お茶会は一旦お開きとなり、木蘭の命にて紅玉宮の一室には苺々用の部屋が整えられた。
 水星宮に帰り白蛇ちゃん抱き枕を抱えて戻って来た苺々は、若麗と歓談しながら、用意された部屋に手荷物を置く。
「まさか木蘭様が、苺々様と『お泊まり会をしたい』と言い出すなんて、本当に夢のようです」
 若麗は心底安心した様子で、姉のような、ぬくもりにあふれた優しい微笑みを浮かべる。
「まだ六歳だというのに、木蘭様は大人びていますでしょう? 私たちが幼い頃に夢中になった遊びなどには、興味もなくて。一日中、大人さながらに書物を読まれたりなさるものですから」
「そうなのですね。木蘭様は天女の御使ですから、天界で遊び尽くしていらっしゃったのかも。もしかしたら本当は、六歳ではないのかもしれませんわ」
 六百歳とか! と苺々がくすくすと笑いながら言うと、若麗もくすくすと笑って、「そうかもしれません」と応じた。
「もうすぐ夕餉の用意が整いますので、しばしお待ちくださいね」
「はい」
 その後も若麗に木蘭の可愛い日常話を聞きながら、苺々は幸福に浸る。
 木蘭は読書家で、自由な時間があれば、いつも時間を忘れたように皇太子殿下からいただいた書物を読んでいるそうだ。
 毎日決まった時間に妃としての勉強にも勤しんでおり、皇太子殿下に馴染みのある老齢の老師(せんせい)が付いているが、若麗が指導役となることもあるとか。
(お噂通り、木蘭様は皇太子殿下と仲がよろしいのですね。きっと皇太子殿下も、木蘭様推しなのですわ! ふふふ、わかっていらっしゃいますわね!! どんな方かはあまり存じ上げませんが、同じ木蘭様推しとして親近感を覚えずにはいられませんわっ)
 若麗の語る、木蘭と皇太子殿下のほっこり小話に、苺々は癒されすぎてにやにやが止まらない。心がほんわか温かくて、幸せでほっぺたが落ちそうだ。
「殿下が清明節の剣舞の舞い手に木蘭様を指名なさった際も、殿下が短剣を賜られたんですよ」
「素敵なお話ばかりですわね。それにしたって、とっても羨ましいです」
「ええ、本当に。木蘭様が羨ましいですわ」
「そこは皇太子殿下が、ではないのですか?」
 苺々がくすくす笑いながら突っ込みを入れた時。寝台に並べていたぬい様が一体、ザクッ! と音を立て、切りつけられたかのように裂けた。
「な、なんの音でしょう?」
「すみません、わたくしのぬいぐるみですわ。ぬいぐるみが無いと眠れない性格なので、たくさん持って来たのです。きっと移動の時に引っ掛けてしまった部分が、裂けてしまったのだと思います」
 先ほどのお茶会の時に、木蘭に頼み数本の髪の毛を貰えたため、ぬい様は形代として全力が出せている。呪靄と呪妖を少しも漏らさずに自動的に封じて祓っているので、限界が早く来たのかもしれない。
(ぬいぐるみが突然裂けるなんて、気味悪がらせてしまいましたよね……)
 苺々は心配しつつ、そっと若麗をうかがう。
 しかし、若麗は寝台にこれでもかと並べられたたくさんのぬいぐるみを眺めながら、「苺々様は木蘭様がお好きですのね」と、今にも涙しそうな優しい微笑みを浮かべていた。

 他の女官が「夕餉の準備が整いました」と呼びに来たことで、苺々は木蘭の待つ食事をするための一室へ向かった。
 木蘭と食卓を囲めるなど夢のようだ。苺々は豪華な夕餉に舌鼓を打った。
 そうして、湯殿を借りて湯浴みも行なったあと。苺々は「寝物語を語りに」と女官に伝えて、木蘭の寝室へと来ていた。
 道術を操る恐ろしい女官の目を欺くために、苺々は寝衣に羽織をまとっている。これは『年齢の壁を越えて仲良くなった妃たちのお泊まり会である』と、印象付けるためだ。
