めく絶世の美少年を。
 彼が紫淵様だ。
 若麗にはすぐにわかった。
 絶世の美少年は若麗を認めると、ふいっと顔をそらす。そして零理に何事かを耳打ちして、零理と一緒に後宮から外に出してくれた。
 会話はなかった。だが視線は交わった。
 その日の若麗の心臓は、人生で一番ドキドキしていたかもしれない。
 その日の夜、事のあらましを聞いた父が言った。
『皇太子宮の封が解かれたら、お前は慣例に従い皇太子妃になる。朱家の血筋の家格が合う娘はお前しかいないからな』
 あの美しい紫淵様の妃に、私が……?
 若麗はその日から、一生懸命に妃教育に励んだ。
 紫淵の隣で見つめ合い、手を繋ぎ、愛し合うのを夢見ながら。
 しかし、現実はどうだろう。
 伯母の縁者にあっさり朱家の姫の座を奪われ、皇帝の後宮に放りこまれた。
 皇后陛下の女官として後宮で日々を生きる中、じくじくと木蘭への憎しみが(うず)き、胸を侵食して止まらなかった。

 幼妃(おさなひ)が捨て置かれていれば、まだ憎しみの溜飲が下がったかもしれない。
 だが紫淵の寵愛を一身に受けていたのは、この後宮で一番憎悪を向ける相手――木蘭だった。
「筆頭女官としてあなたに尽くしていたら、あなたがいなくなったあとに紫淵(シエン)様から寵愛を受けられると思っていたのに……絶対に許さないわ、朱木蘭! ()()()()()を返して……ッ」
 若麗(ジャクレイ)が素早く頭に刺していた(かんざし)を抜き、その鋭い切っ先を木蘭(ムーラン)へ向けて立ち上がる。
 だがその四肢を、宵世(ショウセ)の隠し持っていた暗器――赤い紐のついた双剣の縄鏢(じょうひょう)が一瞬にして縛り上げた。次の瞬間には、零理(レイリ)の長剣の刃が彼女の薄い腹に当てられる。
「……――ッ!」
「これだから後宮の女は嫌になる」
 腹心の臣下への信頼からか命の危機にも動じず、若麗に冷めきった目を向けていた木蘭は、「そろそろ頃合いだな」と言うと、座っていた椅子から立ち上がった。
 若麗がこの部屋に入る前に、手伝いも呼ばずに召し替えたのだろう。先ほどまで身に纏っていた茶会向けの衣裳から、いつのまにか濃紫の深衣を身にまとっていた木蘭は、長すぎる裾を引きずりながら歩く。
 ほら、ひとりで着替えもできない幼な子のくせに。
 そう思っていた矢先、奇怪なことが起きた。
 目の前にいた美幼女が、不敵な笑みを浮かべたまま大人になり、そして――。
「勝手に恋心を抱かれて、殺されかけては迷惑だ。恥を知れ」
「あ、ああ……そんな……。そんな、木蘭様が……紫淵様だなんて……!」
 若麗は絶望感に苛まれながら、静かに一筋の涙を流した。
 子猫になった猫魈(ねこしょう)を抱いた苺苺(メイメイ)はそわそわと、紅玉宮(こうぎょくぐう)の本殿の廊下を行ったり来たりしていた。
 若麗の沙汰が言い渡されるまでの間に、もし若麗の悪意が呪詛に変わったらどうしようかと思っていたのだ。
「破魔の術を込めて作った紫淵殿下用の深衣は、効果があったでしょうか」
「にゃぁん」
 最初は大好きな木蘭のために作りたいと思ってい破魔の衣裳たが、『大は小を兼ねる』と紫淵に言われてしぶしぶ大きい衣を縫った。
 木蘭の形代のぬい様もばっちり用意しているので大丈夫だとは思うが、『若麗様の悪意による白蛇ちゃん惨殺事件』には流石に鳥肌がたったものだ。
