「悪夢の中に閉じ込められている? どういうことだよ、広瀬。お前、何か知っているのか?」
 大志に問い詰められ僕は答えに困った。
「あのさ、ちょっと待ってくれないか」
「何が待てだ。さっさと言えよ」
 大志が僕を見過ごすことなんて出来ないのはわかっていた。
 思い通りに事を進めたい大志は、脅すことなど平気だ。
 正直に言えばもっと事態が悪くなる。
 今にも飛び掛ってきそうな大志と冷静に話せるわけなんかない。
 また僕だけが責められてしまう、あの時のように。そんなことはもう二度とごめんだ。
 僕は佐野を道連れに彼女の手首を掴んで走って逃げる。
 僕が廊下を出た直後、佐野が反射で僕を引っ張り返していた。
「あの、待って」
 僕は立ち止まり観念する。廊下がとても静かなことに違和感を抱いた。
「あれ、誰も追いかけてきてない」
「違うの、教室を出たとたん、中に居たみんなが消えたの」
「消えた?」
 僕は佐野を引っ張って、また教室のドアの前に戻る。教室を覗き込めば誰もいない。
「あ、あの」
 僕が呆然としている側で、佐野が遠慮がちに声を出した。
 佐野を見れば、モジモジとして僕を見てから繋いだ手に視線を落とした。
「あっ、ご、ごめん」
 僕は急に意識して手を離した。
 そのとたん、かぁっと体の中から熱いものがこみ上げて後ずさりしてしまった。
「あの、なぜこんなことを?」
 佐野も落ち着かない様子で僕を恐る恐る見ていた。
「あ、あの、それは」
 もたついて、口が上手く回らない。
「えっと、広瀬君だっけ?」
「僕のことはわかる?」
 佐野は首を横に振った。
 目の前の佐野は僕が作り出した佐野なのだろうか。でもこんなことになって正直僕も状況を分かっていない。だけど説明しなければならない責任は感じていた。
「こんなことを言ったら、佐野が戸惑うのはわかってるんだけど、僕が佐野に動いて欲しいって願ったんだ」
「私に動いてほしい?」
「これは僕が作り出した悪夢なんだ。突然時間が止まり、ほとんどのものが静止した。動ける者はみんな苦手なやつばかりで、こんなときに佐野がいてくれたらって思ったんだ。だから動けって願った時、佐野がドアから入ってきた。僕が佐野を招いたんだ」
「私は、広瀬君によって呼び出されたってこと?」
「どういう理論かわからないけど、僕が望んだことが現実になったんだ」
 佐野は困惑して僕を見ていた。
「あの、私は広瀬君と、その、仲がいいの?」
 僕は首を横に振る。
「全然まともに喋ったことなんてなかった。でも佐野はいつも僕に何か話したそうにしていた。隣の席になってからは、朝の挨拶をしてくれて、少しは僕もそれには答えていた」
 といっても、僕は言葉を返したわけじゃなく、目もまともに合わせずあやふやに首を一振りしていただけだった。
「私が、自らそんなことしてたの? 私、人と喋るの苦手なんだけど」
「そういう感じなんだけど、佐野はいつも踏ん張って努力してた。さっきまで教室にいた、和泉もミーシャも癖がある奴らだけど、佐野ととても仲がよかったと思う」
「あのふたりが私の友達? どちらもはきはきとして素敵な人たちに見えた」
 佐野は驚き目を丸くする。
「広瀬君、ここは本当にあなたが作った悪夢なの?」
 僕は机の中に入っていたメモの事とドリームキャッチャーの事を話した。
 佐野はハッとして何かを考えこんだ。
「あのね、あのドリームキャッチャーだけど、私もあれを……」
 と言いかけた時、廊下の端で角に隠れながらこっそりとこっちを見ている生徒がいた。
「他に誰かいる」
 僕が急に声を出したものだから、そいつは驚いて逃げていった。
「おい、ちょっと待って」
「どうしたの、広瀬君」
「他にも生徒が居るんだ。いま、あの角のところからこっちを覗いてたんだ。この世界について何か知っているかもしれない。とにかく追いかけてみよう」
 僕が走り出すと、佐野も後をついてきた。