 花瓶に生けてある木蓮の花が、ひそかに香る。
 木蘭も寝衣をまとい、その上に同じように羽織を羽織っていた。しかし、なぜだか寝衣は丈も袖もぶかぶかだった。どう見ても大人用の、もしかすると苺々でも大きいと感じるかもしれない寝衣をまとっている。
(床に裾が引きずって……。こ、これは、もしや……)
 後宮妃であれば、間違いなく、『もしや皇太子殿下の寝衣か?』『皇太子殿下はこの宮に寝衣を備えておくほどお通いに?』『国を守護する行事で大事な剣舞を舞わせるだけでなく、これほどの寵愛を!?』と怒りと嫉妬に駆れるところだが、しかし。
(寝衣のあやかしちゃんでしょうかっ! あああ愛らしい! 愛らしすぎますっ! このお姿の寝台に横たわる木蘭様ぬいぐるみを作りたい……!! 寝そべり姿の木蘭様、略して〝寝そぬい様〟。欲しいですっ)
 苺々は真っ赤に染まった頬を両手で押さえる。
 後宮妃としてどこかおかしい苺々は、推し応援作品を製作したい意欲がぁぁぁ、収集したい物欲がぁぁぁと、ときめきと尊みに駆られていた。
 内心荒ぶりまくっている苺々には気づかず、木蘭は寝台の端へ腰掛けるように勧めた。
 豪華な天蓋付きの寝台は、苺々がかつて見たことないほど大きい。大人が五人は寝転がれそうである。
 幼い木蘭がひとりでここに寝るのは、きっと寂しいだろう。両親を思い出したり、兄弟姉妹を思い出したりするかもしれない。その上、不眠症気味とあっては、心が蝕まれていくのも時間の問題に思えた。
ふり(・・)ではありますが、せっかくのお泊まり会ですから。少しでも、幼い頃の楽しい思い出を作っていただきたいです)
 そう思い、苺々は遠慮せずに寝台の端に腰掛けることにした。
 同じく寝台に腰掛けた木蘭は、幼女らしからぬ難しい表情で、「確定だな」とため息まじりにいった。
「夕餉に呪毒は宿っていませんでしたね」
「ああ。ということは、妾が茶会に携わらせた女官の中に、犯人がいる」
「はい」
 苺々は気を引き締めて、背筋を伸ばし、真面目な表情で返事をする。
 お茶会での打ち合わせで、木蘭は夕餉に携わる女官を総入れ替えすると言い出した。『せっかく苺々が炙り出してくれるんだ。できることは全部やろう』とは、六歳には思えぬほどの名言であった。
(幼くてもやはり貴姫となったお方。さすが、聡明であらせられますわ)
「お茶会に携わった女官は五人でしたね。お名前とお顔は一致しておりますから、今夜こっそりと見張りをいたします」
 五人の女官の中には、筆頭女官の若麗もいる。
 なので、実質的には四人の女官を見張ればいいだろう。
 数体のぬい様と白蛇ちゃんの抱き枕を持ってきていた苺々は、「では作戦の確認です」と、もともと小声で話していた声の音量をさらに小さくした。
「現在、このぬい様ひとつだけに、木蘭様の髪を一本入れてあります。夜中に向けられる悪意は全てこの子に集まるので、不眠症を引き起こすほどの悪意であればすぐに限界を迎えて裂けてしまうでしょう。その時に起きている女官、もしくは明かりの点いている部屋を確認してまいります」
 苺々はいざ出陣! とばかりに、ぬい様を両手で持ち上げて突き出す。
 木蘭様の髪は懐紙に包んで袂にしまっているので、すぐに新しい形代も用意できる。
(ふっふっふ。恐ろしい女官の方を見つけ出したら、木蘭様の素晴らしさを夜通し布教させていただきましょう。そして、底なしの木蘭様沼に引き摺り込んで、足の先から頭のてっぺんまで綺麗に沈めてさしあげますわ!)
