第三章 湯気の中の記憶

祖父の高志(たかし)が、車を駐車していると(ゆう)の両親の車も到着した。
「伯父さん、その後2人はどうなったの」
「そりゃ、当然結婚して二郎さんが生まれる訳だな。その前にオラのオヤジもな」
「ちょっとお、それって余りに話が飛びすぎなんですけど」
「まあ、焦るな。悠さんよ、まず飯を食おう。腹が減っては戦は出来ぬって言うだろ」
「戦なんてしないし」
そう言って、不満げなの彼女を豪快に悟は笑い飛ばす。
隣りの車から出て来た孝之と由季子を先頭に、富士屋という行きつけの店に入る。
「いらっしゃいませ、何名様ですか」
「6名です」
「では、お座敷にご案内します」
案内について行きながら、まだ悠は質問三昧だ。
「磯吉さんとゐく(いく)さんは、身分違いって感じじゃん」
「そうだな、お前の言うとおりだ」
「じゃあさあ、親は許してくれたのかな」
2人の会話に、父の孝之が口を挟む。
「許すわけ無いだろ、俺だってお前が苦労するなら嫁にやらない」
「パパ、そういう話じゃなくて」
「じゃあ、どういう話なんだ」
「二郎さんの両親の恋愛の話なんだけど」
「なんだそりゃ、男親の当然の心理を話しただけだ。俺は」
「おもしれえな、チビだった孝之もいっちょ前に父親の顔が出来る様になったわけだ」
伯父の(さとる)にからかわれて「伯父さん!」と、声が大きくなる。
「悟兄、孝之。どうでも良いが、早く座れ。店員さん困ってる」
高志が、苦笑いしながら席を指差す。まち子が、座布団をぽんぽんとして3人を促す。
「はいはい、からかう伯父さんが悪いんですよ。由季子、メニュー取ってくれ」
「はい、孝之さん。メニュー、相変わらず伯父さんには勝てないわね」
「で、悠は何にするんだ。どうせ、いつものだろ」
父にそう振られて、悠は「うん」と元気に答えた。
「なんだ、お前はいつも同じ物なのか」
「うん、伯父さん。私は一年中いつでも鍋焼きうどん」
元気に答えると、また悟は大笑いする。
「さすが、爺さん子だな。鍋焼きは二郎さんの定番だろうに」
「悟兄、面白いだろ。こいつ、オヤジに小さい頃からくっついて歩いてたから。色々とオヤジを思い出す行動を取るんだよ」
「俺等が引き継がなかった物を、綺麗に曾孫が引き継いでるとはなおもしれえな」
 そんなことを話していると、店員が水を持ってきた。
「ご注文よろしいですか」
由季子がその場をまとめて、注文をする。
「カツ丼定食2つ、温かい蕎麦で。お義父さんと、伯父さんは、もりそばで良いよね。もりを2つ。お義母さんは、なめこおろしですよね。あと、鍋焼きうどんを一つ」
「では、確認させて下さい。カツ丼定食、温かいお蕎麦で2つ。もりそば2つ、なめこおろしそばに、鍋焼きうどんですね」
「はい、その通りです。後で、そば湯下さいね」
「はい、承知しました。しばらくお待ちください」
注文を通すと、まち子と由季子は「疲れたね」と腰を叩いたり、肩を揉むと首を回しはじめる。
「由季子、肩揉んでやる」
孝之が、肩を揉みはじめる。
「高志さん、ほら。息子の真似しなさいよ」
「冗談じゃない、俺が腰が痛えんだよ」
「もう、爺さんなんだから。後ろ向いて腰押してあげるから」
それを見て、悠と悟は笑う。