 けれど夜の帳が下りてしばらく経った頃、木蘭の部屋から宵世と零理に脇を固められた若麗が出てきた。
(ど、どういうことでしょうか? 木蘭様はご無事で……!?)
 苺苺は三人に駆け寄って、「木蘭様は?」と切羽詰まった表情で尋ねる。
 しかし零理は『気やすく喋りかんけんな』と般若の顔をしただけで、宵世は「諸事情で籠城(ろうじょう)するそうです」と淡々と言った。
「お元気でしたら良かったです。それでは、若麗様をお見送りに来られないのですか?」
「ええ。紅玉宮での夕餉はいらないそうですので、白蛇妃(はくじゃひ)様が女官たちに伝えておいてください。今夜の紅玉宮の指揮は全て白蛇妃様にお任せされるそうです」
「わかりましたわ。……あっ。でしたら宵世様、今晩は爆竹の許可をいただきたいのですが」
「あなた阿呆ですか? 許可するわけないでしょうが。よそでやってください。いや、よそでも駄目です」
 宵世に怒られた苺苺はしゅんとしながら頷き、ちらりと憔悴しきった若麗を見やる。
 筆頭女官の若麗は、すでに彼女の瞳の中にはいなかった。
「あの……若麗様。わたくし、若麗様から木蘭様のこれまでの日常をお聞きするのが、とっても楽しくて至福の時でした。そのお返しと言いますか、ぜひとも木蘭様の良いところをたくさん知っていただきたくて。こちらをご用意させていただきました」
 苺苺は頬を染めつつ、大袖からそっと真新しい紐閉じの書物を取り出す。
「……こちらは?」
「はいっ! 木蘭様と若麗様の素敵な日常や、かわゆいやりとりなどを日記形式でまとめさせていただいきました! これを読んだらきっと若麗様も、木蘭様の至高の尊さがわかると思うのですっ」
 木蘭様の尊さをいっぱい綴った『木蘭様日記』です! と苺苺はぴかぴかの笑顔でうふふと微笑む。
「……そうね。今となっては、お慕いしていた方との大切な日々だったわ」
 若麗は涙ぐみながら、苺苺から渡された日記をぱらぱらとめくる。
 そこにはなんてことのない日常の風景があった。しっかりと覚えているやりとりもあるし、木蘭の笑顔や、風景や、匂いまで鮮明に思い出せる一幕もあった。
 あんなに憎しみを抱いていたのに、今はどこか懐かしい。
 なによりも心の奥底から湧き上がる熱が、木蘭の周囲を輝かしくきらめかせて……――尊くて、切なくて、愛おしく感じられた。
「……きっとこんなあなただから、木蘭様も心を開かれたのね」
「へ?」
「猫魈も、ごめんなさい。許されないことをしたわ」
「しゃぁぁあ」
「わわっ、猫魈様!」
 苺苺は腕の中で暴れ出した三毛猫をわたわたと抱きなおす。
 子猫姿の猫魈は小さな牙を剥くと、若麗の指先を噛んだ。
 若麗は驚いて、今にも泣きだしそうな笑みをこぼしながら、猫魈を撫でようとしていた手を引っ込める。
「……やっぱり私、あなたが羨ましいわ。苺苺。――選妃姫(シェンフェイジェン)、絶対に負けないでちょうだいね」
 若麗は物腰柔らかく、姉のような親しみやすささえ感じられる、優しい微笑みを浮かべた。
「……はい! 選妃姫でもしっかり木蘭様をお守りできるよう、全身全霊をかけて挑ませていただきますわ!」
 こうして無事、苺々よって木蘭沼に沈められた若麗は、紫淵の命により後宮を去ることになったのだった。


