私のことを生徒は陰でおしょうと呼んでいることは知っている。頭のてっぺんがはげて、髪の毛はほぼ出家した坊さんのように短い。
年を取って行く度その名前に相応しい風貌になっていった。でも昔は美少年とよく言われていたんだけど、今では誰も信じないだろう。
でもおしょうと呼ばれたきっかけは、私の名前にある。尚和が和尚と見えるからだ。よく見間違えられて、おしょうと思う人もあったけど、まさかそんな名前をつけるわけがないだろうと、訓読みで「なおかず」と呼ばれることが多かった。しかし実際は「しょうわ」と発音する。
でもしょうわと言っても、当時は昭和の時代だったから、そういう名前がストレートに来ると思わない人が多く、しょうわと私が発音してもショウアやショーアと聞き間違える人が多かった。それに慣れっこになったので、敢えて言いなおす事が面倒くさくなってしまった。
それに私はこの名前があまり好きじゃなかったからどう呼ばれてもよかった。
私の家は複雑で、中学三年のとき父と母が離婚した。私は母、姉は父に引き取られ一家はばらばらとなった。姉はすでに留学をしていたので、両親が離婚した時には日本にいなかった。寝耳に水と電話で話した事を覚えている。
姉と私は仲がよく、特に姉は小さい頃から私を可愛がってくれていた。私も本当は父に引き取られたかった。父は資産家でもあり、当事仕事の稼ぎもよかった。私の家はかなり裕福だったと思う。
離婚の理由が母の過去の浮気が発覚したことだったから、私は母を恨んだ。でもその時できた子供が私だったからどれほど驚いたことだろう。父だと思っていた人との血のつながりがなかったのだ。
父はずっと騙されていた事を許すことができなかった。私がそれを知ったのは離婚する少し前くらいだった。それまでは父と母に離婚してほしくなく、私は父を説得していた。知らなかったとはいえ、父にとっては酷だったことだろう。
ちょうど離婚が成立し家族がばらばらになった頃、私は学校でも問題をかかえていた。校内暴力が盛んだった時代だ。パンチパーマやリーゼント、改良した制服を着る不良たちがいて、先生からも恐れられていた。
そいつらに関わらなければ問題はなかったのだけど、真面目で先生から可愛がられていた私はそいつらにとって目障りに見えたようだ。
でも何もしなければ手は出さないと思っていたが、私と仲がよかった友達に裏切られ、私は言ってもない悪口を言っていたと言いふらされた。それからは暴力を振るわれた。
その友達と見かけは仲がよくても、陰で私に嫉妬し足をひっぱるような奴だった。最初から私を陥れようとしていた。
そうとは知らずに私は親友だと思って、そいつには両親の離婚のことや母の浮気の事を相談にのってもらっていた。そいうことも言いふらされて私は不倫の子とバカにもされた。
それまではもてて告白もよくされたが、勉学に励んでいた私は女性にはあまり興味がなく断り続けていた。それも同性愛者だからだと、以前告白されてふった相手に噂を流された。
そうなると何もかも崩れていく。多感な年頃の私は精神的にも追い詰められて、浮気をした母も許せず、一緒に暮らすのも嫌でいっそうのこと死んでしまおうと自棄になってしまった。私は衝動的になり部屋で首を吊ったのだ。
しかし、私の知らないところで、それは発見が早かったのだろう。病院に運ばれて手当てを受けていた。
その時、あの悪夢の中で私は幽霊として存在していたのだ。
病院で目が覚めてから、私はあの子達のことを考えていた。暫く夢だったと思っていた。だけど姉がアメリカから持ってきたドリームキャッチャーを見て、あの子達の話にも出てきたから、これが後に繋がるのではないだろうかと思うようになった。
それからそれを大切に保管した。