「悠さんよお、お前知ってるか。お前の頼んだ鍋焼きうどん。実は、磯吉さんの夕飯の定番だったんだよ」
「えっ、知らなかった」
「何でだと思う」
「えっと、色々な具が入ってるからかな」
「違うな、深夜まで仕事をして戻って1人で食事をする磯さんの為に、ゐくさんが、温まって欲しいって作ったのがこれだったからだ」
「へえ、そうなんだ優しいね。でも、伯父さんその前に、結婚前の話をしてよ」
悟は、ニヤッとすると
「高志、お前持ってきたよな。遺産相続書類。出してくれ」
「おお、おい。まち子、アレだしてくれ」
「はいはい、こんなのどうするの」
それを受け取ると、また戸籍の部分を開き悠に見せる。
「ほれ、このくらいはお前でも読めるだろ。ここ読んで見ろ」
神奈川懸横濱市西戸部(かながわけんよこまはしにしとべ)・・・番地の文字読めないけど。ニ於テ出生、父宮城磯吉届出・・・って」
顔をあげると、大きく目を見開いて悟を見る。
「驚いただろ」
「嘘、だって2人とも静岡で暮らしていたのに、どうして横浜なの」
「お前の大祖父様は、横浜生まれ横浜育ちだ」
「マジ、本気それ」
「知らなかっただろ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。そこまでの経緯聞かせてよ」
入り食い状態の悠に、全員が苦笑いをした。

2年の兵役を終えて、磯吉は自宅に戻っていた。
「ゐく殿、元気にお過ごしだろうか」
茶畑で農作業をしながら、青く雲1つ無い空を眺めていた。
「義兄さん、どうした」
妹の夫、金太郎に声を掛けられる。
「お前は良いよな、家に仕事に来て、かつを見染めて一緒になれたし」
「何ですか、義兄さんは恋煩いでしたか」
「ま、まあな。って、からかわないのか」
「当然ですよ、人を好きになるってのはエエコトだと思いますし」
「お前の理解に感謝する、まだ親の言うなりに婚儀をするのが普通だから好いた惚れたで嫁を娶るとなると、意外と世間の目が厳しいからな」
「その内、好いた惚れたが普通になると俺は思ってるです」
「そっか、そうだな」
少し、舌っ足らずな所がある妹婿に救われた気がしていた。

2年間、週に2~3回母屋の外れで逢っていた2人だったが特に思いを伝える事も無く。兵役の終了で、関係は自然解消になっていた。手紙を出せば、ゐくの親に見られる可能性もあり、ゐくの立場を考えると何も出来ずにいる彼だった。

最後に逢った日のこと。
母屋の外れで、ラッパを吹いているとひょっこっと小柄なゐくが顔を出した。
「磯さん、ごきげんよう」
笑顔の彼女は、黙って彼の横の石に腰を下ろした。昨年、女学校を卒業して初めて逢った時の様な袴姿では無くなっていた。長い髪も、しっかりと結って日本髪になり急に大人びて来た彼女に内心ドキドキしていた。
 ラッパを降ろすと
「ゐく殿、今日はここに来られて大丈夫でありますか」
学生では無い彼女は、最近は母屋の手伝いや、親の仕事の手伝いで家を空けることが多くなっていた。
「今日は大丈夫ですわ。ただ、もうお逢い出来なくなりそうですね」
寂しそうに顔を曇らせた。
「ご存じでしたか、小生は来週兵役を上がります」
「寂しくなりますね」
2人共に、ここでの関係はこれで終わりだと知っていた。
「ゐく様、お世話になりました。おかげで問題を起こさずに過ごせました」
「そうでしたね、リボンがお役に立てましたようでようございました」
彼は、頷くと上着のポケットの中から赤いリボンを取りだし彼女に差し出す。
「お返しします。少し汚れていますが、洗えばまだお使いになれるかと」
「ありがとうございます・・・」
消え入りそうな小さな声で、ゆっくりと受け取り。袖の中にしまった。
 しばらく無言で地面を見つめていた彼女だったが
「この後、どうされるのですか」
と、口火を切った。
「この後ですか、実家に戻ります。そして、親の営んでいる茶畑の世話をし続けます。お嬢様は、そろそろ良縁が舞いこむ頃ですかね。良い人生を祈っております」
「磯吉さん、それは本音ですか」
「偽りも、事実の様に振る舞わなければいけないこともあります。小生の本音は、ゐく様に幸せになっていただきたいだけです」
「ありがとうございました。では、わたくしは戻ります」
振り向きもせず、母屋に向かって歩き出した彼女は一瞬立ち止まると。
「わたくしは、貴方に連れて行って貰いたかっただけです。どうぞ、お体お大事にお過ごしください」
聞こえるか聞こえないかという小さな声で、告げると茂みの中に消えていった。それが磯吉が見た、最後のゐくだった。その姿が、彼の脳裏で何度再生されたか分からなかった。
「ゐく殿、小生の様な貧乏農民に嫁いでも何も良いことは無い」
また、腰をかがめると茶の木の根元に肥料を施していく。