 ◇◇◇


 そうして――選妃姫(シェンフェイジェン)の当日がやってきた。
 恐ろしい女官の脅威も去り、夜警から解放された苺苺(メイメイ)は、毎日ぐっすりスヤスヤと水星宮(すいせいきゅう)に運び込まれたふかふかの布団に包まれて眠っていた。
 木蘭の命を狙う存在がいなくなった今、紅玉宮(こうぎょくきゅう)を辞して水星宮に帰って来ていたのだ。
「にゃーん?」
「おはようございます、猫魈(ねこしょう)様。んん、良い朝ですね〜〜〜」
 若麗(ジャクレイ)から従妖(じゅうよう)の契約を解かれた猫魈の主人は、苺苺へと書き換わった。ふたりは種族を越えた友人として、今は一緒に水星宮に住んでいる。
(まさかお部屋の調度品を一新していただけるとは思ってもみませんでした。紫淵(シエン)殿下、太っ腹です)
 そんな紫淵はといえば、苺苺が紅玉宮を辞すのを最後まで嫌がった。
 そして最後には『こうなったら水星宮を建てなおす!』と言い張ったが、時々互いに通って茶会や夕餉を共にするという話で折り合いがついた。
 さらに水星宮の簡素だった調度品は、紫淵の希望ですべて天藍宮(てんらんきゅう)並みの豪華な品々に取り替えられることに。
 おかげで水星宮は以前より瀟洒(しょうしゃ)な意匠の調度品に溢れ、小さくとも素敵な隠れ家風になっていた。
「まさかこんなに、自慢するところしかないお部屋になるだなんて……。ぎゅぎゅっと全てが整えられた単身者向け一室住居(風呂、御手洗完備、厨房無し)の水星宮、おそるべしですっ」
「にゃうん」
(早く木蘭様をご招待したいですわね。どんな反応をなさるでしょうか? 想像するだけで、ふふっ、幸せな気持ちになります)
 そんなことを考えながら、「ふんふんふ〜ん。ふんふ〜ん。ふふっふー」と調子の外れた鼻歌交じりに寝台を整える。
 小さな子猫姿の猫魈も、三尾のしっぽをフリフリしながら前脚で念入りにもふもふの顔をを洗った。