 廊下の端には階段がある。
 ここは二階だから上にも下にも続いている。無意識に僕が下に向かって駆け下りれば、佐野は立ち止まって上の階を見上げた。
「上だわ。今、ちらっと覗き込んで引っ込んだわ」
 僕たちは三階に向かった。
「ねぇ、そこの教室のドアが少し開いてる」
 佐野が指差したのは角の奥にあった美術室だ。
 咄嗟に隠れるとしたらここしかないだろう。
 僕たちは入り口に向かい、ドアに手をかけ一気にスライドさせた。
 傷が目立つ古い作業台が並び、教室の端や窓際には石膏像、イーゼル、鳥の剥製、空き瓶、鉢植えや花瓶などスケッチの材料となるものがごちゃごちゃと置かれている。
 僕はそれらをみた時、無意識に右手首を左手で押さえていた。
「ここにいるのは分かってるんだ。隠れてないで出てきてくれないか。少し話をしたいんだ」
 僕が言った後、少し経ってから返事が返ってきた。
「君たちは誰だ?」
 辛うじてわかるが、聞き取りにくい小さな声だ。
「僕たちは中学二年生の生徒だ」
 見知らぬ生徒との会話が始まると、佐野は落ち着かずそわそわしだす。
「あ、あの、広瀬君」
「大丈夫だから、ちょっと質問するだけだから」
 佐野は不安な面持ちで僕をじっと見つめたあと、観念したようにふっと息を吐いた。
 この悪夢の中では何が起こるかわからない。僕自身不安だ。
 緊張感に張り詰めていた時、一番後ろの作業台の陰から、身を隠していた男子生徒が立ち上がった。
 僕たちは対峙するようにお互いを見つめた。知らない顔だった。
 大丈夫と判断したのか彼がゆっくり近づいてくる。
 背は僕よりも高く、ひょろっとしていた。弱々しく見えたが、顔はすっきりとしたイケメンだ。
 儚いという言葉が似合いそうに、その顔色は青白かった。
「ボクは三年のショーアだ」
 ショーア? 不思議な響きだ。漢字ではどう書くのだろう。
「三年生のショーアさん?」
 僕は聞き返す。変わった名前だけど、それはイケメンの顔に似合っている名前に思えた。
 ショーアは軽く頷いて、急にゲホゲホと咳き込み出した。体をくの字に曲げて僕たちから逸らした。
「大丈夫ですか?」
 僕も佐野も心配して覗き込む。その顔色はまるで病人のようだ。
「大丈夫なのかわからない。ボク自身あやふやなんだ」
 ショーアの言ってる意味がわからず、僕と佐野は顔を見合わせた。
「ショーアさんのクラスも急に動かなくなったのですか?」
 僕が尋ねると彼の息が次第に整い、ショーアは動かず考え込んだ。
「クラスが動かなくなった? 言ってる意味がわからないんだが」
 ショーアと話が噛み合わない。
「ちょうど六時間目の途中で、時が止まって先生とほとんどのクラスメートが動かなくなったんです。この学校で何か異変が起こって、てっきりショーアさんも同じように巻き込まれたのかと思って」
「時が止まっている? 確かにここはおかしい。でもボクが、気がついたときにはこの学校には誰もいなかった。それで校舎内を歩き回っていたら君たちを見つけた」
 ショーアは言いにくそうに説明する。
「だったらどうして逃げたんですか」
「だって、その君たちが手を繋いで仲良さそうに、そのなんていうか見ちゃいけないものを隠れてこそこそ見てたのがちょっと恥ずかしくなってしまって、つい反射で」
「異常な事態なのに、そんなこと気にしている暇なんかないでしょう」
 僕は呆れてしまった。
「ははは、それもそうだね。まだボクはこの状況がよくわかってないんだ。君はしっかりしているんだね。名前はなんていうんだい?」
「あっ、僕は広瀬です。こっちが佐野です」
 ショーアは佐野を見て優しく微笑んだ。
 佐野は軽く首を一振りして挨拶代わりにしていた。
「広瀬君と佐野さんか。動かなくなったクラスでふたりだけ動けたの?」
「他にも何人か動ける生徒が居ます。だけど僕たちが教室を出たら消えちゃったんです」
