「どうもしない。……大丈夫だ……」
 天体を眺めるかのように仰向けのまま答えたその男は、首から聴診器を提げ、白衣を着ていた。もっともその白衣は、血と土にまみれひどく汚れている。
「……あなたは、ライラック医師? こんな時間まで、診察を……?」
「ああ、そうさ……こんな時間まで、診察、だよ……私は、医者だから、ね……」
 ヤマトは一瞬、この血は誰か他の人間のもので、医師自身は重傷ではないのではないかという考えが浮かんだが、医師が自身の腹部に突き刺さっているナイフを血まみれの両手で覆い隠していることに気がつくと、そんな考えは彼方へと放り捨てた。
「医者を呼びます、待っていてください」
「私が、医者さ……」
 ライラック医師はきれぎれの息で辛うじて言葉を口にする。
「未練は、あるがね……。まさかこんなことに、なるとは……思っていなかった、から……」
「そう、ですか……。ところで、もしやあなたを刺したのは、酔っぱらいの男ではありませんか?」
「よく、知っている……ね……。そう、私を刺したのは……酔っぱらいの男、だ……大柄な……」
「大柄……? ともかく助けを呼んできます。このままではいけない」
 ヤマトは検問所のドアを乱暴に叩き、迷惑そうな顔で出てきた若い番兵に事情を説明する。
 検問所にいたのは、ヤマトの入村検査をした若い男の番兵と、やけに目付きの鋭い小柄な女の番兵だった。女のほうは男の番兵よりも少しばかり年上に見える。そして二人はやはり独特な香りの煙草を吸っていた。テーブルには酒瓶とグラスも置かれている。
 男の番兵は最初こそ面倒くささからかヤマトの言葉を疑っていたが、刺されたのがライラック医師だと知ると、チッと舌打ちをして煙草の火を消し、上着を羽織って外へ出た。
 しかし二人がライラック医師の元へ戻ったとき、彼はもう死んでいた。
「医師は、大柄な男に刺されたと……そう言っていたんだな?」
「ええ、そう言っていました」
「大柄な男? それは意外な犯人像ね」
 後からやってきた女の番兵が、未だ煙草をふかしながら他人事のように言った。
「そう、ですね?」
 ヤマトは彼女の表情をうかがいつつ曖昧(あいまい)な相槌(あいづち)を打つ。