あの子たちが呼んでいたおしょうという名の先生。馬場ナオカズと言っていた。当事私はまだ父の姓を名乗っていたので多田尚和という名前だった。多田という名前も、無料のただみたいに聞こえるからあまり好きじゃなく、広瀬歩夢に名前を聞かれたとき、下の名前だけを言った。案の定、広瀬はショーアと聞き間違えていた。だからあの子たちは私をショーアと思いこんでいた。
まさかこの私があの子達のいうおしょうだったとは、今考えるとおかしい。
おしょうの名前が馬場ナオカズ先生だと知ったときはあまり深く考えなかったけど、私は後に母方の苗字に変え馬場尚和と名乗ることになった。読み方を知らなければまさに馬場ナオカズだ。
あとはいつあの子達に会うのか。それまでになんとしても教師になって母校で働かなくてはならない。
私を救ってくれた未来の私の教え子たちのために私は先生になる準備を始めた。
そして広瀬たちが中学一年として入学してきたのを知って、私はとうとうあの子達に会えると嬉しくてたまらなかった。
あのときのショーアが私なんだと、まだあの子達がショーアに出会う前だったけど、私はできるだけ若く思われるように明るめの服を着たりしていた。
佐野理夢も中学の名前と住んでいる場所を覚えていたので、教師の伝を使って住所を調べ、ドリームキャッチャーの絵を描いた手紙を送った。
予めあの子達の情報を知っていたので、助けの手を伸ばしやすかった。だけど、広瀬のときだけはすぐに駆けつけてやれなかった。注意はしてたけど、正確な日時が分からず騒ぎが起こったときは手遅れだった。それでも精一杯助けようとしたけども、広瀬は中々心を開いてくれなかった。
でも私がショーアだったときに会った広瀬を知っていたから、立ち直ってくれると信じていた。
時を越えて私たちは出会い、お互いを助け合ってきた。こんな私でも誰かの役に立つことを教えてくれた。生きていてよかった。みんなに会えてよかった。
みんな本当にありがとう。
みんなが大人になってまたあの時の私に会いに来る時はきっとあの日に違いない。あの時着ていたみんなの服装で私にはわかったよ。さてそれまでに準備をしておくか。
年を取って行く度その名前に相応しい風貌になっていった。でも昔は美少年とよく言われていたんだけど、今では誰も信じないだろう。
でもおしょうと呼ばれたきっかけは、私の名前にある。尚和が和尚と見えるからだ。よく見間違えられて、おしょうと思う人もあったけど、まさかそんな名前をつけるわけがないだろうと、訓読みで「なおかず」と呼ばれることが多かった。しかし実際は「しょうわ」と発音する。
でもしょうわと言っても、当時は昭和の時代だったから、そういう名前がストレートに来ると思わない人が多く、しょうわと私が発音してもショウアやショーアと聞き間違える人が多かった。それに慣れっこになったので、敢えて言いなおす事が面倒くさくなってしまった。
それに私はこの名前があまり好きじゃなかったからどう呼ばれてもよかった。
私の家は複雑で、中学三年のとき父と母が離婚した。私は母、姉は父に引き取られ一家はばらばらとなった。姉はすでに留学をしていたので、両親が離婚した時には日本にいなかった。寝耳に水と電話で話した事を覚えている。
姉と私は仲がよく、特に姉は小さい頃から私を可愛がってくれていた。私も本当は父に引き取られたかった。父は資産家でもあり、当事仕事の稼ぎもよかった。私の家はかなり裕福だったと思う。
離婚の理由が母の過去の浮気が発覚したことだったから、私は母を恨んだ。でもその時できた子供が私だったからどれほど驚いたことだろう。父だと思っていた人との血のつながりがなかったのだ。
父はずっと騙されていた事を許すことができなかった。私がそれを知ったのは離婚する少し前くらいだった。それまでは父と母に離婚してほしくなく、私は父を説得していた。知らなかったとはいえ、父にとっては酷だったことだろう。