 ショーアは益々わけが分からないと眉根をひそめた。僕はことの発端を知っている限りショーアに説明した。
 机の中にメモが入っていたことも含め、壁に掛けられていたドリームキャッチャーやこの世界が僕の作り出した悪夢と言うことも話した。
 側で佐野もじっと訊いていた。
「ドリームキャッチャー? それによって広瀬君が作り出した悪夢? ここが?」
「そうとしか考えられないんです」
「この佐野さんも君が作り出したというのなら、このボクもそうなるってこと? 君はボクのことを知っているの」
「いえ、ショーアさんとは初めて会いました」
「だけど、噂で三年生のことを聞いていて、なんとなく知っていたとかないかい?」
 ショーアが顔を近づけてきたとき、ふと見たことあるような感じもするような……気もしないでもない。
 同じ学校にいたらすれ違っていることもあるだろうし、はっきりと否定しきれないものがある。
 佐野にも同じように訊いていたが、佐野はきっぱりと知らないと言っていた。
「佐野には記憶がないんです。だから会っていたとしても全く覚えてないんです」
 佐野の変わりに僕が答えた。
「記憶がない? それも大変だね」
 ショーアが気の毒そうな顔をしたが、佐野は黙っていた。
「とにかく、僕が作ってしまったこの悪夢をなんとかしないと」
 僕が言えば、ショーアは難しい顔つきになった。
「悪夢が存在したとして、ここが広瀬君によって作られたとは言い切れないんじゃないかな」
「どいうことですか」
「この世界はボクが作ったのかもしれないってことさ」
 ぞくっとするような虚ろな目を僕たちに向けた。
「だったら、私も同じ事が言えると思います」
 ずっと黙っていた佐野が対抗するように発言した。
 ショーアは佐野を思量深く見つめた。
「どうして佐野まで言うんだ」
 僕が訊けば佐野は目を逸らした。
「佐野さんは広瀬君の作り出した幻じゃないっていいたいんじゃないかな。この世界で自分がここに居る理由を知りたいんだよ。ボクもそれは知りたいと思う。それを知ったとききっとここを抜け出せると思うんだ」
 伏目がちのショーアの目。その表情はやるせなく辛そうだ。そしてその先を続けた。
「ここは多分生死を分ける世界じゃないのかな」
「ちょっと待って下さい。それじゃ僕たちは今、死んでるってことですか?」
「時が止まり、元の世界に戻れないのなら、死んでいるのと同じこと。ここは天国への迎えが来るのを待つ場所でもあり、元の場所へ戻るためのプラットホームでもある。どっちかに転ぶ空間にボクたちはいるのかも」
「そんな怖い事を言わないで下さい」
「怖いこと? それじゃ広瀬君はまだ現世に未練があって戻りたいってことだね」
「未練があって戻りたい? だっていきなりここで死ぬなんていわれたらびっくりするじゃないですか。これはドリームキャッチャーが悪夢を閉じ込めたに過ぎない。教室に飾られたドリームキャッチャーが、毎日僕が悩まされていた悪夢を実体化してこの世界ができあがったと考えたほうがしっくりくる」
「毎日悪夢に悩まされていた? 広瀬君も何かとてつもない問題を抱えてたということだよね。その時、死にたいとか思ってたんじゃないの?」
 ショーアは薄く笑う。
 側で佐野が落ち着きをなくして僕を見ていた。
 また僕は無意識に右の手首をつかみ、中学一年の時の事を頭に浮かべていた。
 僕の夢が立たれたあの事件。そうあの時僕は絶望し、一層のこと死んでいた方がよかったと思った事があった。
 信じていた友達に裏切られ、あっという間に僕が悪者になっていた。
 弁解する余地も与えられず、担任も僕のせいと決め付けた。
 言葉だけが独り歩きして、それに便乗する者たち。いい気味だと笑う者たち。
 貶められ、右手首を傷つけてしまったあの出来事。
 僕だけが責められるべきだったんだろうか。未だに納得できない。