「そろそろ、俺も嫁を貰わんとな。長男だしな」
首に掛けた手ぬぐいで、汗を拭うと誰かの気配を感じて後ろを振り向いた。

白足袋が真っ黒になり、赤い鼻緒もドロドロに汚れた草履が目に飛び込んできた。見覚えのある赤い袴に、彼は目を擦りながら上を向いた。
「いそ・・・きちさん」
綺麗に結っている筈の髪は、ぽろぽろと横から髪が落ち。額には汗が流れ、疲労の影が強く顔に出ていた。
「ゐく殿、なぜここに・・・」
「いそ・・・さん」
そう呟くと、彼女は崩れるように倒れ込んだ。辛うじて、受け止めた彼だがなぜ彼女が自分の腕の中に居るのか、全く理解が出来なかった。
「ゐく殿、ゐく殿!しっかりするんだ、なぜここに」
彼女を抱えると、茶畑の畝の間を早足に里に向かった。
「義兄さん、その女性はどうしたので」
金太郎が焦るのを制して
「金、母上に走って知らせてくれ。病人を連れて行く湯を沸かしてくれ」
「分かった、走る」
効果音がつきそうな勢いで走り去る彼を見て、農作業をしていた妹のかつも彼の元に走り寄った。
「磯ニイ、それ誰」
「説明は後でする、お前の着物だせ。汗で冷えてしまうで」
「分かった、その人大丈夫」
「わからんから、焦ってるんだろ」
家に到着する前に金太郎に背負われ、祖母のはつがやって来た。
「金太郎、さあ降ろしなさい」
既に足腰は弱っているものの話す声は凛としている。
「お嬢さんを見せなさい、磯吉。地面に彼女を降ろしなさい」
「お祖母様」
「良いから、降ろしなされ」
言われるままに、彼女を地面に降ろすと、はつも地面に腰を下ろした。手に持った竹筒から、自分の手のひらに水を取るとゆっくりと彼女の額に水を垂らしはじめた。
 一滴二滴と垂らす内に、意識が戻ったのか彼女は唸りながら目を開けた
「お嬢さん、取りあえず水を飲みなさい」
意識が戻ったのを確認すると、はつは竹筒を口元に持っていった。唇に垂らされた水を、彼女はゆっくりと飲みはじめた。何度か、水を飲み込む動作をした後。落ちついたのか、自ら手を伸ばして竹筒を持って飲みはじめた。
「お祖母様、助かりました」
磯吉が頭を下げると
「何をオドオドしているか、お祖父様が見たらガッカリなさる。ご維新の前、我が家は武家であった。その後継ぎががそのような肝の据わらない状態でどうなさる」
いかにも農夫の雰囲気の彼とは、全く違う武家の奥方という雰囲気のはつ。彼女は夫無き後、この家を背負っている実質的な主人だ。江戸末期に生まれ、武家であるこの家に嫁いだが、維新を経て農家になった今も筋の通った女性のままだ。