ちょうど離婚が成立し家族がばらばらになった頃、私は学校でも問題をかかえていた。校内暴力が盛んだった時代だ。パンチパーマやリーゼント、改良した制服を着る不良たちがいて、先生からも恐れられていた。
そいつらに関わらなければ問題はなかったのだけど、真面目で先生から可愛がられていた私はそいつらにとって目障りに見えたようだ。
でも何もしなければ手は出さないと思っていたが、私と仲がよかった友達に裏切られ、私は言ってもない悪口を言っていたと言いふらされた。それからは暴力を振るわれた。
その友達と見かけは仲がよくても、陰で私に嫉妬し足をひっぱるような奴だった。最初から私を陥れようとしていた。
そうとは知らずに私は親友だと思って、そいつには両親の離婚のことや母の浮気の事を相談にのってもらっていた。そいうことも言いふらされて私は不倫の子とバカにもされた。
それまではもてて告白もよくされたが、勉学に励んでいた私は女性にはあまり興味がなく断り続けていた。それも同性愛者だからだと、以前告白されてふった相手に噂を流された。
そうなると何もかも崩れていく。多感な年頃の私は精神的にも追い詰められて、浮気をした母も許せず、一緒に暮らすのも嫌でいっそうのこと死んでしまおうと自棄になってしまった。私は衝動的になり部屋で首を吊ったのだ。
しかし、私の知らないところで、それは発見が早かったのだろう。病院に運ばれて手当てを受けていた。
その時、あの悪夢の中で私は幽霊として存在していたのだ。
病院で目が覚めてから、私はあの子達のことを考えていた。暫く夢だったと思っていた。だけど姉がアメリカから持ってきたドリームキャッチャーを見て、あの子達の話にも出てきたから、これが後に繋がるのではないだろうかと思うようになった。
それからそれを大切に保管した。
あの子たちが呼んでいたおしょうという名の先生。馬場ナオカズと言っていた。当事私はまだ父の姓を名乗っていたので多田尚和という名前だった。多田という名前も、無料のただみたいに聞こえるからあまり好きじゃなく、広瀬歩夢に名前を聞かれたとき、下の名前だけを言った。案の定、広瀬はショーアと聞き間違えていた。だからあの子たちは私をショーアと思いこんでいた。
まさかこの私があの子達のいうおしょうだったとは、今考えるとおかしい。
おしょうの名前が馬場ナオカズ先生だと知ったときはあまり深く考えなかったけど、私は後に母方の苗字に変え馬場尚和と名乗ることになった。読み方を知らなければまさに馬場ナオカズだ。
あとはいつあの子達に会うのか。それまでになんとしても教師になって母校で働かなくてはならない。
私を救ってくれた未来の私の教え子たちのために私は先生になる準備を始めた。
そして広瀬たちが中学一年として入学してきたのを知って、私はとうとうあの子達に会えると嬉しくてたまらなかった。
あのときのショーアが私なんだと、まだあの子達がショーアに出会う前だったけど、私はできるだけ若く思われるように明るめの服を着たりしていた。
佐野理夢も中学の名前と住んでいる場所を覚えていたので、教師の伝を使って住所を調べ、ドリームキャッチャーの絵を描いた手紙を送った。
予めあの子達の情報を知っていたので、助けの手を伸ばしやすかった。だけど、広瀬のときだけはすぐに駆けつけてやれなかった。注意はしてたけど、正確な日時が分からず騒ぎが起こったときは手遅れだった。それでも精一杯助けようとしたけども、広瀬は中々心を開いてくれなかった。
でも私がショーアだったときに会った広瀬を知っていたから、立ち直ってくれると信じていた。
時を越えて私たちは出会い、お互いを助け合ってきた。こんな私でも誰かの役に立つことを教えてくれた。生きていてよかった。みんなに会えてよかった。
みんな本当にありがとう。
みんなが大人になってまたあの時の私に会いに来る時はきっとあの日に違いない。あの時着ていたみんなの服装で私にはわかったよ。さてそれまでに準備をしておくか。