 またあの時のトラウマが蘇る。沸々と湧き起こる怒りに僕は心がかき乱されて息が荒くなっていた。
「広瀬君、広瀬君」
 佐野が心配して僕を呼んでいた。
「なんだか苦しそうだね。大丈夫かい?」
 ショーアも僕をじっと見ていた。
「ショーアさんが変な事をいうから、思い出したくない事を思い出してしまいました」
 僕は右手首をさすりながら息を整えようとした。
「一体何があったんだい? よかったら話してくれないか? 先ほどから右手首に触れて何度も摩ってるよね。それと関係あるのかい?」
 ショーアは側にあった椅子を持ち出し座った。
「私も訊きたい」
 佐野も真似をしてショーアと向かい合わせに座った。
 僕は突っ立ったまま話す事を躊躇っていた。
「この世界は君が作った悪夢というのなら、佐野さんやボクがこの悪夢に居る限りそれを知るべきだと思うんだ」
 ショーアは佐野を見て目で合図すると、佐野もこくりと首を一振りした。ふたりから見つめられると僕は観念した。
「わかった」
 まずは一呼吸整えた。
「あれは中学一年の一学期。僕には条野という友達がいました。条野は……」
 僕は顔を歪めながらとうとう語り出した。

 中学一年になるや否や友達を見つけるために早く一歩踏み出さないと、周りから遅れてしまう焦りがあって、上手くやっていけるのか気がかりでおどおどしていた。
 周りには自分の話せるようなタイプが居ない。
 グループが出来上がりつつあるのを見ると、友達ができるのか不安で押し潰されそうになっていた。
 そんなときに条野が僕の前に現れた。見かけは気取ってきつい感じがしたが、話してみると気さくで親しみが湧いた。
 男の目からみてもかっこよくて、女子からも当然もてていた。
 そんな奴が何で僕に近寄ってきたのか。最初は不思議だったけど、次第にそれは薄れて僕は条野が好きになっていた。
 僕の側にいつも来て世話を焼いてくれるのも心地よかった。そのうち何でも話せる間柄になるにはそんなに時間がかからなかった。
 僕はとてもいい友達ができたと心から喜んだ。
 一緒にいると地味な自分も条野のようにかっこいい部類に入るのではと思えてきてしまう。
 僕は条野に心をすっかり許していた。条野も僕に心を許していると思っていた。
 ふたりでいるときは本音で語り、調子にのって他の奴を軽く見るような事も言ったりしていた。
「広瀬は絵を描くのが上手いな。将来は本当にプロの漫画家になれるよ」
 僕の自尊心をくすぐる言葉もかけてくれた。
 僕は思いあがって、小学生の時にやっていたようにクラスの生徒をモデルにして漫画を書き出した。それを条野に見せたら大受けした。
 ふたりにしかわからないネタ。時々嫌いな奴も漫画に出してふたりで楽しんでいた。
 条野が親友だからそんな事をしていた。条野も面白がって僕にクラスメートの情報を教えてくれた。それは本人に聞かれたまずいことや、からかってバカにするものだった。
 漫画のネタはほとんど条野の言った事を参考にして描いていた。
 条野は、僕と話すときいつも「ここだけの話なんだけどさ」という前書きから始まって「この俺が言ったっていうなよ」と締めくくって笑っていた。
 僕自身、人の悪口は言ってない。条野が言ったものをそのまま取り入れていた。
 条野もそういうことを人に知られたら困るから、ふたりの間だけのことだと僕は信じていた。
 友達同士なら羽目をはずして粋がって話すこともあると思う。不満や他人の気に入らないことも本音で話して共感を得ることだって普通にみんながやってることだ。
 僕も条野が楽しそうに話すから、ついそのノリに乗って同じ気持ちだとフリをしていた。
 本心ではそんなことなかったのに、親友が言えば雰囲気に乗せられて悪ぶって口が動いていた。
 だけどある日、僕が描いている漫画が人をからかって、悪口を言っているという噂が立ってしまった。
 条野にしか見せてないのになぜそんな噂が立ったのか不思議だった。