 ふたりで朝餉を食べ、香包(シャンパオ)の最終準備を行い、そうして――夕方に差し掛かった頃。
 なにやら扉の外が騒がしくなる。
白蛇(はくじゃ)娘娘(にゃんにゃん)春燕(チュンエン)鈴鹿(リンルー)なのです」
「ちゃんと生きてる? 失礼するわよ」
「はいっ。どうぞ、お入りください」
 苺苺が返答すると、がらりと扉が開く。
「お久しぶりでございますなのです。お支度をお手伝いするのです」
 紅玉宮は木蘭付きの女官、侍女頭補佐となった春燕と第参席となった鈴鹿が、上級女官に相応しい正装をした姿で、不釣り合いなほど大きな葛籠(つづらこ)の箱を抱えて入ってきた。
 きょとんとした苺苺は、紅珊瑚の瞳をぱちぱちと瞬かせて丸くする。
 なにせ、苺苺にとってびっくりするようなことが起きた。
 紅玉宮に〝異能の巫女〟として住まわせてもううようになってから、朝の身支度や髪結いはすべてひとりで行ってきた。それは水星宮で当たり前にやっていたので、このふたりの女官の手を煩わせるまでもないと思って遠慮していたからだ。
 そして水星宮に戻った今、身支度を自分で整えるのは至極当たり前のことだった。それが、二人の女官が手伝ってくれると言い出したのだ。
「おふたりとも、本日は木蘭様のお支度でお忙しいですよね? そんな、わたくしまでお気になさらずに結構ですよ。本日も自分で――」
「いいから、ここに座って。香油の好き嫌いはある? お化粧の色味の好き嫌いは?」
 葛籠の箱をいろいろと広げながら、春燕が言う。
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えまして。好き嫌いはないですよ」
「好き嫌いがないなんてことはないでしょ? 木蘭様の次に目立たなきゃいけないんだからしっかりしてよ」
「ふふっ。春燕さんと鈴鹿さんに初めて整えてもらうのですから、どんなものでも嬉しいです」
「……馬鹿ね」
 春燕は顔を真っ赤にしてふいっとそっぽを向く。
「春燕、照れてるのです」
「照れてな、く、は、ないわよ」
 いつものやりとりが、尻すぼみになっていく。
 苺苺は賑やかなふたりのやりとりに、幸せな気持ちになって「ふふふっ」と桃色に頬を染めた。
 そして葛籠の中に入っていた大袖を手に取り、目を丸くする。
「わあ……! こちらのお衣裳、上質な絹の白地に紫銀糸の刺繍だなんて」
「そちらは白蛇娘娘へ、皇太子殿下からの贈り物なのです」
「木蘭様のところに届いたのよ。きっとこの間の、暗殺未遂事件から木蘭様を助けた褒賞だわ」
「そうなのですか。はわわ、着るのがもったいないくらい素敵ですね」
「もったいなくなんかないわ! ばしっと着こなしちゃって、木蘭様の隣で二番目に目立ってよねっ!」
 そう言って春燕は「打倒六妃!」と拳を突きあげた。
 今回の選妃姫(シェンフェイジェン)は、珍しく夜間に行われることとなっていた。
 御花園に作られた天幕の張られた会場は、三方向からならどこからでも観覧できる。
 普段は後宮内の秘匿された会場で行われるため、このような形で開催される選妃姫は非常に珍しく、周囲には皇太子殿下やその妃たちを一目見ようと、後宮中の女官や宦官たちが集まっていた。
「選妃姫が夜に行われるのは油桐花(ヨートンファ)が降るからかしら? ああ、こんな素敵な夜に、淑姫(しゅくき)様の凛とした姿が見れるだなんて」
「満点の星空と立夏雪(りっかのゆき)が一番似合うのは徳姫(とくき)様よ。見て、あの可憐な様子」
賢姫(けんき)様の天女のような声が夜の帳を揺らす瞬間は、きっと誰もが感嘆のため息をつかずにはいられないわ。皇太子殿下から『百花(ひゃっか)瓏玉(ろうぎょく)』を下賜されるのは賢姫様ね」
「まあ、間違ってもあの幼な子や白蛇妃(はくじゃひ)ではないわ」
「この間はちょっと、その、助けられたけれど。それとこれとは話が違うんだから!」
 それぞれの推しを称えてクスクスと笑う女官たちの話し声が、彼女たちにほど近い末席に座す苺苺(メイメイ)に聞こえていないはずがない。
 だが、しかし。
(立夏雪の中の木蘭(ムーラン)様の一挙手一投足、いいえ! 衣のはためきまでも見逃しはしません!)
と、燃える苺苺の耳には、女官たちの悪意のこもった話し声などまったく入っていなかった。
(それにしても木蘭様はいらっしゃいませんね……。お支度が遅れていらっしゃるのでしょうか? 春燕(チュンエン)さんと鈴鹿(リンルー)さんの手をわたくしが借りてしまったからですわっ。心配です……!)
 特別なおめかしをした苺苺の後ろには、なんと春燕と鈴鹿が控えている。
 審査員席には皇后陛下、四夫人、そして司会進行役の東宮補佐官である宵世(ショウセ)がいる。
 会場の向こうには、特別な場合にしか後宮内に入ることのできない青衛禁軍に属する零理(レイリ)が率いる東宮侍衛たちが警護に当たっていた。
「――ただいまより、選妃姫を開始いたします」
 宵世の声でわっと会場が華やぐ。
 そして天幕の裏から、この国の次期皇帝である皇太子、紫淵(シエン)が姿を現した。
 まさか本当に皇太子が現れるとは思っていなかった会場の人々は、さらに悪鬼面をつけていないその美貌にどよめき、のちに静まり返る。
 審査員席に座す人間以外は皆、紫淵にひれ伏した。
(おもて)を上げよ」
 夜の静けさに低く冷たい声音が響く。
(木蘭様……っ! ああ、立夏雪とかわゆい木蘭様の共演がぁぁぁ)
 苺苺は木蘭の欠席を悟り、がくりとうなだれた。