 作戦は完璧と言えた。

 それから半刻後――。
 打ち合わせの段階では、寝物語を聞かせた設定の苺々が、眠った設定の木蘭の部屋から出ていく……という予定だったのだが。
 不眠症に悩まされていたはずの木蘭が、寝台に横になった途端にすやすやと眠ってしまったので、苺々は部屋を出るに出られなくなっていた。
(せっかく久しぶりに、こんなにぐっすりと眠れたのですもの。不用意に音を立てて、起こさないようにしなくては)
 白蛇ちゃん抱き枕を抱えながらお喋りをしていた苺々は、使命感に駆られて物音を立てないようにしながら、辺りに気を配る。
 このまま木蘭が起きなければ、一刻半くらい経ったあとに部屋を出よう。そう決めて、静かに新しい刺繍を始める。今夜は『白蛇の針』は使わない。
(この団扇ができあがったら、木蘭様へ贈りましょう。……そうですわっ。わたくし用の団扇もお揃いの図案にしたら、誰もが夢見る推しとのお揃い団扇が叶います……! 楽しみですわね)
 どこからか二胡の音色が聞こえてくる。
 ただの女官の腕前とは思えないほど上手だ。弾き手はきっと、二胡の名手と名高い若麗だろう。なかなか眠りにつけない木蘭を想い、演奏しているに違いない。
 緩やかに心と身体を解す優雅な調べは、昨晩から徹夜でぬい様を作っていた苺々にもよく響く。苺々はいつもの就寝時間を迎えると、こくりこくりと船を漕ぎ始めたのだった。



「……俺はいつの間に眠って……――なぜ、苺々がここに寝ているんだ」
 広い寝台の上で上半身を起こした美青年は、寝台に腰掛けた状態で倒れている少女を見つけて、寝ぼけていた思考が一瞬で覚醒した。
(作戦と違うではないか。だから泊めたくなかったんだ。いや、俺が寝室に入れたのがそもそもの間違いか……)
 ああ、頭が痛い、と美青年は骨ばった大きな手のひらで額を押さえる。
 夜中の紅玉宮を他の妃が女官も付けずにうろうろするのは、非常に怪しい。
 だから女官に見つかった時のために、『幼い木蘭が寝物語をねだったせいで遅くまで妃の寝室にいた苺々は、自室の場所がわからずにうろうろしていた』、という言い訳を作れるようにした。
 それなら、見張りがどんなに夜中まで及ぼうとも、悪意を向けられている頃合いを見計らって、他の女官を気にせずに犯人探しに行ける。
(……とにかく、眠ってしまった俺が悪いな。だが、今はそんなことよりも、彼女を起こさないように部屋を出なくては。この姿で見つかれば面倒が増える)
 立ち上がった瞬間、ぎしりと音を立てて寝台が軋んだ。
「……っ!」
「んう、木蘭様? 起きられましたか? ……ごめんなさい、わたくしとしたことが、ついうっかり眠ってしまって――!?」
 上半身を起こし、寝ぼけ目を擦っていた苺々が大きく目を見開く。
「きゃ――」
「すまない。静かにしてくれ」
「むぐ、むぐうぅ」
 見知らぬ美しい男性を前にして悲鳴をあげそうになった苺々の口元を、大きく無骨な手が素早く覆った。
「俺の名は、燐 紫淵。この国の皇太子だ」
(……この方が、紫淵殿下。姿絵では悪鬼面をかぶっておられましたが……確かに、どことなく似ているような気もいたします)
 今はその顔を晒しているため、苺々はまじまじと美青年を見つめる。
 透き通った菫色の瞳は、長い睫毛に縁取られている。目元は鋭く、誰をも惑わせる色気を持っていそうな絶世の美貌は、氷のように冴え冴えとしていて近寄りがたい。
 紺青の黒髪を高い位置でひとつに結い上げてもなお、腰のあたりまで伸びる長い髪は、『まるで銀河のように艶やかだ』と思った覚えがあった。
 苺々はなんとなく状況を理解して、おとなしくこくこくと頷く。
「そして、信じがたいと思うが――朱 木蘭でもある」
 苺々はこくこくと頷きそうになり、思いっきり首を捻った。
(な、なにをおっしゃっているのです? 皇太子殿下が、木蘭様? 似ても似つかぬお姿ですわ!!)