「さあ、取りあえずお立ちなさい。そなたは、なぜこのような所にお越しなさった」
ゐくは、ふらふらと立ち上がると頭を下げてこう言った。
「磯吉様と、お逢いしとうございました」
「それだけでは、あるまい。苦労無しの子女が、こんなに乱れて倒れるまで歩くとは。ただ事だとは思えぬ」
「はい、お察しの通り。父上に意に染まらぬ縁談を押しつけられてございます」
「それで、孫に助けを求めに来たと」
「申し訳ありません、わたくしには磯吉様しか居らぬ事を、縁談が持ち上がった際に気がつきましてございます。それで、逃げて参った次第です」
驚きの余り、あんぐり口を開けて立ち尽くす磯吉の背中を、はつは力の限り叩いた。
「しっかりせい!」
「うわあ、お祖母様お許しください」
「そなたが、驚いてどうするのだ。おなごがここまで思い詰めて参ったというのに、俺に任せろくらいの事を言ってみるが良い」
そういった上で、ゐくをこう諭す。
「今、初めて聞いた話故、我は余り踏み込んだことは言わぬ。ただな、そなたは苦労なしのお嬢様だろう。立ち居振る舞いや、見てくれから何も言わずとも分かる。こんな貧乏男に嫁ぐのは、何も良い事は無いぞ。心根は優しい、これ以上の男は居らんがな」
「はい、お祖母様の仰ることは分かっております。それ故、磯吉様も何も仰らず、私もそのままお別れした次第です。しかしながら、やはり心はごまかせぬと今朝早く家を出て必死にここまで歩いて参りました」
「では、ゐく殿。良く、ババの言うことをお聞きなされ」
突然名前を言われて、驚く彼女に
「なに、驚かんでも良い。この馬鹿孫がな、兵役から戻ってこのかた。朝に夕に、母にくだらん口を叩くのだが。ほとんど、そなたの話しばかり。嫌でも、孫の好いた女性のことは気がつく。そなたは、浜の柴田様の娘御であろう」
大きな身体を小さく丸め、顔を伏せている孫の頭をぽんぽんと叩く。
「この戯け者が、心の中を全て口に出しよって。まあ、分かり易い所は、祖父様も同じだったのお。宮城の男は皆、そういう所がある」
「お、お祖母様。では、磯吉はこれからどうしたらよいのでしょう」
呆れた顔で顔に手を当てて、ため息を付くはつ。
「磯吉様、私と一緒に逃げてください」
「ゐく殿、それはいけません。ご当主の怒りを買えば、勘当されます。まずは、挨拶に行き結婚の許可をお願いするのが筋というものです」
「でも、お父様はそんなこと絶対に許しません」
「許すかどうか、お願いしてみなければ分かりません。まずは1度はご挨拶するべきだと俺は思います。それがダメなら、貴女様の行きたい所へどこへでも、この磯吉お供いたします」
そこまで聞いて、はつが「よいしょ」っと腰を上げると。
「それなら、二人ともまずは家に入りなさい。今、つ祢が茶をいれているから一服すると良い。ところで、金太郎。安右衛門殿はどちらにいらっしゃる」
「ババ様、お父上は俺は知らんです」
「お祖母様、私知ってますわ。今日は村の寄り合いだって言ってらっしゃったではないですか。お昼までにはお戻りだと仰ってました」
「そうか、では戻ったら安右衛門にゐく殿の家に馬で駆けて貰おう。親同士で話しをして貰って、明日ご挨拶に伺えば良い」
それを聞いて、ゐくの顔色が青くなる。
「それでは、磯吉様のお父様に御迷惑をおかけしてしまう事になります」
「いいかい、ゐく殿。こういう話しは、それぞれの家の当主同士が話し合うのが筋だ。息子の為なら、どんな頑固な男も頭を下げる。お嬢様は心配せずとも良い。この子の親は、私が手塩に掛けて育てた自慢の息子だ、黙って任せなさい。この馬鹿孫と違って、一応武家の男としての躾はしてある。ご維新で、腑抜けになってしもうたが捨てた物ではないぞ。のお、磯吉よ」
「お祖母様はそう仰いますが、父上は刀を持って長持に座って空中を睨み付けるばかりで、俺には尊敬できませぬ」
「この馬鹿たれが!そなたの父とて、捨てられぬ武家の誇りと戦って居るのよ。お前には分からぬだろうが。任せると良い、いざというときには頼りになる男よ」
「そうでございましょうか」
「当然じゃ」
この大問題を解決する方向性を、サクッと示したはつは
「磯吉、ババを背負い連れて行っておくれ」
にっこりと笑うと「やれやれ」とつぶやた。