 そうこうしているうちに、『八華八姫(はっけはっき)』の姫君たちによる『端午節(たんごせつ)香包(シャンパオ)』のお披露目が始まった。
 一番手は最上級妃の木蘭だったが、病欠のため、筆頭女官となった怡君(イージュン)が代理人として作品を上座に座す紫淵へと披露する。それはちょっと糸がよれている、木蓮(もくれん)風の花があしらわれた香包だった。
 それに続いて淑姫、徳姫、賢姫、と作品のお披露目と謂われの説明を行う。
 紫淵は誰に声を掛けることもなく、そして誰の香包も受け取らなかった。
 そうして……ようやく最後に、最下級妃の白蛇を冠する苺苺の番が巡ってくる。
 苺苺は末席から立ち上がると、白蛇妃付きの侍女として控える春燕と鈴鹿とともに前へ出た。
「皇太子殿下に拝謁いたします。白蛇妃、苺苺でございます」
「ああ。君を待っていた」
 紫淵は初めて、進行のためではない(いら)えを返す。
 苺苺は紅珊瑚の瞳をぱちくりとして、紫淵を見上げた。
「恐悦至極に存じます。わたくしが『端午節の香包』として、紫淵殿下にお贈りしたいとご用意いたしましたのは、こちらでございます」
「それは…………ぬいぐるみ?」
「はいっ! 紫淵殿下を模して製作したぬい様でございます!」
 苺苺が元気よく伝える。
 香包にしては大きく、そして奇をてらいすぎた形を見て、会場中がざわざわとどよめいた。
「衣裳には五色の糸を使用し、破魔の紋様と健康を願う意匠の刺繍を施させていただきました。中にはお忙しい毎日でもぐっすり眠れるよう、安眠用の生薬を詰めてあります。抱き枕としてお使いください」
「……ふっ。くくく、さすが苺苺。面白いものを作ってきたな」
 そっと甘さを含んだ優しい声音でそう言うと、紫淵はふわりと微笑んだ。
 彼は鷹揚に上座から立ち上がると、苺苺の目の前までやってくる。そして。
「君には、これからも俺のそばにいてほしい」
 紫淵は懐から一本の(かんざし)を取り出すと、苺苺の綺麗に結い上げられた真珠色の髪に刺した。
「あ、ああ、あれって……希少な琅玕(ロウカン)翡翠(ヒスイ)で作られてるっていう、『紫翡翠の牡丹(ぼたん)瓏花(ろうか)』!?」
「さ、さ、最高位の『百花瓏玉』なのです――!」
 白蛇妃付きとして後ろに控えていた春燕と鈴鹿が「わああ」っと喜び、ぎゅっと手を取り合う。
 苺苺は驚きに見開いた目を丸めて、たった今下賜された最高位の『百花瓏玉』にそっと手を触れた。
「――白蛇妃、白苺苺の香包をもって選妃姫を終了とする!」
 紫淵の冷たく玲瓏な声が、後宮に高らかに響いた。


 ◇◇◇


 それからのことは、『白家白蛇伝』に書き加えられた、新たな物語より知ることができる。

 白蛇の娘の異能によって、皇太子は少しずつ、本来の姿に戻る時間が増えていくようになった。
 その間も後宮では様々な事件が起きたが、そのたびに白蛇の娘は持ち前の明るさと元気で切り抜け、そして人々は次々に白蛇の娘の真実の姿を知ることとなる。

 そうして、二年の月日が経ち――皇太子が成人の儀を迎え、悪鬼の呪詛による怪異が完全に解けた頃。
 八華八姫の慣例に従い官名を賜っていた姫たちは、皇太子によってそれぞれ名のある臣下に下賜され、皇太子宮はひとつの宮を残して封じられた。

 後の世に紫淵皇帝陛下が溺愛し庇護する〝唯一の寵妃〟となったのは、紅玉宮を与えられた白蛇の娘。
 紫淵皇帝陛下を献身的に支えた〝聡明な皇后〟と多くの女官や宦官に推され、慕われた白蛇妃――白苺苺である。



