一九〇七年──明治四十年。大日本帝国、横濱。
港に一隻の大型貨物船が停泊する。白いカモメが飛び交うその下で、威勢のいい男たちが積荷を降ろしていく。
その船に記されているのは『御鍵商社』という角張った商号。
地平線の彼方にある異国から反物を輸入し、販売する御鍵商社の社長、御鍵明寛は業界で知らない者はいないと言わしめるほどの商才を持っていた。周囲からの人望も厚く、華族ではないが一定の地位を確立していた。
彼には気立てのよい妻がいる。社長の椅子に座る前に大恋愛し、婚姻したという。この恋物語は近所でも噂になっていた。家柄に縛られず、政略的な良家の謀もなく、それはそれは幸せな恋であった。
そんなふたりの間には十歳の娘、絹香と七歳の息子、一視がいる。上の娘は父親譲りの我慢強さがあり、母親譲りの美貌があった。下の息子は病気がちで、泣き虫なのが愛らしい。将来の社長にしては頼りなくとも、ゆくゆくは立派な跡取りとなるだろう。
また、明寛には弟がいた。弟は兄を支え、兄弟ふたりで会社の繁栄と安寧を願っていた……はずだった。
その日も、港で従業員や日雇いの若者らが積荷を降ろしていた。
大海の背には大きな町がある。さらに内陸は大都会が近い。そんな異国情緒あふれるハイカラな港町に構えた豪邸の書斎にて、明寛が銃でこめかみを撃ち抜き、死亡した。一月、冷たい雪が降る日である。
自害の一因となったのは業績低迷から患った精神不安定だという。一方で明寛の妻、七重も持病がたたり、夫の死を追うように亡くなった。
明寛夫婦の死後、社員たちは弟の寛治を支持した。
それから八年──世は大正へ改元し、流行り廃りの移り変わりが激しい。人々の関心は、めくるめく華やかな社交界と芸能、諸外国との戦争、そして身近な恋物語へと傾く。
没落令嬢、御鍵絹香はその日を慎ましやかに生きていた。
美しく、繊細な目元と黒目がちな瞳は憂いを帯び、見る者に儚げな印象を与える。腰まで及ぶ黒髪は繊維のひとつひとつが絹糸のよう。先代社長の奥方を知る者はこぞって彼女を『七重様の生き写し』と称した。
常に笑みを絶やさず、令嬢であることを誇りにし、しかし鼻にかけることもなく、自ら率先して働くしたたかな少女だ。
だが、それは表向きの顔にすぎない。
『現し世に情けはない』と、絹香は十歳の時に学んだ。
父の自害から、母の病死まで時間はとてつもなく早く進んだ。運命のいたずらにしては、耐えがたいほどの不幸だった。
父母の葬儀にはたくさんの参列者がいたが、その中には面白おかしく記事にしようと企む下賤な記者もいた。彼らは娘である絹香にあれこれと難しいことや心ない言葉を投げつけた。
だが、彼女は毅然とする。葬儀の裏で泣いてぐずる一視に、眉を吊り上げながら言った。
『一視、男は泣くものじゃありません。明日のことを思い、大笑いするものです。お父様がよく言っていたでしょう?』
絹香は一視の手をぎゅっと握った。
『姉様の手は魔法の手。心が安らぐ魔法の手』
おまじないのように唱えると、みるみるうちに熱を帯びていく。ホカホカと温かな癒やしが指先の内側へと伝わり、一視はようやく涙を引っ込めた。
『あったかい……ぼく、ねえさまの手、大好きです』
『この手があれば、どんな傷だって癒やしてしまうのよ。でも……』
絹香はふと、目を伏せた。
どんな傷もたちどころに癒やしてしまう魔法の手──その能力を開花させるには、一歩遅かった。
転んで膝を擦りむいても、手をかざせばすぐに治り、病気ひとつしない。これがどうやら他人にも癒やしを施すことができるのだと知った時にはすでに遅く、絹香は悔しく歯噛みした。
『ねえさま?』
一視が不安そうに顔を覗き込む。
──いけない。この子の前では強くあらねば。
絹香は心に鞭打ち、笑顔を作る。
『いいこと、一視。これからはわたしがあなたを守ります。だから、大丈夫よ』
『はい!』
しっかりとした声で答える一視を絹香はたまらず抱き寄せた。
しかし、そんな姉弟の決意も虚しく、大人たちはふたりを容易に引き裂いた。
まもなくして、一視は母の遠縁に当たる『今利鉄鋼』の社長宅へ一時預かりとなったが、絹香は寛治の元へ養女として迎えられた。
だが、絹香はこの叔父が嫌いだった。その妻、照代とも気が合わないと思っていた。
父の教えでは、人に優しく、決して驕ることなく善良であることを説かれたものだが、このふたりにそのような善行を注ぐ価値はないと思っていた。
世間で取りざたされているような兄弟の絆とやらは、その実まるきり嘘であり、父と叔父はもとから不仲だったことを絹香は知っていた。ゆえに、なぜ寛治の家へ迎えられたのか、最初は皆目わからなかった。
だが、十八歳になった今ならわかる。彼らは衰退の一途をたどる御鍵家の砦となる善行を世に知らしめるポーズとして、不遇な絹香を引き取ったということを。
なにせ、家での仕打ちは劣悪である。引き取られたその日から、絹香は私物をすべて奪われた。着物や小物、父母の形見も、家も、弟もすべて。その代わり与えられたのは、寝起きするための屋根裏部屋だった。
