「こ、このチーズとっても美味しいですっ!」

「それはよかったわ。あなたも、頑張ってね。まだまだ若いんだから」

 女将はそう言って片目をつぶって見せると、他のテーブルに注文を取りに行った。女将が行く先々で笑い声が起きる。

 うん、本当にいい店だ。

(それにしても、そうか……二つ名しか情報が流れてないのか……)

 さきほどの女将の反応。

 どうやら、リィト・リカルトの名には本当に覚えがなさそうだ。

 ギルド自治区ガルトランドの〈壁〉はやはり高いようだ。

 上大陸で大量発生するモンスターから領土を守るために築いた壁のおかげで、モンスターもリィトの噂もここまでは届いていなかったらしい。

(うん、これはいいぞ)

 リィトは酔い覚まし、というか興奮を冷ますためにビールのおかわりではなくフルーツジュースを注文した。

 青臭くて味の薄いジュースを一気に飲み干して、リィトは思わずニンマリと笑ってしまう。

 運送ギルド〈ねずみの隊列〉に所属するメルですら、リィトが名乗ったときに少しも驚いたりはしていなかった。

(やっぱりだ……自治区までは僕の名前は届いてない……!)

 つまり。

 ここでは本当に、自由なのだ。




 酒場をあとにしたリィトは、予約した宿屋に向かうことにした。

 おつまみは、やはり種類も少なく、味もしょっぱいか薄いかのどちらかだったけれど、久々のひとり酒は楽しかった。

「はぁ、自由っていいな~。無職って素敵だ~」

 青い月明かりが降り注ぐ夜道に風が吹いて気持ちがいい。

 ポケットから例の物を取り出す。

 元職場から唯一持ち出した、青く美しい光を放つ、謎の種子だ。

「この種子、なんだろうなぁ……ふふふ、育てるのが楽しみだなぁ」

 思わず頬が緩む。

 どんな環境が適している植物かは知らないが、この大きさの種子であればそこそこの巨木に育つはず。

 リィトが新天地にここを選んだ理由は、それだ。

「さて、明日は忙しいぞ。農業ギルドと土地管理局に行って。あとは買い出しと……って、んん?」

 宿までは、あと少し歩けば到着する。

 けれど、見つけてしまったのだ。

 路地裏。小さな人影。それを取り囲む、どう見てもガラの悪い連中。

「あー……」

 カツアゲだ。

 あるいは、リンチ。