〈完〉

 苺苺が紫淵から最高位の百花瓏玉を賜った、七日後――。
 燐華城の後宮内には〝宮市〟が来ており、各州随一の商店たちが数多の露店を広げて賑わいを見せていた。
 紅玉宮の筆頭女官である怡君、そして春燕と鈴鹿を従えた木蘭は、宮市の大通りを胸を張って練り歩く。
 そんな木蘭の隣で、苺苺は紅珊瑚の双眸で露店をくまなく見回しながら、「これが宮市……!」ときらきらと瞳を輝かせていた。
 どこを見渡しても上等な天幕が掛かった露天が広がり、一級品の織物や宝石が並んでいる。
(はわわわ、なんとご立派な品々でしょうか……! 国宝を手がける職人の皆様もいらっしゃっているとか。まさに燐華国を表す宝物殿のようですわ! ひと目見ただけでも、最下級妃のわたくしにはまったく手が届かない商品だとわかりますっ)
 そんな国宝級の品々が並ぶ商店の商品棚には、ところどころ空白がある。
 ということは、誰かがこの最高級品を購入したのだろう。
(もしや紅玉宮の女官の皆様が噂されていた、かの貴妃様の……?)
 女官や宦官が噂を広めているのか、すでに皇帝が治める後宮の西八宮に住まう貴妃が、
『夜光貝の螺鈿(らでん)と純金の截金(きりかね)で仕上げた最高級の付け爪を、職人の言い値で購入したらしい』
と話題になっていた。
(その価値は、どうやら王都に邸をひとつ構えられるほどだというのだから驚きですっ)
 宮市に訪れる順位は西八宮からとなる。
 というわけで、苺苺と木蘭が宮市に訪れたのは、西八宮の妃嬪たちが宮市を訪れ、東八宮までその噂が回ってくるほどの日数を経た後であった。
「それにしても、初めてのまるで王都の街並みが突然現れたかのような錯覚に陥ります。ここが後宮の正門の前だなんて」
「奇術のように見えるか?」
 木蘭は「ふふん」と得意げな様子で、隣に立つ苺苺を見上げる。
 この宮市の開催に際して、木蘭も皇太子の最上級妃として意見した立場らしい。
「はい。おっかなびっくりと言いますか、幻術を見ている気分です。どこもかしこも活気もありますし、商店の品揃えも豊富で……」
「今回の宮市は皇帝が呼んだものだ。西八宮の妃嬪が中心で呼ぶこともあるが、やはり比べるとその差は歴然だな」
 後宮では時に皇帝や妃嬪、時に皇子や公主が主催者となり宮市を呼ぶ。
 その意図は、例えば慈善事業や勤労感謝のためであったり、権力や財力を知らしめるためであったり。時には自分より地位の高い妃への贈り物として、彼女の思い出深い街並みを再現することもある。
 だが逆に、他州出身の妃嬪を貶めるような意図を含んだ宮市が行われることもあったりと……開催理由は実に多岐に渡った。
 此度の宮市は、皇帝陛下が八華八姫の慣習に則り入宮した皇太子妃たちを祝すという名目で、八華への労いを込めて開かれたもの。
 なので、各州から分け隔てなく衣裳や織物、宝飾品、陶磁器、仏具、茶葉や菓子など多岐にわたる分野で随一の有名専門店が集っていた。
 皇后や四夫人にしか手の届かないような品から、中級妃、下級妃、そして後宮を支える女官たちにも手が届くような品を置いている露店もある。
 だからと言って粗悪品というわけではなく、値段に応じた上等な品ばかりなのだから、その賑わいはまるで宴の様相を呈していた。
「王都を含んだ九つの州の最高峰が、ここに集ったんだ。きっと燐華国のどこを探しても、ここより素晴らしい街並みはないだろう」
「はぁぁ。確かに、わたくしの人生の中で見た一番賑やかな街並みやもしれません。初めての宮市、恐るべしです」
「妾もいつか、苺苺のためだけに宮市を呼ぼう」
「ええっ!? 木蘭様がわたくしのためにですか!?」
「ああ。期待していてくれ。皇太子宮に、世界中から苺苺のために腕利きの職人を呼んで、様々な技法の刺繍が施された品々を買い付けよう。それから燐華国では見たこともない茶菓子も取り寄せさせる」
 木蘭は襦裙の大袖で口元をちょこんと隠しながら、上目遣いで可憐な微笑みを見せる。
(あああ、木蘭様がかわゆすぎます……っ!!)
 苺苺の高鳴る胸は、その微笑みにずきゅんと撃ち抜かれる。
「木蘭様が好きすぎて語彙が溶けます……っ。この溢れる想いを、わたくしはどうしたらいいのでしょうか……っ」
 まさか心の中で叫んだ言葉が声に出ているだなんて気づきもしない苺苺は、頬を真っ赤に染めて、とろけるような笑みを浮かべながら円扇で目元の下までを隠す。
 それを直視した皇太子である紫淵は――堪えるようにして、きゅっと唇を噛み締める。
「ありがとうございます、木蘭様。ですがそんな壮大なことをなさらなくても、わたくしは木蘭様とずっと一緒です」
「……ああ」
 それが木蘭に言われた言葉だとはわかっていながら、胸の奥底がぎゅっと締め付けられる思いがした。

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