 そしてそれをクラスメートに見られ、僕は顰蹙を買った。憤ったクラスメートが多数いたため、クラスで大きな問題になり先生も入って注意を受けてしまった。
 僕は条野の顔を不安げに見る。
 描いたのは僕だけど、その内容を言ったのは条野だ。条野がみんなを貶していたんだ。
 それは事実でもそんな事は条野を前にして絶対言えなかったし、条野も自ら告白して僕と一緒に罪を被るとその時は思っていた。
 ところが、条野はその漫画を無理やり見せられていたと言い出した。
「おかしいと思いながら、調子に乗っていた広瀬を止める事ができませんでした」
 としゃーしゃーと言った。
 よくもそんな嘘をつけるもんだと僕は呆れ返った。しかし誰も条野を疑わない。
 条野は先生からも人気があり、信用されている。僕が何を言ったところでみんな条野の言い分を信じる。僕ひとりが悪者にされてしまった。
「広瀬、謝るんだ」
 担任はすぐにでも問題を解決してこの場を収めたかったのだろう。何ひとつ僕がどうしてこんな事をしたかも訊かず、度が過ぎるいたずらとして処理しようとする。
 漫画が描かれたノートも先生が大雑把にみんなの前で破り、のちに始末した。
 僕はわだかまりを持ちながら口だけは「すみませんでした」と動かした。
 担任はこれで終わったと思ったみたいだったが、そんな口先だけの謝罪で簡単に終わるはずがなかった。
 ある放課後の教室。僕は数人に囲まれ窓際に追い詰められた。
 そこにクラスの奴が学年でも一番の不良と呼ばれる田原を連れてきていた。
 やばい奴とは知っていたけども、僕には接点がない奴だった。それなのに僕に向かってすごい剣幕で睨みを利かした。
「お前、俺をこけにした漫画を描いてたんだって」
 僕は首を振る。実際、田原のことは漫画のネタにしてない。条野も田原の悪口だけは言わなかった。
 しかし、漫画を読んでいないものが憶測で内容を話し、それが歪められて捏造されていた。すでに漫画は担任が処分したから、証明もできない。
 僕は胸倉をつかまれ虫けらのように持ち上げられると窓の外に体が逸れた。足はつま先立ち、そのまま後ろに僕の体の重心が傾いていく。
 田原は脅しのつもりか、さらに窓から押し出した。ここは三階だ。
周りにはそれを面白がって見ている男子生徒たちがいる。誰ひとり止めようとしない。
 そこには条野もいたはずだ。でもどんな顔をして僕を見ていたのか知らない。
 僕は悔しかった。これは本当に僕だけが悪くて僕ひとりが罪を被らないといけないのだろうか。
「やめてよ」
 僕は必死に抵抗して手足をバタバタさせていた。その時、田原を蹴ったのだろう。
 田原は見境なく僕をもっと強く窓の外へと押した。田原は切れると暴走するのは誰もが知っていた。
 僕を罵倒して騒いでいた声が小さくなっている。周りもさすがにやばいと感じたのだろう。
 しかしもう手遅れだ。誰も田原を止められない。僕は窓から落とされた。
 体が落下していく恐怖に僕は死ぬと思った。
 ぐしゃりと体が地面に叩きつけられるも、そこに植えていた低木がクッションになり、僕の命は助かり、右手首の複雑骨折と打撲ですんだ。
 それは不幸中の幸いといわれたけども、僕には災難と苦しみの何ものでもなかった。
 ここまで話すと僕の体はあの時味わった恐怖で震えていた。

 佐野もショーアも苦しそうな顔つきで聞いていた。
「まだ、その手首は痛むの?」
 佐野が訊いた。
「時々、疼くことがある」
「でも治っているんだろ?」
 ショーアがそうであってほしいと願うように訊いた。
「治っているけども、以前と同じようにはいかない。手首に力が入らないんだ。重いものは持てないし、手が震えるんだ」
 もう正確な細かい線を描く事ができない。
「その後、その事件はどうなったんだい?」
 ショーアは僕を同情していた。
「事故として片付けられたよ。みんな僕が勝手に落ちたって証言して」