 口元を覆われていて喋れないため、慌てふためいた苺々は身振り手振りでなんとか伝えようとする。
「君の言いたいことはわかる。だが、誰がなんと言おうとも、木蘭は俺なんだ」
(そんなこと、あるわけが……!)
 反論する苺々をまっすぐに見つめる菫色の瞳は、確かに木蘭とまったく同じ色だった。何度も木蘭を観察し、刺繍糸の色味を選んできた苺々が、見間違えるわけがない。
 細かな仕草や口調も一致している。
(わたくしに異能があるのですもの。紫淵殿下が木蘭様であってもおかしくはありません)
 苺々は理解したと示すように頷く。その様子を見て、紫淵は「手荒な真似をしてすまなかった」と手を離した。
「……あの、一体なぜ紫淵殿下が木蘭様に?」
「悪鬼の呪詛で、皇帝の長子は成人になるまで何かしらの怪異に巻き込まれる」
「もしや、燐火の悪鬼の」
「ああ。千年は続く呪詛ということになるな。俺の場合は、夜だけ幼い少女になるというものだったのだが……。昨年の暮れより、日常的に木蘭の姿になるようになってしまった」
 木蘭の姿では政務にも差し障りがあるだけでなく、命も狙われやすくなる。白州を訪れた理由は、その場で燐家最大の秘密を晒すことになろうとも、呪詛を解いてほしかったからだそうだ。
 だが悪鬼の呪詛は、人間の悪意ではないので苺々には視えずに終わる。
 悪鬼の呪詛はその後もひどくなり、とうとう年明けには夜だけしか元の青年の姿に戻れなくなった。そのため、紫淵の身を案じた皇帝によって、成年を迎えてから封を解く予定であった皇太子宮が解禁されたのだ。
 朱家の姫として後宮に入ったのは、素性を徹底的に偽るために母の生家を頼ったらしい。
「それが今や、夜中であっても、ほとんどこの姿には戻れなくなった。それが、昨日に続き今日までも戻れるとは……運が良いのか、悪いのか」
 この秘密は両親と、今目の前にいる苺々しか知らない。紫淵は深くため息を吐くと、冷たい手を苺々の頬に添えた。
「さて。秘密を知られた以上、ここから君を出すことはできなくなった」
「へ!?」
「白 苺々――。君には、俺の『異能の巫女』として、しばらくの間この宮に住んでもらう」
「ええっ!?」
「もうじき日が昇る。犯人探しは夜中しかできないからな」
 紫淵はにやりと美しく微笑む。青年の姿はみるみる幼くなり、目の前には寝衣のあやかしちゃん姿の木蘭がいた。
 苺々の頬に添えられていた手のひらは、大きさと温もりを変えて、そこにある。
「苺々。乗りかかった舟だ。最後まで妾に付き合ってもらうぞ」
 愛らしい幼妃の策士な笑みに、苺々の鼓動は緊張感でどきどきと高鳴る。
(えっ? えっ? どういうことですの? もしかしてわたくし、推し活をしていたはずが、なにやら重大な秘密を知ってしまったのでは……!?)



 それから数ヶ月後――。
 紅玉宮の恐ろしい女官は紫淵の手によって捕まり、無事、苺々よって木蘭沼に沈められた。捕まった女官の名は、朱 若麗。
 彼女は幼い頃に恋をした紫淵の妃になれると思っていた矢先、叔母の縁者にその座を奪われ、女官となった。しかし紫淵を恋い慕うあまり、紫淵の寵愛を一身に受けている(ように見えていた)木蘭に悪意を向けずにはいられなかったらしい。
 女官として、時には姉のような立場で、幼い木蘭を慕っていた時間も確かにあったと彼女は言った。苺々の前で呪妖が姿を表さなかったのが証拠だ。
 だが彼女は、紫淵の命により後宮を去ることになった。

 そして……二年の月日が経ち。皇太子宮は、ひとつの宮を残して封じられることとなった。
 後に紫淵皇帝が溺愛し庇護する〝唯一の寵妃〟となったのは、紅玉宮の『異能の巫女』。
 紫淵を献身的に支えた聡明な皇后と多くの女官や宦官に推され、慕われた白蛇妃――白 苺々である。

【完】