港に一隻の大型貨物船が停泊する。白いカモメが飛び交うその下で、威勢のいい男たちが積荷を降ろしていく。
その船に記されているのは『御鍵商社』という角張った商号。
地平線の彼方にある異国から反物を輸入し、販売する御鍵商社の社長、御鍵明寛は業界で知らない者はいないと言わしめるほどの商才を持っていた。周囲からの人望も厚く、華族ではないが一定の地位を確立していた。
彼には気立てのよい妻がいる。社長の椅子に座る前に大恋愛し、婚姻したという。この恋物語は近所でも噂になっていた。家柄に縛られず、政略的な良家の謀もなく、それはそれは幸せな恋であった。
そんなふたりの間には十歳の娘、絹香と七歳の息子、一視がいる。上の娘は父親譲りの我慢強さがあり、母親譲りの美貌があった。下の息子は病気がちで、泣き虫なのが愛らしい。将来の社長にしては頼りなくとも、ゆくゆくは立派な跡取りとなるだろう。
また、明寛には弟がいた。弟は兄を支え、兄弟ふたりで会社の繁栄と安寧を願っていた……はずだった。
その日も、港で従業員や日雇いの若者らが積荷を降ろしていた。
大海の背には大きな町がある。さらに内陸は大都会が近い。そんな異国情緒あふれるハイカラな港町に構えた豪邸の書斎にて、明寛が銃でこめかみを撃ち抜き、死亡した。一月、冷たい雪が降る日である。
自害の一因となったのは業績低迷から患った精神不安定だという。一方で明寛の妻、七重も持病がたたり、夫の死を追うように亡くなった。
明寛夫婦の死後、社員たちは弟の寛治を支持した。
それから八年──世は大正へ改元し、流行り廃りの移り変わりが激しい。人々の関心は、めくるめく華やかな社交界と芸能、諸外国との戦争、そして身近な恋物語へと傾く。
没落令嬢、御鍵絹香はその日を慎ましやかに生きていた。
美しく、繊細な目元と黒目がちな瞳は憂いを帯び、見る者に儚げな印象を与える。腰まで及ぶ黒髪は繊維のひとつひとつが絹糸のよう。先代社長の奥方を知る者はこぞって彼女を『七重様の生き写し』と称した。
常に笑みを絶やさず、令嬢であることを誇りにし、しかし鼻にかけることもなく、自ら率先して働くしたたかな少女だ。
だが、それは表向きの顔にすぎない。
『現し世に情けはない』と、絹香は十歳の時に学んだ。
父の自害から、母の病死まで時間はとてつもなく早く進んだ。運命のいたずらにしては、耐えがたいほどの不幸だった。
父母の葬儀にはたくさんの参列者がいたが、その中には面白おかしく記事にしようと企む下賤な記者もいた。彼らは娘である絹香にあれこれと難しいことや心ない言葉を投げつけた。
だが、彼女は毅然とする。葬儀の裏で泣いてぐずる一視に、眉を吊り上げながら言った。
『一視、男は泣くものじゃありません。明日のことを思い、大笑いするものです。お父様がよく言っていたでしょう?』
絹香は一視の手をぎゅっと握った。
『姉様の手は魔法の手。心が安らぐ魔法の手』
おまじないのように唱えると、みるみるうちに熱を帯びていく。ホカホカと温かな癒やしが指先の内側へと伝わり、一視はようやく涙を引っ込めた。
『あったかい……ぼく、ねえさまの手、大好きです』
『この手があれば、どんな傷だって癒やしてしまうのよ。でも……』
絹香はふと、目を伏せた。
どんな傷もたちどころに癒やしてしまう魔法の手──その能力を開花させるには、一歩遅かった。
転んで膝を擦りむいても、手をかざせばすぐに治り、病気ひとつしない。これがどうやら他人にも癒やしを施すことができるのだと知った時にはすでに遅く、絹香は悔しく歯噛みした。
『ねえさま?』
一視が不安そうに顔を覗き込む。
──いけない。この子の前では強くあらねば。
絹香は心に鞭打ち、笑顔を作る。
『いいこと、一視。これからはわたしがあなたを守ります。だから、大丈夫よ』
『はい!』
しっかりとした声で答える一視を絹香はたまらず抱き寄せた。
しかし、そんな姉弟の決意も虚しく、大人たちはふたりを容易に引き裂いた。
まもなくして、一視は母の遠縁に当たる『今利鉄鋼』の社長宅へ一時預かりとなったが、絹香は寛治の元へ養女として迎えられた。
だが、絹香はこの叔父が嫌いだった。その妻、照代とも気が合わないと思っていた。
父の教えでは、人に優しく、決して驕ることなく善良であることを説かれたものだが、このふたりにそのような善行を注ぐ価値はないと思っていた。
世間で取りざたされているような兄弟の絆とやらは、その実まるきり嘘であり、父と叔父はもとから不仲だったことを絹香は知っていた。ゆえに、なぜ寛治の家へ迎えられたのか、最初は皆目わからなかった。
だが、十八歳になった今ならわかる。彼らは衰退の一途をたどる御鍵家の砦となる善行を世に知らしめるポーズとして、不遇な絹香を引き取ったということを。
なにせ、家での仕打ちは劣悪である。引き取られたその日から、絹香は私物をすべて奪われた。着物や小物、父母の形見も、家も、弟もすべて。その代わり与えられたのは、寝起きするための屋根裏部屋だった。