「そんな、明らかに故意なのに」
 佐野はびっくりする。
「ああ、学校もその方が都合よかったからね。これが事件で生徒同士のトラブルとわかったら、全国ニュースになってしまう。先生たちが上手く処理したよ」
 信じられないとふたりは僕を見ていた。
 正確にはひとりだけ異議を唱えた先生がいた。
 入院中お見舞いにも来てくれたけど、僕は何も話さなかった。
 先生は助けられなくてすまないと謝ってくれたけど、味方になってくれる先生すら僕は心を開くことができなかった。
 二年になってその先生が担任になった。
 あの事件の真相は田原の報復が怖くて誰も何も話していない。
 退院後、僕が再び学校に現れても、真実を知っている者は黙り込み、それと引き換えに僕は責められることがなくなった。
 条野も僕から離れ、何食わぬ顔で日常を送っていた。
 腹は立つけれど、僕はそれでいいと思った。自分の周りが静かになったし、全てを失って麻痺してどうでもよくなっていた。
「広瀬君も大変だったんだね」
 ショーアがやるせなく呟いた。
「なんだかショーアさんも大変なことがあったみたいな感じですね」
 僕が訊けばショーアの話も聞けるかと思ったが、ショーアは自分のことは話さなかった。
 その代わり深く考えた上で意見を言った。
「広瀬君はもしかしたらさ、窓から落ちた時にすでにこの世界に入ってたんじゃないのかな」
「えっ? どういうことですか?」
「広瀬君は悔しさから混沌として、窓から落ちても生きているって思い込んで別の世界で生きていた。すなわちこの世界がその別の世界であって、それで突然時が止まってみんなが消えたと思ったんだ」
「ちょっと待って下さい。それって、僕はすでに死んでいるってことですか?」
「広瀬君がこの世界を作ったというのなら、この説がしっくりくるだろ」
 僕ははっとするも、ややこしくてすぐに理解できない。
「なぜ、ショーアさんはそうやって死を結びつけるんですか」
 あまりにも突拍子もなく、僕は半分呆れながら言った。ショーアはそれを十分承知の上で半笑いになりながら僕を見ていた。
「それは、ボクがすでに死んでるからなんだ。僕は自殺したんだ」
 力ない自虐した笑みを浮かべるショーア。
 佐野も顔を青ざめてショーアを見ていた。
 ショーアがすでに死んでいるということは幽霊としてここに存在していることになる。
 だったら、佐野も幽体離脱して魂だけがここにいるというのだろうか。
 疑問が頭にいっぱい浮かぶが、何をどう考えていいのか分からず言葉につまっていると、教室の後ろでコトッと音がした。
 静かな場所で突然響いた音は僕たちをびくっとさせた。気になってゆっくりと視線をそこに向ける。
「他にも誰かいるんですか?」
 僕がショーアに訊くが、ショーアは知らないと首を横に振っていた。
 急に緊張感が走る。
 音がした方向には掃除用具入れがあり、そのドアがゆっくりと開いていく。
 僕たちは息を飲んで見つめ誰もが顔を強張らせていた。
 ドアが開ききった時、佐野が「あっ」と喉の奥から喘いだ声を出した。
「し、死神だ」
 ショーアが叫ぶ。
「あれは、死神じゃない。ホラー映画で出てくる殺人鬼だ」
 僕も見たことのある映画、スクリームのあのお面を被っている。手にはナイフを握っていた。嘘だろ。こんなのってありえない。あれは一体誰なんだ。
「みんな、逃げるんだ」
 僕は叫んだ。
 佐野は咄嗟に反応してドア目掛けて走った。僕も後を追おうとするが、ショーアが驚きすぎて椅子に座ったまま動けないでいた。
「やはりボクは地獄に落ちるんだ」
「ショーアさん、何してるんですか、早く」
 僕はショーアの手を取り引っ張った直後、なりふり構わず駆け出す。殺人鬼もナイフを掲げて首をカクカクと揺らした奇妙な動きをしてこちらを見ていた。
 僕たちは教室を飛び出して慌てて階段を下りていった。